二日ぶりの丈士先輩に、準決勝の結果をまず訊いたけど、訊かなくてもわかったかも。
「勝ったに決まってンじゃん」
そう言う前から、真顔に見える笑顔だった。
「っスよね! 甲子園、連れてっ……くんじゃけんな、ご両親を」
寸でのところで言い直す。オレはご両親のついでみたいなもんだ。
「連れてってやんよ」って最初に言われたとき、その言葉の重みを理解してなかった。だんだんわかってきて、オレの目標にもなって。
それでオレにもできる何かをってデータ班やってみたら、褒めてほしがったり、遠く感じちゃったりして。
脈なしだからって試合観に行くのやめて、そのくせ戦況がずっと気になって。
今だって勝利を喜ぶべきなのに、オレがいてもいなくても同じかって、なんか苦みもこみ上げてきてる。
先輩が野球してる姿が好き。でも、好きって気持ちがないほうが純粋に応援できる。
何だこれ。
つい俯いたら、先輩の腕の中で身体をくるんと反転させられた。うおお、顔が近え。
試合中の闘う男モードの名残まとってて、よけい目立ってる。祭りに残ってた人たちが「讃岐高のエースや」「一緒におる子誰?」って気づく。
丈士先輩は構わず、
「オマエが甲子園で踊るって言ったとき、」
ってオレだけに話し出した。
「俺はまだ迷ってた。全力出すの。やり過ぎて失うのはもうこりごりだから。うちは甲子園目指すようなチームでもなかったし、好きな野球できりゃ充分かって」
オレはひゅっと息を呑んだ。先輩にそんな迷いがあったなんて知らなかった。
あ。体育の走り高跳びで大西先輩と対決したとき、勝ったら今の関係壊れちまわないかって、怖がってたんだ。転校の原因、やっかみだそうだし――いや。
「なんで丈士先輩がセーブせないけんのですか。超うどんは並うどんのふりする必要ないっス」
義憤でほっぺたをふくらませる。どの立場でって感じだけど、先輩は八重歯を覗かせた。
「でも蒼空は素直に喜んでくれたよな。蒼空に応援されるたび、少しずつ吹っ切れてった。蒼空は自分のこと『どこにでもいる』とか言ってたけど、こんなに人のために頑張れたり人に力与えたりできるヤツ、そういねえよ」
先輩の目いっぱいにオレが映ってる。面映ゆい。
「へへ。オレにも誇れる取り柄、あったんじゃなあ」
「ん。てか普通に笑ったり食ったりしてるだけでかわいい。俺に新しい扉開けさせて、他のヤツは見んな触んなって思わせるくらい」
かと思うと、とどめを刺されかけた。速球派との会話、油断できねえ。
「かわいいとか、あんま言わんでほしいっス」
ちょっとは期待してもいいのかな。上目遣いに窺う。
丈士先輩は、途端に視線を彷徨わせた。
「蒼空がかわいいことすっからじゃん。あの防波堤での演説とかさ。ただ、蒼空は俺と違って純粋なんかもとも思えてきて……女のアイドル好きだし、キス拒まれたし。今度こそ手離したくないからって野球優先を口実にしてたら、あの子に先越されたわ。いやな予感して早めたののもっと先行かれた。まあ、見る目あるっちゃあるけど」
自嘲めいた溜め息まで吐く。
「先越された、って」
杏奈ちゃんのことだよな。もしかして、けっこう希望持てる?
「オレ、杏奈ちゃんと付き合うとらんですよ」
早口でこっちの結果を伝えれば、先輩の目にみるみる力が宿った。ほのかに欲も揺らめいて、オレはごくりと唾を呑む。
先輩の腕、オレの肩に乗ったまんま。熱いのは、脈が速いのは、オレと先輩どっちだろう。
「祭りは、センパイに言われたとおりにしただけです」
「……あんときかっこつけたの、まじで後悔した」
先輩が、髪の伸びてきた耳上をがしがし掻く。恋愛に慣れてるイケメンでも赤点取ることあるんだ。
「はじめて追う側になって、返事によってはピッチングだめになりそうで、決勝のあと言おうと思ってたけど。誰にも渡したくないから、今言う。――蒼空」
二音の合図で、心臓が跳ねる。
先輩に名前を呼ばれると、いつも嬉しい。嬉し過ぎて、切なくもなる。
「好きだよ。俺が今ここにいる意味をくれて、救われた。蒼空が笑うと俺も笑える。蒼空といると、楽しい。こんなに好きなヤツ、ここにしかいない」
先輩の声は優しく静かでいて、喧騒の中でもまっすぐオレに届いた。
オレも大好きです! って笑顔で返すのが理想なのに、
「そ、なん、オレだって、オレのほうが……っ」
実際には息が止まりそうだし、しどろもどろ。つまり夢じゃないってことだ。
丈士先輩が、オレに、好きだって言ってくれた。単なる後輩じゃなく、特別だって。
「高校生活は、クラスとか部活でええ感じになった子と付き合うて、地元の祭り行ったりできれば満足でした。そなんオレの人生に、丈士センパイが豪速球で現れたんです」
オレにとっても先輩がいかに特別か、言い募る。
「正直、揶揄われてんのかな思うこともあったんスけど、」
「俺もけっこう振り回された。妬かそうとしてンのって」
「え?」
「まあいいわ。けど、何?」
引っ掛かることを言われたものの、促されるまま続きを口にする。
「ストレートに、オレのええとこ褒めてくれたり、オレとおるの楽しんでくれとった……んスよね?」
ただ、自信がなくて疑問形になった。
「ん」
間髪入れず、今まででいちばん力強い「ん」が返ってくる。
「どっかの誰かが鈍感で、ぜんぜん伝わってなかったよな」
「へ、へへ……オレが自分に自信のうて、受け止められなんだっス」
「こんなかわいいのに自信なかったん?」
「や、けど今は、身体に当ててでも、後ろに逸らさんで、捕まえてみせます」
「ふーん。言うじゃん」
「センパイがオレに自信をくれたけん」
じわじわと、両想いの実感が湧いてくる。出会えただけで奇跡なのに、両想いなんて。
オレにはこれといった取り柄がなくて、だから好きなもんもわからなくて、何なら打ち込めるんだろうってずっと思ってた。
高校生活四か月目にして、オレが夢中になれるもの、掴めた。
「オレも、センパイとおると最強に楽しいです。センパイが嬉しいと最高に嬉しいです!」
充分近いのに、さらに一歩踏み出す。お互いくすぐったい笑みがこぼれる。
「おにいちゃんたち、ちゅーする?」
それも束の間、祭り帰りの小学生の無邪気な声に、磁石の同極のごとくバッと離れた。
世界にふたりきりみたいな気分だったけど、公開告白になってねえか!? 盛夏の暑さのせいだけじゃなく、汗がだらだら流れる。
その上、腹がぐううと鳴った。さっき英翔の惚気聞いてたときも、胃もたれでろくに食えなかったし……。
丈士先輩がぶはっと吹き出す。
「何笑うてんスか!」
「色気より食い気で、蒼空らしいなって」
至近距離にいたぶん、聞こえちまった。恥ずい。でも先輩は見るからに上機嫌な足取りで、人波を逆走する。
「俺も腹減ってンだ。屋台、店じまい際で値下げしてるだろ」
なるほど。それは狙いですね。
どちらからともなく手をつなぎ、屋台飯を買い込んだ。
「オムうどんって意外と合うんだな」
「うどんは何にでも合う言うたやないですか」
「それは確かに聞いたわ。けど、蒼空のアイスショコラミルクに焼き鳥はどーなん?」
「? 甘いとしょっぱい永遠に繰り返せます」
高校の花壇の縁に腰かけて、地元グルメを味わう。
丈士先輩、貸し切りバス降りるなりエナメルバッグ置きっぱで、祭り会場までオレを探しに来てくれたんだって。ふへへ。
ドリンクと焼き鳥を交互に口に運ぶオレのほっぺたを、先輩が愛おしげに撫でてくる。いつもより力弱めなのは、食べてる最中だからかな。
高校には球場帰りの人たちももう残ってない。最近野球部が毎日練習してたから、無人のグラウンドが不思議な感じだ。
先に完食した丈士先輩が、腹ごなしにか立ち上がる。
ピッチングネットに向かって、ゆったり一球投げた。
オレは口の中のものをほとんど噛まずに呑み込む。
「なんか、最後、ちょっと曲がった気ィするんスけど」
「お、よく見てんじゃん」
先輩がにやりと笑う。やっぱりオレの見間違いじゃない。
「センパイ、ストレートとチェンジアップだけやないんスか!?」
「実戦ではな。変化球も練習はしてる」
そうだったんだ。エースなのに努力を怠らず進化する姿、かっけえ。
先輩はネットから跳ね返ってきたボールを拾って、また投げる。今度はさっきよりぐいんと曲がって、ネットの端に当たった。こんなん打てねえ。
「去年の秋の大会は、ストレート全力で投げれなかった。先輩に遠慮じゃないけど。それで準々決勝止まり」
「一年生でベスト8もすげえっスよ」
オレも立ち上がり、グラウンドの際ぎりぎりまで近寄る。食い気より先輩。
「んー……どっちにしろ、今日4点も取られたのは、それとは違う」
それきり、三球無言。厳しい真顔だ。
杏奈ちゃんは山田部長の力不足って判定してたけど、丈士先輩は自分が及ばなくて打たれたって思ってる。
今日は打線が頑張ってくれて勝てた。じゃあ、決勝は――?
まっすぐ一本勝負スタイルを捨てて変化球も投入しようか、悩んでるんだ。
軽々しく「変化球も投げたらええよ」とも「ストレートで押しきりましょ!」とも言えない。オレにできるのはただひとつ。
「センパイが選んだほうが、正解や思います」
ここに来たことも、ここですることも。オレが一緒に、笑ってあげる。
丈士先輩が振りかぶる。またスローモーションで見えた。もう恋してるのに、もっと好きになる。
白球はネットのど真ん中を射抜いた。先輩の表情が晴れわたる。どっちにするか決めたっぽい。
「蒼空。決勝は、約束守るとこ、ちゃんと見てろよ」
「ハイ!」
まだ明るい帰路、稲穂の繁る田舎道に、映画みたいなエフェクトがつく。朝と世界がぜんぜん違って見える。
日高蒼空、はじめての恋人ができました。
……って思ったんだけど。日高家でチャリ降りた瞬間、愕然とした。
オレ、丈士先輩に「好き」って言いそびれてねえ!?
あああ。映画だったら撮り直せるけど、現実ではできない。
頭抱えてたら、ちょうど車で退勤してきた母ちゃんに「ふむ。赤点やな」って玄関の鍵閉められそうになる。待って待って。
今日は色んなことがあり過ぎたんだよ。杏奈ちゃんに「ありがとう」って、先越された悪友に「よかったな」って言えただけでも、頑張ったほうだ。
とはいえ。先輩に「好き」って言ってもらえてすげえ嬉しかったから、オレも伝えたい。
追試は、しあさっての決勝に持ち越しだ。
「勝ったに決まってンじゃん」
そう言う前から、真顔に見える笑顔だった。
「っスよね! 甲子園、連れてっ……くんじゃけんな、ご両親を」
寸でのところで言い直す。オレはご両親のついでみたいなもんだ。
「連れてってやんよ」って最初に言われたとき、その言葉の重みを理解してなかった。だんだんわかってきて、オレの目標にもなって。
それでオレにもできる何かをってデータ班やってみたら、褒めてほしがったり、遠く感じちゃったりして。
脈なしだからって試合観に行くのやめて、そのくせ戦況がずっと気になって。
今だって勝利を喜ぶべきなのに、オレがいてもいなくても同じかって、なんか苦みもこみ上げてきてる。
先輩が野球してる姿が好き。でも、好きって気持ちがないほうが純粋に応援できる。
何だこれ。
つい俯いたら、先輩の腕の中で身体をくるんと反転させられた。うおお、顔が近え。
試合中の闘う男モードの名残まとってて、よけい目立ってる。祭りに残ってた人たちが「讃岐高のエースや」「一緒におる子誰?」って気づく。
丈士先輩は構わず、
「オマエが甲子園で踊るって言ったとき、」
ってオレだけに話し出した。
「俺はまだ迷ってた。全力出すの。やり過ぎて失うのはもうこりごりだから。うちは甲子園目指すようなチームでもなかったし、好きな野球できりゃ充分かって」
オレはひゅっと息を呑んだ。先輩にそんな迷いがあったなんて知らなかった。
あ。体育の走り高跳びで大西先輩と対決したとき、勝ったら今の関係壊れちまわないかって、怖がってたんだ。転校の原因、やっかみだそうだし――いや。
「なんで丈士先輩がセーブせないけんのですか。超うどんは並うどんのふりする必要ないっス」
義憤でほっぺたをふくらませる。どの立場でって感じだけど、先輩は八重歯を覗かせた。
「でも蒼空は素直に喜んでくれたよな。蒼空に応援されるたび、少しずつ吹っ切れてった。蒼空は自分のこと『どこにでもいる』とか言ってたけど、こんなに人のために頑張れたり人に力与えたりできるヤツ、そういねえよ」
先輩の目いっぱいにオレが映ってる。面映ゆい。
「へへ。オレにも誇れる取り柄、あったんじゃなあ」
「ん。てか普通に笑ったり食ったりしてるだけでかわいい。俺に新しい扉開けさせて、他のヤツは見んな触んなって思わせるくらい」
かと思うと、とどめを刺されかけた。速球派との会話、油断できねえ。
「かわいいとか、あんま言わんでほしいっス」
ちょっとは期待してもいいのかな。上目遣いに窺う。
丈士先輩は、途端に視線を彷徨わせた。
「蒼空がかわいいことすっからじゃん。あの防波堤での演説とかさ。ただ、蒼空は俺と違って純粋なんかもとも思えてきて……女のアイドル好きだし、キス拒まれたし。今度こそ手離したくないからって野球優先を口実にしてたら、あの子に先越されたわ。いやな予感して早めたののもっと先行かれた。まあ、見る目あるっちゃあるけど」
自嘲めいた溜め息まで吐く。
「先越された、って」
杏奈ちゃんのことだよな。もしかして、けっこう希望持てる?
「オレ、杏奈ちゃんと付き合うとらんですよ」
早口でこっちの結果を伝えれば、先輩の目にみるみる力が宿った。ほのかに欲も揺らめいて、オレはごくりと唾を呑む。
先輩の腕、オレの肩に乗ったまんま。熱いのは、脈が速いのは、オレと先輩どっちだろう。
「祭りは、センパイに言われたとおりにしただけです」
「……あんときかっこつけたの、まじで後悔した」
先輩が、髪の伸びてきた耳上をがしがし掻く。恋愛に慣れてるイケメンでも赤点取ることあるんだ。
「はじめて追う側になって、返事によってはピッチングだめになりそうで、決勝のあと言おうと思ってたけど。誰にも渡したくないから、今言う。――蒼空」
二音の合図で、心臓が跳ねる。
先輩に名前を呼ばれると、いつも嬉しい。嬉し過ぎて、切なくもなる。
「好きだよ。俺が今ここにいる意味をくれて、救われた。蒼空が笑うと俺も笑える。蒼空といると、楽しい。こんなに好きなヤツ、ここにしかいない」
先輩の声は優しく静かでいて、喧騒の中でもまっすぐオレに届いた。
オレも大好きです! って笑顔で返すのが理想なのに、
「そ、なん、オレだって、オレのほうが……っ」
実際には息が止まりそうだし、しどろもどろ。つまり夢じゃないってことだ。
丈士先輩が、オレに、好きだって言ってくれた。単なる後輩じゃなく、特別だって。
「高校生活は、クラスとか部活でええ感じになった子と付き合うて、地元の祭り行ったりできれば満足でした。そなんオレの人生に、丈士センパイが豪速球で現れたんです」
オレにとっても先輩がいかに特別か、言い募る。
「正直、揶揄われてんのかな思うこともあったんスけど、」
「俺もけっこう振り回された。妬かそうとしてンのって」
「え?」
「まあいいわ。けど、何?」
引っ掛かることを言われたものの、促されるまま続きを口にする。
「ストレートに、オレのええとこ褒めてくれたり、オレとおるの楽しんでくれとった……んスよね?」
ただ、自信がなくて疑問形になった。
「ん」
間髪入れず、今まででいちばん力強い「ん」が返ってくる。
「どっかの誰かが鈍感で、ぜんぜん伝わってなかったよな」
「へ、へへ……オレが自分に自信のうて、受け止められなんだっス」
「こんなかわいいのに自信なかったん?」
「や、けど今は、身体に当ててでも、後ろに逸らさんで、捕まえてみせます」
「ふーん。言うじゃん」
「センパイがオレに自信をくれたけん」
じわじわと、両想いの実感が湧いてくる。出会えただけで奇跡なのに、両想いなんて。
オレにはこれといった取り柄がなくて、だから好きなもんもわからなくて、何なら打ち込めるんだろうってずっと思ってた。
高校生活四か月目にして、オレが夢中になれるもの、掴めた。
「オレも、センパイとおると最強に楽しいです。センパイが嬉しいと最高に嬉しいです!」
充分近いのに、さらに一歩踏み出す。お互いくすぐったい笑みがこぼれる。
「おにいちゃんたち、ちゅーする?」
それも束の間、祭り帰りの小学生の無邪気な声に、磁石の同極のごとくバッと離れた。
世界にふたりきりみたいな気分だったけど、公開告白になってねえか!? 盛夏の暑さのせいだけじゃなく、汗がだらだら流れる。
その上、腹がぐううと鳴った。さっき英翔の惚気聞いてたときも、胃もたれでろくに食えなかったし……。
丈士先輩がぶはっと吹き出す。
「何笑うてんスか!」
「色気より食い気で、蒼空らしいなって」
至近距離にいたぶん、聞こえちまった。恥ずい。でも先輩は見るからに上機嫌な足取りで、人波を逆走する。
「俺も腹減ってンだ。屋台、店じまい際で値下げしてるだろ」
なるほど。それは狙いですね。
どちらからともなく手をつなぎ、屋台飯を買い込んだ。
「オムうどんって意外と合うんだな」
「うどんは何にでも合う言うたやないですか」
「それは確かに聞いたわ。けど、蒼空のアイスショコラミルクに焼き鳥はどーなん?」
「? 甘いとしょっぱい永遠に繰り返せます」
高校の花壇の縁に腰かけて、地元グルメを味わう。
丈士先輩、貸し切りバス降りるなりエナメルバッグ置きっぱで、祭り会場までオレを探しに来てくれたんだって。ふへへ。
ドリンクと焼き鳥を交互に口に運ぶオレのほっぺたを、先輩が愛おしげに撫でてくる。いつもより力弱めなのは、食べてる最中だからかな。
高校には球場帰りの人たちももう残ってない。最近野球部が毎日練習してたから、無人のグラウンドが不思議な感じだ。
先に完食した丈士先輩が、腹ごなしにか立ち上がる。
ピッチングネットに向かって、ゆったり一球投げた。
オレは口の中のものをほとんど噛まずに呑み込む。
「なんか、最後、ちょっと曲がった気ィするんスけど」
「お、よく見てんじゃん」
先輩がにやりと笑う。やっぱりオレの見間違いじゃない。
「センパイ、ストレートとチェンジアップだけやないんスか!?」
「実戦ではな。変化球も練習はしてる」
そうだったんだ。エースなのに努力を怠らず進化する姿、かっけえ。
先輩はネットから跳ね返ってきたボールを拾って、また投げる。今度はさっきよりぐいんと曲がって、ネットの端に当たった。こんなん打てねえ。
「去年の秋の大会は、ストレート全力で投げれなかった。先輩に遠慮じゃないけど。それで準々決勝止まり」
「一年生でベスト8もすげえっスよ」
オレも立ち上がり、グラウンドの際ぎりぎりまで近寄る。食い気より先輩。
「んー……どっちにしろ、今日4点も取られたのは、それとは違う」
それきり、三球無言。厳しい真顔だ。
杏奈ちゃんは山田部長の力不足って判定してたけど、丈士先輩は自分が及ばなくて打たれたって思ってる。
今日は打線が頑張ってくれて勝てた。じゃあ、決勝は――?
まっすぐ一本勝負スタイルを捨てて変化球も投入しようか、悩んでるんだ。
軽々しく「変化球も投げたらええよ」とも「ストレートで押しきりましょ!」とも言えない。オレにできるのはただひとつ。
「センパイが選んだほうが、正解や思います」
ここに来たことも、ここですることも。オレが一緒に、笑ってあげる。
丈士先輩が振りかぶる。またスローモーションで見えた。もう恋してるのに、もっと好きになる。
白球はネットのど真ん中を射抜いた。先輩の表情が晴れわたる。どっちにするか決めたっぽい。
「蒼空。決勝は、約束守るとこ、ちゃんと見てろよ」
「ハイ!」
まだ明るい帰路、稲穂の繁る田舎道に、映画みたいなエフェクトがつく。朝と世界がぜんぜん違って見える。
日高蒼空、はじめての恋人ができました。
……って思ったんだけど。日高家でチャリ降りた瞬間、愕然とした。
オレ、丈士先輩に「好き」って言いそびれてねえ!?
あああ。映画だったら撮り直せるけど、現実ではできない。
頭抱えてたら、ちょうど車で退勤してきた母ちゃんに「ふむ。赤点やな」って玄関の鍵閉められそうになる。待って待って。
今日は色んなことがあり過ぎたんだよ。杏奈ちゃんに「ありがとう」って、先越された悪友に「よかったな」って言えただけでも、頑張ったほうだ。
とはいえ。先輩に「好き」って言ってもらえてすげえ嬉しかったから、オレも伝えたい。
追試は、しあさっての決勝に持ち越しだ。