琥蓮は酔ったまま眠ってしまった。その大きな体に毛布を掛けた芙蓉は、優李の隣に座る。しばらく姿を見なかったが、どうやら子供に添い寝をしていたらしい。
「こんなに酔って、仕方のないひとね。よほど嬉しかったのでしょう。久しぶりに那沙さんの顔を見てほっとしたのだと思います。まだ話はできていませんが、明日顔を合わせたら仲違いしていたことなど嘘のようになると思います。那沙さんを連れて来てくれてありがとう、優李さん」
「いえ、それは六花さんのおかげで……私はなにも……」
「いいえ、あなたのおかげですよ」
戸惑う優李に、芙蓉は微笑んだ。
「那沙さんが霧に倒れ、見ず知らずの夫が現れてさぞ恐ろしかったことでしょう。あの形相ですからね。私もはじめは怖くてたまりませんでした」
優しく微笑む芙蓉に優李はあいまいに微笑んだ。外から綺麗な虫の声が響いてくる。どこか悲しいその音色が優李の中を流れて行った。
翌朝目を覚ました那沙は、バツの悪そうな顔をしていた。
「おはようございます那沙、お加減いかがですか?」
そう優李が声をかけてもそっぽを向いている。朝食の際にも那沙はずっと不機嫌そうだった。こんな子供みたいな那沙を見られるのが嬉しくて優李はふふっと笑みをこぼす。昨日から那沙の新しい一面を見られてとても嬉しい。部屋の奥からきゃっきゃっと笑う高い声が聞こえてきた。
「わぁ、可愛い!」
芙蓉が赤子を連れてきたのだ。優李は目を丸くし、それからにっこりと目じりを下げる。
「抱っこしてみる?」
「いいんですか? 泣かないでしょうか……」
恐る恐る抱き上げると、赤子は優李の服をぎゅっと掴んだ。きゃっきゃっと嬉しそうに声を上げる。
「すごい、あったかい。宝物ですね……」
抱いているだけで幸せな気持ちになる。優李は赤子に頬を寄せた。なんともいえない良い香りがする。
「どうか健康に。幸せになってくださいね」
優李がつぶやくと、キラキラとした砂が赤子に降り注ぐ。『ことほぎ』が紡がれた。
「お世話になりました!」
帰り際、優李は深々と頭を下げた。
「いえいえ、お礼をいうのはこちらの方です。この子に『ことほぎ』をありがとう。ほら、あなた――」
芙蓉に促されて琥蓮はコホンと小さく咳をした。
「またいつでも遊びに来い、那沙」
始終不機嫌そうにしていた那沙は、初めて口角を持ち上げる。
「今度は祝いの品を持ってくる」
「次は一緒に飲めるといいな」
「おまえは酒癖が悪い。芙蓉をあまり困らせることはするな」
長年の仲違いはすっかり消えたようだ。二人は顔を見合わせて笑った。
「森の端まで送っていく」
琥蓮がそう申し出たので、三人は連れ立って森の中を歩いた。相変わらず霧は深かったが昨夜とは違い、恐ろしさは感じない。森の中のしっとりとした空気が心地よかった。霧が太陽の光を反射して辺りがキラキラと輝いて見える。
「いい匂いですね。甘くて、美味しそう」
「闇鈴蘭の香りだ。香りが甘いが苦いぞ」
風に乗って甘い香りが漂ってきた。甘いがさわやかな心地よい香りだ。六花が欲しいといった闇鈴蘭の香りらしい。琥蓮が説明してくれる。
「芙蓉が育てているのだ。闇鈴蘭は猛毒を持っているが、毒も使いようには薬になる。芙蓉は薬師だから、なにか困ったことがあれば相談に来るといい。きっと役に立てる」
琥蓮は霧の中を歩きながらそう芙蓉の素性を明かしていく。そういえば家の周りにも様々な種類の花や草木が植えられていたと、優李は可愛らしい花の数々を思い出した。
「世話になったな」
森の終わりが見えてくると、那沙は琥蓮に向かって別れの挨拶を告げる。琥蓮は嬉しそうに吊り上った虎様の瞳をにっと細めた。
「那沙、来てくれて嬉しかったよ。おまえとは、あんな別れ方をしたからな」
「昔のことだ、もう忘れた。また来る、妻と子を大事にしろ」
「優李、那沙を頼むぞ!」
ペコリと頭を下げる優李に、琥蓮はそう叫んで手を振った。聞いた優李は逆ではないだろうかと首をひねる。
「まったく、煩い虎だ」
那沙はまたため息をつきながら、優李の前を歩いていたが、ふと立ち止まって振り返る。その表情は優しい。
「優李、礼をいう。ありがとう」
「いえ私は――」
那沙の顔を見ていると心が痛くなる。優しい顔を見ればなおさらだった。優李は感情のやり場に困ってうつむいた。
だめだよ、那沙のこと、好きになっちゃ駄目だ。那沙を困らせるだけだから。
「それにしても、六花にはしてやられた。おまえがついて行けば、俺を琥蓮に会わせられると踏んでいたのだろう。というか、見えていたのだろうな――」
しばらく無言で歩いていたが、唐突にそうつぶやいた。ひどく不機嫌そうにいう那沙がおかしくて、優李は少し笑う。
「六花さんは策士ですね」
「あれは本当に質が悪い狐だ」
西都の町が見えてきた。そよそよと頬を撫でる心地よい風を感じながら、優李は空を見上げた。綺麗な夏の空はどこまでも澄んでいる。
「優李、帰るぞ」
那沙に促されて優李はその背を追いかける。
那沙と一緒に過ごすのはひとりで生きていけるようなるまでのほんのわずかな時間にしなければいけない。あやかしの世で生きていくのが難しければ、もう一度人の世に。あと一年もすれば優李は成人できる。これ以上那沙の手を煩わせないよう、ひとりで生きていくのだと、優李は心の中でそう決意するのだった。
「こんなに酔って、仕方のないひとね。よほど嬉しかったのでしょう。久しぶりに那沙さんの顔を見てほっとしたのだと思います。まだ話はできていませんが、明日顔を合わせたら仲違いしていたことなど嘘のようになると思います。那沙さんを連れて来てくれてありがとう、優李さん」
「いえ、それは六花さんのおかげで……私はなにも……」
「いいえ、あなたのおかげですよ」
戸惑う優李に、芙蓉は微笑んだ。
「那沙さんが霧に倒れ、見ず知らずの夫が現れてさぞ恐ろしかったことでしょう。あの形相ですからね。私もはじめは怖くてたまりませんでした」
優しく微笑む芙蓉に優李はあいまいに微笑んだ。外から綺麗な虫の声が響いてくる。どこか悲しいその音色が優李の中を流れて行った。
翌朝目を覚ました那沙は、バツの悪そうな顔をしていた。
「おはようございます那沙、お加減いかがですか?」
そう優李が声をかけてもそっぽを向いている。朝食の際にも那沙はずっと不機嫌そうだった。こんな子供みたいな那沙を見られるのが嬉しくて優李はふふっと笑みをこぼす。昨日から那沙の新しい一面を見られてとても嬉しい。部屋の奥からきゃっきゃっと笑う高い声が聞こえてきた。
「わぁ、可愛い!」
芙蓉が赤子を連れてきたのだ。優李は目を丸くし、それからにっこりと目じりを下げる。
「抱っこしてみる?」
「いいんですか? 泣かないでしょうか……」
恐る恐る抱き上げると、赤子は優李の服をぎゅっと掴んだ。きゃっきゃっと嬉しそうに声を上げる。
「すごい、あったかい。宝物ですね……」
抱いているだけで幸せな気持ちになる。優李は赤子に頬を寄せた。なんともいえない良い香りがする。
「どうか健康に。幸せになってくださいね」
優李がつぶやくと、キラキラとした砂が赤子に降り注ぐ。『ことほぎ』が紡がれた。
「お世話になりました!」
帰り際、優李は深々と頭を下げた。
「いえいえ、お礼をいうのはこちらの方です。この子に『ことほぎ』をありがとう。ほら、あなた――」
芙蓉に促されて琥蓮はコホンと小さく咳をした。
「またいつでも遊びに来い、那沙」
始終不機嫌そうにしていた那沙は、初めて口角を持ち上げる。
「今度は祝いの品を持ってくる」
「次は一緒に飲めるといいな」
「おまえは酒癖が悪い。芙蓉をあまり困らせることはするな」
長年の仲違いはすっかり消えたようだ。二人は顔を見合わせて笑った。
「森の端まで送っていく」
琥蓮がそう申し出たので、三人は連れ立って森の中を歩いた。相変わらず霧は深かったが昨夜とは違い、恐ろしさは感じない。森の中のしっとりとした空気が心地よかった。霧が太陽の光を反射して辺りがキラキラと輝いて見える。
「いい匂いですね。甘くて、美味しそう」
「闇鈴蘭の香りだ。香りが甘いが苦いぞ」
風に乗って甘い香りが漂ってきた。甘いがさわやかな心地よい香りだ。六花が欲しいといった闇鈴蘭の香りらしい。琥蓮が説明してくれる。
「芙蓉が育てているのだ。闇鈴蘭は猛毒を持っているが、毒も使いようには薬になる。芙蓉は薬師だから、なにか困ったことがあれば相談に来るといい。きっと役に立てる」
琥蓮は霧の中を歩きながらそう芙蓉の素性を明かしていく。そういえば家の周りにも様々な種類の花や草木が植えられていたと、優李は可愛らしい花の数々を思い出した。
「世話になったな」
森の終わりが見えてくると、那沙は琥蓮に向かって別れの挨拶を告げる。琥蓮は嬉しそうに吊り上った虎様の瞳をにっと細めた。
「那沙、来てくれて嬉しかったよ。おまえとは、あんな別れ方をしたからな」
「昔のことだ、もう忘れた。また来る、妻と子を大事にしろ」
「優李、那沙を頼むぞ!」
ペコリと頭を下げる優李に、琥蓮はそう叫んで手を振った。聞いた優李は逆ではないだろうかと首をひねる。
「まったく、煩い虎だ」
那沙はまたため息をつきながら、優李の前を歩いていたが、ふと立ち止まって振り返る。その表情は優しい。
「優李、礼をいう。ありがとう」
「いえ私は――」
那沙の顔を見ていると心が痛くなる。優しい顔を見ればなおさらだった。優李は感情のやり場に困ってうつむいた。
だめだよ、那沙のこと、好きになっちゃ駄目だ。那沙を困らせるだけだから。
「それにしても、六花にはしてやられた。おまえがついて行けば、俺を琥蓮に会わせられると踏んでいたのだろう。というか、見えていたのだろうな――」
しばらく無言で歩いていたが、唐突にそうつぶやいた。ひどく不機嫌そうにいう那沙がおかしくて、優李は少し笑う。
「六花さんは策士ですね」
「あれは本当に質が悪い狐だ」
西都の町が見えてきた。そよそよと頬を撫でる心地よい風を感じながら、優李は空を見上げた。綺麗な夏の空はどこまでも澄んでいる。
「優李、帰るぞ」
那沙に促されて優李はその背を追いかける。
那沙と一緒に過ごすのはひとりで生きていけるようなるまでのほんのわずかな時間にしなければいけない。あやかしの世で生きていくのが難しければ、もう一度人の世に。あと一年もすれば優李は成人できる。これ以上那沙の手を煩わせないよう、ひとりで生きていくのだと、優李は心の中でそう決意するのだった。