また少し、左手が崩れてしまった。
白く、硬く、そして冷たくなってしまった結理恵の左手。ほんの数ヶ月前まで、ふっくらと柔らかく、温かだったのに……。
蝋のように固まり、触れると崩れてしまいそう……いや、実際にまた少し、崩れてしまったのだ。中指の表面が乾燥し、めくれ上がり、そして剥がれてしまった。
「すっかり固まっちゃったね」
病室のベッドの上、自らの左手を見つめながら結理恵がつぶやく。
「大丈夫だよ。きっと元に戻るから」
ボクの言葉が気休めでしかない事は、きっと結理恵にも解っているはずだ。五本の指は、ほぼ白蝋に変わってしまった。入院して、もう三ヶ月になる。しかしこの病院の医師をもってしても、治療法はおろか、原因すら掴めないのだそうだ。進行を止める唯一の方法として、左手首から先の切除が提案されている。でも結理恵は、手術を受け入れる事ができないようだ。指先から始まった白蝋化もすでに手の半分を蝋に変え、いまだ手首に向かって進行している。早く決断しないと、手だけでは済まなくなるのかもしれない。
結理恵はベッドで上体を起こし、左手を見つめたまま動かない。いつものように、手術を受けるかどうか、考えているのだろうか。
ベッドサイドに座るボクは、結理恵の手を両手で優しく包む。包んだ五指からは冷たく硬い蝋の感触が伝わり、掌の中程からは暖かく柔らかな結理恵の感触が伝わってくる。冷たさと暖かさ、硬さと柔らかさのグラデーション。生と死の境界が、そこに在るように感じる。
静まり返った病室で、ボクと結理恵の息の音が混ざり合う。時折ドアの外に響く看護師や患者の声が、とても大きく感じられる。こんな時、どんな言葉をかれば良いのだろうか。いつも答を見つけられずにいる。だからボクはそっと手を握り、結理恵を見つめる事しかできないのだ。
午後から再び雪が降り始め、窓の外には鉛色の空が広がっていた。病室はひんやりとして、空気が張り詰めているように感じられる。指先が冷たい。結理恵の指はもう、この冷気を感じる事はないのだろうか。痛みは無いのだそうだ。白蝋との境界は、痺れて感覚が鈍いらしい。
思い返してみれば三ヶ月前、爪の周りが荒れ始めた頃も、指先が痺れると言っていた。仕事柄いつも手を荒らしていたし、冬になると荒れが酷くなる事も知っているから、あまり気にしていなかった。
指先が柔らかさを失い、感覚が鈍くなった頃に皮膚科で受診した。そしてこの病院を紹介され、そのまま入院することになった。原因不明の白蝋化。医師からは「感染の疑いがなくなるまで、患者に触れないように」と忠告を受けた。しかし、既にもう何度も、結理恵の手を握っている。接触で感染するのなら、充分にその要件を満たしているのではないだろうか。それに、誰も結理恵に触れる事ができないのなら、せめてボクだけでも手を握ってあげたいと思う。
「手術の事……なんだけどさ」
結理恵がゆっくりと口を開く。ボクは両手で、左手を握り直す。
「受けた方がいいよね……やっぱり。ずっと考えてるんだけど、決められなくって。お仕事だって巧くいってたのに、手術しちゃったら、もうお仕事できなくなる訳だし……」
「……」
「ごめん……。そんなこと言われても、困るよね。ごめん」
謝らなければならないのは、ボクの方だ。結理恵は、背中を押して欲しいだけなのだ。手術を受けなければ、さらに状況が悪くなる事は解っているはずだ。このままでは、いずれ左手が駄目になってしまう事まで解っていると思う。だったら今のうちに、進行を食い止める方が良いに決まってる。そんな事は既に、結理恵には解っているはずなんだ。だけど左手を失う事は、そんなに簡単に受け入れられる事ではないのだ。すべてを理解した上で決めかねている結理恵へ、どんな言葉をかければ良いのか、やはり見つける事ができずにいる。
言葉を失い、うつむく結理恵の頬を涙が伝う。伏せた瞳から、次々に涙が零れ落ちる。ベッド横の丸椅子からベッドに座り直し、結理恵に体を寄せる。左手を握ったまま、もう片方の腕で結理恵の肩をそっと抱き寄せる。耳元で、結理恵の嗚咽が響く。ボクは結理恵の耳元で、何度も何度も繰り返す。
「大丈夫。大丈夫だから」
これが、ボクにできる精一杯。情けないけど、決断を下せずにいる恋人を、救う事もできない。救うどころか、苦しみを分かち合う事すらできないのだ。その程度の存在でしかないボクだけど、できるだけ多くの時間を結理恵と一緒に過ごしたいと思う。ボクは、結理恵の支えになっているのだろうか。もしかしたら、支えなんて必要としていないのかもしれない。もしかしたら、逆に負担になっているのかもしれない。考えるほどに、どうすればいいのか解らなくなってしまう。
いつの間にか結理恵は泣きやみ、右腕がボクの背中を抱いている。
「ごめん……泣いたりして」
「ボクこそ、ごめん。何も言ってあげられなくて……」
「なんだか二人で、謝ってばかりだね」
そう、ここへ来てからずっと、互いに謝ってばかりなのだ。結理恵はいつも左手の事を詫びるし、ボクはいつも不安を受け止めてあげられない事を詫びる。左手の白蝋化などという理不尽に対して、ボク達はあまりにも無力だ。どうする事もできず、お互いに謝らずにはいられないのだ。
「カズくん……。受けるよ、手術」
ボクの手の中で、結理恵の左手に緊張が走る。ボクの背中を抱く、右手に力が入る。体全体から、緊張が伝わってくる。
「手術、ちゃんと受けるから。偉いでしょ? 自分で決めたんだよ。ちゃんと自分で決めたんだよ。カズくん、褒めてくれる? 左手失くなっちゃうけど、それでも褒めてくれる? それでもカズくんは、私を好きでいてくれるのかな……。同情されるのだけは嫌だな。左手を失くして可哀想だとか、そんな風に思われるのは、絶対に嫌だ。同情なんかじゃなくて、ちゃんと好きでいてくれるのかな。それだけが心配。手術しなきゃいけないのは解ってたけど、ずっとその事ばかり考えて決められなかった」
そう言うと結理恵は、ボクに向き直して力なく笑った。
白く、硬く、そして冷たくなってしまった結理恵の左手。ほんの数ヶ月前まで、ふっくらと柔らかく、温かだったのに……。
蝋のように固まり、触れると崩れてしまいそう……いや、実際にまた少し、崩れてしまったのだ。中指の表面が乾燥し、めくれ上がり、そして剥がれてしまった。
「すっかり固まっちゃったね」
病室のベッドの上、自らの左手を見つめながら結理恵がつぶやく。
「大丈夫だよ。きっと元に戻るから」
ボクの言葉が気休めでしかない事は、きっと結理恵にも解っているはずだ。五本の指は、ほぼ白蝋に変わってしまった。入院して、もう三ヶ月になる。しかしこの病院の医師をもってしても、治療法はおろか、原因すら掴めないのだそうだ。進行を止める唯一の方法として、左手首から先の切除が提案されている。でも結理恵は、手術を受け入れる事ができないようだ。指先から始まった白蝋化もすでに手の半分を蝋に変え、いまだ手首に向かって進行している。早く決断しないと、手だけでは済まなくなるのかもしれない。
結理恵はベッドで上体を起こし、左手を見つめたまま動かない。いつものように、手術を受けるかどうか、考えているのだろうか。
ベッドサイドに座るボクは、結理恵の手を両手で優しく包む。包んだ五指からは冷たく硬い蝋の感触が伝わり、掌の中程からは暖かく柔らかな結理恵の感触が伝わってくる。冷たさと暖かさ、硬さと柔らかさのグラデーション。生と死の境界が、そこに在るように感じる。
静まり返った病室で、ボクと結理恵の息の音が混ざり合う。時折ドアの外に響く看護師や患者の声が、とても大きく感じられる。こんな時、どんな言葉をかれば良いのだろうか。いつも答を見つけられずにいる。だからボクはそっと手を握り、結理恵を見つめる事しかできないのだ。
午後から再び雪が降り始め、窓の外には鉛色の空が広がっていた。病室はひんやりとして、空気が張り詰めているように感じられる。指先が冷たい。結理恵の指はもう、この冷気を感じる事はないのだろうか。痛みは無いのだそうだ。白蝋との境界は、痺れて感覚が鈍いらしい。
思い返してみれば三ヶ月前、爪の周りが荒れ始めた頃も、指先が痺れると言っていた。仕事柄いつも手を荒らしていたし、冬になると荒れが酷くなる事も知っているから、あまり気にしていなかった。
指先が柔らかさを失い、感覚が鈍くなった頃に皮膚科で受診した。そしてこの病院を紹介され、そのまま入院することになった。原因不明の白蝋化。医師からは「感染の疑いがなくなるまで、患者に触れないように」と忠告を受けた。しかし、既にもう何度も、結理恵の手を握っている。接触で感染するのなら、充分にその要件を満たしているのではないだろうか。それに、誰も結理恵に触れる事ができないのなら、せめてボクだけでも手を握ってあげたいと思う。
「手術の事……なんだけどさ」
結理恵がゆっくりと口を開く。ボクは両手で、左手を握り直す。
「受けた方がいいよね……やっぱり。ずっと考えてるんだけど、決められなくって。お仕事だって巧くいってたのに、手術しちゃったら、もうお仕事できなくなる訳だし……」
「……」
「ごめん……。そんなこと言われても、困るよね。ごめん」
謝らなければならないのは、ボクの方だ。結理恵は、背中を押して欲しいだけなのだ。手術を受けなければ、さらに状況が悪くなる事は解っているはずだ。このままでは、いずれ左手が駄目になってしまう事まで解っていると思う。だったら今のうちに、進行を食い止める方が良いに決まってる。そんな事は既に、結理恵には解っているはずなんだ。だけど左手を失う事は、そんなに簡単に受け入れられる事ではないのだ。すべてを理解した上で決めかねている結理恵へ、どんな言葉をかければ良いのか、やはり見つける事ができずにいる。
言葉を失い、うつむく結理恵の頬を涙が伝う。伏せた瞳から、次々に涙が零れ落ちる。ベッド横の丸椅子からベッドに座り直し、結理恵に体を寄せる。左手を握ったまま、もう片方の腕で結理恵の肩をそっと抱き寄せる。耳元で、結理恵の嗚咽が響く。ボクは結理恵の耳元で、何度も何度も繰り返す。
「大丈夫。大丈夫だから」
これが、ボクにできる精一杯。情けないけど、決断を下せずにいる恋人を、救う事もできない。救うどころか、苦しみを分かち合う事すらできないのだ。その程度の存在でしかないボクだけど、できるだけ多くの時間を結理恵と一緒に過ごしたいと思う。ボクは、結理恵の支えになっているのだろうか。もしかしたら、支えなんて必要としていないのかもしれない。もしかしたら、逆に負担になっているのかもしれない。考えるほどに、どうすればいいのか解らなくなってしまう。
いつの間にか結理恵は泣きやみ、右腕がボクの背中を抱いている。
「ごめん……泣いたりして」
「ボクこそ、ごめん。何も言ってあげられなくて……」
「なんだか二人で、謝ってばかりだね」
そう、ここへ来てからずっと、互いに謝ってばかりなのだ。結理恵はいつも左手の事を詫びるし、ボクはいつも不安を受け止めてあげられない事を詫びる。左手の白蝋化などという理不尽に対して、ボク達はあまりにも無力だ。どうする事もできず、お互いに謝らずにはいられないのだ。
「カズくん……。受けるよ、手術」
ボクの手の中で、結理恵の左手に緊張が走る。ボクの背中を抱く、右手に力が入る。体全体から、緊張が伝わってくる。
「手術、ちゃんと受けるから。偉いでしょ? 自分で決めたんだよ。ちゃんと自分で決めたんだよ。カズくん、褒めてくれる? 左手失くなっちゃうけど、それでも褒めてくれる? それでもカズくんは、私を好きでいてくれるのかな……。同情されるのだけは嫌だな。左手を失くして可哀想だとか、そんな風に思われるのは、絶対に嫌だ。同情なんかじゃなくて、ちゃんと好きでいてくれるのかな。それだけが心配。手術しなきゃいけないのは解ってたけど、ずっとその事ばかり考えて決められなかった」
そう言うと結理恵は、ボクに向き直して力なく笑った。