「──圭……圭、起きろ」
 誰かに肩を叩かれた。ぼんやりとした思考の中まぶたを開けるけど、体に伝わる規則的な振動が心地よくて、また目を閉じてしまいそうになる。
「おーい。次で降りますよ、鞘本くーん」
「うぅん……」
 耳元で聞こえる声にハッとした。
 ここどこだ。
 寝ている間に隣の席の人に思い切り体重をかけてしまっていた。いやそれよりも、肩に寄りかかっている相手が誰か、っていう一番肝心なことを思い出した。
「……あっ!」
 飛び退いて陸也の肩から離れた。寝起きのもやもやした思考が一気に吹き飛ぶ。変な汗が出た。
 なんで、いや、そうだった。陸也が家まで送るって言ってくれて、電車に乗って、なんだかうとうとし始めて、その後──。
「え、おれ……ね、寝てた?」
「おう。もうぐっすり」
 陸也が忍び笑いに肩を揺らす。
「疲れてたんだな」
「うわぁ……っ」
 一人で寝てしまった上、全体重を陸也に預けてしまった。これがただの同級生だったら一言謝って終わりにできるけど、相手が陸也ってだけで心臓がバクバクしてしまって止まらない。穴があったら入りたかった。
 つい二ヶ月前、寝込みをキスしてきた相手に、無防備過ぎる。
「ご、ごめんっ」
「なんで謝るんだよ。肩くらいいくらでも貸すって」
「い、いやもちろん、安心して肩を預けるのに陸也以上に頼もしいやつはいないけど! でも、あれとこれとはワケが違うっていうか……っ」
「ワケ?」
 陸也がシートから上体を乗り出して、わざとらしい満面の笑みを浮かべながらおれに顔を近づけてくる。
「そこんところ詳しく──」
「うるせえ!」
「逆ギレ。ウケる」
 思考が絡まって口から出る言葉が全部しどろもどろになった。そんな醜態をさらしているうちに電車が家の最寄り駅のホームへ滑り込む。
「ほら降りるぞ」
 おれの家路のはずなのになぜか陸也に先導されてホームに降りた。黙って改札を出て、そのまま暗い夜道を二人並んで歩く。二つ分の白い息が浮かんでは消えた。
 高校へ行くまでは、この道をよく陸也と二人で歩いた。ヤイバの漫画を読むっていう共通の遊びがなかったら、家が学校から逆方向にある陸也は、きっとこの道を一度も通らなかっただろう。
 駅前はほんの少し栄えていた道も、一歩道を逸れるとぽつぽつとした街灯以外には住宅しかない道に変わる。帰路を辿って、やがておれと母さんが住む都営団地の前に辿り着いた。
 建物の向かいにある公園の時計を見ると、時刻は夜の十時半を超えていた。
「遅くまで付き添ってもらって、ありがとう。こんな時間にお前に一人で帰れっていうのは申し訳ないんだけど──」
「あれ、もう話終わったと思ってる?」
「……え?」
 すっかりここで別れるものかと思っていたおれは、相手が低い声で言っておれに真正面から距離を縮めてきたことに、面食らった。
 思わず一歩後退したけど、背中が建物の外壁に当たってこれ以上は下がれない。
「ここなら絶対に誰からも邪魔されねえから」
「じゃ、じゃまって、え、なに」
「目の前が自分の家だったら、圭もどうやったって逃げられないだろ?」
 喉の奥がひゅ、と絞まる。
 それとは裏腹になぜか胸は高鳴って、さっきまで感じていた冬の寒さが吹き飛んだ。
 いやおかしいだろ。高鳴ってんじゃねえよ。
「ち、ちょっと待って」
「ムリ」
 とっさに陸也の肩を押し留めようと腕を伸ばしたけど、その手首すら掴まれた。ぐい、と押さえつけられて、陸也の体がおれをめいいっぱい覆う。
「乱暴なことしてごめん。でも今日だけは逃さねえから」
 目の前に突きつけられた陸也の頬が、赤い。感情が爆発しかけるのを押さえている時の顔だ……。
「急用で計画が狂いっぱなしだったけど、それでも圭に待ってもらったのは、どうしても伝えたいことがあったから」
「伝えたい、こと」
「お前が好きなんだ。……ずっと」
 恐れていた言葉が、やっと、陸也の口から出てきた。
「う、そだ。だって陸也はべつに、おれじゃなくったって……」
「傑名高校に受かったってわかった日にカラオケに行って以来、もしかしたら圭に嫌われちゃったのかって思ってから、癇癪を抑えよう、圭にとってかっこいい自分でいようって、高校では猫かぶってた」
 おかしいだろ、と陸也が短く笑う。
「だから、いつの間にか圭にとって俺が恩人になってただなんて、泣いて飛び上がるほどのことだったんだ。圭はもしかしたら俺がそこまで喜ぶなんて想像してなかったかもしれないけど」
「そんな、じゃあ……藤や海堂とつるんでたのは」
「俺、ホントはあいつらといても楽しくないよ。……もちろん、原因は俺のせいだ。だって俺が猫かぶってんだもん。さっき藤にお前のことを悪く言われて、本当は殴りたいのを我慢してた。それが学校ではずっと続いてるようなもんだからさ」
 おれが陸也のためを思って近づかないようしてた時、陸也は陸也で、おれに嫌われないように、本当の自分を押さえつけてたってこと?
「か、勘違いじゃないの? おれたち、幼馴染だから。幼馴染って呪いじゃん。間違って同人誌読んじゃって、男同士でも好きになっていいんだって思ってさ。だからたまたまそばにいたおれたちが、お互い勝手に好きだって勘違いして、さ」
 もしおれたちがたまたま同じ学校で、たまたま同じクラスじゃなかったら──例えば傑名高校で初めて出会うような仲だったら、きっとおれと陸也は一言も会話をしないまま、同級生っていう肩書の他人で終わってたはずだ。
「圭のこと好きだって気づいた時、俺も最初は気のせいかもって思ってた。でも……」
 おれの手を押さえていない方、陸也の左手がおれの頬先をかすって、髪に絡む。
 大きくて、骨ばっていて、スポーツマン特有のしなやかで繊細な手の感触がする。
 そんな親指が、おれの唇に触れてきた。
「あ……」
 教室でキスされたことを思い出す。肩がこわばって、あの時感じた、泣きそうで、嬉しくて、周りにある景色から全部、自分だけがふわふわ浮いているような感覚を。
「教室で寝てるお前にキスしたら、俺……めちゃくちゃ興奮した。好きが溢れて。好きで好きで、たまんないって。……気のせいじゃなかった」
「あ、う」
「ごめん、怖がらせて。でもこれが俺のホントの気持ちなんだよ」
 未知の感覚を怖いと思ったけど、陸也の指先や言葉が怖いとは思ってない。それを言葉にしようとして、言葉のような吐息しか出てこなかった。
「お前にこういうことしたい。キスしたいし、それ以上のこともしたい。めちゃくちゃにしたい。他のひとに絶対、渡したくない」
「やだ……」
「お前が怖がったり引いたらと思うと我慢してきた。でももう抑えきれない」
 やだ、とまた勝手に口から出てきた。勝手に首が横に振られる。なんでおれは拒絶するような態度をしてるんだろう。
「やなの?」
 手首をぐっと押さえこまれて、背中を壁に押さえつけられる。
「圭、ずっと俺の気持ちに気づいてたんだろ? なあ、そうだろ?」
「きもち、って」
「中間試験の後、放課後に俺がキスした時、圭……起きてたよな?」
「…………うん」
 なんだ。たぬき寝入りしてたこと、気づかれてたんだ。
 こんなの、もうどうやったって、逃げられないじゃんか。
 陸也が刺すほどの鋭いまなざしでこちらをまっすぐに見てくる。まるで相手の視線で摩擦を起こしたみたいに、胸が熱い。
 あの(・・)陸也だ。我慢してもしきれず、癇癪を起こす。でもそれは全部、義憤の裏返しだ。それをおれだけが知っている。
「中学最後のカラオケでさ、圭、俺と同じ表情をしてたはずだよな。それとも、俺の勘違い? ……いや、ぜったい違う。俺たち、ホントはあの日にキスしなきゃいけなかったんだ」
「だけど、お、おれのワガママで好きな人を手に入れたら、きっとバチが当たっちゃう……」
 ずっと、欲しいものを我慢してきた。
 フツウの父親。新しい運動靴。一人部屋。塾に通うお金。誰にもバカにされない学歴。母さんを楽させられるほどの力。
 全部が全部、願っても手に入らないもので。
 だから、陸也とは幼馴染の関係ですら奇跡だと思っていて、それ以上を望むのが怖かった。
「今日はたまたま物申してきたのが藤だったってだけで、おれとお前が付き合ったら、きっといろんな人が勝手なことを言い始める。陸也にはもっとふさわしい人がいるって」
「そしたら今日みたいに、圭を守らせてくれない?」
「え」
「俺はお前に何度も助けられてきた。だから、万が一神様にバチ食らったって、圭は俺が守る。──〝俺はお前の剣だ〟」
 最後に陸也の口から出た、聞き慣れた台詞にハッとする。
「……〝僕が君の鞘であるように〟……?」
「ほら、やっぱお前しかいねえよ」
 なんだよ。こんな大事な時までヤイバの台詞かよ。
 でも、そんなところも好きなんだった。
「お前が俺のことを『親友』以上に『恩人』だって言ってくれたのが、嬉しかった」
 陸也は平静を装いながらも、震えた声で訴える。
「だけど俺は、圭の『恩人』のまま終わりたくない」
「それって」
「圭の恋人になりたい」
 ……そうか、陸也も怖いんだな。それでも勇気を振り絞って、嫌われる覚悟で前に進もうとしてくれる。
 陸也はおれにとってずっとずっとヒーローで、幼馴染で、親友で、恩人で、初恋の人で。
 陸也だけは、おれに我慢しなくていいと言ってくれた。
 陸也になら、ワガママを言ってもいいと教えてもらった。守ってくれるって言ってくれた。
 こんな頼もしい人は、後にも先にもきっと現れない。
 おれの、本当の気持ちは──。
「圭、なんか言え」
「おれ、は……」
 陸也はもう爆発寸前みたいだ。目元と頬がこわばったまま、額がくっつきそうなほどにおれを見つめて、答えを迫ってくる。
「……あの、さ」
「うん」
「最初のは、目、と、閉じてたから……」
 放課後に寝落ちてしまった時は、陸也にキスされても狸寝入りしたままで、感触と息遣いしかわからなかった。
 陸也にキスされたのが夢だったのかもって、もう二度と思いたくない。
 おれは陸也とちゃんとキスできたんだって、百パーセントの確信を持って自慢したい。
 こんなことを考えてしまうなんて、恥ずかしくて、おれが先に爆発しそうだ。
「だ、だからもっかい、キスしてほし──」
 言い終わる前に、髪を梳いていた陸也の手にガッと頭を掴まれて、気づけば息が塞がれてた。
 強すぎる力に後頭部引き寄せられて、逆に体は壁に押し付けられる。襲ってくる衝撃に思わず目を閉じた。
 たぬき寝入りをしていた時の、探るようなキスとは全然違う。
 想像すらしてなかった陸也の激情が、まっすぐにおれを襲ってくる。
「……っ」
 好きだ。
 好きでたまらない。
 陸也と一緒になりたい。
 結婚するなら、陸也がいい。
 どうすればいいんだろう。手に入ったものが愛おしすぎて、相手の精一杯の『好き』に、どう返答すればいいのかわからない。
 頭は熱っぽいのに体がガチガチに固まってしまって、相手の唇が触れる度に緊張で口を引き結んでしまう。
「圭……っ」
 熱い吐息がおれの名前を呼ぶ。
「りく、や」
 なんだか、くらくらしてきた……。
 足に力が入らない。頭がぼうっとして、体がぐらぐらする。
「圭……? おいっ、圭! 大丈夫か!」
 陸也の声が甘いものから、切羽詰まったものになる。ひんやりとした指先がおれの首筋を撫でた。
「ふふ、くすぐった……」
「お前、すっごい熱!」
 陸也の慌てた声が遠くなる。
 二時間も、とか。寒い中で、とか。ごめん、とか。
 霞む視界の中で、陸也が泣きそうな声とともにおれの肩を担いでくれる。その様子をぼんやりと眺めていたら、いつの間にか意識が落ちていた。


 頭が痛い。
 誰かが脳中で金槌を何度も打ち鳴らしてるだろ、これ。
 喉がからからで、口の中がひっついていた。
「み、水……」
「起きた? ほら」
 なんとか上半身だけ起き上がらせて、口元に差し出された水を飲む。
 おれの手がコップを持っている手に当たった。それが母さんとは違う手つきで、思わず相手の肌の感触を指先で何度もさすった。
「圭、くすぐったいよ」
 聞き馴染みのある笑い声とともに、コップを持つ手が引っ込む。
「あれ……?」
 顔を上げると、なぜか陸也がいた。スーツのジャケットを脱いで、今はワイシャツとネクタイだけの姿の陸也が。
 周りを見回すと、おれの寝室だった。足元でガス暖房が唸っている。首元がやけに楽だと思ったら、学ランから寝服に着替えさせられていた。陸也は布団のそばであぐらをかいている。
「夢、じゃないよな?」
「四十度近い熱が出てるんだよ。意識が朦朧としてたから、勝手にだけどお前んちに上がらせてもらった。あ、さっきまで夜勤前のおばさんがいてさ、ちゃんと家に上がる許可はもらったから」
「あー、そっか。手間かけさせてごめん」
 肩を掴まれて、身体を布団に引き倒される。こっちを気遣う陸也の手つきが優しくて、体調を心配してくれる目元は痛々しかった。
「もう一回寝たほうがいいよ。勉強疲れと気疲れしてるところに、寒い中で待たせちまったのがよくなかったんだな」
「陸也は? 今からここ出て、ちゃんと家に帰れんの?」
「えー、この状況で俺の心配してくれんの?」
 布団から陸也のはにかんだ表情を見上げるのはなんだか新鮮だった。だけど弱みを見せたのはほんの一瞬で、今度は何かを企む様子で口を弓なりにする。
「親には家出したって伝えてある。勝手に予定入れられてうんざりしてたから、ちょうどいいだろ」
「はあっ!?」
 寝ているどころじゃない。
 陸也が家出なんて、尋常なことじゃないぞ。漫画を没収されたときですら家出の『い』の字も出さなかったのに!
「か、帰ったほうがいいよ! ちゃんと話し合って──」
「ん? 圭はおれに帰ってほしいの?」
「……あ」
 そうだ。母さんも夜勤だから、陸也が帰っちゃったらおれが一人になっちゃう。
 寂しい夜はもういやだ。
「や、やだ、やっぱ帰んないで……っ」
「冗談だよ。ちゃんと事情を説明して、仕方がないから外泊の許可もらったよ。寝ろ、ほら」
 もう一度寝かされて、掛け布団を胸元まで引き上げられて、なぜか「かわいい」と言われた。屈辱だ。
「ば、バカにすんなよ」
「してないよ。俺の彼氏が素直に『帰んないで』ってかわいいワガママを言ってくれるようになったから、嬉しくてさ」
「彼氏?」
「そうだろ?」
 ……そっか。おれはもう、陸也と恋人なんだ。
 帰らないでって、そんな大それたお願いもワガママで済ませてくれるんだ。
「そっかぁ」
 体がふわふわする。今なら、何だってできそうな気がした。
「りくや」
「なに」
「もっかいキスして。もっかい」
「え?」
 さっきまでおれのことをニコニコしながら頬杖とともに眺めていた陸也が、ぎょっとした。
「さっき、また目ぇつぶっちゃった。今度こそちゃんとする」
「いやいや、さすがに熱が」
「あ、風邪移しちゃうかな?」
「お前の風邪なら喜んでもらうけどさ」
 最初こそ髪をがしがしと掻いて悩んでいた陸也は、
「圭にせがまれちゃあなぁ」
 と、最後には苦笑して折れた。
「熱が下がった時、自分の大胆さに後悔して悶えても知らないからな?」
「悶えないから。ぜったい」
 実際、次に目を覚ました時に悶えた。床をゴロゴロ転がった。
 だけど今はそんなことどうでもよくて、四つん這いになった陸也の顔がゆっくり近づいてくるのが、たまらなく嬉しかった。
 陸也にワガママを言うのが、クセになりそう。
 近づいてきた顔を、息を詰めて待つ。照明の光が影に遮られて、体が覆いかぶさってくる。
 唇がそっと触れて、今度はちゃんと、相手の感触におれの感触を合わせることができた。
 陸也のキスはさっきと違って、優しくてやわらかい。
 最高に幸せで、生きてるって感じがした。
 ……好きだよ、陸也。
 自分が男とか、相手が同性とか、そういうことがどうでもよくなるくらい。
 一度触れて、お互いにキスしたことがわかるだけの短い時間の後、陸也はすぐに唇を離してしまった。
「今日はこれで終わり」
「え、なんで?」
「いや寝ろよ、病人」
 陸也が畳の上にごろんと大の字になる。ネクタイを緩めてボタンの一番上を外した。
「手、握っててやるから」
「じゃあ、まあ……しょうがない。わかった」
「えらい」
 大きな手が、ぎゅっとおれの手を包み込む。
「うわっ、好きだ……」
「はいおやすみー」
 少し肌の焼けた、頬のスッキリとした横顔が、ゆっくりと目を閉じる。不思議と陸也が静かになると、思い出したように眠気が襲ってきた。
「……俺も」
 目を閉じる直前、陸也がおれの『好き』に、そう応えてくれた。