霧に巻かれた泉の周りを歩き続けていると、次第に霧が晴れ、茅葺の屋根が見えてきた。小さな木造の家――あの家がこの水虎の住処なのだろう。古いが良く手入れがされている。家の周りには見たこともない植物が植えられていた。花が咲いているものもある。
「とても綺麗……」
 可愛らしい花を見て心が穏やかになる。
「入れ」
 木の扉の中はわずかに建てつけが悪くなっているようで、開けるとキィと音を立てた。
 琥蓮は那沙を背負ったまま優李を中に招き入れる、家の中からは、なにかを煮込むようないい匂いが漂ってきていた。家の中に他のあやかしの気配がある、誰かいるようだ。
「帰ったぞ」
 琥蓮は穏やかな声でそういった。すると、奥から小さな影がすうっと歩み出てきて、しーっと人差し指を口許に一本たてる。艶やかな紺色の髪をした小柄な女のあやかしだった。肌がわずかに青みを帯びて見える。
「お帰りなさい、あなた。今やっと寝たところなの、あら、お客様? 珍しいわ」
 女は琥蓮の後ろに控えている優李を見てぱっと表情を明るくした。青みを帯びた頬がわずかに上気して赤みがさす。
「あぁ、こっちは俺の古い友人の那沙だ。それと店番の……」
「優李です」
「ユーリだそうだ」
 琥蓮が紹介すると、女は優李を見て破顔する。それから、琥蓮の背に負われている那沙を見て慌てた様子を見せた。
「大変!」
 そう大声を出したところで、慌てて両手で自分の口元を覆った。そして、今度は小声になる。
「那沙さんのことは琥蓮からいろいろ話を聞かせていただいております、優李さんも、ようこそ我が家へ。夫の霧に中てられたのでしょう、今布団を用意しますから」
 そのあやかしはにっこりと可愛らしい笑顔を見せてから、あわてて家の奥に引っ込んだ。那沙を寝かせる用意をしに行ったようだ。
「おじゃまします」
 優李はぺこりと頭を下げてから、琥蓮の家に上がった。そのまま居間に招き入れられる。居間には古い家にあるような囲炉裏があり、吊るされた鍋からは温かな湯気が上がっていた。琥蓮は那沙を寝かせて戻ってくる。
「私は天降女子の芙蓉(ふよう)と申します」
「天降女子……ということは、六花さんのお友達……ですか?」
「はい。あなたは六花の――」
「六花さんから泉に近寄れないので香の材料が集められないといわれて調査に来ました」
「なるほど、そうでしたか。でもおかしいですね、六花なら少し前に、香の材料にすると闇鈴蘭を取りに来ましたよ。連絡があって、その時だけ夫に霧を消してもらいましたから」
 芙蓉は台所から湯呑を三つ用意してくると、ちょこんと琥蓮の横に座った。湯呑の中身は冷たい茶のようである。茉莉花(ジャスミン)のような良い花の香りがした。ひとくち口に含むと花の香りが広がる。華やかな香りがのどを潤していく。そういえば喉がカラカラだ。緊張していたのだろう。
「え! そうなんですか?」
 芙蓉の答えに優李は困惑してしまう。その話だと、六花はここに誰が住んでいるのか知っていて、霧も問題なかった……となると、どういうことなのだろう。他に調べるべきことがあるということだろうか。
「六花のことだ、大方俺と那沙を会わせてやろうと思ったのだろう。仲違いしていると、この前おまえが話したものだから」
「あぁ、それは大いにあり得ます。素直に提案したところで、あなたも那沙さんも聞いてはくれないでしょうからねぇ。六花らしいやりかたです」
 芙蓉は楽しそうにくすくすと笑った。つまり、六花は那沙と琥蓮の仲違いを解かせるために二人を会わせたかったということなのだろうと、優李は納得する。次から次へと色々なことが起こるので理解が追いつかなくなりそうだ。
「あ、あの、芙蓉さんは六花さんのお友達で、琥蓮さんは那沙のお友達で、お二人は、ご夫婦……ということですよね?」
 優李の問いかけに、琥蓮も芙蓉も頷いた。
「俺は絵師をしていてな。絵を描くためにしばらく人の世に行き、向こうに住んでいた。家を空けている間に芙蓉がここに住み着いたというわけだ」
「以前はここより遠く離れた南の地に住んでいたのですが、住処が災害に遭いまして、逃げてきたのです。空き家だと思って勝手に住み着いてしまって……思えば申し訳ないことをしました」
「帰って来た時には驚いた。だが住んでしまっているものを追い出すわけにもいかなくてな。一緒に住んでいるうちに互いに愛着がわき、婚姻を結ぶことにした。そして、子供が生まれたわけだ」
 帰って来た時に芙蓉が「しー」っと指を立てたのは、子供が寝付いていたからだろうと優李は思い出して納得する。
 琥蓮は照れたように隣に座る芙蓉を見て柔らかい表情で笑った。素敵な夫婦だと、優李の心に温かなものが灯る。
「生まれてくるのは当然異種の子だから体が弱い。丈夫になるまで、強いあやかしの影響を危惧してあの霧を張っていたんだ。あの霧は、あやかしの力に反応して効果を示す。心の奥底にある恐怖や後悔、そんなものを最大限に引き出して苦しめる霧だ。多少力のあるあやかしなら誰も近づけない」
 琥蓮がそう説明してくれた。異種の子というのは聞いたことがある。出会ったころ那沙が口にした言葉だ。確か……とその意味を思い出そうとしていると芙蓉が補足してくれる。
「異種の子というのは違う種族のあやかしから生まれた子供になります。夫は水虎、私は天降女子ですから、生まれてくる子供は二つのあやかしのかけあわせということになります。異種の赤子というのは、とてもとても弱いのです。ちょっとした風邪や、悪いあやかしの影響で亡くなることが少なくありません。琥蓮はそれを心配して……」
「だから霧を……」
 芙蓉と琥蓮の説明で、あやかしの世界に不案内な優李にもだんだんと状況が読み取れてきた。紐を解いてみたら、おかしなことはなにもない。
 優李は思わず両の手のひらを合わせた。そして祈る。この子が、丈夫で幸せに育ちますようにと。
「どうか、琥蓮さんと芙蓉さんの赤ちゃんが、元気に育ちますように――」
 優李の手のひらから光の砂が生まれ、さらさらと空を流れて赤子が寝ている寝所に流れ込む。
「今のは、『ことほぎ』……優李は『ことほぎ』が使えるのか」
 琥蓮は驚きの色を浮かべ、それから「ありがとう」と涙を浮かべて何度も頭を下げた。
「ことほぎ……ですか?」
「そうだ。祝福を与える稀有な力だ。そんな強い力をもちながら、なぜ霧の影響を受けなかったのか不思議だ」
「私に、そんな特殊な力はありません。何かの間違いですよ」
 父には強い治癒の力があったが優李にその能力は受け継がれなかった。ずっと無能だといわれ続けてきたのだ。慌てて首を横に振る優李だったが、琥蓮は説明を続ける。
「いや、いま生じた光の粒は間違いなくことほぎだ。俺は見たことがあるから間違いない。その力、大事に使ってくれ。他者を幸せにする稀有な力だ」
「全然知りませんでした……。私にできることなら、祈りましょう。琥蓮さんと芙蓉さん、そして生まれてきた赤ちゃんが幸せに暮らせますように」
 優李は心からそう願った。金色の砂がはらはらと降り注ぐ。
「ありがとう優李さん」
 芙蓉も嬉しそうにお礼をいってくれた。心の中が温かくなる。自分がしたことで誰かが喜んでくれるのはたまらなく嬉しい。
 夕食もご馳走になり、琥蓮は那沙とのことを詳しく教えてくれた。二人は私塾時代の友人だということだ、その話しぶりや雰囲気から仲が良いことが伺える。
「那沙は基本的にあまり物事に興味がない。だが、一度執着するととことん執着する性質のあやかしだ、俺の見立ては間違いない」
 琥蓮の分析に優李はなるほど、とうなずく。那沙がいろいろなものに関心が薄い、特に人間関係、いやあやかし関係にはほとんど興味がないようで、友人と呼ぶあやかしも琥蓮くらいしか聞いたことがない。
「だから気を付けよろ優李、いずれ那沙はおまえのことを家から一歩も出さなくなる」
「そんな、那沙は私への関心も薄いと思います」
「馬鹿いうな、あの面倒くさがりの那沙が半妖なんて面倒なものを家に置いている時点ですでに執着している」
 琥蓮の言葉に優李は肩を落とした。
「やっぱり半妖なんて迷惑なだけですよね……」
「ちょっとあなた、なんてことをいうの。優李さん、半妖だからなんて偏見気にしなくていいのよ。優李さんはとっても優しくて可愛いもの、会えばみんな優李さんのことが好きになるわ、私はすでに大好きだもの」
「ありがとうございます芙蓉さん」
 芙蓉のフォローに優李はあいまいな笑顔を見せた。那沙にとって自分が迷惑な存在なのだということが辛い。結局、私はどこにいたって誰にとっても迷惑な存在なのだ。
 酒を飲んだ琥蓮は、更に饒舌になった。話はどうしてふたりが仲違いをしたのかという内容に及ぶ。
「今から百年くらい前のことだろうか、当時、私塾を卒業したばかりの那沙は御所に引き抜かれて役人の仕事をしていた。主に御所内での仕事のほかに、検非違使と協力し、人の世でのあやかし関連の問題も扱っていた。那沙は生真面目に仕事をしていた。俺の方もきちんと仕事をしていたぞ、人の世の絵を描きに行っていた。高値で売れるからな」
 話しながら琥蓮は視線を上げ、どこか遠くを見つめるような目をする。懐かしい過去に思いを馳せているのだろう。少し間をおいて再び口を開いた。
「那沙の家は人の世にも領地をもっている。祖父が夢屋を始めたのを機に仕事をするために人の世にいくつか拠点を持るようになったそうだ。つまり人間の世で生きる顔も持っていたということだ。確か調月などと名乗っていたか。公爵家の誰かがいい出したことだったか、人間の女を伴侶にすればより人の世での仕事がしやすくなるのではないかという話になった。那沙は嫌がってな。あいつは人間嫌いなんだ。俺は一時なら婚姻を結んでもいいのではないかといって那沙と口論になった。那沙はいくら仕事に必要とはいえ人間を娶るのは絶対に嫌だといい張ってな。百年前といえば、今よりももう少しあやかしと人間の関わり合いが多くてな、人間と結婚するあやかしもそれなりにいたのだから那沙の態度は上流階級の反感を買った。もう少しで爵位を落とされかねなかったほどだ」
 琥蓮が語る那沙の過去を聞いて、優李はどこか落ち着かない気持ちになった。
「那沙は、どうしてそこまで人間を嫌っているのでしょうか」
 琥蓮は視線を落とした。
「それは俺の口からは話せないな。悪いな優李」
 那沙がそれほどまでに人間を嫌う理由はなんだろうか。気になると同時に琥蓮の話しにほっとしている自分がいることに気が付く。那沙が人間の妻を娶らなくてよかったと。では、あやかしの伴侶を得たのだろうかという疑問が新たに湧いてくる。それを悲しいと思っている自分がいる。
 くるくると表情を変える優李を見て、琥蓮はははと豪快に笑った。
「安心しろ優李、那沙は独身だ」
「わ、私はそんなこと……」
 気にしていたことがバレて恥ずかしくなる。顔を赤くしてうつむいていると琥蓮がくくっと笑みを漏らした。
「おまえは考えていることがすべて顔に出るタイプだな。那沙にはおまえくらいわかりやすい女がお似合いだ。あいつはひとの気持ちを察するのが下手だからな」
 つまりそれは、優李が困っていることを那沙が察してそばにおいてくれているということにならないだろうか。自分は、助けてくれた那沙に依存しようとしている、那沙に懐いてしまっている。このままではダメだひとりで生きていけるよう強くならなければ。
 ただ願った。どうか、那沙が幸せになりますようにと――優李の手のひらから生まれた光が、眠っている那沙に降りかかる。