「大西先輩、これ丈士先輩にお願いします」

 月曜の朝、駐輪場で待ち伏せして、ジップロックコンテナ満載の保冷バッグを託す。大西先輩は漁に出るご両親を手伝ってて、朝練には参加してないんだ。

「? わかった」

 自分で渡せって感じだよな。でも、キス未遂現場で、先週までと同じように一緒に昼飯食ったりとかできない。
 なのに習慣で、一人じゃ食いきれない量のおかずつくっちまったってわけ。いっそ笑え。


「お? 蒼空、今日は教室で食うの」
「オレが教室で食うたら弁当不味うなる言うんや? 便所で一人で食うたらええんや?」
「ヒス構文やめれ。八つ当たりかい」

 昼休みは、英翔の机に混ぜてもらう。
 スピーカーから流れる生徒会立候補締め切りのアナウンスを聞きながら、機械的におかずを口に運ぶ。……卵焼き、こんな味だったっけ。
 あっという間に放課後になる。
 今日はダンス部の活動日。視聴覚室で、窓に背を向けてYouTube観てたら、

「聞けや日高ァ!」

 同中の先輩に耳たぶを引っ張られた。抵抗せず、手打ちうどんみたいに長机に伸びる。

「……なに?」
「こっちの台詞。せっかく、あんたが生徒会立候補したら投票したるって話しよったのに」
「立候補? オレが?」
「あんた友だち多いし、チアボーイで知名度もある。当選したら内申点稼げるわいな」
「内申て。まだ行きたい大学も決まっとらんが」

 オレは行きたい大学も、将来何になれるかも、明日どう過ごすべきかさえ定まってない、しょっぱい男子高校生なんだ。
 立候補したところで、支持されるとは思えねえ。


 火曜の朝、大西先輩から「わしが睨まれる」って苦情が入る。今日またつくり過ぎたぶんは、厚意で託されてくれた。
 水曜の昼休み、生徒会立候補者の演説が放送された。自分の長所とか高校をどうよくできるかとかすらすら語ってて、素直に感心する。
 クラスのやつらはあんまりマジメに聞いてないけどな。
 と思ったら、急に静まり返った。女子も男子も廊下側の窓を凝視する。
 めっちゃデジャヴ。危険を察知して、すぐ横の窓を跨ぐ。花壇に降りて屈む直前、怒ってる真顔の丈士先輩が垣間見えた。
 今朝はおかずセット託さなかったから、直々に強奪しに? 攫いに? きたに違いない。

「蒼空ですか? えーっと」

 尋問されたらしい英翔が、ちらりとオレを見る。オレは必死に箸で×マークをつくる。丈士先輩の前でどんな顔すればいいかわかんなくなっちまったんだよ。

「どっか行きました」

 適当過ぎるごまかし方でも、先輩は引き下がったようだ。
 木曜の夜、居間で踊る美羽に「スマホ光っとるよ」って五回は言われた。
 ぜんぶ、丈士先輩からのLINE着信。
 女子マネ事件の顛末的に去る者追わずと思いきや、けっこう追ってくる。場違いに喜ぶオレと、彼女いんのにどうなのってオレが脳内で取っ組み合って、決着つかない。

「こじれてんなら蒼空兄ィが悪いけん、蒼空兄ィがしゃんしゃん(さっさと)謝るべきや思うぜ」
「何その決めつけ!?」

 座卓で宿題する翼の言葉、耳が痛え。
 スマホを持ち上げて、置く。また持ち上げる。ちょうど光って、勢いあまって切っちまう。あわわ。
 ……電話に出たほうがいいって、ほんとはわかってる。でも、ぎくしゃくしたくないし、かと言って何ごともなかったみたいに話されるのもヤなんだよ。



 んで、今日。
 ダンス部早退して(ふにゃふにゃで気持ち悪いから帰れって言われた)、高校からチャリで五分の、讃岐湾に突き出た防波堤でたそがれる。
 先端の小灯台の下に腰掛けて夕陽見てたら、日曜のひみつの場所の温度とか丈士先輩の手の感触が思い出された。
 潮風に晒されてしょっぱくなってた身体が一転、甘くなる。
 この一週間、それは変わらなかった。

「大事なこと話してくれんかったのは先輩のほうじゃ。なのにオレが逃げ回る状況になっとるんは……」

 自分に、自信がないからだ。先輩を好きでいる自信はあっても、嫌われない自信がない。オレの長所も、オレといたらこう楽しくなりますよってのも、未だに語れない。
 それにしても、丈士先輩と昼飯食わず、野球部の練習も見ないと、こんなつまんなかったか? まだ高校生活二か月目なのに、先輩と出会う前に戻れなくなっちまった。
 先輩の隣にいたい。いや、隣じゃなくてもいい、先輩といたい。でも邪魔だよな。

「はあ。恋したのがはじめてだから、諦め方もわかんねえ」

 叶わない片想いだとしても、こんな形で終わりたくない。
 みかん色の夕空を、渡り鳥のチドリが横切る。
 オレはむんと立ち上がった。波にも揺るがないコンクリートを踏み締め、丈士先輩にLINEする。

[会いたいです]

 同時に、スマホの通知音がした。
 オレのじゃない。左右に停泊する漁船でもない。首を傾げて振り返る。
 海を真っ二つに割るレベルのイケメン――丈士先輩が、モーセばりに歩いてきていた。
 映画みたいな仕草でスラックスからスマホを取り出し、今オレが送ったメッセージを読む。張りつめた真顔が、ほっとしたような真顔に替わった。
 視線を上げ、まっすぐオレを射すくめる。

「見っけた」
「センパイ、なんでここに!?」

 オレはテンションが爆上がるのを抑えきれずに叫ぶ。金曜で自主トレ早めに切り上げたにしたって、海まで来る気分になる? オレと同じタイミングで。

「オマエのママチャリ」

 先輩が親指で示した。確かに、隣接する市役所の駐車場に停めたけど。

「オレを、探しよったん、スか」
「ん」

 先輩は歩をゆるめず、影が重なる距離まで来た。リュックをあさり、二日分のジップロックコンテナを突き出してくる。ちゃんと洗ってあった。土日前に返したかったのか。

「ども、ぉわ」

 期待せず伸ばした手を、引き寄せられた。先輩の開襟シャツにほっぺたが埋まる。虎のマークの軟膏の匂いに包まれる。

「話したかったから」
「……っ、オレもっス!」

 思わずほっぺたをぐりぐり擦りつけた。そうして先輩の体温を味わってたら、

「こないだは悪かった。焦ったってか、速過ぎた」
「ひぃえいえ」

 いきなりキス未遂に触れられ、みるみる赤面する。先輩から跳び退って離れた。
 先輩の手が追いかけてきたけど、途中で引っ込む。

「オマエに彼女できたの知らなかったンだわ」
「へ? 彼女おるんは丈士センパイじゃろ?」

 待て待て。オレが「彼女おるんやけん、あかんよ」って諫めたの、すげえ誤解されてる?
 先輩は、むっとした顔で言い返してくる。

「いねえわ」
「やけど、優姫さんがセンパイの彼女だって」
「アイツ……」

 先輩がさらに凶悪に水平線を睨む。

「昔の話だよ」
「やっぱ彼女だったんや!」
「とっくに終わったっつってんじゃん」

 え? じゃあオレ、失恋してない――?

「ほんとですかぁ?」
「引き抜きも、断ったし」

 なおも疑いの目を向けたら、優姫さんとの公開密会(?)の結果も明かされた。
 オレがLINEの返信欲しいって言ったらくれるようになったし、何にも話してくれないって言ったから教えてくれたのかな。なんかこそばゆい。
 しかも内容が最高。さっきと逆に、先輩に飛びつく。

「センパイ、讃岐におってくれるんですかっ?」
「ん。信じられないなら、今ここで優姫のLINEブロックする」

 先輩は手早くスマホのロックを解いた。本気だ。

「うわわそこまでせんでええっス、センパイのこと大切に考えてくれとる人じゃろ」

 慌てて止める。オレも本心だ。でも先輩は、オレが気ィ遣ってないか窺う顔。
 どうしたら伝わる? オレは小さく足踏みしたのち、灯台下部の段に目をつけた。
 ぴょんと乗って、咳払いをひとつして。

「讃岐高校一年一組、日高蒼空。オレは、人並みに高校生活楽しめたらええなっていう、どこにでもおる男子高校生ですが!」

 でかい声駆使して、演説を始めた。生徒会選挙の真似。ただし大勢に支持されなくていい。たったひとりに届けばいい。

「センパイに過去を消してほしいわけやないです。栄養ある美味い飯を腹おきるまで(いっぱい)食うてほしゅうて、たまに日高家でごろごろしてもええし、元カノようけ(いっぱい)おるんはヤだけど許すんで、好きな野球に打ち込んどるとこ見してほしゅうて、」

 一週間話さなかっただけで、話したいことが次々あふれてくる。それでいてまとまらない。
 えーっと、って詰まった隙に、今限定で同じ目線の高さの丈士先輩が口を開く。

「いくらでも見せてやんよ。なのになんで俺から逃げンだよ」

 うぐぐ。手厳しい。切実な目力に圧され、オレはますます口ごもる。
 彼女持ちの人を好きになっちまってどう接すればいいかわかんない、って状況じゃなくなった。つか優姫さん、めちゃくちゃ上手にウソつくなあ。
 だからって、とてもじゃないけど「嫌いにならんでほしいけん」なんて言えない。「好き」の二音はもっと口に出せない。
 出せなくなった。大事な感情だから。繊細で壊れやすい感情だから。
 丈士先輩に何かしてほしいんじゃない。オレの気持ちを押しつけたくもない……。
 出来のよくない頭でぐだぐだ考えてたら、潮風にまかれた先輩が、口の端を歪めて嗤った。

「いや、逃げてきたのは俺か」

 無意識にか、耳上の傷跡を掻く。逃げるって……。
 違う。違います。オレはめいっぱい息を吸い込んだ。これだけは断言できる。

「センパイは逃げてきたんやない! こなん田舎まで、オレに出会いに来てくれたんじゃ」

 先輩の顔から自嘲が消える。ぱちぱちとまばたきしてる。その間にたたみ掛けた。

「また明日から、この日高蒼空が、センパイをいちばん笑わせてみせるけん!」

 うん。オレが今頑張りたいこと、これだ。この公約だったら果たせそう。
 恋愛って難しいけど単純で、好きでいさせてもらえたら充分みてえ。

「以上、立候補演説でしたっ」

 ふふん、と胸を反らす。
 丈士先輩は、ふっと吹き出した。みかん色に染まってやわらかく見える。

「ふーん。投票はどうしたらいいん?」
「えっ?」

 オレは対照的に間抜け面を晒す。そこまで考えてなかった。

「んじゃ……食いたいおかずリクエストしまいよ」

 必死に捻り出す。要望もらって、それに応えれば、いい会長だよな。生徒会じゃなく、丈士先輩に楽しく笑っててほしい会会長だけど。
 実際、先輩は片眉上げて、腹をさする。

「卵焼きと、カレー味の鶏と、うどんの上にトマトと乗ってたのと、何か甘いの」
「そんなに?」
「ん。蒼空の飯三日も食えなくて、死にそうだった」

 別の意味で、そんなに?
 それなら、ぜんぶ詰め込みますとも。一口なんて小せえことは言わない。

「明日生き返らしてあげます」
「楽しみにしてるわ。じゃあ俺、今日は走って帰るから」

 先輩は上機嫌でリュックを背負い直した。それでいつものエナメルバッグじゃないんだ。トレーニングを怠らない姿、かっけえ。
 こうして、ちょっとずつ知っていけばいい。
 市役所のほうに戻っていく途中、先輩が振り返る。オレはすかさずチアダンス踊って応援した。先輩の八重歯が見える。視力1.5だから間違いない。
 オレの胸の穴は、どんどん新しく湧いてくる「好き」で、いつしか満たされていた。