それを打開したのが倭生那の誠意であり、マメな行動だった。
 週に一度は手紙を送り、月に一度は名産品を届けたのだ。
 初めの頃は送り返してきたこともあったが、そのうち受け取るようになり、それが楽しみになっていったようだ。
 母親の口から直接そのことを聞いたことはないが、父親がこっそり教えてくれた。「まんざらでもなさそうだよ」と。
 
 そして、決定的になったのが彼の訪問だった。
 両手に抱えきれないほどの赤いバラを持って母親と対面したのだ。
 それは信愛を表すものだった。
 彼は抱えきれないほどの信愛を届けたのだ。
〈お義母さんを大事にしますよ〉という意味を込めた素晴らしいプレゼントとなった。
 受け取った母親は「今まで生きてきた中で一番嬉しい」と涙を流した。
 その瞬間、彼は家族として迎えられることになった。
 更に、母親にとって嬉しいことが続いた。
 彼が結婚式をロシアで挙げると言い出したからだ。
 これには母親が飛び上がって喜んだ。
「なんて幸せなのかしら」と泣き笑いのような表情を浮かべた母親の顔は今でも鮮明に思い出すことができる。

 しかし、ロシアによるウクライナ侵攻で状況は一変した。
 母と娘は対立し、夫にまで嫌悪(けんお)(つるぎ)が飛んできた。
「だから日本は嫌いなのよ。ありもしないことを言いふらしてあなたを洗脳するなんて最低だわ。やっぱり日本人と結婚させるべきではなかったんだわ」と。
 
 
「僕たちに何かできればいいんだけどね」
 夫の声で、今に戻った。
 そうだった、アフガンの女性に思いを寄せていたのだ。
 再び視線をテレビに向けて、ヒジャブ姿の女性が泣いている姿に目を凝らした。
「何ができるか考えてみるわ」
 ナターシャは自らが為すべきことに思いを巡らせた。