那沙の姿が見えなくなると、優李は大きく深呼吸をしてから敷地へ入る。ここに戻るのはひと月ぶりだ、僅かに体が震える。那沙にはああいったが、やはり誰かに声をかけた方がいいかもしれないと辺りを見回したが誰もいない。みな旅館の方へ出払っているようだ。手早く荷物だけ持って那沙と合流しよう。
宿舎の一階の部屋に入る。だが、自分の部屋に入った優李はその変わりように目を違った。
「え……」
そこには優李の荷物などただのひとつもなく、旅館の荷物が詰め込まれている。まるで物置のようだった。どうにか荷物をよけて引き出しの中を探してみても、衣服はおろか大切にしていた家族の写真もどこにも見つからない。
「どこ、どこにいったんだろう。どうしよう、お父さんとお母さんの写真、あの一枚しかないのに」
必死に部屋の中を探していた優李は、廊下を歩いてくる足音に気が付きもしなかった。ゆっくりとふすまが開けられると甲高い声が響く。
「あら、泥棒みっけ。優李ちゃん、調月の幽霊屋敷を追い出されて戻ってきたの? 帰ってきたってここにはもうあなたの居場所はないわよ」
振り返ると媛子が満面の笑みで立っていた。
「媛子さん……私の荷物を知りませんか」
「あなたの荷物、もういらないだろうと思って全部捨てちゃったの。だからここには何もないわ」
「写真もですか! ここに置いてあった写真立ての!」
優李が必死な様相で尋ねると、媛子は「あぁ」と視線を上げてなにか思い出すようなしぐさをする。
「あの古い写真ね、あれは確かほかのものと一緒にお母様が燃やしてたような……」
「そんな……! 家族の写真はあれしかないんです」
「そうはいっても、泥棒猫の写っている写真なんか見たくもないってお母様がいっていたから多分もうないと思うわ」
媛子はそう告げてからスッと目を細め、優李の頭のてっぺんから足の先まで、視線を動かす。優李が着ている着物を見定めているようだ。
「調月様に随分と気に入られているのね。本当に目障り、いなくなって清々していたのにどうして帰ってきたのかしら。早く消えてくれない」
大事な写真を置いていったことを心底後悔した。もっと早く取りに来るべきだった。この部屋にいつまでも自分の荷物を置いていてくれるなんて、どうして思っていたんだろう。
「……いわれなくても消えます。私の居場所はここじゃない」
「もちろんよ。あなたの居場所なんか、どこにもないわ。あのせいぜい幽霊屋敷の老人にすがって戻してもらうことね。どうせ愛人かなにかになってるんでしょう? あのおじいさん、年はいってたけど見てくれはよかったわ。若い頃は素敵だったんでしょうね。でも私はごめんだわ。若くて素敵なひとがいいもの。優李ちゃんはそんなこといっていられないわよね。頑張って気に入られないと、本当に行く場所なんかないんだから」
「私は愛人なんかじゃありません」
「ふうん、口答えするんだ。本当に目障り。あのまま死んでくれたらよかったのに。いったいどうやって抜け出したの? 誰かが手引きをしたんでしょうけど、優李ちゃんに手を貸すなんて……いったい誰をたらしこんだのかしら、猫の子のくせに生意気よ」
とげのある声だ。媛子のこういった一面など、優李の他には誰も知らないだろう。媛子にはこれまでさんざんいろいろなことをいわれてきた。今更何をいわれたって平気だ。優李は少しも悲壮な表情を見せず媛子を見返す。
「優李ちゃんは本当にかわいげがないわ。泣いて土下座でもするなら、調月を追い出されてもまた下働きとしておいてあげるのに。本当に強情ね」
「私、もうお暇します」
「行くあてなんかないくせに、どこに行くっていうのよ」
媛子がおかしそうに笑う音に誰かの足音が重なる。その気配にハッとして優李は廊下へ視線を向けた。
「媛子、こんな場所で何をしているの?」
「お母さん! 聞いて、優李ちゃんが戻っていたのよ」
「なんですって」
姿を見せた礼子は優李の姿を見て眉を吊り上げた。
「やっと厄介払いができたと思ったのに。おまえ、調月様のところから逃げてきたんじゃないだろうね、ここにはおまえの居場所なんかないよ!」
「逃げてきてなどおりません」
「嘘よ。だって調月様ってすごい白髪のおじいさんだったでしょう? おじいさんの相手が嫌になっちゃって戻ってきたのよ。誠心誠意謝るっていうならまた下働きをさせてあげたらいいんじゃない? そうしたらほら、あの写真を返してあげたら、もう燃やしちゃった?」
「家族の写真が残っているのですか! 返してください!」
「はあ? おまえは何様のつもりだい。あの女の写真ならばらばらにちぎって燃やしてやったよ。あの女、私から遼一さんを奪った挙句、おまえのような不義の子を遼一さんの子だと偽って。本当に母親によく似た顔だ、忌々しい」
「母はあなたから父を奪ったわけではないと思います。あの母が、ひとからものを奪うようなことはありません。それに、私は間違いなく父の子です」
母はどんなに罵られても胸を張っていた。
「黙りなさい! 決まっていたのよ、子供のころから。私は遼一さんと結婚するのを楽しみにしていたのに! 全部私のものだったのよ! 旅館も女将の座も、遼一さんも! 全部全部私のもの。あの女は泥棒よ! 遼一さんはあの女に騙されたのよ」
「違います!」
優李が礼子に言い返すと、礼子がその頬を叩く。それから腕をつかんだ。
「優李、蔵に入っておいで! 反省するまで出しはしないよ!」
礼子が優李を連れて行こうとすると、優李の名を呼ぶ声があった。
「優李、ここにいるのか!」
那沙の声だ。足音がふたつ近づいてくる。
「優李」
那沙が姿を見せた。那沙はいつものような白髪ではなく黒い髪をしていた。瞳の色も優李と同じように黒い。袖から覗く腕も黒くはなかった。ひとの姿を模しているのだろう。姿を見せたのは那沙ひとりではない、叔父を伴っている。
「礼子媛子、どうしてこんなところにいるんだ」
「え、あの、優李ちゃんが戻ってきたのが見えたから……」
「優李の荷物はどこへやった、まとめておくようにいっただろう」
「え……あれは、お母様が捨ててしまいなさいって……」
叔父に追及されて媛子はしどろもどろに答える。まさか、まとめておいておくのだとは思っていなかったようだ。
礼子は青い顔をして「そんなことはいっていません」と声を裏返らせた。
「礼子、話を聞いていればおまえは私との結婚が本意ではなかったようだな」
叔父はちらりと優李を見た。相変わらず感情の読めないひとだ。
「いっておくが、兄貴と結婚してもこの旅館は手に入らい。兄貴は家を継がないといってあの店を始めたんだ。義姉さんと結婚したからではない。それでも兄と結婚したかったのなら今から離縁しても構わないが……」
「そ、そんな! それは困るわ!」
叔父の言葉に礼子が慌て始める。叔父は優李たちの会話を聞いていたのだろう。そうなると那沙にも聞こえていたに違いない。随分とみっともないところを見せてしまった。
「おまえが欲しかったのは、この旅館なのか、兄貴なのか」
「わ、私はあなたと結婚できてよかったと思っています」
慌てる礼子に叔父は冷たい視線を送ってから視界から外す。腹を立てているのか、呆れているのか、どちらにせよ叔父と叔母はもともと仲が良いわけではない。優李はふたりが会話をしているのを初めて見たくらいだ。
「それにしてもおまえたち、調月様の前でみっともない。優李、早く必要なものをまとめなさい」
「は、はい、ですが……」
「ちょっと待って、調月様はあの老人でしょう? そのひとは……」
媛子は那沙を見てわずかに顔を赤らめた。
「なにを馬鹿なことをいっている。こちらが調月家のご当主那沙様だ。どこで見かけたのか、調月様が優李をいたく気に入ってそばに置きたいといわれてな。まだ未成年だから婚約という形で調月の屋敷に置くということで多額の結納金をいただいたんだ。以前話に来られたのは調月家の執事の方だ」
叔父の言葉を聞いて驚いたのは礼子と媛子だけではない。優李も思わず腰を抜かしてしまいそうになる。媛子は姿を見せた那沙と優李を見比べた。
「幽霊屋敷の調月家のご当主が、こんなに……若くて美形だなんて……」
那沙の使いでやってきた腕が優李を連れて行ったと勘違いしていた媛子は美形の那沙を見て言葉を失っていった。
「優李、おまえには悪いことをした。礼子と媛子がおまえに辛く当たるのを黙認してきた。よい嫁ぎ先が見つかってよかったと思っている。調月様、姪をよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる叔父に那沙は頷き、優李の方を見てくる。
「優李、もういいだろう、行こう。取りに来たものはあったのだろう?」
那沙が優しく手を握った。温かい手だ。途端に心まで温かくなる。
「あ、あの、それが。荷物が何もなくて……」
おずおずと答える優李の言葉に、那沙は叔父を睨んだ。
「どういうことだ、いずれ取りに来るからまとめておいてほしいと頼んでおいたはずだが」
「そ、それは、少々手違いがございまして……大変申し訳ございません。ほら、おまえたちも頭を下げろ」
叔父の言葉に青い顔をしたままの礼子といまだに信じられない様子の媛子が従う。
「仕方がない、必要なものはこちらで用意する。今度優李には俺に対するのと同じように丁重に扱え、優李はもう俺の妻だからな」
「承知しております」
「時任、おまえの妻は今しがた優李を叩いただろう」
「……! 十分に反省させますので……」
「那沙、私は大丈夫です、慣れていますから」
そういって優李は笑ったが那沙には逆効果であったようだ。ますます表情を強張らせた。
「次にやったらただではおかない」
「承知いたしております、私の方からもきつく言い聞かせておきますのでご容赦ください。大変申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げる三人を後に困惑する優李を連れて那沙は宿舎を後にした。
「助けてくださってありがとうございました那沙」
那沙は不機嫌そうにうつむいていた。なにか気に入らないことがあったのかと優李は不安になる。
「みっともないところを見せてしまってごめんなさい……」
「なぜおまえが謝る。おまえは何も悪くないだろう」
「それは、那沙が不機嫌そうだから……」
那沙は不機嫌そうな顔を上げ、今度はひどく申し訳なさそうな表情になる。
「おまえのせいではない、あの家族に腹が立ったのだ」
「そうでしたか。あ、あの、那沙、さっきの話はいったい……」
「おまえには嘘をついていて悪かった。だがほかによい方法を思いつかなくてな。どうやらこちらでは俺が嫁探しをしているのではないかと噂がたっていたらしい。しばらく使っていなかった屋敷に明かりがともり始めたからな。だから噂を利用した。おまえに一目ぼれしたので連れて帰りたいといって叔父に金を握らせた」
「そんな嘘をつかないでください……心臓が持ちません」
優李が窘めると那沙は少し機嫌が悪そうな表情になる。
「それが最良だったのだ。そう嫌がるな」
「嫌なわけではありませんよ、ただ、私では那沙にとても釣り合いませんし……」
ごにょごにょとしゃべる優李の言葉は那沙にはなんといっているのかわからなかった。
「安心しろ、おまえがあやかしの世に慣れればちゃんと関係を解消する」
那沙の言葉からはなんの感情の色も見えない。迷惑がっていなければいいと思うばかりだ。
「その結納金というのも必ずお返しします」
「返す必要はない。大した金額ではない。ただ、代わりに何かしてくれるというのなら、おまえの夢を採取させてほしい」
「私の夢ですか?」
「そうだ。半妖のおまえは夢を見る。おまえの夢は人間の夢よりも貴重だ」
「そんなことでよければ」
優李がうなずくと那沙は優李の頭を撫でた。
「那沙、獣医の先生は見つかりましたか?」
「ああ見つかった。夫婦で旅行を楽しんでいるようだ、だが少々様子がおかしかった」
「なにがおかしかったのですか?」
「仲睦まじい若い夫婦だったが、なにか問題を抱えているようだった。それがなにかはわからない。一度戻るぞ、俺は夜に夢を回収に来る。おまえは別荘で待っていてくれ」
「わかりました。あ、あの那沙、いろいろとありがとうございました。私、那沙のお役に立てるよう頑張ってお手伝いしますから」
「おまえは十分役に立っている」
本当だろうか。もしそうなら嬉しいけれど、思い当たる節は何もない。だけど、那沙がそういってくれるなら信じようと思う。
優李は頬かゆるむのを感じながら那沙の半歩後ろを歩いた。
宿舎の一階の部屋に入る。だが、自分の部屋に入った優李はその変わりように目を違った。
「え……」
そこには優李の荷物などただのひとつもなく、旅館の荷物が詰め込まれている。まるで物置のようだった。どうにか荷物をよけて引き出しの中を探してみても、衣服はおろか大切にしていた家族の写真もどこにも見つからない。
「どこ、どこにいったんだろう。どうしよう、お父さんとお母さんの写真、あの一枚しかないのに」
必死に部屋の中を探していた優李は、廊下を歩いてくる足音に気が付きもしなかった。ゆっくりとふすまが開けられると甲高い声が響く。
「あら、泥棒みっけ。優李ちゃん、調月の幽霊屋敷を追い出されて戻ってきたの? 帰ってきたってここにはもうあなたの居場所はないわよ」
振り返ると媛子が満面の笑みで立っていた。
「媛子さん……私の荷物を知りませんか」
「あなたの荷物、もういらないだろうと思って全部捨てちゃったの。だからここには何もないわ」
「写真もですか! ここに置いてあった写真立ての!」
優李が必死な様相で尋ねると、媛子は「あぁ」と視線を上げてなにか思い出すようなしぐさをする。
「あの古い写真ね、あれは確かほかのものと一緒にお母様が燃やしてたような……」
「そんな……! 家族の写真はあれしかないんです」
「そうはいっても、泥棒猫の写っている写真なんか見たくもないってお母様がいっていたから多分もうないと思うわ」
媛子はそう告げてからスッと目を細め、優李の頭のてっぺんから足の先まで、視線を動かす。優李が着ている着物を見定めているようだ。
「調月様に随分と気に入られているのね。本当に目障り、いなくなって清々していたのにどうして帰ってきたのかしら。早く消えてくれない」
大事な写真を置いていったことを心底後悔した。もっと早く取りに来るべきだった。この部屋にいつまでも自分の荷物を置いていてくれるなんて、どうして思っていたんだろう。
「……いわれなくても消えます。私の居場所はここじゃない」
「もちろんよ。あなたの居場所なんか、どこにもないわ。あのせいぜい幽霊屋敷の老人にすがって戻してもらうことね。どうせ愛人かなにかになってるんでしょう? あのおじいさん、年はいってたけど見てくれはよかったわ。若い頃は素敵だったんでしょうね。でも私はごめんだわ。若くて素敵なひとがいいもの。優李ちゃんはそんなこといっていられないわよね。頑張って気に入られないと、本当に行く場所なんかないんだから」
「私は愛人なんかじゃありません」
「ふうん、口答えするんだ。本当に目障り。あのまま死んでくれたらよかったのに。いったいどうやって抜け出したの? 誰かが手引きをしたんでしょうけど、優李ちゃんに手を貸すなんて……いったい誰をたらしこんだのかしら、猫の子のくせに生意気よ」
とげのある声だ。媛子のこういった一面など、優李の他には誰も知らないだろう。媛子にはこれまでさんざんいろいろなことをいわれてきた。今更何をいわれたって平気だ。優李は少しも悲壮な表情を見せず媛子を見返す。
「優李ちゃんは本当にかわいげがないわ。泣いて土下座でもするなら、調月を追い出されてもまた下働きとしておいてあげるのに。本当に強情ね」
「私、もうお暇します」
「行くあてなんかないくせに、どこに行くっていうのよ」
媛子がおかしそうに笑う音に誰かの足音が重なる。その気配にハッとして優李は廊下へ視線を向けた。
「媛子、こんな場所で何をしているの?」
「お母さん! 聞いて、優李ちゃんが戻っていたのよ」
「なんですって」
姿を見せた礼子は優李の姿を見て眉を吊り上げた。
「やっと厄介払いができたと思ったのに。おまえ、調月様のところから逃げてきたんじゃないだろうね、ここにはおまえの居場所なんかないよ!」
「逃げてきてなどおりません」
「嘘よ。だって調月様ってすごい白髪のおじいさんだったでしょう? おじいさんの相手が嫌になっちゃって戻ってきたのよ。誠心誠意謝るっていうならまた下働きをさせてあげたらいいんじゃない? そうしたらほら、あの写真を返してあげたら、もう燃やしちゃった?」
「家族の写真が残っているのですか! 返してください!」
「はあ? おまえは何様のつもりだい。あの女の写真ならばらばらにちぎって燃やしてやったよ。あの女、私から遼一さんを奪った挙句、おまえのような不義の子を遼一さんの子だと偽って。本当に母親によく似た顔だ、忌々しい」
「母はあなたから父を奪ったわけではないと思います。あの母が、ひとからものを奪うようなことはありません。それに、私は間違いなく父の子です」
母はどんなに罵られても胸を張っていた。
「黙りなさい! 決まっていたのよ、子供のころから。私は遼一さんと結婚するのを楽しみにしていたのに! 全部私のものだったのよ! 旅館も女将の座も、遼一さんも! 全部全部私のもの。あの女は泥棒よ! 遼一さんはあの女に騙されたのよ」
「違います!」
優李が礼子に言い返すと、礼子がその頬を叩く。それから腕をつかんだ。
「優李、蔵に入っておいで! 反省するまで出しはしないよ!」
礼子が優李を連れて行こうとすると、優李の名を呼ぶ声があった。
「優李、ここにいるのか!」
那沙の声だ。足音がふたつ近づいてくる。
「優李」
那沙が姿を見せた。那沙はいつものような白髪ではなく黒い髪をしていた。瞳の色も優李と同じように黒い。袖から覗く腕も黒くはなかった。ひとの姿を模しているのだろう。姿を見せたのは那沙ひとりではない、叔父を伴っている。
「礼子媛子、どうしてこんなところにいるんだ」
「え、あの、優李ちゃんが戻ってきたのが見えたから……」
「優李の荷物はどこへやった、まとめておくようにいっただろう」
「え……あれは、お母様が捨ててしまいなさいって……」
叔父に追及されて媛子はしどろもどろに答える。まさか、まとめておいておくのだとは思っていなかったようだ。
礼子は青い顔をして「そんなことはいっていません」と声を裏返らせた。
「礼子、話を聞いていればおまえは私との結婚が本意ではなかったようだな」
叔父はちらりと優李を見た。相変わらず感情の読めないひとだ。
「いっておくが、兄貴と結婚してもこの旅館は手に入らい。兄貴は家を継がないといってあの店を始めたんだ。義姉さんと結婚したからではない。それでも兄と結婚したかったのなら今から離縁しても構わないが……」
「そ、そんな! それは困るわ!」
叔父の言葉に礼子が慌て始める。叔父は優李たちの会話を聞いていたのだろう。そうなると那沙にも聞こえていたに違いない。随分とみっともないところを見せてしまった。
「おまえが欲しかったのは、この旅館なのか、兄貴なのか」
「わ、私はあなたと結婚できてよかったと思っています」
慌てる礼子に叔父は冷たい視線を送ってから視界から外す。腹を立てているのか、呆れているのか、どちらにせよ叔父と叔母はもともと仲が良いわけではない。優李はふたりが会話をしているのを初めて見たくらいだ。
「それにしてもおまえたち、調月様の前でみっともない。優李、早く必要なものをまとめなさい」
「は、はい、ですが……」
「ちょっと待って、調月様はあの老人でしょう? そのひとは……」
媛子は那沙を見てわずかに顔を赤らめた。
「なにを馬鹿なことをいっている。こちらが調月家のご当主那沙様だ。どこで見かけたのか、調月様が優李をいたく気に入ってそばに置きたいといわれてな。まだ未成年だから婚約という形で調月の屋敷に置くということで多額の結納金をいただいたんだ。以前話に来られたのは調月家の執事の方だ」
叔父の言葉を聞いて驚いたのは礼子と媛子だけではない。優李も思わず腰を抜かしてしまいそうになる。媛子は姿を見せた那沙と優李を見比べた。
「幽霊屋敷の調月家のご当主が、こんなに……若くて美形だなんて……」
那沙の使いでやってきた腕が優李を連れて行ったと勘違いしていた媛子は美形の那沙を見て言葉を失っていった。
「優李、おまえには悪いことをした。礼子と媛子がおまえに辛く当たるのを黙認してきた。よい嫁ぎ先が見つかってよかったと思っている。調月様、姪をよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる叔父に那沙は頷き、優李の方を見てくる。
「優李、もういいだろう、行こう。取りに来たものはあったのだろう?」
那沙が優しく手を握った。温かい手だ。途端に心まで温かくなる。
「あ、あの、それが。荷物が何もなくて……」
おずおずと答える優李の言葉に、那沙は叔父を睨んだ。
「どういうことだ、いずれ取りに来るからまとめておいてほしいと頼んでおいたはずだが」
「そ、それは、少々手違いがございまして……大変申し訳ございません。ほら、おまえたちも頭を下げろ」
叔父の言葉に青い顔をしたままの礼子といまだに信じられない様子の媛子が従う。
「仕方がない、必要なものはこちらで用意する。今度優李には俺に対するのと同じように丁重に扱え、優李はもう俺の妻だからな」
「承知しております」
「時任、おまえの妻は今しがた優李を叩いただろう」
「……! 十分に反省させますので……」
「那沙、私は大丈夫です、慣れていますから」
そういって優李は笑ったが那沙には逆効果であったようだ。ますます表情を強張らせた。
「次にやったらただではおかない」
「承知いたしております、私の方からもきつく言い聞かせておきますのでご容赦ください。大変申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げる三人を後に困惑する優李を連れて那沙は宿舎を後にした。
「助けてくださってありがとうございました那沙」
那沙は不機嫌そうにうつむいていた。なにか気に入らないことがあったのかと優李は不安になる。
「みっともないところを見せてしまってごめんなさい……」
「なぜおまえが謝る。おまえは何も悪くないだろう」
「それは、那沙が不機嫌そうだから……」
那沙は不機嫌そうな顔を上げ、今度はひどく申し訳なさそうな表情になる。
「おまえのせいではない、あの家族に腹が立ったのだ」
「そうでしたか。あ、あの、那沙、さっきの話はいったい……」
「おまえには嘘をついていて悪かった。だがほかによい方法を思いつかなくてな。どうやらこちらでは俺が嫁探しをしているのではないかと噂がたっていたらしい。しばらく使っていなかった屋敷に明かりがともり始めたからな。だから噂を利用した。おまえに一目ぼれしたので連れて帰りたいといって叔父に金を握らせた」
「そんな嘘をつかないでください……心臓が持ちません」
優李が窘めると那沙は少し機嫌が悪そうな表情になる。
「それが最良だったのだ。そう嫌がるな」
「嫌なわけではありませんよ、ただ、私では那沙にとても釣り合いませんし……」
ごにょごにょとしゃべる優李の言葉は那沙にはなんといっているのかわからなかった。
「安心しろ、おまえがあやかしの世に慣れればちゃんと関係を解消する」
那沙の言葉からはなんの感情の色も見えない。迷惑がっていなければいいと思うばかりだ。
「その結納金というのも必ずお返しします」
「返す必要はない。大した金額ではない。ただ、代わりに何かしてくれるというのなら、おまえの夢を採取させてほしい」
「私の夢ですか?」
「そうだ。半妖のおまえは夢を見る。おまえの夢は人間の夢よりも貴重だ」
「そんなことでよければ」
優李がうなずくと那沙は優李の頭を撫でた。
「那沙、獣医の先生は見つかりましたか?」
「ああ見つかった。夫婦で旅行を楽しんでいるようだ、だが少々様子がおかしかった」
「なにがおかしかったのですか?」
「仲睦まじい若い夫婦だったが、なにか問題を抱えているようだった。それがなにかはわからない。一度戻るぞ、俺は夜に夢を回収に来る。おまえは別荘で待っていてくれ」
「わかりました。あ、あの那沙、いろいろとありがとうございました。私、那沙のお役に立てるよう頑張ってお手伝いしますから」
「おまえは十分役に立っている」
本当だろうか。もしそうなら嬉しいけれど、思い当たる節は何もない。だけど、那沙がそういってくれるなら信じようと思う。
優李は頬かゆるむのを感じながら那沙の半歩後ろを歩いた。