「どうでしたかっ」
「ん」

 放課後いちばんに駆けつける。丈士先輩が返却されたばかりのテスト用紙をひるがえす。
 イケメンが映えるきりっとした真顔の割に、だいたい五十点切ってますけど。お、国語は八十点台。三十点未満は――ない。赤点回避だ! エースの底力ってやつか。

「センパイ、できる子やないスか!」

 先輩が得意げに口角を上げる。山田部長、肩の荷が下りた今なら盗塁阻止しまくれたりして。

「うちが授業中叩き起こしたったけんなぁ」
「あたしが貸したノート、わかりやすかったじゃろ」

 先輩の机に、女子が集まってきた。一年と違って化粧してて、灰色のスカートも短い。
 オレは端っこに追いやられる。
 ノート、大西先輩じゃなく女子の先輩のだったんだ……。去年赤点免れたのも彼女たちのおかげらしい。讃岐高は一科一クラスだから、三年間クラス替えはない。
 授業中の丈士先輩も休み時間の丈士先輩も、知り放題。教科書忘れたとき見せてもらったり、調理実習で同じ班になったりできる。

「……同じクラス、ええな」

 いろんなトーンの「ん」で対応してた丈士先輩の目が、鋭くオレを捉える。
 やば、声に出てた?
 とにかく結果見届けたし、退散しよう。先輩を知ろう大作戦の続きは改めて――。

「チアボーイちゃん、林んとこ通い詰めやったなぁ」

 女子の先輩の長いネイルをほっぺたに押し当てられ、それも叶わない。

()から、ちゅ()よい、わい」

 さすがのオレも腰が引ける。つか今、ぜったい変顔晒しちまってる……! ひん。
 と思ったら急に解放され、別の手に包まれた。
 この温度と形と大きさ。丈士先輩の手だ。立ち上がって女子の先輩と手ぇ入れ替えたんだ。
 オレと丈士先輩に挟まれる形になった女子の先輩は、「何これ?」って半笑いで腕の下をくぐる。

「ヘーキ?」

 オレは小さく頷いた。なんかガードしてくれたみてえ。
 よく考えたら丈士先輩は握力鬼強いのに、痛いって思ったことはない。
 先輩は厳重にオレのほっぺた保護したまま、二年一組を脱出した。

「あの、オレ完全に後ろ歩きなんですけど」

 社交ダンスか。廊下の両側で、他の先輩がくすくす笑ってる。

「どこ行くんスか?」
「ご褒美くれるっつったよな?」

 質問に質問で返された。どっか行きてえってことか。

「ハイ。どこでも連れってあげますよ」
「じゃあ蒼空ん家」

 内緒話ぽく囁かれ、またドキッとする。
 丈士先輩にとっては深い意味はないのに。……ないよな?


「ほんにうちでええんスね? ふーこーめいびな津田(つだ)松原(まつばら)でも、温泉とプールあるツインパルでものうて」

 駐輪場で最終確認する。丈士先輩、観光地とか公共施設の存在知らないのかもだし。これじゃ、どっちかというとオレへのご褒美だ。

「蒼空ん家がいい」

 先輩は、揺るぎなき真顔で答えた。

「わかりました。んじゃ、二人乗り見つからんうちに出発じ、ま……ゼンパイ!?」

 そこまで言うなら。と思いきや、ペダルがめっちゃ重くて、唸りながら振り返る。

「地面に足着いたりしてませんよね?」
「してない」

 純粋な目。でも前向いて漕ぎ出すと、傾斜四十五度の坂上ってんのかってくらい進まない。

「ねえ! 足ざりざりしよんの聞こえとるっス!」

 いくら股下五メールだからって。現行犯だと叫べば、先輩の笑った息がオレのうなじにかかった。今日はエナメルバッグを背中に回してて、けっこう密着されてる。へへ。
 県道はまだ明るい。野球部は金曜、ミーティングと自主トレだけなんだって。先輩は今日は肩を休ませるそうだ。
 穏やかに吹き下ろしてくる山風に乗って訊く。

「野球部の皆さんと遊ばんのですか?」
「大西は家業の漁の準備。粟野は神戸に大学生の恋人できたンだよ」
「まじっスか!? 何つながりで?」
「インスタ」
「ははあ~、小豆島(しょうどしま)越えて神戸とか、すげえ人やな」
「ん」

 オレは大感心するけど、先輩は畔道の両側ですくすく育つ苗のほうに気を取られてる。
 それにしても恋バナが出るとは。粟野先輩ほどミラクルじゃねえけど、ゴールデンウィークを機に、一年でもちらほらカップルが生まれつつある。
 丈士先輩は今、彼女はいない。
 同性もありなのかな。異性にしろ同性にしろ、どんな子がタイプなんだろ。女子マネ事件は来るもの拒まずだったわけで、先輩が追うとしたら? どんどん気になりだす。
 丈士先輩を知ろう大作戦④。恋愛観とか好み情報もぜひ入手したい。それによってオレの高校生活も、頑張る方向も、いろいろ変わってくるし?


 十五分後、古いだけが取り柄の日高家に到着した。

「散らかっとりますけど。センパイ来るってわかっとったらめっちゃ掃除したのに」
「いいって。いつものまんまが、蒼空が育った家って感じで好きだし」
「へー、センパイ畳派っスか」
「……。ん」

 それでオレん家に来たかったのかな。
 じゃあ居間でくつろいでもらおうと、冷蔵庫のみかんジュースを出して持っていく。
 でも、丈士先輩は座椅子に座らない。鴨居にゆったり手を置いている。

「蒼空の部屋どこ」
「あっちっス。翼と共有ですけど」

 ジュースの瓶で指す。
 待て。先輩を部屋に入れるの、なんか緊張する。英翔とかさんざん入れてるんだけどな。

「翼も美羽も、蒼空のちっちゃいときぽくてかわいいよな」
「いやなんちゃかわいくねっスよ? あいつら」

 なんて話すうち、男子和室の前まで来た。腹括るしかない。ご褒美あげるって言ったし。どぞ、と障子を滑らせる。
 十畳を二段ベッドで仕切り、窓側に木の机がふたつ。オレの机側には押し入れがあって、

「アイドルのポスターすご」

 やっぱそこ目が行くよな。襖にびっしり貼ってるんだ。何なら砂壁も見えない。

「こりゃ妹が好きなグループで、妹のために貼っとって、」
「蒼空兄ィが美羽に布教したんじゃろ」
「うひゃあ!?」

 言い訳してたら、二段ベッドの上から冷静な指摘が降ってきた。
 小学校から帰ってきてたらしい翼が、頭だけ持ち上げて丈士先輩に会釈する。
 オレは幽霊見た並みにびっくりしたのに、先輩は動じない。もしかして部屋入った時点で見えてた? オレも身長があと十五センチ高ければ……。

「彼女とのLINEなら居間でしまい!」

 未だ成長期がこない骨へのもどかしさも込めて、弟を追い出す。

 その間に先輩がごろりと寝転がった。うおお、オレがいつも寝てる下段に……。背徳感がある。つか、そこは畳じゃないですよ。

「翼、彼女いんの。やるじゃん」
「まじうれしげ(生意気)っスよね」

 机の抽斗からゲームとか漫画とか掘り出そうとする。
 でも、制服のシャツがピンと張った。振り返れば、先輩が長い腕伸ばしてつまんでる。

「気ィ遣うな。ん」

 ぽんぽんと水色の敷布を示す。オレのベッドですけど。
 では、と遠慮がちに寝転がる。オレのベッドですけど。
 さすがに男子高校生ふたりだと狭い。先輩の脇腹にぴったりくっつく。……やっぱりオレへのご褒美じゃないか?
 「二段ベッドに寝転がる丈士先輩の姿」は、同クラの人たちでも知るまい。そう思うと、くすぐったい気持ちになる。
 先輩はというと、胸を大きくふくらませた。

「布団、蒼空の匂いする」
「え、クサいっスか!?」
「クサいとは言ってねえよ。よく眠れそ」

 どんな匂いだ。くんくん鼻を鳴らしてみても、自分だとわかんねえ。
 先輩を見上げると、上段の陰で薄暗い中、ただでさえ力のある目が発光して見えた。

「蒼空の推しどれ」

 オレ越しに、襖の真ん中にある「an9el」のポスターを指差す。
 恋バナに持ってける流れ、きた! 澄まし顔で答える。

「箱推しっス」
「右から三人目だろ」
「なんでわかんのや!?」

 あっさり言い当てられた。全教科赤点回避できる勘の持ち主だとしても、1/9だが?

「どの辺が好みなん? 黒髪?」
「えーっと、確かにハイトーンせんし化粧も薄めなんですけど、気品? がヘアメイク代わりになっとる感じがええな言いますか。中国出身のメンバー、特有の雰囲気があると思うんスよ」

 つい、ひそかな推しの華華(ファファ)さまについて語る。
 華華さまは九人の中でいちばん背が高くて、切れ長の目はもはや化粧必要ねえほど綺麗なんだ。

「歳上だよな」
「ハイ。普段兄ちゃんやってっから、お姉様系に惹かれるのかも」
「中学んとき、歳上の彼女とかいたん?」
「やったらよかったんスけど。『讃岐の井上和ちゃん』に儚う失恋して終わりです」
「讃岐の、誰? 聞いたことねえ」
「地元に存在する最高レベルの美人って意味です!」
「ふーん」

 丈士先輩が、にや~って笑った。その八重歯を見て、オレは我に返る。
 何言わされてんだ! 先輩の好みを聞き出してえのに。
 反撃開始。身体を半転させ、先輩の胸筋にのしっとほっぺたを載せる。

「センパイは、どなん子がタイプなんスか?」

 オレは正直に話したので先輩にも話してもらいます。という顔で圧を掛けた。
 先輩の目が、かすかに見開かれる。
 あ。距離近かったかも。先輩後輩ってより兄弟の距離?
 でも、どいたらどいたでわざとらしいよな。意識したせいで、心臓がブレイキン踊り始めちまう。助けて。
 丈士先輩はオレのSOSも知らず、ゆっくり唇を震わせた。

「栄養ありそうなヤツ」

 真顔で打ち明けられる。なるほど、栄養――か。
 って何!?

「アイドルで言うと誰です?」
「アイドル知らね」
「『an9el』の、あのポスターの中やったら?」
「……。いない」
「もー、オレは()っせてあげたのに! あっ、くすぐりへらこい(ずるい)、わひゃひゃ」

 今日の大作戦は、思いっきりはぐらかされて終わった。


 丈士先輩は観光どころかゲームさえせず、オレの部屋でごろごろして、夕飯は自分ん家で食うと立ち上がった。
 田んぼから帰ってた父ちゃんに、軽トラで琴電の駅まで送るよう頼む。
 先輩は二回断った末に助手席に収まった。先輩のタイプ、三回訊けばよかったか。

「こななんでご褒美になったんスか?」
「ん」

 助手席の窓越しに、先輩が力強く頷く。たまには何もしない日が欲しかったのかな。
 ゆっくり発進した軽トラを、オレはなおも追う。

「あの、オレが華華さま推しって、内緒にしてつかさいね。美羽にも英翔(ダチ)にも言うとらんのです。ぜったい『似合わん』って嗤われるけん」
「俺だけが知ってる蒼空のこと、わざわざ他のヤツに教えるかよ」

 先輩はそう請け合った。おお、頼もしい。

「あと、似合わなくねえ」
「え? あ、ざっす」

 生垣の前に出て、小さくなっていく軽トラを眺める。気休めでも優しい。
 好きなタイプはさておき、オレだけが知ってる丈士先輩のこともけっこうあるんじゃないか、って達成感が満ちる。
 ――実際は何にも知らないに等しいってすぐ思い知らされるなんて、予想もしてなかった。