5分ほどして車の中に戻ってきた。
「ビジネスの話です」
 そう切り出したミハイルは料金精算を求めてきた。
 戦地へ行って万が一命を落とすことになったら費用を回収できないからだという。
 もっともだった。
 倭生那は素直に頷いて小切手を切った。
 その額は予定していた金額の倍近くになっていたが、値切るわけにはいかなかった。
 既にモルドバまで足を延ばしているのだ。
 請求が高額になるのは仕方のないことだった。
 領収書を受け取った倭生那は別れを告げた。
 しかし、ミハイルは首を振った。
 倭生那が出発するまでここに残るという。
 
「でも」
「ご心配なく。追加の請求はしませんから」
「えっ?」
 言っている意味がわからなかった。
 まさかタダ働きをするとでもいうのだろうか?
「明日から休暇を取ります」
「えっ?」
「仕事とは無関係だということです」
「それって……」
「勘違いしないでください。決してボランティアではありません」
 自分自身のための行動なのだという。
「クリミアは昔トルコ領だったことをご存知ですか?」
「いえ」
 初耳だった。
 旧ソ連領であり、崩壊後はウクライナの領土になり、現在ロシアが不法占拠をしていることは知っていたが。
「正確に言うと、オスマン帝国領であり、その属国のクリミア・ハン国が治めていたのですが、どちらにしてもタタール人の血が流れている国だったのです」
 タタール人とはトルコ人の子孫がブルガリア人やフィン人、カフカス人などと混血したもので、今では旧ソ連領内のトルコ系住民の総称となっているのだという。
「私の祖先はタタール人で、ルーツはクリミアにあるのです」
 そこには親戚が多く住んでいたが、ロシアのクリミア併合による争いの中で命を落としたり怪我をしたり避難を余儀なくされたりした者が少なくなかったのだという。
「平和に暮らしていた者が一瞬にして地獄に落とされたのです。なんの罪もない人たちが祖国を追い出されたのです。こんな酷いことってあるでしょうか」
 決してロシアを許さないと語気を強めた。
「私は私のためにここに残ります。そして、あなたと共にオデーサに行きます。クリミアを奪われた悲しみを共有する同志を助けなければいけないからです。一人でも多くのウクライナ人を助けなければいけないからです」
 きっぱりと言い切ったミハイルの顔には覚悟の二文字が浮かんでいるように見えたが、どこまで信用していいのかわからなかった。
 それでも、「わかりました」と言ってミハイルの手を握った。
 本音はどうであれ、仲間がいるのは心強かったからだ。