「申し訳ない」
 廊下の壁にもたれて今後のことを考えていた倭生那の耳に声が届いた。
 目を向けると、ミハイルがこちらを見ていた。
「大丈夫ですよ」
 倭生那は無理して笑顔を作った。
 しかし、彼は厳しい表情を崩さなかった。
「私のことより奥さんを」
 そこで咳き込んだ。体調がかなり悪いようだ。
 怪我をしてから今まで何も食べていないので体力が落ちているのだろうと思った。
「何か食べますか?」
 彼は首を振った。
 食欲はまったくないという。
「そんなことより奥さんを探しに行ってください」
 一刻も早く見つけて日本に連れて帰れという。
 気持ちはありがたかったが、一人ではどうしようもなかった。
 土地勘はないし、言葉は通じないのだ。
 ロシア語を話せばなんとかなるかもしれないが、敵対する国の言語を使うわけにはいかなかった。
 それに、異国の地で怪我をした彼を放っておくわけにはいかない。
 ここまで来ることができたのは彼のお陰なのだ。
「妻は多分大丈夫だと思います」
 手術の間に病院に確認したことを伝えた。
 ロシア人女性もナターシャという名前の女性もこの病院には来ていないというのだ。
「でも、他の病院に運ばれているかもしれないでしょう」
「いえ、その可能性は低いようです。この辺りで手術ができるのはこの病院だけのようで、怪我をした人はほとんどすべてこの病院に搬送されるようなのです。だからここに居ないということは怪我をしていない可能性が高いということです」
 もちろん、それ以上に酷いことが起こっている可能性は排除できなかったが、それは考えないことにしていた。
「それならいいのですが……」
 それきり彼は黙ってしまった。
「とにかく、怪我を治すことを優先しましょう。妻のことはそれからです」
 ミハイルは何かを言いたそうにしていたが、倭生那が首を振ると諦めたのか、虚ろな瞳を隠すように顔全体を毛布で覆った。