「負けるもんですか」
 呟きが聞こえた。
「絶対に負けるもんですか」
 声が大きくなった。
「負けてたまるもんですか!」
 叫ぶように言った。
 すべてロシア語だった。
 1991年に独立するまではロシア語を話していたのだろう。
 それとも、どこかにいるロシア軍に向けて意識してロシア語を話しているのだろうか?
 
 その人は叫び終わったあとスマホを取り出して写真を撮り始めた。
 焼け落ちた学校の写真を何枚も撮り続けた。
 ナターシャのことは目に入っていないのか、ちらりとも見ずにスマホで何かをやり始めた。
 
 少しして操作が終わったようで、小さく頷いてスマホをポケットに仕舞った。
 すると、視線が飛んできた。
 それはとても厳しい眼差しだった。
「あなたはロシア人?」
 見た目でそう感づかれたのかもしれなかったが、いきなりの問いに心が凍りついた。
 そのせいか、声を出すことができなかった。
 頷くこともできなかった。
 彼女にとって自分は敵国の人間なのだ。
 憎きロシア軍の同胞なのだ。
 口が裂けてもロシア人だと言えるはずはなかった。
 危害を加えられる可能性だってないわけではないのだ。
 何も反応せずじっとしているしかなかった。
 
 しかし、どうしたわけか、厳しい眼差しがふっと柔らかくなった。
 顔をじ~っと見られてはいたが、突き刺さるようなものではなくなった。
 
「もしかして……」
 何かを思い出すような表情になったと思ったら、そうだ、というふうに頷いた。
「ここでボランティアをしてた人?」
「はい」
 思いきり声を出したつもりだったが、喉声のようなものしか出て行かなかった。
 それでも伝わったようで、その人の表情が一層柔らかくなった。
「ありがとう」
 思いもかけない温かい声が返ってきた。
「多くの人を助けてくれてありがとう」
 それは心からの声のように思えたし、ここで水と食料と生理用品を受け取ることができてとても助かったと礼を言われた時は熱いものが込み上げてきた。
「お役に立てて良かったです」
 はじめてちゃんとした声が出たが、それに反応することなく、彼女は何かを確かめるように辺りを見回した。
「もしかして一人なの?」
 頷いたナターシャは、立ち上がって話し出すと止まらなくなった。
 ボランティア仲間に止められたが振り切ってここにやってきたこと、善意の品を運んできた運転手がミサイル攻撃で亡くなったこと、更に、自分がロシア人であり罪の意識に苛(さいな)まれていること、だからウクライナのために何かをしていないと気がおかしくなりそうだということ、そのために日本からトルコへ行き、モルドバに渡り、そしてオデーサに来たことを一気に話した。
 
 その間、その人は黙って聞いていた。
 途中で一度も口を挟まなかった。
 ただ時々頷くだけだった。
 
「そうだったの」
 ただそれだけ言って両手を伸ばし、ナターシャの両手を握った。
「大変だったわね」
 娘を労わるような口調だった。
 それを聞いて心の中の何かが溶けたような気がした。
 それが涙となって零れ落ちるのに時間はかからなかった。
「あなたが悪いわけじゃないわ」
 両手の指で涙を拭ってくれたあと、両肩を掴まれて引き寄せられた。
「一緒に戦いましょ」
 目を覗き込むようにして強い決意を伝えられた。