朝一番で退職届を提出した。
 しかし、受理されなかった。
「辞める必要はない」と上司に押し返されたのだ。
 休暇中に戦地へ行ったことをあれほど詰られたのに、退職届は受け取らないという。
 
「休職すればいい」
 妻を連れ帰ったらいつでも復職させてくれるという。
「でも、日本に帰る可能性はほとんどありません」
 オデーサに居続けてウクライナの勝利と復興を見届ける覚悟だと伝えた。
「それなら、ウクライナで駐在員として働く道もある」
「でもウクライナには」
「ああ、今はポーランドに退避しているから出先の事務所はない。しかし、戦争が終結してキーウに事務所が戻ればウクライナ国内での活動を再開させることになる。その時に君がいてくれればこちらとしても心強い」
 それは嬉しい言葉だったが、ストンとは腑に落ちなかった。
「何故そこまで親身になっていただけるのですか?」
 上司はすぐには答えなかったが、強く見つめていると渋々という感じで口を開いた。
「君が経営企画室の同期と色々やっていることは耳に入っている」
 まだ社内の誰にも言っていないことを既に知っているという。
「どうしてそんなことを」
「まあ、それはいいだろう。それより今後のことを」
「いえ、よくありません。なぜ知っているのか教えてください」
 上司は困ったなというように顔をしかめたが、左手で唇を何度か擦ったあと、「私も社外の友人は多いのでね」と笑った。
 それでわかった。
 異業種メンバーの上司から漏れたのだろう。
 それはあり得ることではあった。
「とにかく、辞める必要はない。いや、辞めさせない。人事部に言っておくから休職の手続きをすぐにやるように。では、そういうことで」
 すっと立ち上がった上司は、後ろを向いたまま手を上げて応接室を出ていった。

 しばらく信じられない思いでその残像を見続けていた倭生那だったが、次第に胸が熱くなってきてそれを抑えることができなくなった。
 こんなことって……、
 何か大きな力が働いているような気がして、更に胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
 応接室の出口に向かって深々と頭を下げた。
 そして、エレベーターに乗って人事部のある階のボタンを押したが、その時いきなりナターシャの顔が浮かび上がってきた。
 それは喜んでくれている顔ではなく、ドローンやミサイルから逃げ惑う恐怖に満ちた顔だった。
「ナターシャ!」
 思わず叫んだが、その苦悶の表情が頭から消えることはなかった。
「生きていてくれ!」
 もう一度叫んだ時、目的階に着いた。
 しかし、すぐに扉を閉じて1階のボタンを押した。
 心はもうここにはなかった。