青い空のむこうに島のように大きな雲がふわふわと浮かんでいる。伯爵家のひとつ、調月の治める町は海に面した港町だ。この地は神の国とひとの世をつなぐ狭間の地と呼ばれ、領主である調月はひとならざる者、神であるともあやかしであるともいわれている。それが滅多に人前に姿を現さない領主にまつわる噂であった。
噂を裏付けるように調月のひとのなかには、ときに不思議な力をもった子供が生まれてくる。予知、治癒、雨乞いに、透視、星読み。能力は基本的に遺伝し、親から子に受け継がれる。
町中に血管のように細い道が通っている。路地では寝転がってくつろぐ猫の姿がいくつも見えた。この町の日常風景である。
夏も盛りの七月半ばのこと、優李は着物の裾を揺らしながら木々の作り出す涼しい木陰を渡り、坂道を下りていた。木漏れ日の差す美しい通りは優李のお気に入りの道だ。
細い坂道の木陰には、ところどころで猫がうたた寝をしている。優李はその愛らしい姿に目を細めてから足を速めた。どんなに憂鬱なことがあってもここを通れば心が癒される。
猫たちも優李によくなれているようで、行き先行く先で出会う猫たちに囲まれてしまう。
「ごめんね、お使いだから急いでるんだ」
優李は名残惜しそうに見つめてくる猫たちに手を振った。昔からこうである。動物、特に猫に好かれる体質であった。幼い頃、両親たちは猫の来訪を歓迎してくれたが今ではそうはいかない。猫の方もそれをわかっているようで優李の家が近づくと自然と姿を消すのである。
今日はあまりにも空が綺麗だったので、思わず自宅から遠回りをしてしまった。町の高台には優李が子供の頃に過ごした小さな家がある。優李の幸せが詰まっていたその場所は、今では屋根が崩れ、廃墟となっていた。足を運ぶものなど誰もいない。
ここから見る景色は両親と何度も見た美しい景色だ、内海に浮かぶ無数の浮島が海に陰影をつける。島々にかかる橋も晴れた日は特に美しく見えた。竜王山の中腹に立つ立派なお屋敷の風見鶏がくるくると回っている。頬を撫でる風が心地よい。
「調月のお屋敷に最近よく明かりがともっているんだよ」
「それじゃあ何十年かぶりにこちらにお越しなのかね」
「お嫁を探しに来るのかもしれないよ。若い子たちが騒ぐねぇ。私もあと二十若かったらドキドキするけどね」
「顔もわからないひとのお嫁になりたい子がいるかね。ずっと昔、あの家にどこかの娘さんが嫁いできてすぐに逃げ出したっていうじゃないか」
「そんなことがあったのかい?」
「そうそう、大きな声じゃあ言えないが、夫になる調月様がひどい不細工かもしれないだろう?」
「それは大事件だ」
「それでも伯爵婦人になれるのなら、悪くないわ」
「どの程度裕福なのかまわからないけどね」
カラカラと楽しそうな声がする。優李が坂道を下ると、談笑していた人たちが訝しそうな視線を向けてくる。今度は聞こえないくらいの声でひそひそと話し始めた。気候の穏やかなこの土地は、優李にとって決して住みやすい土地ではなかった。大きな町ではない、道行く人は優李の生まれについてみんな知っている。誰もが優李のことを旅館の跡継ぎをたぶらかした、どこの馬の骨とも知れない女の子供だと知っている。泥棒猫の子を略した「猫の子」というのが優李の昔からのあだ名だった。優李は海沿いの道まで一気にくだる。線路に沿って走ると、駆け抜けていく汽車が黒い煙を吐いていく。こほこほ、と少し咳き込んでから、再び優李は歩みを進めた。
大通りまで出ると馬車が忙しそうに駆けていく。思わず足を止めると、優李の視界の端に黒いものが動いたように見えた。咄嗟に足が動く。
「危ない!」
優李は必死で腕を伸ばして黒い塊を抱きかかえると、勢い余って転がった。腕の中に納まっているのは、一匹の黒猫だ。
「あぁ、怖かった。よかった無事で。通りは危ないのよ、馬車に轢かれでもしたら大変。もう飛び出そうとしないようにね」
黒猫は優李の腕からするりと抜け出すと、ちらりと振り返り、それから走り去った。
「お母さんとおんなじことしちゃった……」
母は七年前に馬車に轢かれて他界していた。急に馬車の前に飛び出した母の死は、警察から自殺だったと片付けられた。だが、その際にどうやら猫を助けようとしたのではないかとの声も耳にした。どちらにせよ馬鹿な女だ、と母を罵る声はいつまでも消えなかった。
優李は立ち上がると、汚れた着物の裾を払って走りだす。通りを渡ると、ひときわ大きな門が見えてくる。夕食の準備に間に合うように戻らなければいけない。門の中に駆け込むと、優李は呼吸を整えた。
「間に合った……かな」
優李の暮らす家は海沿いに建つ老舗旅館だった。父親はそこの跡取り息子だったらしい。父は気まぐれな性格だったようで、旅館の仕事を片手間にこなし、坂の上に小さなカフェーを経営していた。そこで働きたいといって現れたのが優李の母だ。ふたりはいつしか恋に落ち、優李が生まれた。父は優しい人だった。優李に名をくれたのも父だ。
父は優李が小学校に上がる前に病で亡くなり、相次いで母も事故死した。実家であったカフェーは両親が亡くなるとすぐに売りに出されたが、買い手がつかず廃墟のようになっている。
のんびりしている場合ではない。急いで夕飯の支度をしなければ。慌てて台所に続く勝手口へ入ろうとすると、広い庭にポツンと黒猫がいるのが見えた。猫は優李をじっと見ていた。
「あれ、君、もしかして朝の猫ちゃんじゃない?」
猫はじっと優李を見ている。その金色に光るその目を見ていると、優李は心の中に霞がかかったような気持ちになった。
猫は身を翻してゆっくりと歩きだす。なぜかついていかなければいけないような、そんな気持ちに駆られたがはっとして立ち止まった。
「だめ、夕ご飯の支度を手伝わなくちゃ。ごめんね」
猫に別れを告げ、勝手口に駆け込むと買ってきた荷物を置く。
「ただいま帰りました」
「ずいぶんと遅かったね、どこをほっつき歩いていたんだい。今日は団体客がいるから早く帰れっていっただろう。手際よく買い物もできないのかい、本当にのろまだね」
「すみません、すぐに用意をします」
「しゃべる暇があったらさっさと行きな愚図。今日は夕食抜きで働かないと間に合わないよ!」
旅館の女将である礼子は優李の叔母にあたる。血のつながりがあるのは叔父の方だ。礼子は優李の父と結婚するはずだった。父が優李の母親と結婚したことで破談になり、弟である叔父と結婚したのである。
礼子は幼い頃からの許嫁であり優李の父に恋をしていたそうだと人づてに聞いた。意中の相手との結婚に心を躍らせていた礼子は、優李の父がほかの女を愛したことに落胆したのだろう。その子供である優李は、憎しみの対象に他ならない。
「お母さん、新しいお着物とお化粧品が欲しいのだけれど、買ってもいいかしら?」
厨房にひょこりと顔を出したのは、礼子の娘、優李の従妹に当たる媛子だ。叔父から未来を見る能力を受け継ぎ、瞳の巫女と呼ばれている。
未来を読む媛子は町の人々から敬愛されている。
「あら媛子、えぇもちろんいいですよ。お父さんに頼んで新しいのを買ってもらいなさい」
「ありがとうお母様! では私のお古は優李ちゃんにあげようかなぁ」
媛子はにっとほほ笑んで優李を見る。
「いえ、私は……」
「そんな勿体ないことしなくていいよ。この子には媛子のお古なんか似合わないんだから。着物なんか今着ているので十分だし、化粧なんか必要ないよ。母親みたい男をたぶらかすようになったら困るしね。そうだろう優李」
きっと睨みつけるように礼子が視線を向けてくる。優李はうつむいた。
「でも、化粧品欲しいわよね、優李ちゃんお小遣いが少ないだろうし。ほら、白露堂の紅、ほしいでしょう?」
「いえ、私には過ぎたものです」
「ふうん、いらないんだ。そっかぁ、もしかして私のお古は嫌?」
「いえ、とんでもありません!」
媛子がすっと目を細める。優李が困っているのを楽しんでいる表情だ。
「あぁ、でもまた壊したり、家のものを汚したりしたらいけないからやっぱりやめておこうかなぁ」
「そうそうおやめなさい、優李には勿体ないですよ」
「じゃあ女学校のお友達にあげようっと」
優李はほっと胸をなでおろした。早めに開放してもらえて良かった。そもそも媛子のお古をもらってもいいことがない。以前渡された流行りの洋服はすでに破られており、それを着ていないと礼子に嫌味をいわれ、破けていたのだといえば自分で破ったのだろうと怒られた。それが媛子の仕業だなんていおうものなら何日も食事を抜かれたり苦手な蔵に閉じ込められたりする。
「ほら、ぼさっとしてないでさっさと夕食の支度を手伝いな、本当に愚図だね優李は」
「はい、すみません」
礼子の小言をいちいち気にしていたら心が持たない。優李は短く謝ってから他の従業員に混ざって慌ただしく動きまわった。ようやく寝床につけたのは深夜十二時を回っていた。従業員用の宿舎の部屋のひとつが優李の住まいだ。布団を置いたらほとんど足の踏み場がないくらい狭い部屋だが、それでもひとりになれるのはありがたい。
「お父さんお母さん、お休みなさい」
唯一の私物といってもいい写真にお休みの挨拶をすると薄い布団の上に横になる。生前父が家族写真を撮ろうといって写真館で撮ってもらったものだ。色褪せた写真の中で、両親は微笑み、幼い優李は緊張した面持ちで映っている。すべてが幸せだったころの時間が、この写真の中だけで生きている。
今夜は月が綺麗だ。明日には満月になるかもしれない。優李は重たい瞼をそっと閉じた。
優しい夢を見た。二匹の黒猫が、優李のそばでコロコロと幸せそうに寛いでいる夢だ。
浅い眠りから覚醒した優李はふと何かが通りかかる気配がした。気になってそっと目を開けると黒い猫がいる。光の加減によって金色に見える。まるで優李を呼ぶように猫はこちらを見た。呼ばれている、そう感じた優李は夢現のまま寝床から起き上がった。おもむろに寝巻から着替えて外に出ると猫の後を追いかけた。
猫は細い道を歩いていき、時折優李が付いてきていることを確認するかのように振り返る。
小高い山に辿り着くと、猫は「にゃぁ」と一声鳴くように口を開いて山の中に入っていく。町の人々から竜王山と呼ばれる山だ。この山のどこかがあの世に続いているという噂がある。町の人々は滅多に近づかない。子供が入れば神隠しにあうと聞いたことがある。中腹にはここ一体の土地治める調月家の屋敷があった。険しい山ではない。優李も何度か上ったことがある。優李はためらわずに足を踏み入れた。
噂を裏付けるように調月のひとのなかには、ときに不思議な力をもった子供が生まれてくる。予知、治癒、雨乞いに、透視、星読み。能力は基本的に遺伝し、親から子に受け継がれる。
町中に血管のように細い道が通っている。路地では寝転がってくつろぐ猫の姿がいくつも見えた。この町の日常風景である。
夏も盛りの七月半ばのこと、優李は着物の裾を揺らしながら木々の作り出す涼しい木陰を渡り、坂道を下りていた。木漏れ日の差す美しい通りは優李のお気に入りの道だ。
細い坂道の木陰には、ところどころで猫がうたた寝をしている。優李はその愛らしい姿に目を細めてから足を速めた。どんなに憂鬱なことがあってもここを通れば心が癒される。
猫たちも優李によくなれているようで、行き先行く先で出会う猫たちに囲まれてしまう。
「ごめんね、お使いだから急いでるんだ」
優李は名残惜しそうに見つめてくる猫たちに手を振った。昔からこうである。動物、特に猫に好かれる体質であった。幼い頃、両親たちは猫の来訪を歓迎してくれたが今ではそうはいかない。猫の方もそれをわかっているようで優李の家が近づくと自然と姿を消すのである。
今日はあまりにも空が綺麗だったので、思わず自宅から遠回りをしてしまった。町の高台には優李が子供の頃に過ごした小さな家がある。優李の幸せが詰まっていたその場所は、今では屋根が崩れ、廃墟となっていた。足を運ぶものなど誰もいない。
ここから見る景色は両親と何度も見た美しい景色だ、内海に浮かぶ無数の浮島が海に陰影をつける。島々にかかる橋も晴れた日は特に美しく見えた。竜王山の中腹に立つ立派なお屋敷の風見鶏がくるくると回っている。頬を撫でる風が心地よい。
「調月のお屋敷に最近よく明かりがともっているんだよ」
「それじゃあ何十年かぶりにこちらにお越しなのかね」
「お嫁を探しに来るのかもしれないよ。若い子たちが騒ぐねぇ。私もあと二十若かったらドキドキするけどね」
「顔もわからないひとのお嫁になりたい子がいるかね。ずっと昔、あの家にどこかの娘さんが嫁いできてすぐに逃げ出したっていうじゃないか」
「そんなことがあったのかい?」
「そうそう、大きな声じゃあ言えないが、夫になる調月様がひどい不細工かもしれないだろう?」
「それは大事件だ」
「それでも伯爵婦人になれるのなら、悪くないわ」
「どの程度裕福なのかまわからないけどね」
カラカラと楽しそうな声がする。優李が坂道を下ると、談笑していた人たちが訝しそうな視線を向けてくる。今度は聞こえないくらいの声でひそひそと話し始めた。気候の穏やかなこの土地は、優李にとって決して住みやすい土地ではなかった。大きな町ではない、道行く人は優李の生まれについてみんな知っている。誰もが優李のことを旅館の跡継ぎをたぶらかした、どこの馬の骨とも知れない女の子供だと知っている。泥棒猫の子を略した「猫の子」というのが優李の昔からのあだ名だった。優李は海沿いの道まで一気にくだる。線路に沿って走ると、駆け抜けていく汽車が黒い煙を吐いていく。こほこほ、と少し咳き込んでから、再び優李は歩みを進めた。
大通りまで出ると馬車が忙しそうに駆けていく。思わず足を止めると、優李の視界の端に黒いものが動いたように見えた。咄嗟に足が動く。
「危ない!」
優李は必死で腕を伸ばして黒い塊を抱きかかえると、勢い余って転がった。腕の中に納まっているのは、一匹の黒猫だ。
「あぁ、怖かった。よかった無事で。通りは危ないのよ、馬車に轢かれでもしたら大変。もう飛び出そうとしないようにね」
黒猫は優李の腕からするりと抜け出すと、ちらりと振り返り、それから走り去った。
「お母さんとおんなじことしちゃった……」
母は七年前に馬車に轢かれて他界していた。急に馬車の前に飛び出した母の死は、警察から自殺だったと片付けられた。だが、その際にどうやら猫を助けようとしたのではないかとの声も耳にした。どちらにせよ馬鹿な女だ、と母を罵る声はいつまでも消えなかった。
優李は立ち上がると、汚れた着物の裾を払って走りだす。通りを渡ると、ひときわ大きな門が見えてくる。夕食の準備に間に合うように戻らなければいけない。門の中に駆け込むと、優李は呼吸を整えた。
「間に合った……かな」
優李の暮らす家は海沿いに建つ老舗旅館だった。父親はそこの跡取り息子だったらしい。父は気まぐれな性格だったようで、旅館の仕事を片手間にこなし、坂の上に小さなカフェーを経営していた。そこで働きたいといって現れたのが優李の母だ。ふたりはいつしか恋に落ち、優李が生まれた。父は優しい人だった。優李に名をくれたのも父だ。
父は優李が小学校に上がる前に病で亡くなり、相次いで母も事故死した。実家であったカフェーは両親が亡くなるとすぐに売りに出されたが、買い手がつかず廃墟のようになっている。
のんびりしている場合ではない。急いで夕飯の支度をしなければ。慌てて台所に続く勝手口へ入ろうとすると、広い庭にポツンと黒猫がいるのが見えた。猫は優李をじっと見ていた。
「あれ、君、もしかして朝の猫ちゃんじゃない?」
猫はじっと優李を見ている。その金色に光るその目を見ていると、優李は心の中に霞がかかったような気持ちになった。
猫は身を翻してゆっくりと歩きだす。なぜかついていかなければいけないような、そんな気持ちに駆られたがはっとして立ち止まった。
「だめ、夕ご飯の支度を手伝わなくちゃ。ごめんね」
猫に別れを告げ、勝手口に駆け込むと買ってきた荷物を置く。
「ただいま帰りました」
「ずいぶんと遅かったね、どこをほっつき歩いていたんだい。今日は団体客がいるから早く帰れっていっただろう。手際よく買い物もできないのかい、本当にのろまだね」
「すみません、すぐに用意をします」
「しゃべる暇があったらさっさと行きな愚図。今日は夕食抜きで働かないと間に合わないよ!」
旅館の女将である礼子は優李の叔母にあたる。血のつながりがあるのは叔父の方だ。礼子は優李の父と結婚するはずだった。父が優李の母親と結婚したことで破談になり、弟である叔父と結婚したのである。
礼子は幼い頃からの許嫁であり優李の父に恋をしていたそうだと人づてに聞いた。意中の相手との結婚に心を躍らせていた礼子は、優李の父がほかの女を愛したことに落胆したのだろう。その子供である優李は、憎しみの対象に他ならない。
「お母さん、新しいお着物とお化粧品が欲しいのだけれど、買ってもいいかしら?」
厨房にひょこりと顔を出したのは、礼子の娘、優李の従妹に当たる媛子だ。叔父から未来を見る能力を受け継ぎ、瞳の巫女と呼ばれている。
未来を読む媛子は町の人々から敬愛されている。
「あら媛子、えぇもちろんいいですよ。お父さんに頼んで新しいのを買ってもらいなさい」
「ありがとうお母様! では私のお古は優李ちゃんにあげようかなぁ」
媛子はにっとほほ笑んで優李を見る。
「いえ、私は……」
「そんな勿体ないことしなくていいよ。この子には媛子のお古なんか似合わないんだから。着物なんか今着ているので十分だし、化粧なんか必要ないよ。母親みたい男をたぶらかすようになったら困るしね。そうだろう優李」
きっと睨みつけるように礼子が視線を向けてくる。優李はうつむいた。
「でも、化粧品欲しいわよね、優李ちゃんお小遣いが少ないだろうし。ほら、白露堂の紅、ほしいでしょう?」
「いえ、私には過ぎたものです」
「ふうん、いらないんだ。そっかぁ、もしかして私のお古は嫌?」
「いえ、とんでもありません!」
媛子がすっと目を細める。優李が困っているのを楽しんでいる表情だ。
「あぁ、でもまた壊したり、家のものを汚したりしたらいけないからやっぱりやめておこうかなぁ」
「そうそうおやめなさい、優李には勿体ないですよ」
「じゃあ女学校のお友達にあげようっと」
優李はほっと胸をなでおろした。早めに開放してもらえて良かった。そもそも媛子のお古をもらってもいいことがない。以前渡された流行りの洋服はすでに破られており、それを着ていないと礼子に嫌味をいわれ、破けていたのだといえば自分で破ったのだろうと怒られた。それが媛子の仕業だなんていおうものなら何日も食事を抜かれたり苦手な蔵に閉じ込められたりする。
「ほら、ぼさっとしてないでさっさと夕食の支度を手伝いな、本当に愚図だね優李は」
「はい、すみません」
礼子の小言をいちいち気にしていたら心が持たない。優李は短く謝ってから他の従業員に混ざって慌ただしく動きまわった。ようやく寝床につけたのは深夜十二時を回っていた。従業員用の宿舎の部屋のひとつが優李の住まいだ。布団を置いたらほとんど足の踏み場がないくらい狭い部屋だが、それでもひとりになれるのはありがたい。
「お父さんお母さん、お休みなさい」
唯一の私物といってもいい写真にお休みの挨拶をすると薄い布団の上に横になる。生前父が家族写真を撮ろうといって写真館で撮ってもらったものだ。色褪せた写真の中で、両親は微笑み、幼い優李は緊張した面持ちで映っている。すべてが幸せだったころの時間が、この写真の中だけで生きている。
今夜は月が綺麗だ。明日には満月になるかもしれない。優李は重たい瞼をそっと閉じた。
優しい夢を見た。二匹の黒猫が、優李のそばでコロコロと幸せそうに寛いでいる夢だ。
浅い眠りから覚醒した優李はふと何かが通りかかる気配がした。気になってそっと目を開けると黒い猫がいる。光の加減によって金色に見える。まるで優李を呼ぶように猫はこちらを見た。呼ばれている、そう感じた優李は夢現のまま寝床から起き上がった。おもむろに寝巻から着替えて外に出ると猫の後を追いかけた。
猫は細い道を歩いていき、時折優李が付いてきていることを確認するかのように振り返る。
小高い山に辿り着くと、猫は「にゃぁ」と一声鳴くように口を開いて山の中に入っていく。町の人々から竜王山と呼ばれる山だ。この山のどこかがあの世に続いているという噂がある。町の人々は滅多に近づかない。子供が入れば神隠しにあうと聞いたことがある。中腹にはここ一体の土地治める調月家の屋敷があった。険しい山ではない。優李も何度か上ったことがある。優李はためらわずに足を踏み入れた。