恋と勉強の両立が、これほど大変だとは知らなかった。
 いざ自分の気持ちと立場が明確になってしまうと、陸也と『親友』だった今までは目につかなかった事柄が、おれの目に留まるようになったのだ。
 廊下を歩いていると、陸也と立ち話をしている女子の姿が嫌でも目に入る。
「立脇、ちょっと……放課後時間もらえない?」
「ん? なんか相談事? わかった、放課後な」
 もしかして、女子は陸也に告白するつもりなんだろうか。ただでさえ毎月のように陸也へアタックしては玉砕した失恋者で、校舎裏が死屍累々になるって話があるくらいだ。(もちろん、全員が校舎裏で告白したんじゃないだろうけど。)
「そう、か」
 陸也を好きなのはおれだけじゃなくて、他にも大勢いるんだな。
 一度は陸也と心が通じ合ったかもしれない、両思いかもしれない……と浮かれていたおれも、いやでも現実を認識した。
 もしおれが陸也に告白でもしようものなら、失敗しても成功しても、陸也は女子と付き合うよりも多くの障害を作るハメになるんじゃないか。家族とか、それこそ隠れファンクラブの女子とか……。
 陸也のご両親は昔から厳格で、弁護士事務所の顧客の多くに著名人がいることもあって、息子である陸也にも厳格さを求める人たちだ。そんなご両親が、陸也と男子との交際を許してくれるものなんだろうか。
 そんなことを日々考えているうちに、インターハイ祝賀会もいつの間にか無事に終わっていたみたいだ。
「──で、さっきね? 立脇くんがあの万年筆を家で使ってるんだって、嬉しそうにしててさー!」
 陸也と同じクラスにいる人たちが、わざわざおれのクラスまで友人へ報告にくる様子をたびたび聞いた。その会話を聞く度におれは、いくら相手を思う強さがあっても、それを形にできない力不足の自分じゃ陸也と釣り合わないんじゃないか、と思ったり。
 だからって、あの日の放課後おれが寝ているところをキスした理由をいざ問いかけようと思っても、できなかった。もしかしたら、おれが陸也の意図をわかったつもりになっているだけかもしれない……。
 確証のない憶測で悶々としていたら、あっという間に昼休みだ。弁当を食べるのもそこそこに、参考書に取り掛かる。だけど設問の文字が時々霞んだ。眉間を揉んでからからもう一度文字を見てみても同じだった。
「もしかして、視力落ちたかな」
 眼鏡って値段はどれくらいするんだろう。買うとなると安くても一万か二万円はかかるかな。母さんも最近は体調を崩しがちだし、ここで無駄な出費はできれば避けたい。
 もしかすると最近は寝不足ぎみだったから、目が霞むのはそのせいかも。きっとそうだ。断じて視力が落ちたわけじゃない。
「圭、大丈夫か?」
 声が頭上から降ってきた。顔を上げると、さっきまで頭の中に思い浮かべていた人間が目の前にいる。目を細めて、いたわる表情でおれの目を奥まで覗き込んでいる。
 あまりにも不意打ちでなんと言葉を返せばいいのかわからない。
 普段この教室へあまり入ってくることがない陸也の登場で、教室がざわつき始めた。まるでタレントとたまたま居合わせた時みたいだ。
 陸也とあまり話したことがない人たちは、ここぞとばかりに自分の顔を覚えてもらおうとしているし、遠巻きにしている連中も、憧れの眼差しを向けたり嫉妬で嫌な顔をしたりと様々だ。
「圭、ちょっと顔色も悪いんじゃ──」
「立脇くんどうしたの? なんか用事? 聞こっか?」
「陸也ちょうどよかった! この前相談した件なんだけどさ」
 言葉を遮られた陸也の挙動が一瞬だけ止まる。あ、こいつはやばいと思ったときには、陸也はもう声をかけてきた数人の方へ振り返っていた。
「今、圭と話してるから」
 低い声で言った陸也の表情がどんなものだったのかおれのいる位置では見えなかったが、同級生たちの表情から推して知るべきだ。ボクシングの試合で陸也に猛攻を受けた対戦相手がする表情に、すごく似てる。
 いや、拳が出ないだけ成長したのかもしれないが。
「陸也、ちょっと」
 おれは席から立って陸也の肩を押し、人気のない廊下まで連れ出した。人気者が相手だと、ちょっとした会話ですら落ち着いてできやしない。
「お前な、話を遮られたくらいでいちいち殺気立つなよ」
 陸也はふてくされていた。口をすぼめて眉根を寄せる。普段学校では絶対しないであろう表情だ。
「あいつら、俺と圭が喋ってるところが見えてないのかな?」
「ただの雑談だから割って入ってもいいって思ったんだろ。よくあるよ」
「お前が蔑ろにされるみたいで、イヤだ」
「『イヤだ』ってお前……」
 数分の間だけ吹っ飛んでいた陸也への万感が、またぶり返した。とっさに目を逸らして壁際の窓に視線を向ける。
「……で? 何の用?」
「そうだった。ヤイバの最終巻の発売日が決まったんだよ」
 先ほどとは打って変わって嬉々とした声だ。恐る恐る正面を向いて相手の顔を確認すると、陸也はスマホを手に持ってカレンダーアプリを開く。
 発売日は十二月の中旬だった。
「うわー、よく考えたら受験シーズンだ……」
 陸也がスマホを持ったまま首を傾げる。
「俺ら、まだ二年だけどな?」
「先輩たちが大学受験に殺気立って一喜一憂する様を見て、『次はおれたちなんだ、うわぁ』ってビクビクしながら受験に備える時期だよ」
「なんだそれ、おもろ。いやごめん、その通りなんだけど……でも言い方」
 おれとしては、志望校に入れるかどうかの勝負の一年が始まるタイミングでもある。小学校の頃から勉強してるのに、いまだに受験への不安を拭えなかった。
「ある意味、今のうちに連載が終わってよかったかもな。年明けたら、もう一緒に会って漫画を読む余裕もなくなるだろうし」
「確かに。受験が終わるまで遊ぶのはお預けだな」
 陸也は『遊ぶのは』ってところでやけに語気を強くして、企みありげにちょっと歯を見せた。遊び以外ならおれを巻き込んでもいいと?
「この日の土曜日は、っと……お、登校日だけど授業は午前で終わるな。俺もその日は塾がないし、そのまま買いに行こう」
「わかった。空けとく」
 言ってしまってから気づく。
 この会話、ちょっとデートの約束みたいだ。
「当日、逃げんなよ?」
 片眉を上げて念押しをしてくる陸也に、ぎくりとした。
「に、逃げる理由がないけどな?」
 それに、今度こそインターハイ優勝祝いのプレゼントを渡さなければいけないし。
「じゃ」
 陸也は慌ただしく自分の教室の方へ去っていった。今日は本当に待ち合わせの約束をするためだけに、おれの所まで来たらしい。たぶん、ヤイバ発売日の情報が出てすぐに伝えたかったんだろう。
 対しておれは、その場を動けなかった。一拍遅れて心臓がバクバクと鳴り始めてしまったからだ。
「……っ、ばかじゃないのか」
 デートの約束だなんて、一瞬でもそんなことを思ってしまった自分に驚きだ。周りにいる様々な人間の憧れを一心に集めている陸也が、おれとの時間を無条件に割いてくれるのが、なんだか現実味がない。
 嬉しい、けど……。
 もうすぐ受験生になる大事な時期に、漫画や恋にうつつをぬかすなんて、昔のおれなら絶対にしなかった。いや、うつつを抜かずに済むように、高二の今まで陸也への気持ちをファジーにしてきたはずなのに。
 困った。
「鞘本くん、ちょっといいかな」
 収まらない鼓動を押し込めながら、教室に戻ろうと背中を向けた時、背後から声がかかった。
 振り返ってみて、二重(にじゅう)にびっくりした。
 ひとつは、一度も喋ったことがない相手が、おれなんかに声をかけてきたってこと。
 もうひとつは、声をかけてきた相手が傑名高校御三家の一人、藤公章(ふじまさあき)だったことだ。
「な、なに?」
 妙に身構えてしまって声が変な調子になる。だけど藤はおれには興味がないのか、整った眉や目を一つも動かさずに口を開いた。
「話があるから、ちょっと時間をもらえる?」
「はあ……」
 おれ、藤に声をかけられるようなこと、したっけ……。
 心当たりを思い浮かべてみたけど、まったくわからない。もしかしたらおれが夢にも思っていない事柄に怒り狂ってるのかも。
 さっきから藤のやつ、目が全く笑ってないし。たおやかな美形だけあって、真顔になられると怖い。
「単刀直入に言う。今後、陸也には近づかないでほしい」
「……は?」
 え、つまり……どういうこと?
 藤の口から出てきた言葉を色んな角度で考えてみたけど、よくわからない。
「あの、嫌味とかじゃなくて本当に疑問なんだけど、なんでそんなこと言われなきゃいけないの?」
「陸也が困っているから」
 藤はクソ真面目な顔でそうのたまった。
「いや、本当に意味がわからない。陸也がおれとつるむかどうか決められるのは、陸也本人だけだろ。それに、藤の目には陸也がどう困ってるように見えるの?」
「陸也はこれから、大事な時期なんだ。受験に、資格試験に、人脈づくり。陸也がいる世界は、少しでも気を緩めたら足元を掬われる。君のお家の経済環境からだと理解できないかもしれないけどね」
 相手との問答が微妙に噛み合わないのが、神経に障った。
「『足元を掬われる』って大げさじゃない?」
「そうかな。君だって、互いの価値観の違いが陸也の邪魔になるとわかっているから、今まで他人のふりを装ってたわけでしょ?」
「……」
 なんで藤はわかったような顔で、おれと陸也の仲を語って聞かせるんだろう。
 陸也はいつだって、おれが不自由している部分を天才的な発想で補ってきた。その代わり、陸也が感情を暴れさせた時は、おれのそばで吐き出してもらった。
 そうやってお互いに支え合ってきた。それがおれたちの『フツウ』だったんだ。でも、藤にはそれが『陸也がおれに気を使っている』ように見えるんだろうか。
「あんたに、おれたちの何がわかる?」
「少なくとも君の存在が、陸也から未来を選択する自由を奪っていることは確かなんだよ」
「……それ、どういう意味?」
 言っている意味がいまいち読めないおれを見て、藤は鳩が豆鉄砲を食らったような表情になった。だけどそれも一瞬のことで、すぐに納得顔になる。
「ああ。本人から聞いてないのか」
 いちいち癪に触る相手の言い方に怒り散らしたくなるのを、どうにか抑え込む。
「さっきから何が言いたいんだよ。はっきり言ってくれよ」
「陸也はプロボクサーの道を諦めるみたいだよ」
「……え?」
 プロボクサーを、諦める?
 この前会った時は、弁護士よりプロボクサーが性に合ってるかもって、言ってたのに?
「聞いてない」
 どうしてそんな大事なことを黙っていたんだろう。今まで何度もおれに打ち明けるタイミングはあったはずだ。
 もしかして、その黙ってる理由が『おれが陸也から選択の自由を奪ったせい』ってこと?
「君に何も言ってないってことは、やっぱり陸也は君に気を遣っているんじゃないかな」
「お、幼馴染でも知られたくないことの一つや二つあるだろ!」
「価値観や金銭感覚の違う相手とは仲良くなれないって、よく言うよね」
 藤は今まで装っていた無表情に、少しだけ軽蔑の視線を足した。
「でも陸也は優しいから、住む世界が違う人間を遠ざけたり蹴落としたりできないんだ」
「それ、おれの家庭の事情をさりげなくディスってる?」
「とにかく今後は陸也には近づかないようにしてほしい」
 藤は一方的に言いたいことだけ言って、勝手に「そういうことだから」と背を向けようとする。その肩を掴んで引き止めた。
「待って。プロボクサーを諦めることが、どうしておれのせいなんだよ? おれが陸也から未来の選択を奪ってるって、どういう意味?」
「本人が言ってないなら、僕の口から言えない」
 藤は呆れるほど無駄のない所作でおれの手を肩から払って、自分の教室に戻っていく。
「なんなんだよ……っ」
 何が起こったんだろう。この数分はなんだったんだ?
 おれは一人取り残された後も教室に戻る気になれず、その場で二、三歩廊下を行ったり来たりした。もう昼休みが終わってしまう。残り時間で、とりとめのない感情をどうにか落ち着かせようと試みる。
 つまり、だ。
 藤がおれに言いたいことを一言にまとめると、『身の程を知れ』ってことだろう。
「そんな言葉、今さらいちいち真に受けてられるか」
 今までだって、貧乏だ、片親だなんだと散々他人からバカにされてきた。だけどいつも陸也は、おれが貧乏でもシングルマザーの家庭でも、まったく気にしなかった。むしろおれが気にしていると怒った。
 だから今回だって、藤の言葉を真に受けておれが遠慮なんかしたら、陸也の方が怒るに決まってる。
「……ばかばかしい」
 結論。さっきの言葉は全部忘れて、これからもいつも通りに陸也と接すればいいんだ。
 少なくとも、十二月中旬に発売されるヤイバを一緒に読む約束だけはちゃんと果たさないと。
 逃げるなよって、あいつに言われたんだから。