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 人は誰しも赤い糸で結ばれている。

 そんなおとぎ話をよく耳にするが、私は思う。

 結ばれていない人だってきっといるのだと。

 実際、誰とも結ばれずに人生を終える人だって山ほどいる。

 目には見えないからと言うならば、赤いという表現は、まず相応しくない。

 素直に、目には見えない糸とでも言うべきだ。

 そう、人は誰しも、目には見えない透明な糸で誰かと結ばれている。

 透明であるが故に、その糸は目視できない。

 赤い糸なんていうロマンチックなものではないかもしれないし、その人にとっていらない糸、切ってしまいたい糸かもしれない。

 だが、人は誰かと確かに繋がっている。

 繋がってしまっている。

 何本もの糸が地球上には繭のように張り巡らされているのだ。

 目に見えないが故に、知らず知らずの間に私達はそれに従って歩いていくようにできているのだ。

 その糸によって運命は決まっている。

 今、透明な糸の先に……繋がりの先にあるのが自分自身の運命だ。

 だが、それは目には見えない。それを知っているのは

 ──神様だけだ。



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 夏は、いつの間にか近づき、太陽が頭の上でギラギラとしていた。

 アスファルトから跳ね返された日差しは、ダイレクトに私の肌を刺激し、ヒリヒリとした感覚を覚え始めていた。

 大学四年生の夏休み。

 私は、就職強化セミナーの帰り道だった。

 今日で最終日。明日からは、自由だ。

 今のアルバイト先に就職が決まっている私には、ほとんど必要がない情報だったのだが、セミナー参加が必須だったため、この暑くて仕方がない中わざわざ通学し、三日間きちんと参加した。

 自分の家の前に着いた時には、汗が額から噴き出し、髪の毛が顔に張り付いていた。

 その感触が気持ち悪く、とにかくシャワーを浴びたい気分だった。

 「ただいまー」

 シーンと静まり返った一軒家に、なんの違和感もなく、そそくさと入っていく。

 玄関に靴は四足。

 スニーカー、パンプスやヒール、あとはちょっとそこまでのサンダルだけだ。

 そして、全てが二十三センチ。同じ大きさだ。

 「はぁー、すっきりした」

 シャワーを浴び終え、ソファーに座りながらドライヤーで髪を乾かし始める。

 ブワァーという、ドライヤーの作動音だけが、この部屋に妙に響いている。

 髪を乾かし終えた私はテレビをつけ、なにも考えずソファーに寝転がった。

 そして、そのまま寝落ちしてしまった。

 つけたままだったテレビの音で目が覚め、時計を見ると二十三時を回っていた。

 夕ご飯をどうしようかと起きたばかりで、ぼーっとした頭を回転させ、結局買いだめしておいたカップラーメンで済ませようという結論に辿り着いた。よくある流れだ。

 お気づきかもしれないが、この家には私以外は住んでいない。両親も誰もいない。

 二階建ての一軒家に一人暮らしだ。

 この一軒家は、両親が残してくれた最後の贈り物。ローンも全て支払い済みのため、返済しなくてはならないものは何もない。

 両親は、私が中学一年生の頃、交通事故で亡くなった。

 私は、父方の親戚の家に引き取られた。その間、この家はずっと空き家だった。

 とても良くしてくれる叔父と叔母。

 だが、私は高校入学と同時に、我が家のある東京に戻りたいと話した。

 その頃、叔父と叔母と暮らしていたのは、青森県だったため、そこから毎日、東京の高校へ通うことは不可能に近かった。

 志望校を東京にしたのは、我が家に戻りたいと思ったからだ。二人に、なんの相談もなしに勝手に決めた。

 そして、それをしこたま叱られた。自分が百パーセント悪いことは重々承知だったため、ただただ謝るしかなかった。
 
 私を心配し、真剣に怒って悩んでくれる、愛情の塊のような二人だ。反対されると分かっていたため相談しなかったのだが、それが余計二人を傷つけてしまったのだ。

 だいぶ叱られたが、私が心から謝り自分の気持ちを正直にしっかりと伝えると、二人は渋々だったが、条件付きで了承してくれた。

 年に数回は帰ってくることと、定期連絡をきちんとすることが条件だ。

 私は、涙が溢れ出しそうなのを、グッと堪え二回頷いた。
 そうと決まると、通うのはどんな学校だとか、東京は気をつけた方がいいから防犯グッズを買いに行こうなど、いつもの過保護が始まった。二人がやっと笑顔になった。

 さっきの悲しそうな二人の顔を見て、これからはきちんと相談しようと心に決めた。

 ──そして、今に至る。

 きちんと長期休暇には帰省し、定期連絡も入れている。電話やテレビ電話をすると、とても喜んでくれるので、こちらまで嬉しくなる。

 高校から、今通っている大学の費用、私の大事なこの家の固定資産税、そして生活費を、全て負担してくれている。生活費だってそうだ。

 私のアルバイトの給料だけでは、到底生活は成り立たない。私の生活が成り立っているのは、二人のお陰以外の何物でもない。感謝してもしきれない。

 いつもその気持ちを二人に伝えると、照れたように笑う。

 私は、両親を一度に亡くし、周囲から見たら不幸かもしれないが、そんなことばかりでは決してない。


 こんなに温かく素晴らしい二人が傍にいてくれる。



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 セミナーも終わり、やっと夏休み本番に入るため、青森への帰省の予定を立てていた。

 帰省をするにあたり、アルバイトも一週間お休みをもらった。ライブハウスで裏方のアルバイトをしているのだが、その間は大したライブの予定もないため、店長もすぐに快諾してくれた。

 久しぶりの帰省だ。二人に会えることがとても嬉しかった。

 私は、仏壇の前に座り、りんを鳴らし手を合わせた。

 ……ありがとう。

 仏壇の写真には、両親の笑った姿、そしてその間には無邪気な笑顔で映る弟がいた。



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 ──交通事故。今から九年前に遡る。

 あれは、家族旅行に向かう最中の事故だった。

 我が家は、共働きの両親、二つ下の弟、名前は( あら )(  た  )(  ち  )( かげ )

 そして、私。( あら )(  た  )( はつ )(  な  )の四人家族だった。

 家族旅行の予定は、突然決まった。両親が同じ週に、たまたま冬休みが取れたからだった。

 中学一年生の私、そして小学五年生の弟。

 突然の事だったが、弟の柔軟性は今思っても素晴らしいもので、飛び跳ねる程、大喜びだった。

 私は、正直面倒くさくもあったが、滅多にない家族旅行だったため、両親や弟のためにも自分なりに最高の笑顔をつくってみせた。

 共働きの両親。よって、私も弟も鍵っ子だ。

 弟は五年生にしてはしっかりしていて、家事という家事、洗濯も掃除も料理もそれなりこなせる、いわゆるできる男子だった。

 それ( ゆえ )に、モテた……らしい。

 そんな弟と、だいたい二十二時頃までは二人きりで家で留守番をしていた。

 夜更かしができるのは、夜まで親がいない家庭の特権だった。

 二人でドラマを見たり、アニメを見たり、ゲームをしたり、音楽番組を観ながら一緒に歌ったり、そんな毎日を過ごしていた。

 弟は昔から音楽が好きで、適当な歌詞に適当なメロディーをつけては、歌っていることがよくあった。

 私は、いつも料理や洗濯、宿題をしながら、その即興ソングを聴いていたため、ねぇちゃん!ちゃんと聴けよ~!と、よく怒られた。正直、聴いている暇はない。

 そんな感じで、まぁまぁ喧嘩もするが、なんだかんだ仲のいい( きょう )( だい )だったと思う。

 家族旅行に行くのは冬休みに( はい )りたての十二月二十三日からだった。

 九州を一周する計画で、ハウステンボスのイルミネーションがメインイベントとして組み込まれていた。母がずっと見たいと言っていたからだ。

 東京から九州までは車で行くらしい。てっきり新幹線か飛行機で行くものだとばかり思い込んでいた私は、だいぶ驚いた。

 あんなに便利な乗り物があるにもかかわらず、十五時間近くかけてわざわざ行くのかと……考えただけで気が滅入りそうだった。

 一週間の旅行計画のため、家族は出発の日に合わせて、たくさんの準備を始めていた。

 だが、なぜか私は一人だけ風邪をこじらせてしまっていた。

 両親は、旅行を中止して、また次回行こうと言ってくれたが、あれだけ喜んでいた弟のことを考えると、やはり可哀想で、三人だけで行ってきていいよと伝えた。

 確実に混んでいるであろうハウステンボス。カップルだらけであろうイルミネーション。

 それを、考えただけでも疲れて熱が上がりそうだった。

 凄く行きたかったわけでもないため、三人で楽しんできてくれるなら何よりだと思った。

 出発の前の夜、弟が私の部屋にやってきた。

 「どしたの?」

 弟が何か深刻そうに、( うつむ )き加減でこちらを見ているため、私まで緊張してしまった。

 「どした? 風邪移っちゃうと大変だし、明日早いんだからもう寝な?」

 そう( なだ )めるように言うと、弟がぽつりと発した。

 「……俺のせいだよね」

 「……え?」

 言葉の意味が理解できず、聞き返すことしかできなかった。

 「俺のせいだよね? ねぇちゃんが一人で留守番するの」

 一瞬、驚いて止まってしまったが、すぐに思考を取り戻し言葉を返した。

 「違うよ。私がみんなに楽しんできてほしいんだよ。お父さんとかお母さんとか、千陽が楽しんで帰ってきてくれたら、私凄く嬉しいよ?」

 「ねぇちゃん絶対無理してる。体つらいのに無理してる。俺知ってるもん。一人で留守番するのが、どんだけ寂しいか。ねぇちゃんが修学旅行の時すげぇ寂しかったもん」

 ……あぁ、そっか……。そうだったんだ。

 初めて知る弟の想いに心がずきっとした。私は、いつも千陽と二人で留守番をしていたため、一人で留守番をする寂しさを知らない。

 学校からの帰宅も、千陽が先のことはあるが、私が先のことはほとんどなかった。

 なんと言葉を返していいのか分からなくなり、数秒悩んでしまったが、いいアイディアが浮かんだ。

 「じゃぁ、千陽が実況中継してよ! 今、何してますとか……こんなもの食べてますとかさっ! そしたら、私もみんなと一緒に行ってる気分になれるし、千陽と一緒に楽しめるじゃん?」

 私にしてはなかなかの発想だと自分に感心したのは秘密だ。

 弟は、ハッとしたように顔を上げ、とびっきりの笑顔を見せた。

 なぜなら、そういう番組の真似事をすることが、弟は大好きだったからだ。二人でご飯を食べていると、よく私に向かって食リポをしてきた。

 とても下手なその食リポによく笑わせてもらっていた。

 「わかった! 俺、ねぇちゃんのためにリポーターになる!」

 笑顔になった弟を見て、心からホッとした。

 それと同時に、人のことをこんなにも気遣えるなんて、本当にできた弟だなと、姉ながらとても感心した。

 「千陽がモテるのほんとよくわかるわぁ」

 そう、笑いながらちょっとした冷やかしを言うと、うるさいと怒られてしまった。

 「あのね、千陽。もう一回言っとくけど、千陽のせいじゃないからね。千陽は思いっきり楽しんできていいんだよ! だーかーらー……お土産弾んでねー」

 そう、ふざけて笑いながら弟の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 「ありがとう、ねぇちゃん。お土産了解した! そんで完璧なリポーターになってやる!」

 「おう! 楽しみにしてるぞ、弟よ!」

 弟は、やる気満々といった様子で部屋を出ていった。

 弟が部屋を出ていくと、一気に静まり返り、なんだか少し寂しかった。

 たった数秒で寂しくなるのに、これが一週間も続くなんて、考えると先が思いやられた。

 弟の言っていた、一人の寂しさを私は知らない。正直、不安になってしまった。

 だが、たかだか一週間だ。心配するほどのことでもない。同じ日本だ。心配ない。

 そう言い聞かせて眠りについた。

 そして、そのまま家族が出発する当日になってしまった。



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 翌日、お昼頃に目が覚めた。

 熱は、三十七度五分。昨日より下がっていた。

 一階から聞こえる笑い声で、寝ぼけながら家族が旅行に行くことを思い出した。

 十七時頃に出発すると前に言っていた。

 風邪薬に眠くなる成分を含んでいるためか、またすぐに眠くなり、次に起きた時には十六時を回っていた。

 もう、家族が出発する時間だ。

 起きて熱を測ると、三十七度にまで下がっていた。頭の痛みももうほとんどなかった。

 これなら一緒に旅行に行けたなぁ……と、ぼんやり考えていると、誰かが階段を駆け上がってくる音がした。

 そして、その誰かがコンコンとノックをして、私の部屋の扉を少しだけ開けた。

 そこからひょこっと弟が顔を出した。

 「ねぇちゃん、行ってくるよ」

 そう、弟が小声で言ってきたため

 「いってらっしゃい、気をつけてね」

 と、こちらも小声で返した。

 頷き返した弟がソローっと部屋の扉を閉めた。

 先程、両親も様子を伺いに部屋へと来たが、寝ぼけていた私は、何を話したかほとんど覚えていなかった。

 段々と覚醒していく頭の中。それと同時に部屋に静寂が迫ってきた。

 ……なんだか怖い。

 寂しさのあまり、ベッドから立ち上がり、部屋を出た。

 そして、階段を(  お  )りると三人が玄関で靴を履いているところだった。

 「お、( はつ )(  な  )。行ってくるからな。ゆっくり寝てるんだぞ」

 父にそう言われ、小さく頷いた。

 「お土産たくさん買ってくるからね。つらくなったら、ちゃんと連絡するのよ?」

 母にそう言われ、また小さく頷いた。連絡してもすぐに帰ってこられないだろうと、内心とがったものはあったが、精一杯微笑んで見せた。

 「ねぇちゃん、リポーター頑張るからな!」

 そう笑顔で言う、弟の声には張りがあり嬉しかった。

 だが、みんなの笑顔を見る自分の中に、少し寂しさがあり、心臓がチクッとした。

 「じゃぁ、行ってくるね!」

 と、母が言うとみんな手を振って玄関を後にした。

 その瞬間、あの静寂が家全体を飲み込んだ。

 私は怖くなり、そそくさと自分の部屋に戻りベッドへと( もぐ )り込んだ。

 寝よう。

 寝ていれば、そのうちみんな帰ってくる。そうだ、(  ち  )( かげ )から定期連絡が入る。

 大丈夫だ。

 一人じゃない。

 そう言い聞かせている間に眠ってしまっていた。
 


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 頭を重い鈍器で殴られたようなそんな衝撃だった。

 ──家族がみんないなくなった。

 突然、消えてしまった。

 神様は、一度に私から全てを奪い去っていった。私の大事な家族……

 ──全てを。



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 目が覚めたのは、家族が出発して五時間後のことだった。

 もう、すっかり頭の痛みも消え、熱も下がっていた。

 一応、病院でもらった薬は飲んでおいた方が良いと思い、一階へ下りていった。

 その流れで、母が作り置きをしておいてくれたおじやを電子レンジで温めながら、ソファーに座り、テレビを見ていた。

 番組がコマーシャルに入ると同時に電子レンジが鳴った。

 ソファーから立ち上がりキッチンへと( むか )い、熱々の器を服の袖で掴むように電子レンジから取り出した。

 それをリビングへと運び、夕食を食べ始めた。

 テレビの音や食事、なんでもいいから一瞬でもこの嫌な静寂を消したかった。

 さすがに、今は眠気もなく、観ているテレビも面白くない。

 ソファーに寝転がりスマホをいじるが、特にめぼしい情報もなく、すぐにスマホをテーブルの上に置いた。暇をつくりたくない。

 何かしようと思うがやはり思い浮かばない。じれったかった。

 寂しさからくるイライラなのは自分でもわかっていた。情けない。

 自分から一人でも大丈夫だと言っておきながら、寂しくて怖くて( たま )らないのだから。

 そう思いながら、私は目をぎゅっと( つむ )った。
 
 ──嫌な夢を見た。

 真っ暗な闇の中を一人で歩いている夢。

 歩いているようで進んでいるかどうかも分からないような闇。

 その中で一人。無音の中で一人。

 ──一人きりの私。
 
 呼吸が苦しくなり、目が覚めた。いつの間にか、また眠ってしまっていたらしい。ハァハァと乱れた息を整えようと、深呼吸をする。

 怖かった……。

 すぐにでも母の元に行き、怖かったと抱きつきたかった。私は、まだ中学一年生だ。母に甘えたい年頃だ。

 だが、母は今いない。呼吸がだんだんと整い始め、テーブルの上にあった水を少し飲んだ。

 それだけでは足りなかったためキッチンへ飲み物を取りに行った。

 キッチンの暗闇が先程の夢を( ほう )彿( ふつ )とさせ、恐怖心が一気に込み上げた。

 家にある電機という電気を片っ端からつけて回った。家の中が、眩しいくらいの光に満ちた。それだけで、少しホッとした。

 冷蔵庫から飲み物を取り、ソファーに戻った時、家の固定電話が鳴り響いた。



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 固まった身体。

 心臓の音が身体中から警戒音のように鳴り響く。

 脈打つ心臓とは裏腹に、呼吸は停止しているかのようだ。息継ぎができない。

 ──御家族が交通事故に遭われました。

 思考が纏まらず、理解ができない。交通事故ってなんだっけ……なんだっけ……なんだっけ……


 ──あれ? なんだっけ。



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 『もしもし! もしもし!』

 電話から聞こえる切迫した声で我に返った。

 「……はい」

 「三重県中央医科大学総合病院です。御家族が交通事故に遭われました。重症です。一刻を争います。すぐにこちらへこられますか?」

 重症……一刻を争う……なんの話し?

 「えっと……私は……」

 「……あなたは、娘さんですか?」

 「……はい」

 「そうですか。私は、三重県中央医科大学総合病院の救命医師をしております。(たちばな)と申します。スマホの緊急連絡先からご連絡をさせていただきました。免許証の住所には東京都とあるのですが、お住いは東京都ですか?」

 「はい……」

 「そうですか。おいくつですか?」

 「えっと……中学一年です」

 「そうですか。近くに大人の方はどなたかいらっしゃいますか?」

 「いえ……あの、これって詐欺ですか? お金とかないので切ってもいいですか……?」

 自分でも何を言っているんだろうと思ったが、ただただ信じられなかった。 

 「……申し訳ありませんが、詐欺ではありません。信じ難いのは十分理解できますが、今は一刻を争います。話を聞いてください。」

 その声から子供でも理解できた。詐欺ではなく、事実なんだと。

 そこから少しの間、会話が途切れた。なぜか嫌な予感しかしなかった。

 そして、それは的中した。

 「とても言いにくいことなのですが、お父様とお母様はすでに心肺停止の状態です。他の救命医が心臓マッサージを試みてはいるのですが──」

 もう聞こえなかった。何も聞こえなかった。目の前は真っ白で、先はもう見えなかった。

 日本語ってこんなにも理解し難いものだったのかと思うくらいに、頭に入ってこなかった。

 「失礼ですが、あなたには弟さんがいらっしゃいますよね?」

 電話から聞こえてきた弟という言葉で、我に返った。

 そうだ。千陽……。千陽! もう、怖くて何も聞きたくなかった。

 「……」

 言葉が出てこなかった。怖くて怖くて、息をするのがやっとな状態だった。

 「聞こえますか?」

 電話口からの声に、はい……とだけ答えた。

 自分がロボットのようだ。感情が全くない声を、ずっと発している。

 「弟さんは手術を終え、油断はできない状態ですが、今ICUという部屋で眠っています」

 「え……千陽……」

 ──千陽が……生きてる。



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 翌日、私は三重県へと向かった。

 昨日の病院からの電話の後、すぐに父と母が亡くなったと、再び連絡があった。

 父方の祖父母も母方の祖父母も既に亡くなっているため、青森県の叔父と叔母に連絡をした。

 父と母が亡くなったと話すと泣き叫ぶ声が電話越しに聞こえてきた。

 私は、そんな声を電話越しに聞きながらも、特に何も感じなかった。

 動揺を隠せない二人に、私は淡々と状況を伝えた。

 千陽だけは、一命を取り留めてICUに入っているが危険な状態であること。

 そして、明日新幹線で三重に一人で行くこと。

 それを伝えると、叔父と叔母は自分たちの感情を必死に押さえつけながら私を心配してくれた。

 涙声で初凪ちゃんは大丈夫かと、電話越しに尋ねられた。自分達の感情だけで精一杯のはずなのに、私のことまで気遣ってもらって申し訳なかった。

 ほとんどの感情が抜け落ちた私は、大丈夫ですと一言だけ伝えた。

 その後、何かを話したが全く覚えていない。二人の嗚咽混じりの声だけが頭に残っている。

 電話の後、私は部屋で倒れたようだった。

 フローリングに寝そべった状態で目が覚め、身体を打ったような痛みがあった。

 薬を飲んでいたとはいえ、こんなにも衝撃的な出来事が起きても、人は眠る事ができるのだと笑いが出た。頭のどこかのネジが外れてしまったらしい。

 父と母が亡くなったと聞いた時、なぜか涙が出なかった。叔父や叔母と話していても、一粒たりとも涙が出ることはなかった。きっとネジが外れてしまっている。

 感情をどこかで捨ててしまったようだ。

 私は今、ボロボロでガタガタのロボットだ。


 とにかく千陽に会いに行かなくてはと、それだけをインストールされたいつ壊れてもおかしくない壊れかけのロボットだ。



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 新幹線で三重県に到着し、タクシーで病院まで向かった。

 その間、叔父と叔母から連絡があり、後から来てくれるとのことだった。

 母方の叔父と叔母にも連絡をいれてくれたらしく、そちらからも連絡があった。
 
 また、初凪ちゃんは大丈夫かと聞かれ、大丈夫ですとテンプレートのように答えた。

 母方の叔父と叔母は、北海道に住んでいる。

 どちらの親戚も三重県からは遠いため、最初に病院へ到着するのは私以外にはいなかった。

 病院へ到着し、昨日の事故で運ばれた新田の家族であることを受け付けで話すと、担当の医師の元へ案内してくれた。
 そこには、若い背の高い男性が立っていた。

 「初めまして。昨日、ご連絡させていただきました救命医の橘と申します。」

 「あ……初めまして。新田初凪と申します」

 自己紹介を終えると、橘先生は私を父と母の元まで案内してくれた。

 「こちらです」

 ネジの外れた私は、躊躇いもなく霊安室の扉を開けた。そこには、父と母が並んで横たわっていた。

 二人の顔にかかった白い布を( めく )った。

 一日ぶりに見る父と母の顔には、痛々しい傷がたくさんあり、家を出発する時の笑顔はなかった。

 しかし、その二人の顔を見ても、壊れかけの私は泣くことさえできなかった。

 顔を見たら涙が自然に出てくるものだと思っていた。本当に壊れてしまった自分への嫌悪感で息が苦しくなった。

 「一度、出ましょうか」

 そう言う橘先生に、はい……と小さく頷き霊安室から一度出た。そして、どこかの診察室へと案内された。

 椅子に座ると同時に、私は荒い呼吸と戦うかのように言葉を発した。

 「……あの、千陽はどこですか……千陽に合わせてください……」

 呼吸が整わず、ハァハァと息を切らす私に、先生は落ち着いた声でこう言った。

 「息を深く吸って、吐いてみてください。吸って、吐いて。これを、繰り返してみてください。吸って、吐いて……」

 言われるがまま、吸って吐いてを繰り返す。

 すると、段々と楽になり、正常な呼吸を取り戻すことができてきた。

 「……ありがとうございます」

 「いえ」

 橘先生は、一言そう言うと私の前にパックのオレンジジュースを差し出した。

 「どうぞ」

 「ありがとうございます……」

 お礼を一言呟( つぶや )いてから、また同じことを尋ねた。

 「あの、千陽は大丈夫なんでしょうか……?」

 橘先生は、表情を変えずにこう答えた。

 「親戚の方も来てくださると聞いているので、大人の方が来られてから──」

 「会わせてください! 千陽に!」

 自分でも驚くほど大きな声で、先生の言葉を遮っていた。

 「ごめんなさい……えっと……千陽に会わせてほしいんです。お願いします。」

 落ち着いて、もう一度そう言うと、先生はこう言った。

 「今から千陽さんの状態をお話しします。千陽さんは、まだ眠っています。目を覚ますかどうか、今の段階ではまだ何とも言えません。それが今の弟さんの状態です。それでも今、会いますか?」

 「はい」

 迷いもせずにそう答えた。

 やっぱりネジが外れているらしい。完全に壊れたらしい。

 目を覚ますかどうかと言われても涙が出る感覚もない。とにかく、千陽に会いたい。それだけだった。

 「わかりました。案内します。こちらです」

 先生は、立ち上がり診察室を出た。その後ろを、ただとぼとぼと付いていく。

 すると、ICUの文字が見えた。

 「こちらです」

 そこには、たくさんの( くだ )が繋がれベッドに横たわる千陽の姿があった。

 頭には包帯、顔には何ヶ所かガーゼが当てられている。千陽にも、父や母と同様に旅行へ出発する時の笑顔は当たり前ながらなかった。

 「千陽……千陽……」

 身体中の力が抜けた。

 遠のく意識の中で、痛々しい千陽の姿、そして横たわった父と母の姿を思い出す。 

 なんでだろう。なんで……なんで……


 ──なんで、私はここにいるの。



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 目が覚めると、真っ白な天井の下にいた。

 一瞬、自分がどこに居るのかわからなかったが、目線を動かし、辺りを見回すと病室のベッドの上にいるようだった。

 目を覚ました私に気が付き、青森の叔父と叔母が駆け寄ってきた。

 「初凪ちゃん! 大丈夫?」

 とても慌てた様子で、私に問いかけてきたので、またテンプレートで答えた。

 ──大丈夫です。

 叔父は、返事をした私にとても安心した様子で、先生を呼んでくると言い病室を出ていった。

 同様に叔母もほっとした様子で今の私の状況を話してくれた。

 「初凪ちゃんは、疲れて倒れちゃったのよ。先生がすぐに処置をしてくれて、安静にしていればすぐによくなるって」

 手を握りながら話す叔母は、少し涙ぐんでいた。

 「ありがとうございます」

 そう伏し目がちに私が言うと、叔母は首を軽く横に振り、目に涙を浮かべながら微笑んだ。

 すると、病室の扉が開き、叔父と橘先生が入ってきた。私は、自分の腕時計をチラッと見た。

 現在、十五時過ぎ。救命の先生というのは随分働くのだなと今考えなくともいいことを考えていた。

 そして、橘先生に会うのはどこか気まずさがあった。

 「目が覚めてよかったです。あの、すみませんが、少し姪っ子さんと二人でお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」

 叔父と叔母はすぐに了承し病室を出て行ったが、私の頭の中は、疑問でいっぱいだった。何を話すのだろうか、私は話すことなんてないと。

 「あの、話って何でしょうか?」

 そう尋ねると、先生はベッド脇の椅子に腰掛けた。そして、ゆっくりとした口調で話し始めた。

 「新田初凪さん。何も言わずに僕の話を聞いてください。率直に言いますね。あなたは頑張りすぎです。これは、中学一年生が抱えきれる量の問題ではありません。大人を頼ってください。でないと、あなたの身体も心も壊れてしまいます」

 先生の真剣なその表情に、どうしていいかわからなくなった。

 父と母を亡くし、弟は重症。

 確かに、悲惨な状況だ。

 だが、それがいまいちピンときていない自分が、確かにここに存在している。

 意思とは関係なく言葉が溢れ出した。

 「私は、両親を亡くして、弟はあんな状態で……どうして……どうして私だけここにいるんでしょうか。なんで……なんで千陽はあんなに痛々しい状態なのに、私は点滴だけで傷一つないんでしょうか。どうして……どうして私は元気に生きているんでしょうか」

 思っていたことがすらすらと口から出ていく。

 疑問でしかない今の自分の状況。自分で自分の気持ちがわからなかった。

 すると、先生がまた、落ち着いた口調でこう言った。

 「ご家族がどんな状況で事故に遭われたのか、僕にはわかりません。あなたの今の気持ちも、わかるとは簡単には言えません。ですが、弟さんが痛々しいように、僕から見るあなたも、とても痛々しいです。元気なようには到底見えません」

 痛々しい……私が? ピンとこなかった。

 「痛々しいですか? 私。元気ですよ。ほら、傷一つないじゃないですか」

 自分で自分が全くわからなかった。

 「心にも傷はないですか? 痛いところはないですか?」

 先生は、私の目をまっすぐ見てそう言った。

 心の傷? 

 そんなもの、ネジが外れ、壊れた私にはないに決まっている。

 「ないですよ」

 何かが揺れた。身体の中の何かが。どこかが……。

 「本当に? 苦しいんじゃないですか? 息が上手くできなくなるほどに」

 先生の言葉に揺れていく。揺れていくのがわかってしまう。

 認めたくない。

 私は、壊れているんだ。壊れている方が楽だ。

 何も考えなくて済む。でも……でも……


 ──でも。


 「……ないですよ。心なんてないですよ。私、変なんです。壊れてるんです! 泣けないんですよ?」

 感情が荒立っていく。

 自分の言葉の語尾が強くなっていく。八つ当たりのように。

 それでも尚、先生は落ち着いた口調で私へと語りかけてくる。

 「あなたが泣けないのは、現実を抱えきれていないからじゃないですか? 認めたくない程に心が苦しいんじゃないですか? そして、あなたにはきちんと心があります。あなたの今、苦しい場所が心です」

 違う……違う。

 「……う。違う……違う。違う、違う! 違う! 壊れてるの! 全部壊れてるの! 私はっ!」

 ……揺れた。身体の左側。心臓の奥。その奥底。事故の後


 ──心がグラグラと初めて揺れた。



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 私の言葉は、それから止まらなかった。

 「違うんです。ないですよ、心の傷なんて……。だって泣けないんですよ私……涙が出ないんですよ私……。父が亡くなって、母が亡くなって、弟があんな状態になっているのに、涙すら出ないんですよ。おかしいんですよ、私は。ネジが外れて感情がどこにもないんです。どこを探しても見つからないんです。なんで私だけが、ここにいるんでしょうか? こんなどうしようもない私だけがなんで……? みんな。みんな……笑顔で旅行に行ったんですよ。弟も満面の笑みで出掛けて行ったんですよ。なのに、なんで弟があんな状態にならなきゃいけないんですか? 弟は、私に不安な想いをさせないように気遣える子なんです! なのに、なんでこんな……。なんでこんなどうしようもない姉が元気で……あんな良い子が、あんな痛々しい状態にならなきゃいけないんですか! 私なんていなくていいから、ここにいなくていいから、もう生きていなくていいから、千陽を……千陽をどうか助けてくださいっ!」

 止まらない言葉の数々が、自分から勝手に出ていく。

 ハァハァと切れた息。最後に張り上げられた甲高い私の声が、病室にこだましていた。

 先生は、何も言わずに私の話を聞いてくれていた。

 ──ガラガラガラガラッ!

 急に、病室の扉が開いた。

 「初凪ちゃん!」

 叔母が私の元へ駆け寄り、私をぎゅっと抱きめした。後ろには叔父も涙ぐんで立っている。

 「初凪ちゃんごめんねぇ。初凪ちゃんだけに、つらい事たくさん背負わせて、本当にごめんねぇ。つらいよね……泣きたいよね……まだ、中学一年生だもんね……。なのに、叔母ちゃん達、何も気付いてあげられなくてごめんねぇ。本当にごめんねぇ。叔母ちゃん達は初凪ちゃんが、ここにこうして生きていてくれるだけで嬉しいんだよ。だから……初凪ちゃん。一人で抱え込まないで私達を頼ってね?」

 涙ながらに、ぎゅーっと抱きしめられた腕の温もり。そこから、思い出す母の腕の中。

 温かかった。抱きしめられただけで安心した。何があっても味方だと感じられた温もり。

 どこかで外れて、忘れてきてしまっていた私のネジが、徐々に回収されていく。

 一つ一つ、身体の中の決まった場所にはめられていく。

 そして、最後の一つが胸の奥底にはまった。


 ──その瞬間、雪崩のように感情が押し寄せた。



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 「うあぁーーーっ!!」

 とてつもない叫び声と共に、涙が溢れ出して止まらなかった。

 ここが病室だということも気にせずに( わめ )き散らした。

 その間、病室にいた先生や叔父や叔母、誰一人として私の叫びを止めようとはしなかった。

 少しすると慌てた様子で看護師さんが病室の扉を開けた。大丈夫ですかと尋ねる看護師さんに返事もせず、私は喚き散らした。

 数秒後、状況を察した看護師さんは静かに病室を出て行った。

 なんでもいい。

 どうでもいい。

 ここがどこかなんて知らない。

 止まらないんだ。

 涙がただ……ただ、ひたすらに溢れ出して、声を出さないと苦しくて、心が誰かに握りつぶされそうだった。


 そんな私の背中を叔母が優しくゆっくりとさすってくれる。

 温かいその優しさが、背中から身体全体に伝わり、心を握り潰そうとする誰かの手をぐっと止めてくれている。

 しばらくの間、泣き叫んだ私は、段々と平静を取り戻し、涙もようやく止まりはじめた。

 その間に、先生は静かに病室を出て行った。

 やっと気持ちが落ち着いてきた私は、叔父と叔母に嗚咽混じりの声で、ありがとう……と告げた。

 首を横に振る二人の目には、涙が溢れている。優しい二人には、本当に感謝しかないと改めて感じた。

 この二人がいなかったら、私は壊れたままで、こうして泣く事さえできなかった。

 「本当にありがとう……」

 次は、しっかりと目を見て伝えた。

 二人は、涙目で首を横に振りながら微笑んだ。

 そんな私には、二人に伝えた気持ちと同様の気持ちを、伝えなくてはならない人がもう一人いる。

 そう。


 ──橘先生だ。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 「先生、少しお時間いいですか?」

 二時間後くらいだっただろうか、涙が完全に収まり、呼吸も整いはじめ、気持ちが安定してきた頃、先生がもう一度様子を伺いに病室へとやってきたので、呼び止めた。

 私の問いに、大丈夫ですよと一言だけ言うと、先生はベッドの脇の椅子に腰掛けた。

 その時、叔父と叔母は、病室にいなかった。

 そのため、お礼を言うのにちょうどいいと考えたのだが、なかなか切り出せず、沈黙だけが流れてしまった。

 しかし、これではまずいと思い、意を決して話し出した。

 「えっと……さっきは、すみませんでした。大きな声を出してしまって……」

 いえ、と淡々と返す先生の間を掴むのは、自分が平静を取り戻した今、なかなかに難しかった。

 そして、思っていたよりも緊張してしまい、再度沈黙が流れてしまった。

 このままでは、先生がこの場を立ち去ってしまうと考え、私は再び意を決した。

 「あの、ありがとうございました。先生だったから話せたんだと思います。自分の気持ち……。私、電話で先生から両親が危ないと聞いた時も、その後亡くなったと聞いた時も、何も感じなくて……泣けなくて……。ここに来てからも涙が出なくて、あぁ……自分て壊れてたんだなぁと思って……。でも、先生が私に泣くことを思い出させてくれました。本当にありがとうございました。感謝しています」

 先生は、また一言だけ返してくれた。そうですか……と。やはり淡々としている先生に少し笑えてしまった。

 淡々としている。

 いや、しすぎているにもかかわらず、話し出すとなぜか話しやすい、不思議な先生だ。

 「先生ってなんか話しやすいですよね」

 え? と、先生はとても驚いたような反応をみせた。

 「あ、いや……私的には、そんな感じがして……すみません」

 驚かれすぎてしまったため、なぜか反射的に謝ってしまった。

 「あ……いや、こちらこそすみません。話しやすいとか言われたことがなくて……」

 だろうなと内心思ったが、心の内に( とど )めておいた。

 それに私は、そう感じたのだ。

 「なんかあったら言ってください。聞くことくらいなら僕でもできるので……」

 「え? ……あ、はい」

 思わぬ言葉に、一瞬戸惑ってしまったが、とても嬉しかった。

 「いや、なければいいんですが」

 「あります! ……あ、いや。嬉しいです。ありがとうございます」

 思わず声が大きくなってしまい、恥ずかしくなってしまった。

 先生は、はいと一言答えると、また黙ってしまった。

 そんな、たどたどしい私達の会話は、なぜか私を安心させてくれた。

 そんな時、ふと私の頭に( よぎ )った疑問を尋ねてみることにした。

 「先生は、昨日の夜から働いているのに、いつもこんなに長く病院にいらっしゃるんですか? もう、十七時になるのに……」

 何も考えずに、ただの疑問として聞いてしまったのだが、ただのブラックな病院なだけだったらどうしようかと、言ってから後悔した。

 「いや、いつもはいないですよ。朝には帰ります」

 え? では、なんで今いるんだ? と、余計に疑問になってしまった。ブラックな病院ではなさそうだが、なぜ?

 「え、じゃぁ、なんで先生は今いらっしゃるんですか?」

 ぽんぽんと、私の疑問が口から出ていく。

 「あ……いや、心配だったんです。あなたが」

 「え、私が……ですか?」

 先生の答えに驚いた。私のために、わざわざいてくれたってこと? なんで……?

 「昨日、あなたに電話をした時からなんとなくですが気にかかって、あなたが来るのを待っていました。そして……今に至っています」

 「あ、それは……すみません」

 なんとなく悪いと思い、また、つい謝ってしまった。

 すると、そんな私を見て、先生は首を横に振り、真剣な( おも )(  も  )ちでこう言った。

 「僕の両親も交通事故で亡くなりました。妹もだいぶ前に。だから、きっと気になったんだと思います。あなたのことが」


 ──絶句した。


 こんなにも近くに私と同じ境遇の人がいるのかと。続けざまに先生は思いもよらないことを私へ言った。

 「泣けなかったんです。僕も。両親が亡くなったと聞いた時。なぜか涙が出なかった。今、痛い場所がどこだかわからなかった。その時の僕に似ていた気がしたんです。勝手ですが……」

 「あ、いえ。話してくださりありがとうございます。……だから、私……先生に話せたんですね。先生に救ってもらいました。私の心……」

 だからか……と、思った。

 先生の前では、すらすらと自分の気持ちを言葉にできていた。

 どこかで感じるものが人間にはあるのだろうなと思った。

 「両親が事故に遭った時、僕にもいたんです。気持ちを受け止めてくれた医者が。あなたにとって、そんな医者に僕がなれていたなら、少しでもあなたを救うことができたなら、医者になってよかったなと思います。すみません。自分の話ばかりで……」

 ……救ってくれた。私に手を差し伸べてくれた。だから、私は今こうしてここにいられる。

 「先生がいてくれて安心しました。心の底から感謝しています。本当にありがとうございました」

 私が頭を下げると、先生が笑ったように見えた。そして、先生は椅子から立ち上がった。

 「では、失礼します。明日には、帰れますので安心してください。それと、一人で抱え込みすぎないで大人を頼ってくださいね」

 はい、と私が答えると先生は病室を後にした。私は、心に温かいものを感じた。

 先生の不器用な優しさ、叔父や叔母の深い優しさ、この温かさを一生忘れたくないと思った。



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 翌日、私は退院した。

 随分、身体が軽くなったような気がした。

 きっと心が軽くなったからなのだろう。

 亡くなった両親は東京へ搬送されることとなった。

 そして、そのまま葬式になる。

 千陽は青森の系列病院で受け入れてもらえることになっている。

 家族の交通事故の原因は、赤信号であったにもかかわらず、横断歩道に出てきてしまった子供を避けたことによる事故だったと後から聞いた。

 電信柱に車ごと突っ込んだらしい。

 幸いにも、その子供には怪我もなく目撃者もいたため、こちら側が罪に問われることはなかった。

 なんとも、優しさに溢れた我が家の事故の原因らしいなと思った。

 が、私はそんなに優しくはなれない。

 どうして私の家族だけが悲惨な状態になってしまったのだろうか。

 ただ、旅行に出かけて行っただけなのに。何も悪いことはしていないのに。

 返してほしいと何度思ったことだろう。
 だが、それはまた別の話だ。

 一生付き纏うであろう、悲しみと(いきどお)りという私の精神上の話である。

 今は、心の奥底にしまい込んでおこうと思う。

 事故に関する手続きや、葬式、千陽の搬送など、難しいことは、全て叔父と叔母が行ってくれた。

 そのお陰で、苦しく、つらい思いを分散させることができた。橘先生の言った通り、大人を頼ることは大切だと心から思い知った。
 
 病院からの帰り際、先生へもう一度お礼を言いたかったが、さすがにお昼頃だったため、先生はもう病院にはいなかった。

 少し寂しかったが、私はそのまま病院を後にした。

 それから数週間はあっという間で、中学一年の冬休みは、いつの間にか終わっていた。

 そして、私はそのまま青森県へと移住することとなる。


 
 ──それから、約七年後の話をしようと思う。


 
 千陽は、昔から人を想いやれる優しい子だった。

 それ故に友達がたくさんいた。

 よく家にも、友達を連れて来ていた。

 その光景を見ているといつも微笑ましかった。自分の弟が誇らしかった。

 そんな弟が、今は眠ったまま。あれから、目を覚まさない。

 小学五年生だった弟は、もう十八歳になる。

 いつの間にか、あの交通事故から眠り続けて七年が経っていた。いわゆる植物状態というやつだ。

 私は、千陽に植物という言葉を使いたくないため、周りに説明する際には、眠ったままと説明する。千陽が事故に遭い、目を覚まさなくなってから三ヶ月が経ったころ、( せん )( えん )( せい )意識障害と診断された。

 目が覚める可能性は格段に低くなってしまった。

 だが、希望はまだあった。

 私が高校進学のため、東京へ行くのと同時に、一緒に千陽も東京の病院へと搬送してもらった。

 千陽が青森の病院に入院していた頃、私は毎日欠かすことなく見舞いに行っていた。

 東京へ一緒に連れていきたいと叔父と叔母に話した時には、一言も反対されなかった。

 そして、千陽の入院費や治療費なども叔父と叔母が負担してくれていた。

 何も言わずに私達を支えてくれている叔父と叔母。

 感謝してもしきれない程の愛情を注いでもらっている。

 恵まれた環境に私達はいる。

 千陽が眠ったままだとしても、私は千陽が生きていてくれるだけで嬉しい。

 この眠った状態であっても、周りの声は聞こえていると聞いたことがある。

 それに、千陽は反応を示してくれることもある。

 目を少し開けたり、手がピクリと動いたり。
 私は、見舞いに行くと毎日、その日にあったことなどを千陽に話す。

 反応がない日もあるが、たまに反応を示してくれる事が何よりも嬉しかった。

 千陽は、生きようとしてくれている。

 だから私は、いつか千陽が目を覚ました時、自分自身のことがわかるように、叔父や叔母のことがわかるように、そして私のことがわかるように、たくさんの出来事を話す。


 ──いつ千陽が目を覚ましてもいいように。



 ──だが、神様は( むご )い。



 私から本当に全てを奪い去っていってしまう。

 私は、何かしたのだろうか。

 罪を犯したのだろうか。

 なぜこんな仕打ちを受けなくてはいけないのだろうか。

 神様……神様……神様お願いです。千陽を連れていかないで。



 ──千陽だけは……




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 それは突然だった。

 私だけに、強く激しい、そして冷たく痛い、そんな嵐が吹き荒れているかのようだった。

 いや、突然ではなかったのかもしれない。

 頭のどこかでは、わかっていたのかもしれない。

 それを私が信じたくなかっただけだ。

 信じてしまったら事実になる。
 だが事実は、迎えに行かなくともそちら側からやってきてしまった。

 千陽が……



 ──脳死判定を受けた。




 ──脳死とは、脳全体の機能が失われた状態である。回復する可能性はなく、やがて心臓も停止する。





 脳死と、いわゆる植物状態は、全く別物だ。

 脳は、大きく分けると大脳、小脳、脳幹と分かれている。

 植物状態は、大脳だけが働かない状態で小脳と脳幹は働いている状態。

 脳死とは、大脳だけではなく、運動や姿勢の調節をする小脳と、呼吸・循環機能の調節や意識の伝達など生きていくために必要な働きをする脳幹という部分も働かなくなってしまった状態のことである。
 
 なんで……なんで……なんで……。


 ──なんでよっ!!


 
 それは、私が見舞いにきていた時のことだった。

 急に心電図モニターが凄まじい音で鳴り響いた。

 私は、急いでナースコールを押した。

 千陽の主治医が駆けつけ、処置のため私は病室の外へと出された。

 その後、聞かされた病名は


 ──脳幹出血。
 

 ずっと前から、私の目の前には、段々と弱っていく千陽がいた。

 目に見えて、痩せていく。

 そして、併発していく、いくつもの病気。

 弱まっていく自発呼吸。

 わかっていた。理解していた。

 ……つもりだったのだろう。

 脳幹出血を起こすなんて、考えもしなかった。

 いや、考えないようにしていたのだろう。

 千陽は、いつか長い眠りから目を覚ます。

 昔みたいに、また笑う。

 そう思っていた。

 だが、現実はそんなに甘くはない。



 ──脳死。



 自力での呼吸はもう不可能だと言われた。目を覚ますことも、もうない。

 そして、私に迫られた決断。



 ──人工呼吸器。


 
 たくさんのことを調べた。

 調べてきた。

 その中で一つだけ決めていたことがあった。

 私は、人工呼吸器だけは、千陽にはさせたくないと、ずっと思ってきたのだ。

 ずっと。

 延命にしかならない。

 そう、思っていたからだ。

 だが、いざ自分の身に、その事実が突きつけられた時、咄嗟に……


 ──人工呼吸器を付けてください。


 と、口にしている自分がいた。

 自分自身が一番驚いた。

 自分自身の身勝手さに。


 私は、人工呼吸器=延命だと決めつけていたにもかかわらず、いざ自分にその選択が迫られると、何も考えずに決断してしまうのかと。

 そんな自分本位な姉をもった千陽がかわいそうでならなかった。

 千陽の主治医も、少しの迷いもなく決断した私を、本当に大丈夫ですかと、心配した。

 だが、悩んでいる時間もない。誰かに相談している時間もない。

 私は、躊躇いなくこう言った──



 「はい」



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 私は、その後叔父と叔母に連絡をいれた。

 千陽が脳幹出血を起こしたこと。そして脳死判定を受けたこと。

 二人は電話越しで泣いていた。

 ずっと泣いていた。

 泣けない私はなんだろうか。どうして涙が出ないんだろう。

 あれ?

 なんだか似たような経験をした記憶がある。

 そんなことを考えながら、もう一つの話さなくてはならない肝心なことを話した。

 千陽が、気管切開をして人工呼吸器を付けたこと。

 そのことを伝えると、二人に人工呼吸器は可哀想ではないかと言われた。

 頭が混乱してしまい何も言えなかった。

 二人が、私を責めているのではことは十分にわかる。

 だが、自分の早まった決断だったのかもしれない。

 自分のためだけに千陽を……。

 可哀想。

 千陽が可哀想……。 

 そうだ。私のような身勝手な姉をもった千陽が可哀想。



 ──可哀想だ。



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 私は、泣けない。

 涙が出ない。

 そうだ、交通事故の時と同じだ。

 涙の出し方を忘れた。

 千陽が脳死……脳死ってなんだっけ。

 人工呼吸器……それってなんだっけ。

 あれ、私……なにやってんだっけ?

 頭の中の混乱が、中学一年の時の私へとタイムスリップさせていた。

 考えても考えても、答えが出ない。

 私の身勝手で千陽に痛い思いをさせ、ただ生きていてほしいだけなんて話にならない。

 涙なんて出していいはずがない。

 泣けない自分が当たり前だ。

 泣いちゃいけないんだ。

 私が責任を持たないと。

 大人なんだから。

 大人。大人? そうか大人か……。

 私は、もう大人なんだ。

 大人を頼ることは、もうできないんだ……そんなことを考えているうちに、あの時、私が泣けるようになった理由を思い出した。


 ──あの人に出会ったからだ。


 私は、スマホを取りだし、電話をかけた。

 「はい。三重県中央医科大学総合病院、総合案内です」

 「あ、すみません。あの……緊急救命医の橘先生はいらっしゃいますか?」

 「あ、えっと……どちら様でしょうか?」

 電話に出た案内の人は戸惑っている様子で、私へ問いかけた。

 当たり前だ。

 あちら側からしたら、いきなり電話をしてきたと思ったら、名乗りもせずに、聞きたいことだけをそのまま聞いてきたのだから。

 思考が停止したまま、衝動的に行動してしまったことを後悔した。

 電話を切ろうかとも思ったのだが、とりあえず続けてみることにした。

 「昔、家族を救っていただいた者なのですが……」

 内心、ドキドキしながらそう答えると、返答は思ったよりも早かった。

 「承知致しました。お名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」

 「あ、はい! 新田初凪と申します」

 承知致しましたという言葉に、なぜか頭がパニックになり、声が大きくなってしまった。

 「はい。少々お待ち下さいね」

 優しい語尾の後に、電話から( なご )やかなメロディーが流れ始めた。

 そのメロディーを聴きながら私は考えていた。

 大きな病院だ。

 ここには、もういない。

 七年も前だ。

 他の病院へ移動して働いているに決まっている。

 マイナスな思考がどんどん駆け巡っていく。

 そんな中、突然メロディーが途切れた。

 「はい。橘です」

 「え……」

 まさか。まさか……まさか。


 ──まだ、いるの?


 でも、うろ覚えだが声も同じだ。

 電話をかけたのは自分の方なのに、私が戸惑ってしまった。

 「あの……救命医の橘ですが。人違いでしょうか?」

 「あ、違います! ……あ、いや違くないです! えっと、覚えてますか? 私のこと」

 我ながら、気持ち悪い切り出しだなと思ったが、言ってしまったものはしょうがない。

 すると、少し笑ったように言葉を返された。

 「新田初凪さん。ちゃんと覚えてますよ」

 あ、覚えてくれている。

 こんな私のこと。

 それが少し嬉しかった。

 なぜか頑張れるような気がした。

 「ありがとうございます。こんな私のこと覚えてくれていて。……ごめんなさい、もう大丈夫です……頑張ってみます」

 何を言っているんだろう私は。

 電話をかけたのはなぜ? 

 何か言いたいこと、聞きたいことがあったんでしょ? 

 このままでは、きっと私は電話を切ってしまう。

 私は、何をやっているんだろう……。

 「……何かあったんですよね? きっと、僕に何か言いたいことが。あなたの大丈夫は大丈夫じゃない。頑張らなくていい。何かあったなら言ってください。僕でも聞くことくらいできますから」

 ……変わらない。変わらない先生がそこにはいた。いてくれた。

 先生は、私の心の中を読んだかのように私の言いたいことを言葉にしてくれた。

 「大丈夫じゃ……ないです。先生、どうしたらいいですか……私」

 「何があったんですか?」

 何があった……。
 ありすぎてわからない。

 わからない。

 わからないけど、きっと先生なら受け止めてくれる。

 私は、自分なりに一生懸命話し始めた。
 
 「……泣けないんです、私。また、壊れたのかもしれません。千陽が……千陽が……。あの……弟が、脳死判定を受けたんです……」

 また、涙が出ない。

 やはり私は、また壊れたロボットになっていた。 

 先生は、何も言わなかった。

 先生を困らせてしまったと、とても後悔した。電話なんてかけなければよかった。

 「もう大丈夫です。わざわざ時間を割いていただきありがとうございました。では──」

 「初凪さん」

 電話の向こうからワントーン下がった先生の声がした。

 「ありきたりな言葉ですみません。大変でしたね……。今、弟さん……千陽さんはどんな状態ですか?」

 「えっと……。それが……それが。私……私、千陽を傷つけてしまいました」

 「傷つけた? なぜ?」

 言えない。言えない。言えないよ……先生。

 「言いにくいければ大丈夫ですよ。でも初凪さんは、それが原因で今苦しんでいるんじゃないですか?」

 先生は、いつもそうだ。

 私の一歩先を歩いて私の道を開けてくれる。

 「……私……千陽に人工呼吸器を付けるかの選択を迫られて、私は躊躇いないなく、付けてくださいと言ってしまいました。ずっと、ずっとずっと人工呼吸器だけは付けないと決めてきたのに。延命治療はしないと心に決めてきたんです。なのに、それなのに、いざ自分にその選択が迫られた時、迷いもしませんでした。痛いのは、苦しいのは、私ではなく千陽なのに。自分のためだけに生きてほしいなんて。自分が身勝手で、こんな姉を持った千陽が可哀想でなりません。私、千陽を傷つけてしまいました……間違えてしまいました」

 止まらない。

 止まらない自分の気持ち、想いが溢れ出した。

 七年前のように先生には本当の気持ちを話せてしまう。

 しばらくの沈黙が流れた後、先生の声でそれは途切れた。

 「間違ってないと思いますよ。僕は、立場上どちらが正解とは言えません。ですが、あなたが決めた答えは間違いではありません。そのために選択肢があるんです。間違いだったら、もともと選択肢にはありません。どちらも正解だから選択肢があるんです。だから、自信を持っていいんですよ」

 私、私は……。

 間違っていない。

 先生の声は、なぜか私の心にいつも届いてくる。

 自信を持ってもいい。

 「自信、持っていいんですか……私。千陽にいなくならないでほしい。それだけだった私の選択です。それは間違っていないんでしょうか」

 「はい、間違いではありません。あなたが決めたことを誰も責めません。弟さんのそばにいたかった。それが何よりの理由ですよね?」

 「……は、はい」

 私の心を( おお )っていた壁が崩れていった。

 ボロボロと崩れる壁のように、床に涙が落ちていった。


 ──私の目から溢れた涙。



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 私は、嗚咽を漏らすくらいに泣いてしまった。

 電話越しで私が泣いている間、先生は一言も発さなかった。

 電話を切ることもしなかった。

 落ち着きを取り戻した私は、涙ぐんだ声で先生にお礼を言った。

 「ありがとうございました」

 「いえ、少しでも役に立てたならよかったです」

 変わらない。

 変わらない先生がそこにはいる。

 淡々とした先生の声。

 それがなぜか私を落ち着かせた。

 「先生……。先生はいつも私を助けてくれます。先生は、聞くことだけしかできないと私に言いましたが、それが何よりの私の支えです。本当にありがとうございます」

 電話を持ちながら、私は頭を下げた。

 すると先生は、よかったですと一言だけ発した。

 相変わらず淡々としている先生に、少し笑えてしまった。

 「お忙しい中本当にありがとうございました。では、失礼します」

 先生が、はいと答えたのを確認し、私は電話を切った。

 電話の後、身体が軽くなったのを確かに実感した。また、助けてもらった。

 私の失った心を取り戻させてくれるのは



 ──いつも先生だ。



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 その日の夜。

 叔父と叔母にもう一度電話をした。

 頭の迷路のどこを辿っても、ゴールは一緒で、同じ答えに辿り着く。

 間違いじゃない。

 先生がそう言ってくれた。


 
 ──私は、人工呼吸器を付けてでも千陽に生きていてほしいんだ。



 電話に出た叔父と叔母に、正直に自分の気持ちを話した。

 千陽に生きていてほしい。

 だから、人工呼吸器を付ける決断をした。

 自分の決断は、間違いじゃないと思っている。

 だから、受け入れてほしい。

 そう、話した。

 叔父と叔母は黙り込み、少し沈黙が流れた。

 怖かった。とても怖かった。

 もし、可哀想だと言われてしまったら、きっと、また揺らいでしまう。

 また、自分に自信が持てなくなる。

 でも、私は自信を持っていい。間違ってない。

 沈黙の後、叔母は私にこう言った。

 「千陽ちゃんをずっと近くで見てきたのは、初凪ちゃんだもんね。初凪ちゃんが決めた答え。それが正解だよ。千陽ちゃんだって、初凪ちゃんが決めた答えなら、たとえどんな答えだろうと受け止めてくれるよ」

 ……。

 言葉が出なかった。

 叔母の優しすぎる言葉に、私は言葉を失ってしまった。受け入れてくれたんだ。

 私の大好きな二人が私の選択を受け入れてくれたんだ。涙が溢れて止まらなかった。

 本当は怖かった。本当に怖かったんだ。

 二人に受け入れてもらえなかったら、どうしよう。

 そうなったら、私はどうしたらいいのだろうかと。

 でも、二人は変わらず私の味方でいてくれた。

 ホッとした私は、知らないうちに自分の気持ちを正直に話していた。

 「千陽が可哀想……こんな姉をもって。自分のためだけに生きてほしいと思ってしまった姉なんて。今までだって頑張ってきた千陽に、また痛い思いをさせて生きてもらうなんて。でも、生きていてほしい。少しでも長く生きていてほしかったの……」

 止まらない涙が洋服に染みを作っていった。

 「初凪ちゃんは、いいお姉ちゃんだよ。毎日毎日、欠かさずお見舞いに行って、千陽ちゃんのことで涙が止まらなくなるくらいに悩んで苦しんで……だから自信を持っていいんだよ。初凪ちゃんは、私達の自慢の姪っ子で、千陽ちゃんの自慢のお姉ちゃんだよ」

 私が泣いている中、叔母はずっと励まし、優しい言葉をくれていた。

 先生や、叔父や叔母、皆が私の選択を肯定してくれた。

 その日、私は声を上げて泣いた。静まり返る家の中で一人で泣いた。

 ただひたすらに泣いた……泣いた……。



 ──泣いた。



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 ひとしきり泣いた私は、知らぬ間に眠ってしまっていた。

 翌日、わざわざ叔父と叔母が青森から東京まで来てくれた。

 千陽に会いに来てくれたのだ。

 東京駅で待っていた私を見るなり、叔母は小走りで駆け寄ってきて、私を抱きしめ頭を撫でてくれた。その温かさに、また涙が溢れそうだったが、必死に( こら )えた。

 その後、二人と共に千陽の見舞いに向かった。

 普段、私以外が見舞いにくることはないので、千陽も喜んでいるかなぁと少し笑顔になれた自分がいた。

 叔父と叔母が傍にいてくれたことが、とても心強かった。

 元々、たくさんの管に繋がれていた千陽だったが、それに加えて気管切開の術後、また傷とガーゼが増えてしまった。

 痛々しい姿の千陽を、最初はまとも見ることができなかったが、この選択をしたのは、まぎれもなく私だ。このままでは千陽に申し訳がたたないと思い、いつも通り接することを決めた。

 術後の千陽を見た叔父と叔母も、最初は戸惑いを隠せない様子だったが、私がいつも通り話しかけながら、髪を(  と  )かし、手をマッサージしていると、いつの間にか自然な表情に戻っていた。

 三人で笑いながら、千陽に話しかける。


 どこか千陽も笑っているような、そんな気がした。



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 叔父と叔母は、我が家に一週間泊まってくれた。

 朝ご飯から夜ご飯まで共に時間を過ごした。

 食卓を囲みながら、たくさんの話をした。

 いつも私以外この家には誰もいないため、笑い声がこだまする我が家がとても懐かしかった。

 ここに家族四人で住んでいた頃を久しぶりに思い出し、微笑みがこぼれた。

 叔父と叔母がこちらにいる一週間の間に、せっかくなので、私は東京観光へと二人を連れて行った。

 私が青森へ帰省することはあっても、二人が東京へ来ることは、なかなかない。

 東京らしい観光をと考えついたのが、東京タワーとスカイツリーのはしごをするという東京らしすぎるような計画だった。

 私にとっても、いい気分転換だったのだが、何より二人がとても楽しそうで少しうるっとくるものがあった。



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 今は、春だ。


 花や草の香りなのか、春の匂いが鼻を微かにかすめる。

 青森に住んでいた時も毎年感じていたが、東京でも感じるものなのだなぁと、これまた毎年思う。

 二人と共に東京の街中を観光していると、通りすがりに一つの店のスカーフが目に入った。

 淡いピンク色をした薄めの春物のスカーフだ。

 探していたわけではないが見つけた瞬間、千陽に似合うなと直感で思った。

 千陽の首元は、思い出してもやはり痛々しい。少しでもオシャレにしてあげたいと姉ながら思った。

 叔母に、これ千陽に似合うかなぁと聞いてみると、凄く似合いそうと笑顔で言ってくれたため即決だった。

 千陽は、いわゆるイケメンなのか、ピンク色が良く似合う。

 ただの、姉の贔屓目かもしれないので大きな声では言わないが、ピンク色が似合う男性はかっこいいと思う。

 そんなどうでもいいことを考えている時間は、どこか自分にとって幸せな時間だった。

 思わぬ所で千陽へのかわいいプレゼントにも出会い、それに加え二人の最高の笑顔が見られて、私はとても幸せな一日だったと心から思った。

 そして、いつの間にか二人が青森へ帰る日になってしまった。

 タクシーで駅まで送って行ったのだが、駅に近づくにつれて、名残惜しく、寂しい上に、知らず知らずの間に千陽のことでも自分の中に不安があったことに気がついた。

 一人でやっていけるのかと、とても不安だった。

 だが、決めたのは私だ。

 私が不安がっていちゃいけない。そう自分に言い聞かせた。

 すぐに連絡はとれるし、会いに行こうと思えば、いつでも行ける距離だ。

 そうだ。大丈夫だ。

 そう自分に強く言い聞かせ笑顔で別れた。

 そして、その足ですぐ千陽の病院へと向かった。

 病院へ着いたのは十七時頃だった。

 「遅くなってごめんね。叔父ちゃんと叔母ちゃん帰っちゃったよ。また、寂しくなるね……。あ! そうだ、今日は千陽へプレゼントがあるんだよ!」

 私は、買ってきた袋からピンク色のスカーフを取りだした。

 「じゃーん! 見て見て、かわいくない? 絶対、千陽に似合うと思うんだよね! 一目惚れしちゃった! 巻いてみていい?」

 千陽からの反応はない。病室へ入る前に、ナースステーションでスカーフを巻いていいか聞いたところ大丈夫とのことだった。

 「じゃぁ、巻くね」

 枕と首の間から、スカーフをゆっくりと通し、首の横で緩く結んだ。綺麗に喉の手術部分が隠れた。

 「似合う! めっちゃ似合う! やっぱ千陽は、イケメンだわぁ! ピンクがめっちゃ似合う。我ながら良いチョイス!」

 私は、笑いながらそう話しかけた。

 だが、千陽は、動かない。

 千陽のことだから、きっといつものように、ねぇちゃんうるさいと怒っていることだろう。

 首元にスカーフを巻かれた千陽を見て、急にグッと込み上げるものがあった。

 「……千陽、ごめんね。ねぇちゃん勝手に決めちゃって。私ね……千陽がいてくれるから頑張れるんだ。千陽がいるから、生きてられるんだ。エゴだよね。ただの、ねぇちゃんのエゴ。でも、千陽がここにこうしていてくれることが嬉しいんだ。ごめんね、千陽。こんな、ねぇちゃんで……」

 千陽は、何も言わない。黙ったままいつも私の話を聞いている。

 もう、聞こえていないかもしれないが聞いてくれている。

 わかってる。自己弁護なんだ。全て。

 そして、自分が楽になりたいだけの言葉。

 謝っても、もう遅い。

 だったら、私が自信を持たなくてはいけない。

 この選択は間違いじゃないと。

 溢れだしそうな涙をぐっと堪えた。

 「あ、そうだ!マッサージするね。これも新しいアロマオイル買ったんだ!」

 私は、アロマ入りのマッサージオイルを千陽の手に付けた。

 新しいアロマオイルは、穏やかで柔らかな、春の香りがした。

 千陽らしい香りだった。

 ゆっくりゆっくりリンパを流しながら、千陽の手を揉んでいく。

 いつ間にか大きくなった手に、月日を感じた。

 あの頃、小学五年生と中学一年生だった私達にとっての七年は大きいものなんだなぁと改めて思った。

 私より大きくなった手を見て、堪えていた涙が零れ落ちた。

 千陽は、今も頑張って生きてくれている。そう思った。

 その涙が千陽の手へ一粒落ちた。いつもならばきっと動いたその手は……



 ──もう一生動くことはない。




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 千陽が脳幹出血を起こし、人工呼吸器を付けてから一週間が経過した。

 そして、脳死してからも。

 千陽が脳死判定を受けてから、眠れない毎日が続いていた。

 もう、少しの反応も示さない千陽、七年もの間、眠りながら生きてくれていた証のような、私よりも大きくなった手。

 今も私のためだけに生きてもらっている。

 やはり何度自分に言い聞かせても、罪悪感が拭いされない。

 橘先生も叔父も叔母も、私の選択が正解だと言ってくれた。

 誰も私を責めなかった。

 だが、毎日千陽に会う度に罪悪感が大きくなっていく。

 どうしても自分を肯定できない自分がいる。

 そして、いつどうなってもおかしくないと、覚悟をしておいてくださいと、人工呼吸器を付けた時、主治医に言われた。

 わかってる……。

 わかってる。結局は、延命だ。わかってるんだ、そんなこと。

 でも、千陽がいなくなったら……

 そんな時、何気なく歩いていた病院の廊下で、私の目に飛び込んできたポスターがあった。



 ──臓器提供。



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 「千陽。今日は晴れだよ。春の匂いがするよ」

 反応は、当たり前だがない。それでいい。わかっている。

 「千陽は、春が似合うよね。ピンクが似合うからかな? それとも、優しい雰囲気が似てるのかな?」

 私は、そんなことを話ながら、千陽の顔を見つめる。

 首にピンクのスカーフを巻いた千陽。

 そんな千陽を見つめながら、私は頭の中で千陽へ、そして自分へと語りかけた。

 千陽……。

 千陽なら選ぶよね。

 優しくて、人の気持ちがわかる千陽なら、この選択をするよね。

 きっと、選ぶよね。

 ……私。決めたよ。千陽にやっぱり生きていてもらいたい。

 だから、決めたんだ。

 許してね、千陽。自分勝手な、ねぇちゃんを。

 千陽には生きてもらう。

 どんな形でも。千陽……



 ──ドナーになろう。



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 その日、千陽の主治医に臓器提供の意思を伝えた。

 叔父と叔母には、その前日に連絡をした。

 私は、千陽に生きていてほしいというだけで、人工呼吸器を付けてしまった。

 それを皆は肯定してくれた。

 だから、自分の選択に責任を持とうと思った。

 だが、どれだけ頑張って言い聞かせても、罪悪感が拭いされなかった。

 ただの私の身勝手だと。身勝手でしかないと。

 そう思っていた私が出会った答え。思いやりのある優しい、千陽らしい答え。



 ──臓器提供をしたい。



 二人は、泣きながら初凪ちゃんらしい決断だと言ってくれた。

 いや、私は千陽らしい決断だと思っている。きっと、千陽ならこうするだろうと。

 主治医は、わかりましたと深く頷き、すぐに説明に入ってくれた。

 そのくらいに、今の千陽は危険な状態だということだ。そう、受け取った。

 そして、日本臓器移植ネットワークの方と会うこととなった

 二日後、臓器移植コーディネーターという方が移植とはどういうものなのか、ドナー(提供する側)、レシピエント(提供される側)についても、詳しく説明をしてくれた。

 説明を全て聞き終え、気持ちを一旦整理した。気持ちは全く変わらなかった。私は……



 ──千陽の臓器を提供することを決めた。




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 それから、全ての手続きが進み、とうとう来てしまった。

 ──その日。

 叔父と叔母も東京へと来てくれた。

 とても心強かった。

 一人で乗り切れるとは到底思えなかった。

 だが、千陽の臓器提供を決めてから、私の意思が揺らぐことは一度としてなかった。

 最後の日を迎えた今でも私の意思は変わることはない。

 私達は、最後の脳死判定に立ち会うことにした。

 そして、主治医は最後の最後に、二人きりの時間をくれた。

 私は、千陽の手をゆっくりとマッサージしながら、いつものように話しかけた。

 「千陽。今まで精一杯生きてくれてありがとう。痛いのも、つらいのも今日で終わりだよ。ねぇちゃん、自分のために千陽を傷つけてごめんね。あの時、千陽がいなくなったらって考えたら堪らなかったんだ。だから、痛い思いをさせちゃった。本当にごめん。今回の決断もね。千陽ならこうするかなって思った。そう、思ったんだけどね。それと同時に、私がまだ千陽に生きていてほしいって思っちゃったんだ。私の傍にいなかったとしても、どこかで生きていてほしいって。最後まで、自分勝手なねぇちゃんで本当にごめんね。でも、ねぇちゃんね、千陽だったらこうするって、心から思ってるんだ。勝手な思い込みかもしれないけど、思ってるんだ。我ながら優しすぎるくらい優しい弟だと思ってる。私の誇りだよ。千陽は……」

 伝えたいことがたくさんあった。ありすぎた。

 毎日毎日、欠かさず会っていたのに、最後になってこんなに溢れ出るものかと思うくらいに、千陽への想いが溢れて止まらなかった。

 「千陽……。千陽が次に生きる場所はどんなところだろうね。千陽と一緒に生きる人はどんな人だろうね。最低なやつだったら私、絶対許さないからね! いや、千陽と一緒に生きるんだからありえないか」

 ふふっと笑うと、千陽も心なしか笑っているように見えた。

 「お別れだね。千陽。たくさんの思い出をありがとう。優しさをありがとう。……私の弟に生まれてきてくれてありがとう。ほんっとうに大好きだよ……千陽」

 千陽の頭を昔みたいにわしゃわしゃと撫でた。

 きっと昔のように、やめろよーねぇちゃーんと笑っていることだろう。

 涙は、止まることを知らないかのように溢れ出た。千陽の大きくなった手を握り、泣きながら目を瞑った。


 ──千陽がいい人の元で幸せに生きられますように……。
 


 四月二十五日十三時三十分、千陽の脳死判定が終了した。



 そして、すぐに手術室へと運ばれて行った。

 千陽は、心臓だけを提供することになっている。

 私が決めたことだ。

 その心臓を誰が受け取るかを、こちらは知らない。

 同じく提供される側も知らされないことになっている。

 そのため、街ですれ違っても他人同士だ。

 それでいい。それがいい。

 どこかで千陽が生きてくれている。

 それだけで、私の生きる希望となる。

 千陽がいい人に巡り会えますように。千陽を大切にしてくれる人に巡り会えますように。

 それだけが、今の私の願いだ。
 
 数時間後、手術から戻ってきた千陽は人工呼吸器も外され安らかな表情をしていた。



 私の弟は、亡くなった。



 だが、どこかで……誰かの中で生きている。

 誰かのために生きている。

 最後まで、千陽らしい生き方をしている。

 千陽の頬を優しく撫でた。



 今までありがとう……

 ──千陽。




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 それから、千陽は我が家に帰り、お葬式などを終え、父や母と同じお墓の中で眠りについた。

 久しぶりに会う両親と千陽。私は、お墓に手を合わせながら話しかけた。

 「ごめんね。お父さんお母さん。今まで千陽を独り占めにして。これからは三人で楽しく過ごしてね。あ、たまに、私も仲間に入れてね」

 そんなことを話しながら、三人で安らかに眠ってくれることを祈った。

 数日後。青森に帰る叔父と叔母を駅まで見送りに向かった。

 叔母は、帰る直前にまた私を抱きしめ、大好きな温もりをくれた。

 「叔父ちゃん叔母ちゃん。今まで本当にありがとう。二人がいてくれたからやってこられたよ。千陽も二人に凄く感謝してると思う。本当にありがとう」

 私が二人分の感謝を込め、そう伝えると、叔父と叔母は首を横に振りこう言った。

 「千陽ちゃんが幸せに生きてこられたのは、初凪ちゃんがお姉ちゃんだったからだよ。初凪ちゃん、今までよく頑張ったね。初凪ちゃんは、私達の自慢だよ。こちらこそありがとうね」

 叔母は、涙声で私にそう言った。身体の奥底から、込み上げてくるものを今回は抑えることができず、私も泣いてしまった。

 二人を見送り、私は家へと帰った。

 玄関に入った途端、どことなく家が広く感じた。

 私以外の家族が、もう二度と戻らない家。誰一人として。

 そう思った途端、寂しさがとめどなく襲ってきたが、自分に言い聞かせた。

 千陽は生きている。どこかで元気に生きているんだ。

 この家から巣立っただけだと。

 そう思うと気持ちが楽になり、自分の選択は間違いじゃないと思えた。

 私は、そのままリビングのソファーに直行し、スマホを手に取り、電話をかけた。表示画面には



 ──三重県中央医科大学総合病院。



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 数秒後に電話が繋がった。

 「はい。三重県中央医科大学総合病院の総合案内です」

 この間とは、違うような女性の声だった。

 「あ、すみません。あの、緊急救命医の橘先生はいらっしゃいますか?」

 「あ、えっと……どちら様でしょうか?」

 この間と、同じ失敗をしてしまった。

 名乗りもしないで、聞きたいことだけを聞いてしまった。

 考えなしに行動をしてしまう自分が、また恥ずかしくなった。

 「昔、家族を救っていただいた者なんですが……」

 私は、そう自身を消失したような声で答えた。

 「承知致しました。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

 「はい! 新田初凪と申します」

 承知致しましたの返答が嬉しく、つい気がつくと大きな声で返事をしてしまっていた。

 前回とまるっきり同じことをしているようだった。

 いや、していた。

 「はい。少々お待ち下さいね」

 前回の受付の人と同様に優しい語尾を付ける人だった。

 そして、電話からは和やかなメロディーが流れてきた。

 この間の電話から、二週間程しか経っていないにもかかわらず、電話をするんて失礼かとも考えたが、やはり報告しておきたいと思った。

 「はい、橘です」

 「出た……」

 しまった。心の声を口にしてしまった。

 今度こそ、出てくれないのではないかという不安を持ちつつ電話をかけたため、思わず口にしてしまった。

 「出ますよ、そりゃ」

 電話越しから、淡々とした変わらない先生の声がした。私が、すみませんと謝ると、先生はいつも通り一言だけ、いえ……と答えた。

 相変わらずな先生がそこにはいた。

 「すみません。二週間そこそこしか経っていないのに、また電話してしまって……」

 「いえ、大丈夫です」

 そう、答えてくれたが先生は医者だ。

 それに、救命医だ。時間がたんまりある私とは訳が違う。手短に話そう。

 「あの、すぐ終わるので少しだけ聞いてください」

 はい……と、また一言だけ答えてくれた。

 私は、息を大きく吸い込み、ふーっと吐いてから話し始めた。

 「この間は、お世話になりました。先生に話を聞いていただけて、とても楽になりました。ありがとうございました。でも、やっぱり自分自身を肯定できない私がいて、毎日眠れなくて……。そんな時、私の目に臓器提供のポスターが飛び込んできて……あ、これだって思ったんです。優しくて、人のことを想える千陽なら、この選択をするなって。きっと、そうするなって……。なので、千陽は……千陽は……ドナーになりました。どこかの誰かの中で、千陽は今も生きています。千陽の心臓は動いています。やっと、痛みや苦しみから解放してあげることができました。千陽の最後の顔が凄く安らかで、そんな千陽の顔を見て初めて自分の選択は間違いじゃないって自信を持てている私がいました。それは、今も変わりません。私の選択は間違ってないって自信を持てます。それを……なんとなく、先生に話したいなって思っただけだったので、聞いていただいてありがとうございました」
 思ったより長くなってしまったが、伝えたかったことは全てきちんと言えた。先生は、黙ったままで、数秒沈黙が流れた。私が、何か言った方がいいかと考えていると、沈黙を破ったのは先生だった。
 「よく決断しましたね。難しい選択だったと思います。ですが、その選択ができたのは、千陽さんをずっと近くで見てきたあなただったからです。そんな選択をしてくれるような姉を持った千陽さんは、あなたが誇りなんじゃないでしょうか」

 え、私が……誇り?

 私が、千陽に言った言葉だ。

 私の心の奥底までその言葉が沁みた。

 とても嬉しかった。

 嬉しいだけでは表現しきれないほどに、嬉しかった。

 感情が、込み上げた。

 「自分は駄目な姉だって、ずっと思ってきました。昔、弟が一人は寂しいって言ったんです。私は、それまでそんな弟の想いをずっと知りませんでした。それは、私のそばに千陽がいたからです。でも、千陽が事故に遭ってから、病室で千陽はずっと一人だった。罪滅ぼしかのように、毎日欠かさずに通いました。でも、ふと気がつくと駄目な姉を持った千陽が可哀想だって、そればかり考えてしまう自分がいました。それに加えて、痛い思いまでしながら生きてもらって……一人ぼっちにして。酷い姉だなって。でも、今回の決断をした私を今、先生に誇りだって言ってもらえて、とても嬉しかったです。最後の最後に、少しだけいい姉になれてたら嬉しいです」

 涙が一筋流れた。久しぶりの嬉し涙だ。

 「いいお姉さんですよ、あなたは。職業柄、それがどんなに難しい選択かを僕は知っているつもりです。それを、きっとあなたのことだから今回も一人で選択したんでしょう。凄いですよ、あなたは。いつも……」

 涙がとめどなく溢れた。

 ズボンの上にポタポタと落ちて、大きな水溜まりを作っていく。

 「先生は、全部お見通しですね。いつも……。私は、全然凄くないですよ……」

 私は、鼻をすすり、少し笑いながらそう返した。

 そんな私と対象的に、淡々としている先生は、こう言った。

 「いえ、あなたは凄いです。ただ、いつも一人で頑張りすぎです。あなたも、これからは痛みや苦しみから解放されてください。それを千陽さんも望んでいると思いますよ」

 先生は、いつも私を一番に考えてくれる。そんな言葉をいつもくれる。それがどれだけ心強くて、嬉しくて、私に勇気をくれるか……。

 「ありがとうございます。先生……。先生は、いつも、私の一歩先を歩いてくれています。それで、私の歩く道を開けてくれる。私の心の支えでした。これまで、ありがとうございました。これからは、自分で道を開けて歩いていきたいと思います。本当に、ありがとうございました」

 言葉では伝えきれない感謝の気持ちを、私なりに一生懸命伝えた。本当に感謝してもしきれない。

 「僕は、そんなに凄くはありません。あなたが選んで開いた道は、あなたが考え悩み、もがきながら一生懸命開いた道です。……ですが、もし少しでもあなたを支えられていたなら何よりです」

 涙ぐんだ声で、はい……と私が答えると先生が少し笑った気がした。初めて聞いた先生の笑い声。笑い声と言えるようなものではないかもしれないが、なんとなく嬉しくて私も少し笑ってしまった。

 「橘先生。では……失礼します。本当にありがとうございました」

 電話を持ちながら、姿勢を正し、覇気のある声でそういうと、先生はまた笑った。

 「はい。あまり頑張りすぎないように。自分の身体も労わってあげてくださいね。また、何かあったら電話してきてください。話くらいなら聞けますので」

 いつもの先生だ。

 謙遜ばかりする。誰よりも素晴らしい先生なのに。

 そんなことを思いながら、はいと返事をし、電話を切った。スマホをテーブルに置き、息を深く吸い込み、深く吐いた。

 これも先生に教えてもらったことだ。

 ありがとうございましたと、もう一度口にした。

 なんとなく、全てが綺麗に纏まり、終わった感じがした。

 心と身体が初めてすっきりした気がして、外へ出て、再び息を深く吸い込み深く吐いた。

 自分の身体も労わって……か。

 私は胸に手を当て、もう一度大きく呼吸をし、空を見上げた。



 夜になりかけの空は、薄くピンク色に染まり、千陽のように優しい色をしていた。




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 ──そして、現在。


 私は、大学四年の夏を過ごしている。

 千陽がドナーになってから、約二年の月日が経った。

 どんな人がレシピエントかは、いまだに知らされていない。

 当たり前だ。

 提供した側も提供された側も知らされないのが原則だ。

 だが、提供された側、いわゆるレシピエントがドナーの家族に向けて感謝の気持ちなどを伝えるための手段がある。

 それが……



 ──サンクスレターだ。




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 私にある日、臓器移植ネットワークを通じて手紙が届いた。

 千陽が臓器移植をしてから半年後のことだった。

 私は、読もうか読むまいか、とても悩んだ。

 千陽がどんな人の元で生きているかがわかってしまう。

 知らないままでいたい自分と、知りたい自分がいた。

 その日の夜、私は意を決して手紙の封を開けた。

 恐る恐る手紙を読んでみると、温かい文面がそこにはあった。



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 『ドナー様 そして御家族の皆様
 私は、ドナー様の心臓を移植していただきました二十八歳の男性です。私は二十三歳の頃、拡張型心筋症と診断されました。私には夢があり、その頃、私はまさに、その夢に向かって走っている真っ最中でした。ですが、心臓に負荷のかかる私の夢は諦めざるを得ませんでした。それからは、入退院を繰り返す日々で、いつの間にか身体は弱っていき、呼吸もままならない状態になっていました。私が完治する方法は、臓器移植しかないと主治医に言われ、臓器移植ネットワークに登録しました。しかし、心臓を移植していただくということは、誰かの死を待つことで、自分の中の臓器移植への抵抗が拭いされませんでした。臓器移植の希望を取り下げようと思ったこともありました。ですが、諦めきれない夢。生きること。そんな葛藤の中、適合するドナーが見つかりましたと主治医から告げられました。率直にホッとしている自分がいました。これで、また生きられる。夢を追えると。しかし、すぐに不安が押し寄せ、涙が止まりませんでした。私が、臓器提供を受けられるということは、誰かがどこかで亡くなられたということ。その上、その臓器移植の相手が私なんかでよいのだろうかと。自分に自信が持てませんでした。手術日が近づいていくと同時に不安は更に大きくなっていきました。ある日、臓器提供を受けレシピエントになったという方とお話をする機会があり、その方と話しているうちに、私は、はっとしました。その方はこうおっしゃっていました。本来ならば、もうこの世に存在していないかもしれなかった自分がここに、こうして生きていられるのは、臓器提供をしてくださった方がいらっしゃるからなのだと。ならば、その方に恥じない生き方をしなくてはならないのだと。自分が自分自身に自信を持って生きていかなくてはならないのだと。提供してくださった方、そしてその御家族が悩み苦しみながら選んでくださった決断に恥じない生き方をしなさいと。それまで、弱音ばかり吐いていた自分でしたが、この心臓に恥じない生き方をしていきたいと思います。私は、誰かの死を待っていたわけではなく、ドナーとなり臓器提供をして下さった方と共に、もう一度、私の身体で第二の人生を歩んでいく、今はそう考えています。提供してくださったドナー様、そしてその御家族の皆様。私は、夢を叶え、皆様に恥じない生き方をしていきたいと思います。この度は、本当に本当にありがとうございました。 二十八歳 男性より』





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 手紙を読んでこんなに泣いたのは初めてだった。

 千陽の心臓を受け取った人は、元気に生きている。

 それだけで、とても嬉しかった。

 そして、夢を追ってくれている。

 生きることに希望を持ってくれている。

 そして、この文面の中でとても心に響いた文面があった。

 『私は、誰かの死を待っていたわけではなく、ドナーとなり臓器提供をして下さった方と共に、もう一度、私の身体で第二の人生を歩んでいく、今はそう考えています』

 私も考えてしまったことがあった。

 千陽がドナーになるということは、誰かが千陽の死を待っているということだ。

 そんなことを一度考えてしまった。

 だが、そうではない。

 また、その人が千陽と共に生きてくれるんだと。

 千陽の心臓と共に夢や希望を持って生きてくれるんだと、そう思った。

 その考えが、千陽の心臓を受け取った方と同じだと分かりとても嬉しかった。



 その日、私は久しぶりに泣いた。わんわんと子供のように声を上げて泣いた。



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 翌日、私は、書店でピンク色で可愛い花柄の便箋を買った。

 テーブルの前に座り、いざ、書こうとペンを取ったが何から書いていいかわからず、なかなかペンが進まなかったが、とりあえず今の気持ちを書いてみることにした。




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 『拝啓 レシピエント様
 私は、ドナーである弟の姉です。この度は、心のこもった温かなお手紙をいただきありがとうございました。弟は、小学五年生の時に事故に遭い、眠ったままの状態で七年間を過ごしました。そんな弟を毎日見てきて、辛いことや悩んだことが山のようにありました。そんな時に出会ったのが臓器提供でした。私の弟は、とても優しく、人のことを想える優しい子で、姉ながら誇らしく思っていました。そんな弟だからこそ、臓器提供という選択を私はしました。レシピエント様は、今夢を持って、そして生きる希望を持って、弟と共に歩んでくださっている。それが何より嬉しく、手紙を読みながら涙が溢れました。弟は、小学五年生から十八歳まで目覚めることはなく、その七年の間に本当だったら楽しい思い出やたくさんの経験をするはずでした。ですが、それができなかった。させてあげられなかった。それだけが、心残りです。なので、レシピエント様には、その分楽しんで生きていただきたいです。弟にたくさんの楽しい経験をさせていただきたいと思っている次第です。勝手なお願いで申し訳ありません。このお願いは姉のエゴです。弟と共に生きることを重荷に思わず、共に楽しんで、何より笑顔の溢れる毎日をお送りください。それが、ドナーの姉である私の願いです。これからも元気にお過ごしください。そして、レシピエント様の夢が叶いますように。ドナーの姉より』





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 何とか書けた( つたな )い文面。

 思いのまま書いたような手紙になってしまった。

 五時間かけて書いた手紙。

 少しでも私の想いが伝われば嬉しいと思った。

 最初は、ただ、それだけだった。

 それが……まさか……



 ──二年経った今でも文通のように続いていた。




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 大学四年の夏休み。


 青森へ帰省する前の週、またレシピエントの方から手紙が届いた。

 もちろん、臓器移植ネットワークを通じてだ。

 毎回、同じ雲柄の空色をした便箋で手紙を送ってくれる。年に三回程度のやり取りだ。

 前に千陽の誕生日を、聞かれたことがあった。

 私は、四月の十二日だと手紙に書いた。

 すると、次の手紙に『私には誕生日が二回あります。弟さんのお誕生日と私自身の誕生日です』と書いてくれていた。

 毎年、同じように祝っても良いかを聞かれ、こちらこそ喜んでと手紙に返事を書いた。

 それからは、毎年千陽の誕生日を祝ってくれている。

 そのため、毎年四月には必ず手紙が届く。

 今年で誕生日レターは、二通目だ。

 先週、届いた手紙は暑中見舞いを兼ねた近況報告のようなものだった。

 元気に過ごしていること、体調に変わりがないこと、そして何より夢に近づいていること。

 そんな、今の状況を教えてくれた。

 最初は、千陽がどんな人の元で生きているのか、知りたいようで知りたくない、そんな気持ちだったが、最近は、色々な近況を知れることが何より嬉しかった。

 千陽が元気に色々な経験をしているということだ。今まで、できなかったことを一つずつ、着実に……。

 それが嬉しかった。

 ただ一つ、夢がどんな夢かは教えてもらっていないため、少し気になっている。

 だが、そこまでは踏み込めず、毎回夢という言葉で片付いてしまう。

 千陽は、どんな未来を辿るのだろうか……そんなことを考えている時間が幸せだったりもする。

 微笑みが漏れている自分に気が付き、ハッとして両頬を手で軽くパンパンと叩いた。

 私は、これからアルバイトだ。

 これを二日間終えれば、アルバイトとは一週間さようならだ。

 そんなことを考えていたら、また微笑みが漏れてしまったため、先程と同じくパンパンと両頬を叩いた。

 「切り替え、切り替え。よし!」

 私は、都内の少し有名なライブハウスで裏方のアルバイトをしている。

 裏方といっても、照明やカメラマンといった役割ではなく、バーカウンターでドリンクの用意をしたり、入退場の誘導をするという、接客のような裏方だ。

 今日の出演者は、その界隈では名の知れたバンドらしく観客が多い。

 そのため、今日の私の仕事は、めずらしく出演者の誘導係だった。普段ならばないことなのだが、人気のある出演者の時は割とそうなる確率が高い。

 なぜなら、私はバンドやらアイドル、タレントなどそういった( たぐい )のものに一切興味がないからだ。

 そういうアルバイトの方が何かと都合がいいらしい。

 どんな有名な出演者が来ても同じ仕事を同じように、私情を挟まずにこなせるからだ。

 私は、九年間ずっと千陽のことばかりを考えてきた。

 中学一年からずっと。

 一番そういったものに興味がわく年頃にもかかわらず、私は千陽が一番だった。

 だからといって、学校で浮いたことや流行りについていけなかったということもない。

 それなりに知識を身につけ、なんとなく上手くやってきた。
 そして、千陽のことを一番にしていた自分を決して恥じることはないし、後悔したことも一度もない。

 いや、ある意味、得をしている。興味がない分、少し給料の高くなる出演者の誘導係ができるのだ。

 コミュニケーション能力が高くないのがたまに傷だが、給料が高いのは何よりだ。

 そんなことを考えていたせいか、また顔が緩んでしまっていた。

 バーカウンターの奥から店長にじっと見られていたことに気づき、私は愛想笑いをしながらそそくさと舞台裏に逃げた。

 何度も言うが、今日の仕事は出演者と接する仕事だ。

 そのため、出勤時間が早かった。

 いつもならば、開場の二時間前などに到着していればよいのだが、今日はお昼からの出勤だった。

 早めにリハーサルを開始するバンドのようで、他のバンドの時よりも集合時間が早かった。

 舞台裏を覗いてみると、たくさんの人が( せわ )しなく動いていた。

 私がすることは、というと……楽屋はこちらです、これからリハーサルになります、こちらが立ち位置です、こんなような案内だ。

 だが、この案内係は名ばかりで、基本的にはその事務所のスタッフだけで完結してしまう。

 よって、結局は誰にでもできるような雑用係だ。

 私は、バンドの方々が来るまで暇だったので、壁に背をつけ、段取りの用紙を見つめていた。

 「やること少なっ。私じゃなくてよくないか? いや、私だからやるのか」

 自問自答が声に出ていた。

 通りすがる女性に冷ややかな目で見られてしまった。

 「そうだ。よくないよくない。やる気を持って働かないと!」

 よし! と、手のひらを握り、気合いを入れた。

 「『affectionate』様、入りまーす!」

 裏口の方の廊下から、写真に写っていた四人組が歩いてきた。

 マネージャーが先頭を歩き、その後ろを付いていく四人。

 写真だけを見た私は、少し人気があるからって、きっと偉そうな人達なんだろうなと内心偏見を持っていたのだが、全くそんなことはなく、一人一人に会釈をしていくような礼儀正しい方々だった。人は見かけによらないという……いや、失礼なことを言ってはいけない。

 だが、ここでアルバイトをしている私は、いくつものバンドやアイドルなどを見ている中で、有名で人気があるわけでもないのに、( おご )り高ぶっている人達を何人も見てきた。

 その度に、こういう人は売れないんだろうなと心の中で思っていた。

 しかし、この人達は全くの逆だった。

 人気があるにもかかわらず腰が低い。やはり、こういう人達が上に行くのだなと確信が持てた。

 私の前を通り過ぎる瞬間、その中の一人と一瞬目が合った。

 背が高く、黒のTシャツにジーパンで、前髪は長め。

 いかにもバンドマンという感じだったが、驚いたことに、私にまで会釈をしてくれた。明らかに歳下の私にまでだ。

 一瞬フリーズしてしまったのだが、慌てて姿勢を正し挨拶をした。

 そして、結果全員が、私にまで会釈をしてくれた。

 「凄いな……」

 そんなことを呟いた私に、隣の女性からの冷ややかな目線が注がれていた。

 さっきも、私をそんな目で見ていた人だと気が付き、頭を少し下げ足早にその場から逃げた。

 私は、独り言が口に出てしまうタイプだと初めて知り、気をつけなければならないと思った。

 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、壁に張り出されていた、今日のポスターが目が止まった。

 「affectionateか……あの背の高い人は、真ん中の人か……。ボーカルかな?」

 ポスターを見つめながら、頭を傾げていると横から突然話しかけられた。

 「なーぁにー? 好きになっちゃった?」

 四十代くらいの女性だった。

 そして、全く知らない人だ。私は、戸惑いながらも返事をした。

 「いや、素晴らしい方々だなぁと思いまして……。一人一人に会釈をして、明らかに歳下の私にまで……」

 「あぁ、凄いわよね! affectionateは! 私も何ヶ所かで同じように裏方やってるけどaffectionateは、毎回そうだもの! 何でも真ん中の?なんとか君の意向らしいわよ。誰にでも感謝を忘れないって。凄いわぁ! じゃぁ、頑張ってね!」

 それだけを話し女性は去って行ってしまった。

 明るい人だが、急に話しかけられてためとても驚いた。

 だが、コミュニケーション能力が高いとは、あのような人のことを言うのだろうと思い、率直に見習わなければならないと思った。

 先程も言ったが、私は自慢じゃないがコミュニケーション能力が低い。

 極力、人と話したくはない。

 面倒くさい上に、緊張しいで話すことが苦手だ。

 だが、それでは駄目だと最近思い始めている。

 それは、少し時間のかかる問題のため置いておくこととして……先程の女性、肝心な所を覚えていなかったな。

 なんとか君とは……。

 「ちょっと、そこのあなた! 何突っ立ってるの! そこの差し入れ、楽屋に置いといて! あ、それと付箋に適当なコメントも添えといて! よろしくね!」

 「あ、はい! 了解しました!」

 凄い勢いで後ろから注意されてしまった。

 まずい、すっかり自分の仕事を忘れてしまっていた。

 とりあえず今、頼まれた仕事をやらなくてはと、近くのテーブルで、付箋に適当なコメントを書いた。

 どこの何のお菓子か、何のゼリーかなど。

 見れば分かるだろということも一応書いた。

 前に、何も書かずに差し入れだけを楽屋に置いていってしまったことがあり、スタッフに叱られてしまった。

 どこの何のお菓子かを書け。

 そして、ご自由にお召し上がりくださいくらい書けないのかと。

 それからは、全てを書くようにしている。

 お召し上がりくださいは分かる。

 確かに書くべきだった。反省して、以後気をつけようと思った。

 だが、何度やっても、説明文は要らないだろうと思う。

 見れば分かることだ。

 が、言われた通りにやる。それが仕事だ。

 そして、これを楽屋に持っていく。それも、私の仕事だ。面倒くさいが仕事だ。

 給料をいただいている限りやらなくてはならない。

 「はぁ……行くか」

 私は、四箱の焼き菓子やゼリーなどを両手に抱え、歩き出した。

 前が見えるかギリギリのラインで、前や下を注意しながら歩く。

 忙しなく歩く周りの人を避けるようにしながら、楽屋前まで一歩ずつ歩いた。

 「失礼します……こちら差し入れになります。皆さんで召し上がってください」

 楽屋に無事に到着し、テーブルの上に、抱えてきた箱達を一旦置いた。

 そして、横に四つ並べていく。

 焼き菓子、ゼリー、プリン、シュークリーム……しかしながら、甘いものばかりだなと、どうでもいいことを考えながら置いていく。

 「お疲れ様。重かったでしょ?」

 楽屋にいた二人のメンバーの内の一人に話しかけられた。

 「あ、いえ。仕事なので」

 可愛げのない答えに、当たり前だが沈黙が流れた。

 「すみません。失礼します」

 気まずさに耐えきれず、足速に楽屋を出るしかなかった。

 私は、きっとこの仕事に向いていないのだと思う。コミュニケーショ能力が低すぎる。

 自分の駄目なところが、一瞬でグサグサと刺さりだし、心が痛かった。

 ……いや、落ち込んでいる場合ではない。まだ、仕事の最中だ。とりあえず、頑張ろう。

 楽屋の前で、スイッチを切り替え、手をグーにして気合いを入れた。

 そして、ふと顔を上げると楽屋に貼られたバンド名が目に入った。


 affectionate……affectionateってなんだっけな。



 ──affectionate



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 私は今、上手の方からライブを鑑賞している。

 そのライブも佳境に入り、盛り上がりが最高潮に達していた。

 役目が特に無くなった私は、静かにライブを眺めていた。

 色々な曲があるなぁ……と、毎回思う。

 バイト中、仕事をしながらたくさんの曲を耳にするが、意味不明な曲や、ただただ激しいだけの曲、多種多様な曲があり、多種多様なファンがいる。

 人間とは、こうしてなりたっているのだなぁとしみじみ感じる。

 このバンドの曲には英語が多く、何を言っているのかさっぱりわからないが、ファンからしたらそれもそれでかっこいいのだろう。

 そんなことを考えながら、ここにいてサボっていると思われてしまったらまずいと思い、舞台裏に戻ろうとした時、私の耳にズンっ! と響いてきた曲があった。


 「……え、あれ? なんだっけこれ」


 耳に受けた、いや脳に受けた衝撃で、また独り言が口から出てしまっていた。

 「これはね、affectionateの人気曲で! なんて言ったかしら? 忘れちゃったわ! 横文字が多いのよね!」

 また突然、先程の四十代くらいの女性が横に現れた。

 いつも突然、現れるためビクッと驚いてしまう。

 そして、肝心な所をまた覚えていない。

 「あ……えっと、聴いたことあるような気がして……。なんででしょうか……?」

 「あー、何かのタイアップかなんかだったんじゃないかしら? ほら、コマーシャルとかアニメとか……色々あるでしょ?」

 ……そっか。そうだよね。人気バンドなんだもんね。

 きっと、テレビか何かで聴いたんだ。

 うん、きっとそうだ。

 なんだか心にモヤっとしたものを感じたが笑顔で返した。

 「そうですね。きっと、どこかで聴いたんだと思います。ご丁寧にありがとうございます」

 私は最後にニコッと笑い、舞台裏へと向かった。

 違う……違う……何かが違う……。

 全部じゃないけど、私は知っていた……。

 昔から──



 ──あの曲にとても似た曲を。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 ──約十年前


 「ねぇちゃん! ねぇちゃん! めっちゃいい曲できた! 聴いて聴いて! 俺史上一番いい曲!」

 あー、また始まった。千陽のワンマンライブ。

 毎回毎回、俺史上と言って、次回曲も俺史上のため俺史上が上回り続けている。

 その自信を少しだけでも分けてほしいものだと思いながら、適当に頷いた。

 「ねぇちゃん! ねぇちゃん! それでは、聴いてください──」

 『♪ジャカジャカジャカ! ララ! ジャカジャカジャカ! ララ──』

 あれ……?

 今回のメロディー好きかも。

 意味不明な歌詞は置いといて、私好みなメロディーだ。

 「千陽。千陽!」

 私は、一旦千陽のワンマンライブを止めた。

 「なんだよ、まだ途中なのにぃー」

 「いや、なんか……めっちゃいいよ。その曲。録音するから、もっかい歌って」

 とても好きな曲調だったため、録音しようと携帯を準備した。弟が目に見えて照れているのがわかる。

 「早く早く」

 そう、急かすと照れた赤い顔をして頷いた。

 「しかたねーなぁー」

 私は、録音ボタンを押した。



 ──♪ジャカジャカジャカ〜ララ〜ジャカジャカジャカ〜ララ──



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 熱気に包まれたまま、affectionateのライブが終了した。

 舞台からはけてくる、四人のメンバー。

 ありがとうございましたと、メンバー一人一人がスタッフ一人一人に会釈をしながら去っていく。

 やはり、礼儀正しい方々だ。

 そんなことを思っていると、またボーカルのなんとかさんと目が合ってしまった。

 私は、緊張して固まった。

 きっと、この人は一般的に顔が整っているというのだろう。目鼻立ちがハッキリとしている。

 前髪でほとんど見えなかったリハーサル前とは違い、今はオールバック気味の髪型になっているため、顔がよく見えた。

 固まってしまった身体と思考を戻し、慌ててお辞儀をし、顔を上げた。

 すると、ボーカルのなんとかさんは、小さく笑い、目の前から去っていった。

 その間、私の呼吸は止まっていたらしく、緊張が解けた途端、空気を求めるかのように、ハァハァと息継ぎをした。

 緊張した……あれ、なんか笑われた? なんかしたっけ私…。

 息を整えながら、そんなことをぽやっと考えていると、店長に声をかけられた。

 「おい、そこの恋する大学生」

 「……はい? それセクハラですよ」

 そう真顔で答えると、ごめんごめんとおちゃらけて笑った。

 いつもこの調子で働いている。

 「で、なんですか? なにか仕事ですか?」

 「あ、そうだ。affectionateの皆さんに壁にサイン書いてもらっておいて」

 「え、まだ明日あるのにですか?」

 「うん、確実に書いてほしいからさぁー、まぁ明日でも今日でも変わんないじゃん?」

 いや、きっと書く方の気持ちが違うのではないかと思ったのだが、特に反論はしなかった。

 仕事のため、上司命令は絶対だ。

 「あ、はい……。わかりました」

 「じゃ、よろしく〜」

 そう言って店長は去っていった。

 ここのライブハウスには、サインを書く専用の壁がある。

 今までに、出演してくださった方々のサインがたくさん書いてある。

 そこにサインをしてくださいと、頼めという店長命令だった。

 一番嫌いと言っても過言ではない仕事だ。

 コミュニケーションを取らなくてはならない仕事。ストレスだ。
 
 しかし、それではまずい。来年からは、ここに正社員として雇われるのだ。

 これくらいの仕事は、難なくこなせなければ。

 そう言い聞かせながら歩き、楽屋の前に到着した。

 肩の力を一度抜き、気合いを入れ直し、楽屋の扉を二回ノックした。

 「失礼します。From TOKYOの新田初凪と申します。恐れ入りますが、お手隙の際に壁にサインをお願いしてもよろしいでしょうか?」

 四人の誰の顔も直視しないよう、一番後ろの壁に向かって言葉を放った。

 すると、ギターのなんとかさんが少し笑いながら私に話しかけてきた。

 「すげぇ、ガチガチに緊張してるねぇ、君」

 「あ、いえ……」

 早速、バレてしまった。

 いや、それより名前を覚えていないのは、さすがにまずい。楽屋を出たらきちんと覚えよう。

 「あの。今、時間あるんだけど今でもいいですか?」 

 「えっ、あ……。あ、はい! よろしくお願い致します」

 急にボーカルの人に話しかけられ、ビクッとしてしまった。

 そして、また微かに笑われた。

 こちらですと案内しながら、私は最初に渡された用紙を急いで( めく )っていた。

 メンバー名を探し、すぐさま覚えなければならないと思ったからだ。

 何か話を振られた時に、名前もわからず、返答できなかったりでもしたら話にならない。

 就職だって、取り消しになってしまう可能性だってある。頭が、悪い方に悪い方に進んでいく。

 これからは、きちんと最初に覚えておこうという教訓になった。

 複数枚の用紙から出演者リストをようやく探し出し、名前を確認していく。

 『ボーカルが(ひいらぎ)( さく )(  ら  )さん、ギターが五十嵐藍( あい )さん、ベースが三浦駿( しゅん )( すけ )さん、ドラムが長谷川琉(  る  )(  い  )さん』

 ……難しい名前ばかりだな。

 私は、頭の中で呪文を唱えるように繰り返し繰り返し名前を叩き込んだ。とりあえず、苗字だけでも。

 柊……五十嵐……三浦……長谷川……。繰り返し繰り返し唱える。

 よ、よ……よし、覚えた。

 「こちらになります。この辺りにサインをよろしくお願い致します」

 私は、なんとか名前を覚え、そのままサインの壁までたどり着いた。

 「ここに全員分でいいですか?」

 「はい、よろしくお願い致します。あ、もし可能でしたら、メッセージなんかも少しいただけると、とてもありがたいです」

 最後に精一杯の笑顔をつくった。店長によく言われる。

 メッセージがある方が、ファンが喜ぶ上に、箔が付くと。個人的にサインをいただけるだけで何よりだと思うのだが、一応頼んでみた。

 来年からの正社員に向けての自主練だ。

 「あ、全然いいですよ。なんて書こうかなぁ……」

 ありがたかった。

 ここで、嫌ですと言われていたら、私は一生コメントを頼むことができなくなっていた事だろう。

 そんな、ボーカルの柊さんは楽しそうにペンを手で回しながら考え込んでいる。

 きっと、ファンはこのギャップにやられてしまうのだろう。

 ライブ中とは全く違う表情をしている。

 「俺達も書いた方がいい?」

 ギターの五十嵐さんに聞かれ、ぜひよろしくお願いしますと頭を下げた。

 「できた!」

 数分後、柊さんの元気な、ハツラツとした子供のような声が響いた。

 どうやら、サインとメッセージが一番に書き終わったようだった。

 私は、そのサインとメッセージをSNSにアップしなくてはならないため、スマホを取り出し、カメラのマークをタップした。

 そして、目線を上げ、サインとその下の三行のメッセージを見た。


 え……あれ? この字……私、この文字……



 ​───知ってる。



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 私は、いつもの倍以上の速さで歩き、電車に乗り、猛ダッシュで帰宅した。

 昔の携帯を探し出す。初めて買ってもらった携帯。

 ピンク色の携帯だ。あれに、入ってる。絶対に入ってる。

 しかし、約十年も前だ。

 どこにしまってあるかもわからずに部屋中のありとあらゆる場所を掻き回した。

 そして、やっと見つけた。

 「あった……!」

 薄汚れた、ピンク色の携帯が引き出しの奥から出てきたのだ。

 すぐさま充電器を差し込み、充電を開始する。ありがたいことに、まだ生きてくれていた携帯。

 充電中の印の赤いランプが点灯している。

 「あとは、手紙……手紙……!」

 手紙は、すぐに見つかった。

 恐る恐る、一番新しい暑中見舞いの手紙を開く。

 そして、SNSにアップするために先程撮ってきた写真をフォルダから開いた。

 心臓が脈打ち、身体全体を揺らしているのがはっきりとわかった。
 


 ──同じ文字だ。



 癖のある字。

 跳ねに力がこもっていて、払いは勢いよく払われた繋げ字で、飛び出さなくてもよいところが勢いで飛び出している。

 同じだ。

 同じ文字だ。

 柊さんのメッセージの文字と、サンクスレターの文字は、誰が見ても疑問を抱かない程、全く同じものだった。



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 いつの間にかピンク色の携帯に緑色のランプが点灯していた。

 私は、携帯の充電がフルになるまで、フリーズ状態でソファーに座っていたらしい。

 柊さんが……千陽のレシピエント……?


 ──ありえる。



 二年前、千陽はドナーになった。私は、affectionateについてインターネットで調べた。

 そして、休業していた時期があることを知った。

 affectionateが休業していた時期と全てが重なった。休業理由は、明らかにされていない。

 ぐるぐるぐるぐると同じことばかりを考えてしまう。誰に聞いても教えてはもらえないが確実にそうだ。

 これは、同じ文字だ。

 充電がフルになったピンク色の携帯に急いで電源を入れ、ボイスレコーダー機能を探した。



 ボイスレコーダー、ボイスレコーダー……──あった。



 題名には、『千陽 いい感じの歌』と適当な名前がついていた。

 私は、そのまま震える指で再生ボタンを押した。


 ……やっぱり。やっぱり、そうだ……。



 ──同じだ。



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 さっきの、私の耳を貫いてきた曲と似ている。

 似ているどころではない。そっくりだ。

 当たり前だが、affectionateの曲は全てができあがっていて完璧な曲だったが、それの原型がここにある。

 この携帯に確かに入っている。

 私は、名前のわからないaffectionateの、あの曲を必死に探した。

 一曲一曲再生していく。

 違う……これも違う……。

 ほとんどが英語の曲名な上に、歌詞も英語ばかりで段々と似たように聞こえてきてしまう。

 だが、あの曲だけはイントロできっとわかる。絶対にわかる。

 耳が覚えている。あの貫いていく感覚を。グワッと何かが込上げる感覚を。


 ……あ……これ。……これだ。



 ──見つけた。




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 ソファーからずれ落ちるのでないかと思うくらいに力が抜け放心状態だった。

 エンドレスでかかるaffectionateの同じ楽曲。歌詞は、全てが英語で何を言っているかさっぱりだが、やはり同じ曲だ。

 発売日は一年前。

 心臓が移植された後だ。

 それに、二年前になぜかバンド名は改名されている。改名理由は明かされていない。



 ──affectionate 【愛情深い、愛情のこもった】



 あの曲は、千陽の即興ソングの中で、私が唯一好きだった曲。覚えている曲。

 わかってしまった。気づいてしまった。


 確実に、千陽の心臓は……レシピエントは……



 ──(ひいらぎ)( さく )(  ら  )さんだ。



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 私は、ピンク色の携帯を握りしめながら、泣いた。

 ただ、ひたすらに泣いた。

 私、千陽に会ったんだ……千陽に会えたんだ……。

 嬉し涙と、なんだか切ない涙が入り交じり、感情がごちゃ混ぜな涙が知らぬ間に流れていた。

 そして、そのまま疲れて眠ってしまっていた。

 目が覚めたのは、翌日の朝方六時だった。

 日も昇り、カーテンの隙間から光が差し込んでいる。

 ソファーで寝てしまったせいか、身体がカチコチに固まりとても痛い。

 大きく伸びをして背筋を伸ばした。伸ばしながら、今日のバイトのことを考えた。

 「……え、あ、そっか! そうだ! 今日も千陽に会えるってことじゃん!」

 信じ難い事実に頭がパンクして、affectionateのライブが二日間あることをすっかり忘れてしまっていた。

 思い出した途端に、なんだか急に緊張してきてしまった。

 今日もお昼頃に出勤のため、家を出るのは、大幅に見積っても十一時で余裕だ。

 本当ならば、あと四時間は眠れる。

 しかし、眠れる気配がしない。

 なぜ、弟に会うのに緊張しているのだろうか。

 いや、まずその時点でおかしいのだ。

 私が、直接的に会うのは柊朔良という人物だ。

 冷静になれと自分に深く言い聞かせる。

 「散歩に行こう……」

 寝巻きの半袖にジャージのズボンで外に出た。

 スマホにイヤホンを差し、それを耳につける。あの曲が耳へダイレクトに流れて来る。



 ──【I can’t thank you enough】



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 ──(  き  )( おく )( てん )(  い  )とは、臓器移植に伴って提供者(ドナー)の記憶の一部が受給者(レシピエント)に移る現象である。



 
 昔、聞いたことがある。

 臓器移植をすると、ドナーとレシピエントの間には不思議な関係性が生まれると。

 ドナーの記憶がレシピエントに転移する。

 科学的には証明されてはいないのだろうが、私は今まさにそれを間近で感じているのだ。



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 十二時に、私は時間通り出勤した。

 なぜか、念入りに化粧をし、髪を巻いた。

 準備に1時間半もかけたのは久しぶりだった。

 「あれ? なになに~? この後彼氏とデート~?」

 店長に出勤早々、突っ込まれた。

 「それ、セクハラですよ。しかも、デートだったら今からこんなにメイクしてませんし、巻いてません。どうせ崩れるのに」

 少しイラッとしたが、冷静に言葉を返した。いつものことだ。

 「はいはい、ごめんなさいね~乙女心がわからなくて~」

 「ほんとですね」

 これまた、いつもの様におちゃらけた店長と冷ややかな私の会話が繰り広げられていく。

 その後、店長と打ち合わせをし、今日も出演者側の裏方になった。

 柊さんに惚れたのではと店長に突っ込まれたが、セクハラだと一刀両断で跳ね返した。

 全く違う……とも言い難いが違う。

 出演者に会えるからというのは他のバイトの子と同じだが、中身が違う。

 柊さんに会いたいわけではない。

 千陽に会いたいのだ。

 「affectionate様、入りまーす」

 四人が昨日と同様、マネージャーの後ろを歩いてきた。

 今日も今日とて腰が低い。

 そして、今日も今日とて、それに感心してしまった。

 四人が近づいてきたため、お願いしますと頭を下げる。

 そして、顔を上げると、また柊さんと目線が合った。

 私は、もう一度ぺこりと頭を下げた。

 すると、向こうもペコッと頭を下げてくれた。

 なんて、礼儀正しいんだろうか。さすが、千陽だ。姉の贔屓目は、凄まじいなと私は昔から思っている。

 改めて、今日のスケジュールを、先程配られた用紙で確認する。

 二日目のため少しライブ時間が長く取られているらしい。

 「あなた、ここの子よね?」

 突然、後ろから声を掛けられ、はい! と大きく返事をしながら、振り返った。

 この人は……あっ、affectionateマネージャーだ。

 黒縁メガネを掛けた綺麗な女性だったので印象に残っていた。

 「もし、手が空いてたら手伝ってほしいことがあるんだけど、いいかしら?」

 「あ、はい! 何でも言ってください!」

 ありがとうと、ニコッと笑うその表情がとても可憐で可愛らしかった。

 マネージャーの女性の後ろをついて行くと、裏口の駐車スペース近くにダンボールが山積みになっていた。

 「ここにある機材なんだけど、今日使わないから車まで全部運んでもらってもいいかしら?」

 一二三四……いろいろな機材が二十個以上はある。いつの間にか、無言になっていたらしく、マネージャーの女性は慌ててこう言った。

 「あ、無理ならいいの! 気にしないで。あとからやれば大丈夫だから」

 身振り手振りを大きくしながら、慌てて私へそう言った。

 「あ、いや! 大丈夫です! 特に、やることもほとんどないので!」

 私も、慌ててそう答えた。

 きっと、気を遣わせてしまった。いつも変な間を作ってしまう自分が嫌になる。

 「ほんと? ありがとう! 使うと思って持ってきたのに、あの子達ほんと気分だから。やんなっちゃうよね~」

 困ったような笑いをしながら、私へそう話す姿が、愚痴を言いながらもとても楽しそうだった。

 「そうなんですか。でも、何だか楽しそうです」

 微笑みながら私がそう言うと、照れたように笑った。

 「あ、自己紹介遅れてごめんなさい。私は、affectionateのマネージャーの(  は  )( ざき )( らん )と言います。よろしくね」

 「いえ、こちらこそ自己紹介が遅れてしまい、申し訳ありません。FromTOKYOの新田初凪と申します。よろしくお願い致します」

 お互いの自己紹介が終わると、数秒目が合ってしまい二人とも笑ってしまった。

 「では、こちら運んでおきますね」

 私は、そう言いながら機材を横に笑顔をつくった。

 「大変な仕事、任せちゃってごめんなさいね。よろしくお願いします」

 最後まで、申し訳なさそうに謝りながら、波崎さんは去っていった。

 「……よし! やるか!」

 手をグーにして気合いを入れた。

 機材を運ぶというのは、思ったよりも緊張する作業で、それに加えて重く、三つか四つ運ぶだけで二十分近く経ってしまっていた。

 だが、特に大した役目があるわけでもないため、一心不乱に運んだ。 

 「なんか、色々めっちゃあんね」

 急に、後ろから声がし、えっ? と、驚きながら振り返った。

 そこにいたのは、千陽……。いや違う、柊さんだった。

 「……えっと、あの……。な、なにか? 私は、えぇ……えっと……」

 「いや、そんな慌てなくても」

 そう言いながら、柊さんは笑って缶コーヒーを飲んでいる。

 思ってもみなかった柊さんの登場に明らかに動揺してしまった。

 いや、待って。

 なんでこんなところに柊さんがいるんだ? 今、この辺りには誰一人としていない。なぜなら、みんな忙しいからだ。

 この人も含め……のはずなのだが。

 「あの……皆さん待っていらっしゃるのでは……?」

 私は、緊張しながら、やっとの思いで質問をなげかけた。

 「いやぁ、リハまだだからさ。なんかが上手くいかないみたいで、リハに入れないんだって」

 「あ、そう……なんですね……」

 やっとの思いで聞いた質問は、すぐに答えを返されてしまった。

 何を話したらいいのだろうか……。

 別に話さなくてもいいのだろうか。

 しかし、随分軽いノリで話す人なんだなと、どうでもいいことを考えてしまった。

 いやいや……というか、本当に……



 ──何この状況。



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 ベンチに座りながら缶コーヒーを飲む柊さん。なんとも絵になっている。

 それとは、うって変わって機材を黙々と運ぶ私。

 私は、とりあえず機材を運ぶことだけに集中しようと決めた。

 「ねぇ、ほんとに手伝わなくていいの?」

 「ほんっとに、大丈夫です!」

 手伝ってもらっているところなんて見られた日には、クビ確定だ。

 就職もパーだ。怖すぎて身震いさえしてしまう。

 しかし、何度も私に大丈夫かと尋ねてくれる。

 さすが、千陽……いや、違う。柊さんなんだ。

 本当にこの思考回路を払拭したい。

 だが、どうしても千陽だと思ってしまう。

 「はぁ……」

 思わずため息が出てしまった。

 「大丈夫? 少し休めば?」

 そう言いながら、ベンチから立ち上がり、真剣な表情で私の顔を覗き込んだ。

 「いや、大丈夫です! 元気だけが取り柄ですから!」

 言ったことがないセリフとガッツポーズが勝手に出てしまった。

 「なんか、雰囲気と違いすぎない? 元気っていうより、君……クールって感じなんだけど」

 少し笑ったように、そう言われ。私の中に、疑問が生まれた。

 「……え、私ってクールですか?」

 口が勝手に動いていた。

 元気キャラでは確かにないが、私はクールなのだろうか? どうでもいい疑問が頭の中に現れ、知らぬ間に質問していた。

 「うん。クール……いや、うーん、なんだろう。わかんないけど、嫌な感じじゃない。不愉快だったらごめん」

 「あ……いや。そんなことないです」

 首を小さく横に振った。嫌な感じがしないのならば何よりだと思った。

 「よかったぁ~。……ところでなんだけど……あのさ、一つ質問いい? ……ねぇ、君はなんでここで働いてんの?」

 唐突な質問に地声で、え? と聞き返してしまっていた。

 「あ、いや、ただの疑問……理由とかなかったらごめん」

 先程から謝らせてばかりで申し訳なかった。

 せっかく話しかけてもらったのだ。きちんと返さなければ失礼だ。

 「えっと、あの……理由あります!」

 私の声に驚いたように、次は柊さんが、え? と顔を上げた。

 「あの……私の弟……音楽が好きで……大好きで。毎日毎日、意味わかんない歌詞にメロディーくっつけて、私に向かって歌ってくるんです。ほんっと、しょうもない歌詞なんですけど。……ただ、一曲だけ私の大好きな曲があって。歌詞は置いといて、メロディーが……。弟は、ずっと前に私の傍にはいなくなってしまったんですけど、なんとなく音楽のそばにいたくて。それで、ライブハウス……っていう感じなんですけど、答えになってなかったらすみません……」

 上手く説明ができなかった。意味不明な答えになってしまったなと自分自身反省した。

 だが、これが理由だ。しょうがない。

 「へぇ、音楽好きだったんだ。弟くん」

 すぐに柊さんはそう返してくれた。

 私が、意味不明だと思っていた答えを、しっかりと受け止めてくれたらしい。

 「は、はい! とても。」

 「じゃぁ、君は? 好き?」

 好き? と聞かれ、不覚にもドキッとしてしまった。

 やはり綺麗な顔をしている。

 いやいや、弟だ。いやいや、厳密には弟ではない。柊さんだ。

 頭の中がキャパオーバーで溢れかえっていた。とりあえず、落ち着け私。

 少しだけ息を吸って吐いた。

 「音楽……好きです。大好きです」

 微笑みながら、そう答えた。

 すると、柊さんも笑顔を返してくれのでとても安心した。

 その後、数秒間だけ目が合い、沈黙が流れてしまったので、私は焦って目を逸らした。

 すると、柊さんは真剣な表情でこう言った。

 「俺、夢があってさ。いつかデカいバンドになって、世界一のバンドになる。それが夢」

 ……夢。

 千陽が夢を追っている。

 サンクスレターでも教えてくれたが、本人から聞いた夢という言葉は何だか感慨深いものがあった。

 それと同時に、世界一のバンドになるということが夢だと知れてとても嬉しかった。

 「いいですね……夢。絶対、叶います」

 私は、心の底からの気持ちを込めて、そう言った。

 「ありがとう。初めて会った子に、なに夢語ってんだろうね、俺」

 俯いて恥ずかしそうに笑っている。

 千陽も、そうやって笑っていたことがあった。

 「いえ、聞けて嬉しかったです。教えていただきありがとうございます」

 私は、ぺこりと頭を下げた。

 「いや、俺だけの夢じゃないからさ」


 えっ──


 胸が音を立てたのがわかった。ドクンッと脈打った。

 「俺だけじゃなく、ファンのみんなとか、メンバーとか、事務所とか、全員の夢だからさ」

 ──あ……。

 そうだよね。初めて会った人に言わないよね……普通。

 千陽のことを遠回しに少しでも触れてくれるかと思ってしまった自分が恥ずかしい。

 だが、話にはまだ続きがあった。

 「……あと、守らないといけない約束があって──」

 突然、奥から大きな声がした。

 「あっ! こんなところにいたのっ! 何サボってんの朔良っ!」

 凄まじい勢いで怒鳴り声を上げたのは、波崎さんだった。

 私が目を真ん丸くして見つめていると、それに気づいた波崎さんが、急に慌てた様子で髪を触った。

 「ご、ごめんなさい。あんな怒鳴り声を上げて。みんなで、この子のこと探してたのに、どっこにもいなくて……もう、ほんっとに!」

 相当、怒っている様子で柊さんを見ている。

 「ごめんごめん。すぐ戻るつもりだったの。コーヒー飲んでただけじゃん? サボってたわけじゃないよ」

 いつの間にか、最初の軽いノリの柊さんに戻っていた。

 「ごめんね、新田さん。この子が仕事の邪魔して。迷惑だったでしょ?」

 「あ、いえ……」

 引きつった笑いしかできなかった。

 というより、勢いに圧倒されて、何も言えなかった。

 波崎さんに手を引かれ、引きずられる形となった柊さんは最後に私にこう言った。

 「じゃーね、新田さーん。頑張って!」

 右手を振りながら、そう言って去っていった。なんか大切な何かを聞きそびれてしまった感じがした。

 「守らないといけない約束……か……」


 私は、立ち上がり機材をひとつ持ち上げ、また車へと運んだ。



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 リハーサルが始まり、音漏れがしている。

 きっと周りにもそれを聴きに来ているファンの方達がいるのだろう。

 機材を全て運び終え、私はステージ脇まで戻ろうと廊下を歩いていた。

 柊さんや千陽のことを考えながらぼーっと歩いていたためか、思いっきり壁に激突した。

 「痛ぁーっ!」

 ガンガンする頭を押さえ、小声で叫んだ。

 「あらあら、何? 考え事しながら歩いてたの? あ! あの子でしょ? あのボーカルの子? かっこいいもんね?私達ってさ、役得よね!」

 話しかけてきたのは、昨日の四十代くらいの女性だった。

 「あ、いや……ですね……」

 頭が痛すぎてそれどころではない。だが、確かに考えていたのは柊さんのことだった。

 「今だったら、リハーサル見放題よ!」

 そう言って、また去っていってしまった。台風のような人だなと毎回思う。

 痛みが消えない頭を押さえながら、私は舞台袖まで歩いた。

 舞台袖に着いた時には、痛みは薄れ、冷静な頭を取り戻していた。役得……確かに、と思った。

 今まで、誰にも興味がなかったため、楽屋に行っても舞台袖でリハーサルや本番を観ても、なんとも思わなかった。

 だが、今は思う。役得だ。

 いつの間にか、開演の時間になり、ファンの熱気は天井にうっすらと雲を作るほどだった。


 ──そして、ついに開演した。


 舞台袖でライブを観ている私は、セットリストを確認しながら、もう少しだとワクワクしていた。あの曲が今日も聴ける。この曲の次だ……


 ──きた。


 前奏が流れ始め、照れたように笑う千陽の顔が頭に浮かんでくる。

 ふと、気がついた。

 歌詞は英語だが画面上にその日本語訳が流れている。

 私は、食い入るようにその画面を見つめた。そこには胸を打つ文が並んでいた。

 【僕の絶望に一筋の光が刺した。同じくらいの苦しみ悩みが僕を襲った。僕に言う。あなたはその分生きなさいと。一生懸命生きなさいと。僕の中に宿るもうひとつの心。二つの心。恥じないように、胸を張れるように僕は生きる。感謝してもしきれない想いを胸に……】


 ──一気に込み上げた。


 私は、走った。

 走った……走った……。

 誰もいない倉庫の扉を開け、その中で泣いた。

 ひたすら泣いた。止まらない涙を止めようともせずに泣いた。

 千陽への曲だ。

 千陽の曲が柊さんに記憶転移したんだ。

 科学的に証明されていなくとも、ここにこうして証拠と事実がある。



 ──感謝してもしきれない……【I can’t thank you enough】



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 終演後、私はaffectionateの楽屋へ向かった。

 そして、扉を二回ノックした。

 「失礼します。FromTOKYOの新田初凪と申します」

 あっ! と、手を振ってくれる、柊さんがそこにはいた。

 「あ、こんにちは。あの! I can’t thank you enough凄く感動しました。私、恥ずかしながら英語全然わかんないんですけど、訳……感動しました。あっ、いや、あの……英語でももちろん感動するんですけど、えっと……あの……」

 「めっちゃ正直だね」

 ベースの三浦さんに笑われてしまった。

 まずい。しくじってしまった。

 感情のままに動いて、ここまで来てしまったが、話す内容も考えていなかったため失礼なことを言ってしまった。

 「やっぱ訳……付けてよかった! あれ、悩んだんだよね。ちょっと恥ずかしいじゃん? 日本語って。英語だと気持ちって伝えやすいんだけど、日本語って率直だからさ。でも、恥じることじゃないって、みんなにもきちんと届いてほしいなって思って。ありがとう。嬉しかったよ。感想聞けて」

 思わぬ柊さんのフォローに生きた心地がした。とりあえず、先程の失礼を謝らなくては。

 「あ……えっと、考えもなしに突然来てしまってすみませんでした。どうしても伝えたくて……来てしまいました。あの……失礼します」

 私は、ペコペコと頭を下げ、楽屋を出た。

 緊張した……今まできちんと考えてからと何度も思ってきたが、いつも感情が先に動いてしまう。

 今度からは、本当にきちんと考えて行動しようと心に決めた。

 「あれ? 新田さん?」

 楽屋を出たところで声をかけられた。

 「あ、波崎さん。お疲れ様です」

 やはり綺麗で可憐な人だ。

 「楽屋になんか用だった?」

 「あ、えっと……素晴らしいライブで感想をどうしても伝えたくて……勝手にすみません」

 さすがに怒られると思い、頭を深く下げ、きちんと謝った。

 すると、波崎さんの反応は全く別だった。

 「え! いや、全然いいのよ! むしろ嬉しいと思う! そういうのってモチベーションに繋がるから! ありがとうね」

 「あっ……はい!」

 思わぬ反応に、声が大きくなってしまった。

 「あ、あと、あそこの機材! 全部運ぶの大変だったでしょう? ごめんね。あんな重労働頼んじゃって。凄く助かったわ」

 「いえ、全然! もし何かあれば、また頼んでください」

 精一杯の笑顔を作りながら、元気ハツラツに答えた。

 「ありがとう。新田さんは本当にいい子ね。うちの事務所にほしいくらいだわ」

 アハハと笑って、ありがとうございますとお礼を言いながらも、私も事務所に行きたいくらいですとは、さすがに言えないなと考えている自分がいた。

 そんな考えは払拭させ、私はまたペコペコと頭を下げ、その場を去った。

 また、何かあれば頼んでくださいとは言ったが、ここでのライブは今日で終了だ……。

 もう、会えないかもしれない。

 いや、普通は会えないんだ。

 みんなライブやテレビで応援している。当たり前だ。人気バンドなのだから。

 私もそうしよう。これからは、そうしよう。



 ──役得は、もう終わりだ。



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 三日後、私は新幹線で青森へ向かった。

 久しぶりに帰省をするためだ。座席に座りスマホを取り出した。

 「……え。今日、青森公演!?」

 驚きが隠せず、小さな悲鳴を上げてしまった。

 何気なく見たaffectionateのサイトのスケジュール欄に、そう記してあったのだ。

 偶然が重なった。身震いするくらいに嬉しかった。

 だが、チケットは当たり前だが売り切れだ。

 そりゃそうだ。

 色々と考えに考えたが、結局何も思いつかず、深いため息をつきながら、今回は諦めた。

 青森駅へ到着したのは、十四時頃だった。

 「まだ、余裕で間に合うなぁ……」

 悔しい気持ちを抑えながら、叔父と叔母の家まで歩き出した。

 そして、家の前に着いた頃、もう一度腕時計を見た。十四時三十分だ。

 「ただいまー」

 玄関の戸を開けて、帰ったことを伝えると、二人が喜んで出迎えてくれた。

 二人の笑顔を久しぶりに見たため、とても嬉しく、暗雲が立ち込めていた私の心も一気に晴れた。

 家に上がり、そのまま自分の部屋に向かいバックを置いた。

 「あれ?」

 バッグのサイドポケットにバイト先の入館証が入っていた。

 ……え、嘘。

 「……いけるんじゃない? ……これ」

 今日のライブも、私のバイト先の系列店だ。

 ならば……と、私の頭は今までにないくらいにフル回転した。

 悪知恵とは本当に働くのだなと感心してしまうほどだった。

 「叔父ちゃん、叔母ちゃん! ちょっと行ってくる!」

 「えっ、どこに!?」

 突然、猛ダッシュで家を飛び出そうとしていく私に、二人は焦りを隠せない様子で尋ねた。

 「ちか……えっと、とりあえずすぐ帰るから!」

 千陽に会いにと、言いそうになってしまった。いけないいけない、私だけの秘密だ。誰にも言わない。

 私だけが知っていればいい。

 玄関を出て、腕時計を確認した。

 今は、十五時だ。

 ここからならば三十分もかからずに会場へ着く。

 私は、猛ダッシュでバス停へ向かいバスに乗った。

 それから、会場に着いたのは、十五時三十分。

 予定通りだった。

 開場は十七時。開演、十八時だ。

 東京と変わらない時間設定だ。

 勝負はここからだ。

 裏口に行き、警備員を突破する。それが何よりのミッションだ。

 大きく息を吸い、フーっと吐いてから、手をグーにして気合いを入れた。

 自信を持って裏口の扉まで歩いていく。

 「すみませんが、入館証ありますか?」

 東京でも裏口から入る際に、毎回される確認だ。

 いつもならば、普通に提示して中へ入るのだが、今日はとてつもない緊張を感じた。

 「あ、はい。FromTOKYOから派遣で来ました」

 だが、私は、自信満々に入館証を提示し、そう答えた。内心ドキドキしてたまらなかった。

 「あ、そうですか。どうぞ」

 私は、ありがとうございますと言いながら中へ入った。


 ……は、はは、入れちゃったー!


 簡単に入れてしまったため、だんだんと不用心なのではないかと不安になってしまったが、今はそんなことどうでもいい。

 とにかくラッキーだった。

 嘘とはいえ、派遣としてきたことにしてしまったのだから、働かなくなくては申し訳ない。

 まずは、荷物置き場を確保しなくてはと考えた。

 ロッカーは確認したところ従業員分しか空いていなかった。

 ふと、思い出した。場所は違うとはいえ、系列の会場のため大体の作りは同じだ。

 私は、奥にある使われていなさそうな倉庫の辺りをウロウロし、一番奥の( ほこり )っぽい倉庫にバッグを置いた。

 ここならば、誰もこないだろう、そう思った。

 バッグから貴重品だけを持ち、私は働きに出た。

 邪魔にならないよう、端の方で雑用をせっせとこなした。

 荷物を運んだり、整えたり、怪しまれないよう、私は派遣であると自分に言い聞かせ、謎の自信を持ちながら働いた。



 ──そして、ライブは開演した。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 ギターやベース、ドラム、そして歌声。

 全てが合わさると、鳥肌が立つほど凄まじいバンドになる。

 このバンドに出会ってから五日しか経っていないはずなのに、前から知っていたかのように虜になっていた。

 相変わらず、歌詞は英語のため謎だが、引き込まれていく何かがあった。

 「なんだろう……凄いな、やっぱり」

 怪しまれないよう、舞台袖の奥の奥でステージを見つめていた。

 ライブも中盤に差しかかり、トークでも会場を沸かせていく。

 そして、ステージドリンクを飲み、次の曲へと進んでいった。


 ──あっ、次だ!


 メロディーが鳴り出し、それだけで涙が溢れそうだった。

 聴く度に、感情が揺れていく。

 ゆらゆらと揺れて大きくなっていく。

 また、画面に映し出された日本語訳を見て、一筋の涙が流れた。

 「千陽……いい人に巡り会えたね」

 曲が終わり、舞台裏の片付けに戻ろうとしたのだが、ほんの少しだけ違和感を感じた。

 あれ? 柊さん苦しそう? 一瞬の違和感だったが、確かに声が震えた。そんな違和感を感じていると隣から元気な声がした。

 「あれ〜? ここでも働いてるの? あっ、もしかして好きすぎて来ちゃった? 好きって後先考えてられなくなっちゃうものよね〜」

 とてもまずい。出会ってしまったのは、いつもの四十代くらいの女性だった。

 私は、顔を一生懸命作りながら、あははと、笑いで誤魔化した。

 「柊くんていうんでしょ? あの子。覚えたわよ~私も!」

 そうなんですねと、答えながら、私はもう柊さんの違和感の方に気を取られていた。

 「苦しそう……」

 「え、誰が苦しそうなの? 柊くん? 別に、そんな風には見えないけど?」

 また、独り言が声に出てしまっていたようだ。

 癖は、なかなか直らず本当に困る。

 「あ、そうですかぁ。なら、よかったです。勘違いだったみたいです」

 また、顔に不格好な笑顔を貼り付け、あははと笑って、足速にその場から逃げた。

 焦ったー……とりあえず、目立たないように働こうと思い、私はひたすらに働いた。

 気がつくと、いつの間にか、ライブは終わっていた。

 「お疲れ様でしたー」

 affectionateのメンバーが会釈をしながら、舞台上から帰ってくる。

 これは、まずいと思い、目立たないように、そろりと逃げた。

 人気のない場所まで来ると、気を張り続けていたためか、疲れがどっと出てしまった。

 少し休もうと思い、一旦埃っぽい倉庫に戻り休んでいると、数十分後、誰かが中に入ってきたようだった。

 再び、危機と隣り合わせになってしまった。

 やはり、会場の作りが同じであるとはいえ、部屋を使う用途が違うということは当たり前ながらある。

 ただ、こんなにも埃っぽい場所にタイミング悪く人が来るとは、ついていないものだなと思った。

 ( ひと )(  け  )のない倉庫のため、誰かが電話か何かをする為に入ってきたのかもしれない。

 私は、万が一誰かに扉を開けられたとしてもバレないよう、部屋の奥にいたため、気づかれてはいないようだったが、もし気づかれてしまったら、明らかにおかしい状況だった。

 学生がこんなところに一人でいる。

 やはり、明らかにおかしい。

 怪しまれてしまうと、絶望の淵に一人で立っていると、突然倉庫の中に声が響き渡った。

 「何言ってんだよっ」

 驚いたことに聞こえてきたのは、少し怒っているような柊さんの声だった。

 心の底からバレないことを祈った。

 だが、なんだか盗み聞きをしているようで、悪いことをしている気分になり、罪悪感が芽生えてしまった。

 いや、元々嘘をついてこの場に入り込んでいる。それだけで十分に悪いことだ。

 だが、今はそれはそれでおいておこうと思った。

 しかし、やはり柊さんの声がどこか苦しそうだった。

 内心、とても心配になっていると、次は他の人の声がした。

 「だから、私のものになってって言ってるの。わからない?」

 女性の声? 聞いたことのある声だ。

 誰の声だっけ?

 すると、続けざまに柊さんの苦しそうな声がまた聞こえてきた。

 「なんで俺が……ハァハァ」

 なんだか、ただ事ではない雰囲気が漂っていた。

 痴話喧嘩? え、じゃぁ柊さんの彼女? 

 やはり、ここにいることがバレたらまずい。

 そんな思いを抱えながら、私は、興味本位で二人が見える位置まで、静かに移動していった。


 ──え、嘘。


 そんな……波崎さん?

 「好きだからよ。じゃなかったら何があるのよ」

 ……すき。好き。好き? 波崎さんが柊さんを……? 

 まさか、こんな場面を見てしまうとは思ってもみず、冷や汗をかいてしまった。

 「好き……かぁ……。それは、ありがとう。でも、俺はその気持ちにこたえられない。ハァハァ……」

 好きという言葉を受け止めてから、柊さんは波崎さんを振った。

 そんな、柊さんは答えた後、壁にもたれかかった。やはり、具合がとても悪そうだ。

 「あっそ。じゃぁ、ばら撒くわよ。これ」

 そんな柊さんのことを、一ミリたりとも気にもとめず、波崎さんは声のトーンぐっと下げ、右ポケットから何やら小さな袋を取り出した。

 「なんだよ、それ……」

 柊さんは波崎さんに、息絶え絶えにそう言った。

 「これ? 聞きたい? 教えてあげてもいいわよ。楽しくなる薬」

 はぁ……? と、柊さんの声にならない声が、薄らと聞こえた。

 そんなことを、波崎さんは気にもせずに話し続ける。

 「結構、効くの遅いのね? この麻薬。朔良、心臓弱いから少なめにしたのがよくなかったのかしらぁ~」

 麻薬……麻薬? 麻薬って、あの麻薬……だよね? 

 腰が抜けそうだった。

 自分の目の前で、ドラマのようなことが起こっている。

 でも、これはきっとドラマではない。

 あれ……でも、ばら撒くって何?

 「何言ってるかさっぱりわかんねぇんだけど。麻薬? はぁ? ばら撒くってなんだよ……ハァハァ」

 もう、話すこともやっとな柊さんがそこにはいる。先程から、少しも柊さんを気にする素振りも見せずに話し続ける波崎さん。

 「だから、あなたが麻薬をやってるって話をよ」

 「何言ってんだよ、俺はやってない! ハァハァハァ……」

 柊さんが麻薬をやっている。ありえない、そんなこと絶対にありえない。

 「そうね。でも、やったのよ。事実、やっちゃったの。ライブ中にね」

 そう言いながらニコッと笑う波崎さんがとてつもなく怖かった。私は、自分の身体が恐怖で震えているのがわかった。

 「さっきから、なんの話なんだよ? ……ハァハァ……ハァハァ」

 震えた声で柊さんが言葉を返している。

 当たり前だ。麻薬なんてやっているはずがない。ありえない。

 「察しが悪いのね。教えてあげる。ステージドリンクあるでしょ? あなたのステージドリンク。あれに入れておいたの。だから、あなたはやっちゃったのよ? 麻薬を。ライブ中にね?」

 怖い……怖い。怖い怖い!

 波崎さんが怖くてたまらなかった。あんなに綺麗で明るくて優しい人がなんで?

 「お前……っ」

 震える柊さんの声がする。呼吸が苦しいのと同時に恐怖心が襲っているのだろう。

 「あなたが私のものになるなら、ばら撒かない。警察にも言わない。でも、あなたが拒むなら、警察を呼ぶ。私は、被害者。ドラッグに手を出したあなたに襲われたとでも言っておこうかしら」

 アハハハハと高笑いする波崎さん。いや、波崎。

 このままでは、柊さんが危ない。千陽が……

 ──千陽が危ない!

 「お前……なんの恨みがあって……俺にっ!」

 最後の力を振り絞るかのように、柊さんが叫んだ。

 「だーかーらーっ! 好きなんだって言ってるでしょ! 最初からっ!」

 苛立つ波崎と、段々と弱っていく柊さん。

 呼吸が整わないということは当たり前だが、このままでは心臓に悪い。


 ──千陽の心臓が……!


 「──あの!」

 ビクッとして振り向いた、波崎は驚きを隠せない様子だった。

 「聞いてました……私。全部!」

 震えが止まらない足。

 その足で、床を押しつぶすように重心をおさえながら、私はそう言った。でないと、今にも恐怖心で倒れてしまいそうだった。

 「あら、あなたいたの? あなた東京の子でしょ? え、不法侵入? ……あ~、朔良に会いたかったの~? そうでしょ?」

 「だ、だったら……なっ、なんだっていうんですか!」

 震える声でそう答えると、また高笑いをする波崎。

 「アハハハハ、モテモテね? いつも」

 そう言うと、波崎は柊さんがもたれかかっている壁の横に、同じようにもたれかかり話し出した。

 「昔っからそう。モテるくせに女心わかんなくて。すぐ、女をその気にさせちゃう。どれだけマネージャーの私が苦労したかわかる? 近くにいるってだけで逆恨みされたこともあるし。ほんっと大変だったわぁ~。あなたが病気になって入院した時だって、色んな子が朔良どこですか!? って私に聞きに来たわ。言うわけないじゃない。ね? ほんと、馬鹿を相手にするのも、大概にしてって思ったわよ。ねー、朔良~聞いてる? あなたに言ってるのよ? あー、もう聞いてないか」

 大変だったと話しながらも、優越感に浸っているような、そんな表情をしている。

 「あなたもその一人でしょ? 優しく笑いかけられて好きになっちゃった。でしょ? そういうの、すごく(  め  )( ざわ )り。あの時だって雑用頼んだだけなのに、朔良と仲良くしちゃって。私あれ見て火がついちゃった。あ~、そうよ! あなたのせいよ?」

 突然そんなことを言われ、頭が真っ白になってしまった。

 何か言わなきゃ、何か……。

 この人のペースに飲まれちゃ駄目だ。何か……何か……。

 図星だから言い返せないのか……。

 好きになった? 一緒に話した時間。あの曲の歌詞の意味を知った時。千陽はなんていい人の元に行けたのだろうと思った。

 好きになった? わからない。そうかもしれない。そうかもしれないが、それは……これは、きっと。

 「事実だから何も言い返せないの?」

 「……た、確かに。確かに好きなんだと思います。きっとそうなんだと思います。私はaffectionateを知ってから、五日しか経ってません。五日です! 自慢じゃないですけど。……でも、私はよかったって思ったんです。出会えてよかったって。柊さんのこと知れてよかったって。出会えて……よかったねって……」

 「は、何っ? 何言ってんの? そういうのが気持ち悪いんだよっ!」

 波崎は、勢いよく私に近づいてきた。

 思わず後ずさってしまったが、息を吸い言葉を強く返した。

 「気持ち悪いのは、あなたです。気は確かですか? 柊さんに心を奪われて、正気を保てなくなったのは、あなたの方じゃないですか? 薬を盛るなんて!」

 自分の精一杯の言葉を返したが、相手は全く( ひる )まなかった。

 「ほんとに、聞いてたのね。そうよ……正気じゃない。本気よ。麻薬だって、朔良ことを考えた量にしたわ。死んじゃったら元も子もないじゃない? 心臓が弱い朔良が死なない量。自分で使って確かめて、気持ちが少し上がるくらいの量。こんなこと、好きじゃなかったらできないでしょ? アハハハハハハ!!」

 言葉が出てこなかった。怖くて怖くて、喉の奥が蓋をされたかのように呼吸さえままならなかった。

 笑い続ける波崎の後ろには、もう立っているのもやっとであろう柊さんがいる。時間がない。

 喉の奥の蓋を必死に開けた。

 「あの……このままでは、柊さんが死んでしまいます。病院に連れていかないと死んでしまいますよ。それこそ、元も子もないんじゃないですか?」

 私は、恐怖心でグラグラと揺れる自分の心を落ち着かせ、できる限り冷静にそう諭した。

 「駄目よ。私が捕まっちゃうじゃない? 馬鹿じゃないの? だからね、答えは簡単なの。早く私のものになればいいのよ」

 駄目だ。全く正攻法が通じない。

 これは、もう最後の手段しかない。

 「だったら、私が通報します!」

 そう言い放ち、準備しておいたスマホの緊急通報ボタンを押し、警察に電話をした。

 「何してるのっ! 朔良が捕まるのよっ!?」

 「そんなこと言ってられませんっ!!」

 波崎が慌てて私の腕を掴んだ。物凄い勢いと力で掴まれた腕は爪が食い込んで、痛くて痛くてたまらなかったが、そんなことを言っている場合ではない。

 「もしもしっ!! FromAOMORIに早く来てください!! そ、倉庫です! 救急車も! はっ、早くしないと死んじゃいますっ!!」

 私は、端的に場所と、今のそのままの状況を伝えた。

 そして、スマホを奪われないように、蹴飛ばし、遠くへスライドさせた。

 昔、千陽と観ていた刑事ドラマでやっていた。スマホは、繋いでおいた方がいいと。

 「けっ、警察が来ます。もう終わりです!」

 震えた大きな声で、そう私が叫ぶと波崎は、ついに壊れた。

 「………あぁーっ! もうっ! 終わり、終わりっ、終わりよっ! お・わ・りっ!」

 叫び散らし地団駄を踏んでいた波崎は、急に落ち着きを取り戻し、おもむろにポケットに手を突っ込み、静かに折りたたみ式ナイフを取り出した。

 「終わりよ。終わりにしましょ? 朔良。もう、一緒に死ぬのが一番幸せになれる。そうでしょ? 朔良。一緒に死にましょ?」

 波崎は、ニコッと不気味に笑い、柊さんの方へ振り返った。

 柊さんは、もう一歩も動けない。話すことさえできそうにない。これでは、逃げられるわけがない。

 ナイフの矛先が柊さんへと着実に近づいていく。

 駄目。待って……待って。待ってっ!!

 ──千陽ーっ!!

 薄いピンク色のTシャツに広がっていく赤い海。

 じわじわと広がり大きくなっていく。

 ぽたぽたと床に落ちる赤いもの。見ているだけで気が遠くなった。

 千陽……千陽……


 ──千陽。


 膝から崩れ落ちた。

 私の中心にはナイフが刺さり、血がだらだらと流れ出していた。

 目の前には、気が狂ったように叫び散らす波崎がいる。

 『警察だっ!』

 警……察……? 

 ……警察。そうだ、私が呼んだんだ。やっと来てくれたんだ。よかった……。

 遠のく意識の中で、頭の上から最後に私の名前呼ぶ声がした。

 「新田……さん……ハァハァ」

 目を開けると、そこには柊さんがいた。

 横たわった私を支えてくれている。

 柊さんが生きている。千陽が生きている。

 「柊さん……生きて……ください。お願いします」



 ──生きて……千陽の分まで。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 目の前に、九年前の千陽がいる。

 「千陽。よかったね。いい人に出会えて」

 「おう! ねぇちゃんにも会えたしな!」

 久しぶりに見た千陽の笑顔。かわいいかわいい弟の笑顔。

 「千陽……ごめんね。今まで一人にして」

 今までの千陽への想いが溢れ出し、涙が止まらなかった。

 「泣くなよ。ねぇちゃん。俺、寂しくなかったし」

 え? と、私が驚いたように尋ねると、千陽はこう言った。

 「だって、毎日ねぇちゃん俺の傍にいてくれたじゃん! 俺、毎日ねぇちゃんとしゃべってたし。聞こえてなかったと思うけど」

 そう、笑いながら言う千陽。私の涙は余計に溢れてしまった。

 「だーかーらー、泣くなって~ぇ」

 「ごめん。ねぇちゃん泣き虫だからさぁ……」

 服の袖で涙を拭いながら、そう返すと千陽は私の顔を覗き込みこう言った。

 「ねぇちゃん泣き虫じゃねーじゃん。いつも我慢して泣かねぇんだもん。頑張りすぎだ、ねぇちゃんは。でも、まぁ、ねぇちゃんには笑っててほしいけどな」

 アハハッとかわいい笑顔で、また笑う千陽がそこにはいる。私は、千陽の顔を真っ直ぐ見つめてこう言った。

 「……千陽。これからは一緒にいようね。ずっと、ずっと一緒にいよう」

 涙を拭きなから、そう言うと千陽が黙った。

 千陽? と私が問いかけると、黙ったまま千陽は何も言わなかった。

 「千陽……どした?」

 千陽の顔を今度は私が下から覗き込んだ。

 すると、その目は涙ぐんでいた。

 「ねぇちゃん……一緒にいたい……。ねぇちゃんと一緒にいたい」

 千陽が涙ながらに、そう訴えた。

 「うん、私もだよ。これからは、ずっと一緒にいようね」

 千陽の頬を両手で包み込み、親指で涙を拭った。

 すると、千陽がこう言った。

 「でもな、ねぇちゃん。ねぇちゃんは、ここにいちゃ駄目なんだ。まだ、駄目だ……」

 「何言ってるの? 千陽?」

 言ってる意味がわからなかった。

 「ねぇちゃんは、まだ生きるんだよ。もっともっとしたいことするんだよ。ねぇちゃんの人生を生きるんだ。俺はまだこっちで待ってる。まだまだ、もっと先でねぇちゃんのこと待ってるからさ!」

 「千陽。ねぇちゃんは千陽といたいよ? 無理しなくていいんだよ。一人は寂しいって言っていいんだよ?」

 私は、我慢する千陽を必死に諭した。

 「寂しくない。俺は一人じゃない。ねぇちゃんがそうしてくれたんじゃん。一人で寂しくないようにって。そしたら俺、めっちゃ良い人に出会ったよ! 歌、思いっきり歌えんだ! いっぱいの人の前で思いっきり歌えんだ! めっちゃめちゃ楽しい! だから一人じゃない。ねぇちゃんがそうしてくれた。ありがとう、ねぇちゃん」

 臓器提供を選んだ私を、千陽は一生懸命肯定してくれた。

 「……もう、我慢しなくていいんだよ? 無理しなくていいんだよ? そんな優しいことばかり言わなくていいんだよ。千陽は優しすぎる」

 私は、千陽に言い聞かせるように話した。

 「俺は、我慢してない無理してない。だって、思いっきり歌える人とまた生きられてるんだよ! そりゃ、半分はこっちの世界にいるかもしれないけど、半分はねぇちゃんと同じ世界で生きてんだ! あの人と一緒に!」

 そうだ……千陽は死んでいない。一人じゃない。一人じゃ……ないんだ。

 「それに、ねぇちゃん。ねぇちゃんは生きなくちゃいけない。そうだろ?」

 …………私は、生きなくちゃいけない? 生きなくちゃ……生きなくちゃ……そうだ。

 私は、生きなくちゃいけないんだ。生きなくてはいけない理由がある。

 「……千陽。ありがとうね。いつも千陽が私を支えてくれるね。千陽がいたから……いるから、私は生きていける。ありがとう……。私、ずっと見守ってるからね。ずっとずっと見守ってるからね」

 涙が、目の縁に溜まっていくのを感じた。

 「俺を支えてくれたのだって、ねぇちゃんだ。ありがとう。俺は、これからあの人と世界一になるんだ! あっ、そうだ! こっちの世界で作った歌、あの人に曲にしてもらおうかな!」

 「それはやめな。しょうもない歌になるから」

 「ひでーぞ、ねぇちゃん」

 私達は、昔のように笑いあった。千陽の変わらない笑顔がそこにはあった。

 「じゃぁ、行くね」

 「おう! 元気でな!」

 「おう! 弟よ!」

 昔のようなやり取りで、懐かしくなった。

 段々と弟からの距離が遠くなる。

 涙が雨のように流れ落ちた。


 ──元気でね、千陽。


 目が覚めると、私の目には白い天井が映り込んできた。

 前にも似たようなことがあったな……と、ぼんやりしていると、自分の右手に温もりを感じた。

 重い頭を動かし、右手の方を見ると私の手を握った柊さんが眠っていた。

 え……どんな状況? あれ、ここ……。

 目を動かし、辺りを見回してみると、やっと思い出した。病室だ。

 前にも、こんなところで目が覚めたことがあった。でも、何で?

 ……あ、そうだ。思い出した。柊さんが刺されそうになって……それを──。

 その時の痛みを思い出し、思わず( うめ )いてしまった。

 それに気がついた柊さんが目覚め、焦った様子で私を覗き込んできた。

 「新田さん? 大丈夫? 今、先生呼ぶから!」

 そう言うと、柊さんはナースコールを押した。

 「新田さんの目が覚めました! 早く来てください!」

 「そ、そんな焦んなくて……だ、大丈夫……ですよ」

 私は、少し笑いながらそう途切れ途切れに伝えた。

 すると、病室に慌てた様子で看護師さんが入ってきた。

 「新田さん?」

 私は、小さく返事をする。

 「よかったぁ……目が覚めたのね。すぐに先生も来てくれるからね」

 はいと、また小さく返事をした。看護師さんは、バイタルなどを確認すると、一旦病室を出て行った。

 すると突然、柊さんが話し始めた。

 「新田さん、本当にごめんなさい。俺のせいでこんな目に遭って。あんなに怖い思いをさせて。謝っても謝りきれません。ごめんなさい」

 柊さんは頭を下げながら、ずっと謝っている。

 「大丈夫ですよ。私が勝手にしたことです。気になさらなくて大丈夫です。柊さんは何も悪くありません」

 本当に私が勝手にしたことだ。

 柊さんももちろん心配でならなかったが、ナイフを向けられた柊さんに千陽が過ぎって、自分でも思いがけなかった行動をとってしまった。

 当たり前だが、柊さんは全く何も悪くない。繋がれた右手を少しだけ握り返した。

 その時、病室がコンコンとノックされた。

 「失礼します」


 ──えっ?


 え……と、思わず声が出てしまった。

 ……え、嘘。何で、何で……何で?


 ──橘先生?


 病室に白衣を着て入ってきたのは、橘先生だった。

 想像もしていない状況に、なぜか慌てて柊さんと繋がれた右手をほどいてしまった。

 「どしたの?」

 柊さんが目を丸くして、私にそう尋ねた。

 「いや……別に……」

 微笑みを作りながら、柊さんにそう返した。

 隣に立つ、橘先生を見ると、私の心電図モニターを確認していた。

 「どこか痛いところはないですか?」

 突然、先生にそう聞かれ、ぽかんとしてしまった。私に、先生はもう一度聞いた。

 「どこか痛いところはないですか? 傷痛みませんか?」

 「痛くないぃ! です……かね……」

 焦って力みすぎた返答で傷口が少し痛んだ。

 その後に、曖昧すぎる返答を付け足してしまった。

 それには、先生は特に何も返してこなかった。

 「また、後できます。では」

 そう言って去っていった。変わらないが……変わらなさすぎるな。少し笑えた。

 「どした?」

 柊さんは、不思議そうに首を傾げ私に尋ねてくる。

 「いや……ちょっと」

 変な風に思われないように真顔で天井の一点を見つめることにした。

 それから数分後だった、柊さんは意を決した様に話し始めた。

 「あのさ、話したいことがあるんだ。新田さんに」

 「あ、はい……」

 改まって、緊張したように話し出す柊さんにこちらも緊張してしまった。

 「俺、前に病気をしたんだ。心臓の」

 私の心臓がドクンッと脈打つのを感じた。

 「それで、二年前に手術をした。心臓移植。それしか俺が助かる方法はなかった」

 知っている。

 私は、全てを知っている。

 「心臓移植をするということは、ドナーになってくれた方がいるということ。それで……その……そのドナーが……新田さんの弟さんだよね?」

 身体が心臓みたいだ。前にも感じたことがある。

 身体全体が心臓のように脈打つ感じを。

 「な、なんで……? 何でそう思ったんですか?」

 そうだ。なんでそう思ったんだろうか。

 気づいてしまったのだろうか。

 なんで……

 「サンクスレター」

 え? と、私は目を丸くした。

 「サンクスレターの文字が同じだった」

 ……これって、私の話?

 私が千陽のドナーが柊さんだと気づいた理由もサンクスレターだ。

 だが、今は柊さんの話をしている。

 どういうこと? 頭が混乱し、黙りこくった私に柊さんは、話を続けた。

 「前に、楽屋に差し入れがあって。種類とコメントが添えてあった。それを見た瞬間、見覚えがあると思った。周りのスタッフに聞いて回ると、新田さんが書いたと教えてくれた。その付箋を持って帰って、サンクスレターの文字と照らし合わせたら、やっぱり同じだった。だから、新田さんなんだって思って……」

 私と同じだ……。

 同じタイミングで、同じような状況で……知ったんだ……。

 もう、何も言えなかった。その通りだからだ。

 そして、私も同じような理由で柊さんを見つけてしまったから。

 「違う?」

 首を傾げそう聞く柊さんに、何も返事ができない。

 言っていいものか、もう何も言わないべきか頭が混乱して、何も出てこなかった。

 「混乱させちゃってごめんね。今、聞くべきじゃなかったよね。ごめん。また次──」

 「そう……です」

 もう……もう話すしかない。

 黙っていても何にもならない。

 もう、柊さんはわかっている。言い訳なんてない。

 「そうです。弟です。柊さんのドナーになったのは、私の弟の千陽です」

 柊さんは、黙ったまま私を見つめた。

 目と目が合ったまま時間が止まった。その止まった時間を破ったのは、柊さんだった。

 「……ありがとう。教えてくれて。聞こうかどうか迷って……迷って、迷ったんだけど、やっぱり聞いておきたいと思って。……あのね、新田さん。……記憶転移って知ってる?」

 記憶転移。

 記憶転移って……あの?

 「……あ、はい」

 知ってるに決まってる。私は、この耳で確かに聴いた。証明されている。

 「そっか……あのね……二年前、心臓移植をしてから同じ夢を何度も見るんだ。目の前の女の子が本当に楽しそうに笑ってる夢」

 夢の話? 何のこと? 全く、なんの話だかわからなかった。

 だが、その話の続きは思いもよらない話だった。

 「君だったんだ。新田さん」

 え……? 声にならない、声が出た。

 「君が夢に出てくる女の子だったんだ」

 「なん……の……話ですか?」

 やっと、声が出た。よく分からない話に、たどたどしく疑問を返した。

 「記憶転移。きっと、新田さんの弟さんの記憶が、俺の夢に反映されてるんだと思う。この間、ライブハウスに入った時、夢に出てくる女の子を見つけた。夢では小さかったから確信はなかったけど、文字で正真正銘の確信に変わった」

 頭がパンク寸前だった。

 キャパオーバーだ。

 夢に私が出ていた? 千陽の記憶が? もう、わけがわからなかった。

 「あの歌も、夢で聴いた曲を楽譜に落としたんだ。弟さんが君に即興で作った曲」

 「……もしかして、I can’t thank you enoughですか?」

 「そうだよ」

 記憶転移が……記憶転移が証明された。


 ──今……ここで。


 「いい曲だなって思ったし、何よりその曲を聞いた時、君が笑ってたんだ。夢の中で。だから、これを曲にしたら、いつか君に会えるかもしれないと思った」

 私の、頭の中のコップも心のコップも、水が溢れ返り、そのうえ倒れそうになっていた。

 「……あの曲、千陽が作った曲の中で一番好きな曲だったんです。だから、I can’t thank you enoughを聴いた時、驚いたという言葉じゃ表現できないほど、衝撃を受けました。耳がちゃんと覚えていたんです」

 また、柊さんは、黙ったまま私を見つめた。そして、こう言った。


 ──やっと、会えた


 柊さんの心の奥底から出たようなその言葉に、私のキャパオーバーで溢れかえったコップは、勢いよく倒れ、そして涙となり、止まらなくなった。


 私が泣いているその間、柊さんは、何も言わずに私の頭を撫でてくれていた。



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 どのくらい泣き続けただろうか。どのくらい頭を撫でていてくれたのだろうか。

 時間の感覚がなくなるほど泣いてしまっていた。

 涙がやっと収まり、私は柊さんにやっと言葉を返すことができた。

 「私も、会えてよかったです」

 笑顔でそう返すことができた。

 「よかった。笑顔になってくれて」

 はいと、涙顔で笑って見せた。

 「君のお陰で、これからも弟さんと共に生きていける。歌っていける。今回は、俺のせいで傷つけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

 柊さんは、立ち上がり、深く頭を下げながら私にそう謝った。

 「もう、いいんです。本当に。ただ、これからも精一杯歌っていってください。千陽と共に。でも、重荷に思わず、自分の人生を楽しんで生きてください。世界一のバンドになってください。よろしくお願いします」

 私も、寝ながらだったが、首を少しだけ下げた。柊さんは、目に涙を浮かべながら、頷いてくれた。

 「世界一のバンドになります。約束する」

 柊さんは、私の右手の小指と、自分の小指を結び、指切りをした。小指からでも温かさを感じた。

 少しして柊さんは手を顎に置き、考えるような形で私にこう言った。

 「I can’t thank you enoughさ、凄い人気曲なんだよね。俺も大好きだし、君も好きだって言ってくれたし。もしかしたら、弟さん才能あるのかも。また、なんか夢の中で俺に曲くれたら書いていい?」

 私は、アハハと笑ってしまった。

 「ぜひ。弟も喜びます。でも、しょうもない曲ですよ、絶対に」

 笑いながらそういうと、柊さんも笑った。

 その後、色々な話をした。主に千陽の話を。

 笑いながら共に話した。三人で笑っているようで、とても楽しかった。

 私が、柊さんを好きになったのは、千陽と一緒に歩んでくれるのが、柊さんでよかったと思ったからだ。

 これからもきっとその気持ちは変わらない。

 「じゃぁ、俺帰るね。最後にもう一度だけ言わせてください。この度は、本当にすみませんでした。また、会える日を楽しみにしてるね。初凪ちゃん」

 「は、はい」

 そういうと、柊さんは病室を後にした。

 急に名前で呼ばれ、不覚にもドキッとしてしまった。

 やはり、顔が綺麗だ。女の子がやられてしまうのも納得だ。

 私も、千陽でなければ好きになっていたかもしれないなぁ……と、ぼんやりと考えてしまった。ぼんやりと。

 そんなことを考えていると、突然病室の扉が開き、叔父と叔母が焦ったように私の元へ駆けつけた。

 「初凪ちゃん!! 大丈夫!?」

 そう焦った様子で尋ねる叔父と叔母に、笑顔を見せて、大丈夫だと返事をした。

 叔父と叔母は、渋滞に巻き込まれ病院へ来るのが遅くなってしまったらしい。

 今の今まで生きた心地がしなかった、でも目覚めた私がベッドの上にいて安心したと、涙を流しながら抱きしめてくれた。

 私もホッとし、涙が溢れた。

 後々、聞いたのだが、あのマネージャー波崎は、私の殺人未遂で現行犯逮捕、そして麻薬取締法違反や柊さんのドリンクに薬を混入させた罪などで、警察に捕まったらしい。

 柊さんも一時、危険な状態だったのだが、なんとか乗り切ってくれたらしい。

 千陽の心臓がちゃんと生きてくれたのだ。

 今回のことは自分のせいだと、柊さんは何度も叔父と叔母に謝ったらしい。

 全くもって柊さんのせいではないのに、ただひたすらに。

 それを、後から叔父と叔母に聞き、柊さんらしいなと思った。

 優しい柊さんらしいと。

 十九時近くになり、面会時間も後わずかとなったため、叔父と叔母は帰っていった。

 病室に一人になると少し寂しく感じた。

 やはり、一人が苦手なのだなと実感した。

 すると、病室の扉をコンコンとノックする音がした。入ってきたのは……


 ──橘先生だ。



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 気まずい。どこか気まずい。

 目が泳いでしまう。

 天井の一点を見つめようと、集中するがなかなか上手くいかない。

 「気分はいかがですか」

 淡々とした声。本当に変わらないなと思う。

 「大丈夫です……」

 私も淡々と答えた……つもりだ。

 「そうですか。では、何かあったらナースコールを押してください」

 「え、それだけですか?」

 なんだか少しイラッとして、呼び止めてしまった。言ってから後悔した。

 「それだけですが」

 イライラが募った。

 私は、ベッドの手すりを掴み、身体を起こした。

 傷が少し痛かったが、感情が先立って、それ程痛みを感じなかった。

 そして、それからは、止まらない言葉がぽんぽんと口から出ていった。

 「へぇー、それだけですか。あの時、私は中一ですよ。九年も前。それで、久しぶりに再会したのが、なぜか青森県! それなのに、それだけですか!?」

 「会うのは九年ぶりですが、あなたと話すのは二年ぶりです。それと、青森にいるのは、異動してきたからです。大学病院なので、異動があるんです。それが、たまたま青森でした。答えはこれでいいですか?」

 よくない、よくない、よくない!

 「よくないです!」

 いつの間にか声が大きくなっていた。

 急に、恥ずかしくなり、結局すみませんと謝ってしまった。

 すると、先生はベッドの脇の椅子に座り、私の方を向いた。

 「どうしたんですか? なんか言いたいことがあるんですか?」

 こうやって、いつも急に優しくなる。いつもだ。

 それで、私は戸惑ってしまう。

 「いや……別に話があるわけではないんですけど……」

 言っていいのかなぁ。やめておいた方がいいのだろうか。でも、なんとなく言いたくなってしまった。


 「あ、あの私……千陽のレシピエントが誰だかわかってしまったんです」


 先生は、少し驚いたような表情をした。

 「たまたま、働いているところで……たまたま流れで……そしたら、あっちも千陽がドナーだと気づいていて、顔を合わせることになってしまいました。私の中だけで完結するはずだったのに……。記憶転移って本当にあるんです。ドナーとレシピエントの間に生まれる特別な関係。相手の顔を知っていたり、その人の記憶が移ったり、好きなものが嫌いになったり、それを好きになったり、そういうの本当にあるんです」

 私は何が言いたいのだろうと自分で思ってしまうくらい考えなしで話していた。すると、先生がこう言った。

 「嬉しかったですか? 会えて。千陽さんのレシピエントに」

 え……考え込んでしまう自分がいた。私の中で止めておきたかった気持ちと、確証を持てて嬉しい気持ちどちらもあった。

 「半々……ですかね。半々です」

 「そうですか。僕でも半々ですね。知りたいような……知りたくないような……」

 なんとなく先生が寂しそうに感じた。

 「先生……大丈夫ですか?」

 「大丈夫です。なんでもないです」

 「でも、どこか寂しそうです」

 また、余計なことを言ってしまった。先生を前にすると、口が勝手動いてしまう。

 「……そうですか。じゃぁ、一つ言わせてもらいます。今回もあなたは一人で無理をした。何度言ったらわかるんですか? 一人で頑張りすぎないでと。何度もいいましたよね?」

 「……はい。言われました……」

 気まずさに耐えられず、目を逸らした。

 先生は、一時黙ると息を軽く吐いて話し始めた。

 「あなたが運ばれてきた時、正直心臓が止まるかと思いました。最後に会ったのが、中学一年だったとはいえ、すぐにわかりました。名前も一緒ですし、あなただと。そして、あなたの腹部にはナイフが刺さり、とても危険な状態。また、無茶したんだなと。どんな無茶をしたらこんな状態になるんだと。頭が一瞬真っ白になりました。ただ、救命医として真っ白になっている時間はないので、すぐに処置に移りましたが、焦りました」

 息継ぎをしていないんじゃないかという程のスピードで話す橘先生に圧倒されてしまった。

 「すみませんでした……」

 私は、謝ることしかできなかった。

 「自分の知っている人が運ばれてくるということは、医者でも頭が真っ白になってしまうくらい衝撃的なことなんです。お願いします。本当に無理をしすぎないでください」

 知っている人……という言葉に心がズキっとした。

 「それは、本当にすみませんでした。でも、私って知っている人……なんですよね」

 先生は、訳が分からないように首を傾げている。

 「いや、ただの知っている人ですよね。私は……」

 その私の発言に、先生は、えっ……と声にならない声を出した。

 重たい沈黙が流れ、どちらもそれを断ち切ろうとはしなかった。

 私は、考えずに言ってしまった言葉を、撤回しようかとも思ったが、口から出てしまった言葉は、もう取り返しがつかない。どうにでもなれと思った。

 その時、沈黙を破ったのは先生だった。

 「知っている人ですよ、あなたは。……僕はあなたを知っています。きっと、あなたの悲しみも苦しみも悩みも、僕は知っています。誰よりも知っているつもりです。これは理由になっていないですか?」

 悲しみ……苦しみ……悩み……そうだ。


 先生は全部を知っている。


 「痛みも……です。先生は、私の痛みも知ってくれています」

 「そう……ですか」

 また、重い沈黙が流れてしまった。だが、今度は私がこの重い沈黙を断ち切った。


 「……知っている人……になりたいです。私も。先生を……知っている人になりたい……です」


 重くて重くてたまらない沈黙。

 しかし、言ってしまったからにはもう後には引けない。

 いや、引かない。もう、本当にどうにでもなれ。

 数秒後、急に先生は立ち上がり、扉に向かって歩き出した。

 あ……いなくなってしまう。そうだよね……。わかっていた。そうなることは。

 だが、先生は扉の前で立ち止まり、振り向かずにこう言った。

 「とりあえず、安静にして退院してください。……それからは、あなたが頑張りすぎないように、あなたのことをもっと知りたいと思います。では、お大事に」

 そう言い残し先生は、出て行ってしまった。

 ……もっと知りたい。

 私の問いかけへの答えになっていないが先生らしいなと思った。

 自分のことは知られたくないのだろう。そんなことを思いながら


 ──胸が高鳴った。



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 二週間後、私は無事に退院した。

 退院日に先生に会うことはできなかった。昼間だったため当たり前だ。

 退院してから私は少し忙しかった。

 事件現場で蹴り捨てたスマホが証拠品であるため警察署にあり、それを取りに向かうのと同時に、咄嗟の行動でボイスレコーダーに録音しておいた、あの事件の一部始終を提出した。

 そして、まさか刑事の方から褒められるとは思わなかった。

 ボイスレコーダーを起動しておいたこと、電話を繋げたままにしておいたこと、二つの点において褒められた。

 だが、危険な行動は以後しないようにと叱られもした。

 はい……と言うしかなかった。

 その、ボイスレコーダーには、柊さんのドリンクに薬を入れたのは波崎であることが、しっかりと録音されていたため、柊さんは被害者だときちんと証明されたようだった。

 それを、聞いてとても安心した。

 高い位置から落とし、蹴ったため壊れていないか不安だったが、耐衝撃性の高いスマホにしておいてよかったと心底思った。

 私には、あともう一つやらなければならないことがあった。

 バイトを夏休みも含め三週間も休んでしまったことを謝らなくてはならない。

 そして、不法侵入。

 私は、あの日、不法侵入をしていた。

 店長に恐る恐る電話をすると、店長の泣き声が電話越しに聞こえてきた。

 本当に大丈夫なのかと何度も何度も聞いてくれた。

 そして、思わぬことを言われた。

 私を、青森に派遣したことにしておいたと。

 緊急の用事を頼んだと、警察に証言してくれたようだった。

 面倒だったからさ~と、涙声でいつものように軽く話していたが、きっと店長の精一杯の優しさだと思った。

 感謝しかなく、電話を持ちながら何度も頭を下げた。



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 私は、青森を去る日の前日。

 夕方頃に病院へ向かい、案内所で尋ねた。

 「すみませんが、救命医の橘先生はいらっしゃいますか?」

 「どういったご要件でしょうか?」

 「あ、私この間まで入院していたのですが、お礼を言えていなかったので、お礼を伝えにと……」

 「承知致しました。少々お待ち下さい」

 前に三重の病院に電話をかけた時よりも、直接のためか緊張が度を超えていた。

 「あの、救命入口はおわかりになりますでしょうか?」

 「あ、えっと、病院のマップで行けるかと思います」

 「そうですか。でしたら、そちらに向かっていただければお会いできるかと思います」

 私は、ありがとうございますと言いながら、頭を下げ、歩き出した。

 お会いできるかと思います……いない可能性もあるのかなと考えながら救命入口まで歩いた。

 ここかな……? 近くにあったベンチに座り、辺りをキョロキョロと見回していると、後ろから声がした。

 「新田さん」

 「はい!」 

 後ろから急に声がしたため驚いてしまい、思ったよりも大きい声が出てしまった。

 「声が大きいです。出席確認じゃないんですから」

 「す、すみません……」

 やはり、気まずい。

 なぜ期間が空くとこんなにも掴みづらくなってしまうのだろか。この人は。

 「無事、退院おめでとうございます。で、今日は何かご要でしょうか?」 

 淡々と話すいつものそれに、頭がカチンとなる音がした。

 「え、嘘。へーぇ、そういう感じですか?へーぇ。もういいです!」

 そう言い放ち、帰ろうと歩き始めたが、これでは駄目だと思い、振り返り先生の前へと歩いた。

 そして、ふーっと息を大きく吐いて、吸い込み、意を決して言葉を発した。

 「知りたいんです? 私は? 私、退院しました。安静にして退院しました。だから、知りたいんです。知ってほしいんです? 先生──」

 「僕は青森にいるので」

 ……え、はい……はい? 急に断ち切られた私の言葉。

 えっ、青森にいるから、東京に帰る私のことは知らないし、知れないってことですか?

 この間と、言ってること違くないですか……先生……。

 脱力感に( さいな )まれてしまった私の右手を、急に先生は優しく掴んだ。

 「だから、これからはここにかけてください。深夜以外はいつでも出られるので」

 「え……」

 右手の手のひらに乗せられた紙を開くと、そこには先生の連絡先が書いてあった。

 「これ……いいんですか。私なんかに渡して」

 「いらないなら返してください」

 「い、いります! いりますっ!」

 焦って、また声が大きくなってしまった私を見て、先生がフッと笑った。

 私が今までで見た中で、先生の一番の笑顔だった。見ているこちらまで嬉しくなってしまった。

 「先生……。連絡します。東京に帰っても、ちゃんっと連絡します!」

 「ちゃんとの意味はわかりませんが」

 「わからなくないです! わかってください! また、話……聞いてください。それと……聞かせてください」

 「……はい。僕でよければ、聞くことくらいはできますので」

 出た。いつもの先生の口癖だ。

 私は、少し笑いながらお礼を言った。

 「ありがとうございます。でも、今回は先生の話も聞かせてくださいね?」

 「それはどうでしょう?」

 「いえ、聞きます! 聞きだします!」

 ムキになって話す私に、また先生は小さく笑った。

 「まぁ、頑張って。頑張りすぎずに。あなたは、頑張りすぎるので」

 嬉しかった。少しだけ受け止めてくれた。

 「はい。頑張らせすぎないでくださいね?」

 微笑みながら、先生は私を出口へと促した。

 「気をつけて」

 「はい」

 目と目が合い、その間には、重たくない沈黙が流れた。

 「……あの、先生。……先生は、記憶転移……信じますか?」

 先生は、私の目をいつになく真っ直ぐに見つめた。それと同じくらい私も真っ直ぐに見つめた。

 「……信じますよ。僕は信じます」

 その答えに私は安心した。

 「はい!」

 そう、元気に返事をして、私は歩き出し、そしてそのまま帰路へ着いた。


 ──ねぇ。


 『先生、連絡くれるかな? 私からしないと駄目だよね? 先生そういう人だもんね。グイグイ行かないとね!』



 私は、自分の心臓に手を当てた。



 先生の妹・(たちばな)(  に  )( こい )へと語りかけるように。




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 ──十二年前



 私は、臓器移植を受けた。

 心臓は、ドナーが提供してくれたものだ。

 そして、そのドナーは先生の妹。

 橘日恋。

 私は、生まれつきの重い心臓病だった。助かる道は、臓器移植だけだった。

 そしてある日、十歳の私と十二歳の日恋がドナーとレシピエントとして一致した。

 それからだ。夢に日恋が現れるようになったのは。私の記憶転移は名前が見えるほどに鮮明なものだった。

 そして、同じく現れた男性。名前は(たちばな)( はる )(  き  )

 二人はあまり会話がなく、歳もだいぶ離れているように見えた。ひと回りくらいだろうか。

 私の夢には、日恋の日記が毎日のように映し出された。

 たまに書かれている、お兄ちゃんの文字。

 お兄ちゃんは中々家族の輪には入らない。話しかけてもそっけない。仲良くしたいが上手くいかない。そんな内容だった。

 私と千陽とは正反対だった。

 夢で見ているだけでも、もどかしかった。

 そんな時、目の前に現れた。

 橘遥希。

 緊急救命医だった。

 夢に現れる男性と同じだった。

 私は、現実でその人に何度も助けられた。支えられてきた。

 そして、いつの間にか惹かれていった。

 あの不器用な優しさに……惹かれていったのだ。

 私は今、日恋の分まで、先生のことを知ろうと思う。

 知って、それから教えてあげようと思う。

 私と共に生きてくれる、先生の妹さんに。
 



 私は、いつか先生に話そうと思う。……いつか……だけどね……。



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 ──今から二十年前。



 妹は、十二歳で事故に遭った。

 中枢神経にダメージを受けた妹は、呼吸がままならず、そのまま脳死した。

 そして、ドナーとなった。

 そのレシピエントが彼女だ。

 彼女が前に過労で倒れた時に判明した。

 いや、判明させてしまった。

 カルテ、それに心臓の手術の跡。

 心臓移植とは、そうそうあることではない。時期も合致している。

 そして、一年に一度届く、レシピエントからの手紙の筆跡。

 気になって、ありとあらゆる医者という力を使い、判明させてしまった。

 知りたかったか、知りたくなかったかはいまだにわからない。

 妹とは距離があった。

 自分でつくってしまった距離だ。

 同じように両親とも距離があり、家族の輪に上手く入れなかった。

 人と近づくことが昔からとても苦手だった。誰も僕を拒むわけではない。

 ただ、自分から避けていたのだ。

 だが、妹は頑張って距離を縮めようとしていた。

 それに僕も気づいていたが、なかなか自分を変えられなかった。

 そして、そのまま……妹はいなくなってしまった。

 僕は妹の頑張りに答えてあげられなかった。

 だが今、妹は彼女と共に生きている。

 今度こそは、近づいてみようと思った。

 最初は、そんな気持ちだった。

 すぐに彼女とは会うことがなくなったが、サンクスレターのやり取りは続いていた。

 そして、彼女の家族が事故にあってから七年後、あの電話がかかってきた。

 その時、頼られた気がした……妹に。

 だが、彼女と関わっていくうちに、それがいつの間にか、違う感情へと変わっていった。

 惹かれていった。彼女に。彼女自身に。
 
 今は想う。

 彼女自身を知ろう。彼女自身にゆっくりと僕を知ってもらおうと。
 
 


 僕は、いつか彼女に話そうと思う。いつか……の話だが……。



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 ──透明な糸は目に見えないが故に伝っていくことはできない。

 知らず知らずの間に辿っていくしかない。

 だが、心のどこかで何かを感じる力が人間には備わっているのだ。

 その相手が自分へ向けてくれる温かいもの。

 自分がその相手を想う温かい気持ち。

 その相手を想って涙すること。

 心配すること。助けたいと思うこと。

 力になりたい、傍にいたい、一緒にいたいと思うこと。そして、惹かれ、好きになる。

 それが愛情だ。

 目に見えなかった透明な糸は、愛情によってゆっくりと確実に染まっていく。

 綺麗で、繊細で、濃い色をした……



 ──赤い糸へと。



 これはきっと……



 神様の仕掛けた、ちょっとした悪戯だ。



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