その発端はオスマン・トルコ帝国皇帝のアブドゥルハミト二世が派遣した親善使節団だった。
 当時ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいたため、同じ立場にあった日本と平等条約を締結促進するために派遣したのだ。
 横浜港に到着した派遣団は明治天皇に謁見(えっけん)し、皇帝より託されたトルコ最高勲章や種々の贈り物を捧呈(ほうてい)した。
 対して天皇は使節に勲章を授け、饗宴(きょうえん)でもてなした。
 その後、3か月間東京に滞在した使節団は帰途につくが、折からの台風に遭遇して、和歌山県串本町大島樫野崎(かしのざき)沖で座礁し沈没した。
 その結果、587名が命を落とし、生存者は69名のみという大惨事になった。
 しかし、大島の島民は彼らを見捨てなかった。
 総出で不眠不休の救援活動を行うと共に亡くなった人を手厚く葬ったのだ。
 その後、生存者の治療を神戸で行い、更に、日本の軍艦で生存者を無事イスタンブールまで送り届けると、トルコ国民から心からの感謝を贈られた。
 そのことがきっかけとなって交流が深まっていくのである。
 それが戦時下における日本人の救出という後日談を生むことになる。