白蝋化の再発から二ヶ月が過ぎ、両腕の肘までが白蝋に変わってしまった。そして危惧していたとおり両脚にも発症し、膝までが白蝋と化した。
 再発が判った時には取り乱し、涙に暮れていた結理恵も、今では状況を受け入れて落ち着いている……いや、諦めに支配されてしまっていると表現した方が、正しいのかもしれない。
 両手両足の自由が効かなくなってしまった結理恵は、一日の大半をベッドの上で過ごす。何かと不自由が多いため、ボクは病室にノートPCを持ち込み、仕事をこなしつつ彼女に付き添うようになっていた。

 窓の外のソメイヨシノは桜色に染まり、すでに満開の頃を越えて散り始めている。暖かな風が吹き込むたびに、この病室にも桜色の花びらが舞い込んでくる。結理恵が死への願望を口にしたのは、そんな麗らかな春の日の事だった。
「桜は、散り際が美しいのよね……」
 窓の外、はらりはらりと舞い落ちる花弁を目で追いながら、結理恵が呟く。続けて何事かを言い出そうとしているのだけれど、何度も言い淀み、絞り出すようにして「死にたい」と呟いた。
 どう応えて良いか解らず、結理恵の右手に両手を添える。そこにはかつての温もりは無く、崩れ落ちてしまいそうな危うさだけが在った。

 長い沈黙の後、結理恵が静かに語り始める。
「こんな姿のまま、生きていたくないよ。それに生きてたって、死ぬのを待つだけでしょ」
 たとえどんな状態であっても、たとえ全身が白蝋になってしまったとしても、ボクは結理恵に生きていてほしいと思う。でもそれは、ボクの身勝手で利己的な願いでしかないのかもしれない。そう思うとかけるべき言葉が見つからず、力なく結理恵を見つめることしかできなくなってしまう。
「それに、生きてる意味が、解らなくなってきたの。生きる意味もなく、死ぬのを待つだけなんて、辛すぎるよ……。どうせ死ぬのなら、もう死んでしまいたい。一刻も早く、この世界から消えて無くなりたい……最近、そんな風に考えちゃうんだ」

 生きる意志を失った結理恵に対して「死なないでくれ」と懇願(こんがん)する事は、身勝手なだけでなく、とても残酷な事なのかもしれない。でもやっぱり、それでもやっぱり嫌だ。生きる意味を見失ったまま、結理恵がこの世界から居なくなってしまうなんて絶対に嫌だ。
 この理不尽に突きつけられた絶望の中、どんな希望を与えてあげられるのだろうか。生きる意味……生きる希望……ボクは何をしてあげられるのだろう。
「カズくん、もしかしてさ……生きる理由を見つけてあげたいとか、そんな風に考えてる?」
 図星を指され、息を呑む。
「もしそうだとしたら、それはとても(おこ)がましい事だよ。ワタシが生きる理由はきっと、ワタシが見い出すしかないんだよ。与えてもらうような物じゃ、ないんだよ……」
「それでも……それでもさ……」

 結理恵の言う事が正しすぎて、言葉に詰まる。
 自分が生きる意味は、自分が見い出すものだ。正しい。確かに正しい。でも与える事ができなくたって、手伝いくらいならできるんじゃないだろうか。一緒に探すことだって、できるんじゃないだろうか。
「結理恵、ブランドを立ち上げた時、試作したジュエリーを憶えてる?」
「モルガナイトのリング?」
「あのジュエリーが、出発点だったよね。結理恵のジュエリーを、ボクのマーケティングでたくさんの人たちに紹介してきた……。デザインもクラフトも、結理恵の才能と技術だ。でも結理恵が作るジュエリーの可能性を膨らませるのは、ボクの仕事だ。結理恵の技術と、ボクのマーケティング、どちらが欠けてもブランドの成功はなかったよね? 二人の力を合わせて、ここまでブランドを大きくしてきたじゃないか。今の状況だって、二人の力を合わせればきっと……」

 結理恵は窓の外を見遣り、思案に暮れている。
 やがてボクに視線を戻し、小さな溜息をついて少しだけ笑った。
「カズくんは頭が良いのに、相変わらず例え話が下手だね」
「へ、下手かな……」
「つまり、もっと頼ってくれって事なのかな?」
「そうだよ」
「既にたくさん頼ってるから、これ以上は頼りたくないと思ってるんだけどね……」
 結理恵が大きく息を吸い込み、長い時間をかけて溜息を吐き出す。
「……カズくんに……もっと頼っても良いのかな?」
 そう言った結理恵の瞳には、不安の色が見て取れる。
「ワタシね、ずっとカズくんに申し訳ないって思ってたんだ。こんな体になって迷惑ばかりかけてるし、せっかく軌道に乗ったお仕事だって参加できなくなったし……だから、あまりカズくんに頼っちゃダメだって、自分に言い聞かせてたの。そうしないと、どんどん我儘(わがまま)になってしまいそうで怖かったの」
「病気なんだから、仕方ないよ、我儘で良いんだよ」
「嫌なの、病気に甘えるの。だから最近はね、できるだけカズくんに迷惑かけないようにして消えて無くなりたいって、ずっとそんな事ばかり考えてたの」
 再び大きく息を吸い込み、深いため息をつく。
「でも、頼って良いって言ってくれるのなら、頼ってほしいと望んでくれるのなら、ひとつだけお願いがあるの」
「なに? 聞かせて」
「ずっと考えてたけど、言い出せなかった事……」
「うん」
「こんな体になっちゃったから、もうあり得ないと思って諦めてた事……」
 言おうか言うまいか、結理恵はいまだに悩んでいる様子だ。
 やがて長い思案の末、やっとその願いを聞かせてくれた。
「カズくんの子供が欲しい……」