月の綺麗な夜だ。優李を森の屋敷に残し、那沙はひとり旅館へ向かう。あの叔父が優李をあっさり手放してくれて安心した。兄の忘れ形見に興味などなかったのだろう。金に代わって幸運だったと思ったのかもしれない。優李に執着していたのは叔母のほうだろう。あとは従妹の娘か。優李が自分と婚約したことで叔母とその娘はひどく動揺しているようだった。優李をひどく虐げていたのはあのふたりだろうと容易に想像がつく。
とにかく、優李を手元に置くことが出来てよかった、などと考えていると夫婦の部屋についた。
楽しい談笑の後、ふたりは背を向けて別々の布団に入り、眠りに就いた。まるで、互いから目を背けているようにも見える。ふたりの間にいったい何があるというのか、那沙は眠りについた男の夢を探る。夢はひどく濁っていた。濁った夢の中で、男は何かを必死に探していた。
探しているのは子犬のようだった。かつてこの夫婦には子供のように可愛がっていた子犬がいたらしい。
男は夢の中をさまよい、呼ばれるように森に入り込んだ。夢の中は、もやもやとした黒い靄にまかれている。この気配……黒猫に憑りついていた黒い影に似ている。とにかくここが未練の場所だろう。那沙はそう感づいて男の後を追った。
山の中で、那沙は蹲っている男を見つけた。
『リク……』
泣きじゃくる男の腕の中には、小さな子犬が横たわっている。仕掛けられた罠に、男の飼い犬がかかってしまい、気が付いた時には、もう救ってやることができなかったのだろう。
なるほど、と那沙は会得した。それで、この男は森に罠が仕掛けられていないか見回りでもしていたのだろう。そこで六花を助けた。飼い犬への罪滅ぼしのつもりか、やり場のない悲しみを、その後悔を、同じように罠にかかる動物を救うことでやり過ごしているのかもしれない。
『おい、おまえ』
獣医の夢の中で、那沙を呼ぶ声がした。夢の中で那沙の姿が見えるものなど普通ならばいるはずがない。那沙が振り返るとそこには茶色い毛並みの巨大な犬がいた。オオカミのように鋭い瞳を那沙に向けてくる。
送り犬か、なぜ夢の中にいる。那沙はそう、問おうとして止めた。
送り犬は本来山に居つくあやかしだ。山で迷った人間のあとに付きまとい、喰らいついて食い殺す。そんな野蛮なあやかしである。それが夢の中にいるということは、つまり、あの子犬があやかしになったということだろう。
送り犬か──。
那沙は苦い過去を思い出して奥歯を噛んだ。これは仕事、私情を挟んでなどいられないと気持ちを整えるために小さく息を吐く。
間違いなく、この犬が男の夢を濁している犯人だ。そして、今しがた夢に出てきた子犬だと察しが付く。
『哀れな犬だ、あやかしになってまで主人に憑りついているのか』
夫婦に子供が授からないのは男に送り犬が憑りついているからだろう、那沙は諫めるように送り犬に声をかける。
『おまえは誰だ』
『俺は夢売りの獏。人間の夢を採取して売り物にしている』
『なるほど、主人の夢を仕入れに来たのか』
送り犬の大きな体からもやもやとした黒い靄が湧き出ていた。どことなく猫の気配に似ている。送り犬から黒い猫の気配がした。これは、どういうことだろうかと那沙は眉を顰める。
『依頼があった、この男の夢を欲しいと』
『あの女狐だな』
那沙は黙った。依頼主について語るわけにはいかないが、何も答えないということは暗に肯定したことにとられるだろう。
犬と狐はどうにも折り合いが悪いらしい――という話はあやかしの世界では有名な話である。なんでも、遥か昔、神話の時代に領土争いをしていたと聞いたことがある。魂に刻まれた種族間の嫌悪感が、互いを寄せつけようとしないのだろう。知ったことかと那沙はため息を吐く。
那沙には段々と話が読めてきた。見たところふたりはこの犬のせいで子宝に恵まれぬようだ。おそらく六花は助けてもらった礼に憑りついている送り犬を男から引き剥がしてやろうと思ったのだろう。だが、六花が諭したところで、送り犬が出ていくはずもない。人の世に住む送り犬には力で対抗することもできない。そもそも、夢の世界に入り込むことなど六花にはできないのだから説得することすら出来はしない。
そこで夢を買うことにした。那沙が夢を採取すればその夢は主から失われる。夢に憑りついている送り犬も一緒に。
まったく面倒なことだ。六花にうまく利用されたなと那沙はため息をつく。あの狐は本当に侮れない。仕方ない、人間の悩みなどに興味はないが、一度受けた仕事は遂行しなければいけない。すでに頭金もいただいている。それに、こんなふたりを放っておけば優李がひどく悲しむだろう。あれはそういう娘だ。那沙はそう思って重たい腰を上げた。
『おまえが主人に執着する気持ちはわからないでもない。ずいぶんと大切にされていたのだろう。だが、こうしておまえがいつまでも主人に執着していることで、主人はおまえに囚われ続け、前に進めずにいる』
おそらく、送り犬が憑りついているかぎり、この夫婦の間に子供が授かることはない。どんなに主人を想っても。あやかしになってしまった以上は一緒にいられないのだ。所詮、あやかしと人間は相いれないのだと、那沙はどこか冷めた目で送り犬を見た。
『おまえが主人を思うなら、潔く成仏しろ』
説教くさい言葉を素直に聞くような輩ではないとは思うが、まずは通り一遍の道理を口にすることにした。一つの布石になるかもしれない。那沙の言葉に送り犬は怒りを露わにした。黒い靄に包まれた全身の毛を逆立てて唸り声をあげる。
『獏め、俺に説教をするつもりか! おまえごとき簡単に嚙み砕いてくれる』
送り犬は鋭い牙をむき出しにしてうなっている。予想通りの反応に那沙は内心ほくそ笑んだ。この送り犬、無念の死を遂げたことで相当性格が歪んでしまっているがもともとは素直な性格なのだろう。扱いやすい。
さて、次の手はどうしようか。説得したところで、聞く耳など持ってはいない。逆に神経を逆なでしただろうがこれも、計画のうちなのだ。那沙は送り犬の様子を伺いながら考える。
六花との約束の期限まではまだ日がある。那沙は一度引き下がることにした。送り犬の気持ちが変わるまで待つより他ない。誰かに何かを言われたからといって、すぐに気が変わるなどということもないだろう。送り犬自身が自分の気持ちに整理をつけるしかない。そのために、もうひとつ布石を打つ。
『俺は帰る、おまえは好きにしろ。いっておくが、おまえごと夢を取るのは容易い』
そういい残して、那沙は夢から去ることにした。期日まではあと六夜ある、なにも急くことはない。送り犬ごと夢を抜くことは容易だが、濁った夢を抜くのも嫌だと那沙は少し待ってみることにした。
『まて、まだ話は終わっていない』
『おまえ……!』
那沙が夢から抜け出す瞬間、送り犬が襲い掛かってきた。那沙は身を翻して避けようとしたが一歩遅かった着物を切り裂く音が響く。
とにかく、優李を手元に置くことが出来てよかった、などと考えていると夫婦の部屋についた。
楽しい談笑の後、ふたりは背を向けて別々の布団に入り、眠りに就いた。まるで、互いから目を背けているようにも見える。ふたりの間にいったい何があるというのか、那沙は眠りについた男の夢を探る。夢はひどく濁っていた。濁った夢の中で、男は何かを必死に探していた。
探しているのは子犬のようだった。かつてこの夫婦には子供のように可愛がっていた子犬がいたらしい。
男は夢の中をさまよい、呼ばれるように森に入り込んだ。夢の中は、もやもやとした黒い靄にまかれている。この気配……黒猫に憑りついていた黒い影に似ている。とにかくここが未練の場所だろう。那沙はそう感づいて男の後を追った。
山の中で、那沙は蹲っている男を見つけた。
『リク……』
泣きじゃくる男の腕の中には、小さな子犬が横たわっている。仕掛けられた罠に、男の飼い犬がかかってしまい、気が付いた時には、もう救ってやることができなかったのだろう。
なるほど、と那沙は会得した。それで、この男は森に罠が仕掛けられていないか見回りでもしていたのだろう。そこで六花を助けた。飼い犬への罪滅ぼしのつもりか、やり場のない悲しみを、その後悔を、同じように罠にかかる動物を救うことでやり過ごしているのかもしれない。
『おい、おまえ』
獣医の夢の中で、那沙を呼ぶ声がした。夢の中で那沙の姿が見えるものなど普通ならばいるはずがない。那沙が振り返るとそこには茶色い毛並みの巨大な犬がいた。オオカミのように鋭い瞳を那沙に向けてくる。
送り犬か、なぜ夢の中にいる。那沙はそう、問おうとして止めた。
送り犬は本来山に居つくあやかしだ。山で迷った人間のあとに付きまとい、喰らいついて食い殺す。そんな野蛮なあやかしである。それが夢の中にいるということは、つまり、あの子犬があやかしになったということだろう。
送り犬か──。
那沙は苦い過去を思い出して奥歯を噛んだ。これは仕事、私情を挟んでなどいられないと気持ちを整えるために小さく息を吐く。
間違いなく、この犬が男の夢を濁している犯人だ。そして、今しがた夢に出てきた子犬だと察しが付く。
『哀れな犬だ、あやかしになってまで主人に憑りついているのか』
夫婦に子供が授からないのは男に送り犬が憑りついているからだろう、那沙は諫めるように送り犬に声をかける。
『おまえは誰だ』
『俺は夢売りの獏。人間の夢を採取して売り物にしている』
『なるほど、主人の夢を仕入れに来たのか』
送り犬の大きな体からもやもやとした黒い靄が湧き出ていた。どことなく猫の気配に似ている。送り犬から黒い猫の気配がした。これは、どういうことだろうかと那沙は眉を顰める。
『依頼があった、この男の夢を欲しいと』
『あの女狐だな』
那沙は黙った。依頼主について語るわけにはいかないが、何も答えないということは暗に肯定したことにとられるだろう。
犬と狐はどうにも折り合いが悪いらしい――という話はあやかしの世界では有名な話である。なんでも、遥か昔、神話の時代に領土争いをしていたと聞いたことがある。魂に刻まれた種族間の嫌悪感が、互いを寄せつけようとしないのだろう。知ったことかと那沙はため息を吐く。
那沙には段々と話が読めてきた。見たところふたりはこの犬のせいで子宝に恵まれぬようだ。おそらく六花は助けてもらった礼に憑りついている送り犬を男から引き剥がしてやろうと思ったのだろう。だが、六花が諭したところで、送り犬が出ていくはずもない。人の世に住む送り犬には力で対抗することもできない。そもそも、夢の世界に入り込むことなど六花にはできないのだから説得することすら出来はしない。
そこで夢を買うことにした。那沙が夢を採取すればその夢は主から失われる。夢に憑りついている送り犬も一緒に。
まったく面倒なことだ。六花にうまく利用されたなと那沙はため息をつく。あの狐は本当に侮れない。仕方ない、人間の悩みなどに興味はないが、一度受けた仕事は遂行しなければいけない。すでに頭金もいただいている。それに、こんなふたりを放っておけば優李がひどく悲しむだろう。あれはそういう娘だ。那沙はそう思って重たい腰を上げた。
『おまえが主人に執着する気持ちはわからないでもない。ずいぶんと大切にされていたのだろう。だが、こうしておまえがいつまでも主人に執着していることで、主人はおまえに囚われ続け、前に進めずにいる』
おそらく、送り犬が憑りついているかぎり、この夫婦の間に子供が授かることはない。どんなに主人を想っても。あやかしになってしまった以上は一緒にいられないのだ。所詮、あやかしと人間は相いれないのだと、那沙はどこか冷めた目で送り犬を見た。
『おまえが主人を思うなら、潔く成仏しろ』
説教くさい言葉を素直に聞くような輩ではないとは思うが、まずは通り一遍の道理を口にすることにした。一つの布石になるかもしれない。那沙の言葉に送り犬は怒りを露わにした。黒い靄に包まれた全身の毛を逆立てて唸り声をあげる。
『獏め、俺に説教をするつもりか! おまえごとき簡単に嚙み砕いてくれる』
送り犬は鋭い牙をむき出しにしてうなっている。予想通りの反応に那沙は内心ほくそ笑んだ。この送り犬、無念の死を遂げたことで相当性格が歪んでしまっているがもともとは素直な性格なのだろう。扱いやすい。
さて、次の手はどうしようか。説得したところで、聞く耳など持ってはいない。逆に神経を逆なでしただろうがこれも、計画のうちなのだ。那沙は送り犬の様子を伺いながら考える。
六花との約束の期限まではまだ日がある。那沙は一度引き下がることにした。送り犬の気持ちが変わるまで待つより他ない。誰かに何かを言われたからといって、すぐに気が変わるなどということもないだろう。送り犬自身が自分の気持ちに整理をつけるしかない。そのために、もうひとつ布石を打つ。
『俺は帰る、おまえは好きにしろ。いっておくが、おまえごと夢を取るのは容易い』
そういい残して、那沙は夢から去ることにした。期日まではあと六夜ある、なにも急くことはない。送り犬ごと夢を抜くことは容易だが、濁った夢を抜くのも嫌だと那沙は少し待ってみることにした。
『まて、まだ話は終わっていない』
『おまえ……!』
那沙が夢から抜け出す瞬間、送り犬が襲い掛かってきた。那沙は身を翻して避けようとしたが一歩遅かった着物を切り裂く音が響く。