授業とホームルームが終わって、部活前のちょっとざわついた時間。おれにとっては受験勉強のゴールデンタイム。
 いつもなら参考書を広げて早々と勉強を始めるところなのだが、今日はそうもいかなかった。スマホの画面を睨みつけてから、もう何分も経っている。
「プレゼントって、こんなに難しいのか……っ」
 インターハイ優勝の祝い品探しは正直迷走してた。だって、何だったら陸也がもらって嬉しいか、わからないんだよな。あいつは望めば自分の力で何だって手に入れられるし、誕生日もバレンタインも、クリスマスですら学校では紙袋に収まりきらないプレゼントをもらうようなやつだ。
 ハンカチ……は、もうたくさん持ってるだろうし、大学ノートだとありきたりだ。かといってグローブをはじめとしたボクシング用品を素人のおれが選ぶのはおかしい。ヤイバの関連グッズは打ち切りの煽りを受けた影響か、品薄で手に入らない。
 こう、ちょっと背伸びして万年筆なんてどうだろう……。
 ネットで検索したら、値段も質もピンキリで、どれが陸也に似合うかわからない。
「あ。そういやこの前、陸也が好きなブランドがあるって噂で聞いたような」
 廊下で男子か女子が話してたか、それとも校内の非公式ファンクラブの誰かが言ってたんだっけ。直接本人から聞いたわけじゃないけど。
 ブランドの名前を検索して、万年筆を探してみる。デザインはとびきりかっこいい。だけど……。
「ひとつ、にまんえん!?」
 これはちょっと値段が高すぎて、手に入らない。
 ああ、もう……一旦やめだ!
 スマホから目を離して、肩のこわばりをほぐす。勉強を始めてすらいないのに、勉強した後よりも疲れた気がした。
 そのまま遠くを見て数秒ぼうっとしていると、手の中のスマホがバイブした。
『ちょっと風邪引いちゃったっぽい。帰りに買い物する時、解熱剤とスポドリ買ってきて』
 母さんからのメッセだ。
『大丈夫?』
『大したことはないけど、せっかくだからちゃんと家で休もうって思って』
 ここ数年、母さんは風邪を引いたり熱を出したりしても頑なに休もうとしなかった。それが今日は、仕事を休んで家に戻るという。
 もちろん仕事を数日休んだ分、収入は減るはずだ。おれが奨学生になったことで負担が減ったって言葉は本当だったのか、それともいよいよ体の無理がきかなくなっちゃったんだろうか。
『わかった。ゆっくり休んで』
 返信しながら、頭の芯がひんやりしてくる。
 母さんが体調を崩してまで仕事を頑張っているのに、おれがこんなに浮かれていていいんだろうか。母さんが休んだ分、プレゼント代を家に入れたほうがいいんじゃないか。
「あの、鞘本くん……だよね? ちょっといい?」
 不意に名前を呼ばれて、びっくりした。
 見ると、おれの机のそばでスマホを両手に持った女子がこちらを伺っている。
 別のクラスの、知らない女子だ。何かの間違いじゃないのかと思って何度もまばたきをしたけど、彼女はどう見てもおれに用があるみたいだった。
「どうしたの?」
「クラスの何人かで、立脇くんのインターハイ優勝の祝賀会をしようって話になってて。サプライズだから、まだ本人には秘密なんだけどね」
「祝賀会」
「鞘本くんって、たしか立脇くんと同じ中学だったんだよね? もしよかったら参加しない? 私が集金係だから一応声かけたんだ。あ、藤くんと海堂も来るよ! ……っていうか二人が主催なんだけど」
「え、と。たしかに中学は一緒だけど、そこまで立脇くんとの接点は……」
「でもこの前、中間考査の結果が出た時に二人で喋ってたよね?」
 見られてたのか。
「みんな、鞘本くんってどんな人なのかなー、って話してたんだよね。立脇くんと知り合いだって誰も知らなかったし」
「あー、そうだよね」
 もしかして、女子がおれを誘うのは陸也の知り合いだからってだけで、あわよくばおれを通じて陸也と会話ができたらいいなって思ってるだけなのかも……。
 小学生や中学生の時と同じだ。女子がおれに話しかけてきたから、こんなおれでも仲良くしてくれる人がいるんだってぬか喜びしていたら、実はおれから陸也の好きな子のタイプを聞き出したかっただけ──そんなことが何度もあった。
 べつに、おれから陸也の情報を引き出すのは構わないんだけど、こっちは相手がともだちになってくれるかもと期待して会話してるから、そうじゃないってわかった時に裏切られた気分になるんだよな。
 過去の記憶をぼんやり引っ張り出していると、女子はおれがノーと即答しないことに安心したのか、さっきよりもちょっと饒舌になって祝賀会とやらの詳しい概要を話し始めた。
「祝賀会はちょっとしたパーティールームを貸し切るんだって。だからもし参加するとしたら、参加費とプレゼントのカンパ代をみんなで出す感じ」
 おれの頭の中に、陸也へのプレゼントと、母さんのメッセの文字が流れていく。
 母さんが仕事を休んで、もしかしたらちょっと生活費が減るかもしれない。個人的な陸也へのプレゼントを諦めても、パーティールームの貸し切りとカンパ代となると相当な額が飛んでいく。
「結構人数が集まる予定から、楽しいと思うよ」
「ちなみになんだけど、プレゼントって何をあげる予定なの?」
「今のところ、立脇くんが欲しがってるって言ってた万年筆になる予定。そこに『祝賀会メンバーより』って名入れするみたい」
 万年筆。
 一度は陸也に送ろうと思って、でも値が張るからやめた候補の一つだ。
「……ごめん、おれ、その日予定あるんだ」
「あ、そうなんだ。じゃあ仕方ないね」
 女子は案外すんなり引き下がった。おれが思ってたほど強く誘ったわけじゃなかったらしい。
「時間取っちゃってごめん」
 女子が背を向けて教室から出ていった。
 名入れの万年筆は、陸也にとって唯一無二の大切なものになるんだろう。たくさんの『おめでとう』がこめられたものだから。
 さっきまでハンカチやら大学ノートやら浮かれながらプレゼントを探して、その直後には出費を渋っていた数分前のおれが、なんだかひどく嫌なやつのように思えてくる。
「……そっか。おれ、浮かれてたのか」
 母さんの体調よりも自分を優先したプレゼントを貰っても、陸也は嬉しくないかもな。
 こういう時いつも、陸也をひどく遠くに感じる。
 ──嫌だ。おれを置いて遠くへ行くなよ。
 真っ先に思い浮かんだその感情を、心の中で無理やり打ち消した。
 スマホのブラウザに溜め込んでいたプレゼントの購入画面を全部消して、いつもみたいに参考書を広げる。
 目の前のことに集中するんだ。
 いい大学に入って、母さんを楽させて、そのために逆算して受験の対策を取って、塾には行けないからずっと続けてきた勉強を今日も続けて。
 そうして誰もが認める結果を残して初めて、陸也と肩を並べられる存在になる気がした。


        *        *

 いつの間にか日が経って、陸也と会う土曜日になった。今日は学校が休みで、陸也はボクシング部を夏に引退しているので部活もないようだ。
「陸也と休みの日に会うのなんて、かなり久しぶりだな」
 予定の時間よりちょっと早く待ち合わせの駅について、近くのファストフード店で参考書を広げながら時間を潰した。
 お祝いのプレゼントは、結局後ろめたくて選べなかった。ひどく情けない話だ──。
「──圭」
 耳元に、囁きが聞こえた。
 近すぎる吐息にビクリと肩が反応して、知らず顔を上げていた。目の前には私服姿の陸也が目を細めながら立っている。
 思わず手で耳元を押さえた。忘れよう、忘れようと何度も思い込ませていたキスの感触を思い出してしまって、目のやり場に困る。
 陸也は秋にふさわしいシンプルなパーカーに、黒いジーンズ姿をしていた。服のシックな色合いが、陸也の少し日に焼けた肌と引き締まった体つきによく合っている。
 くそっ、今日もムカつくほどかっこいいな! ほらみろ、テーブルを拭いている店員さんが陸也のきらきらしたオーラに当てられて固まってるだろうが!
「なっ、なんだよ。びっくりするだろ!」
 おれを見つめる陸也が、息を殺して笑う。
「そんなに驚くことないだろ」
「声かけるなら普通に呼んでよ、普通にさ」
「あんまり大声出すと周りに迷惑かな、と思って」
 陸也がおれの向かい席に座ってフライドポテトとドリンクの乗ったトレイを置いたと同時に、腕に引っ掛けていた紙袋を「ん」と差し出してきた。
「あ、ありがとう」
 受け取って中をちらりと見ると、『名双剣ヤイバ』の背表紙が見えた。二十九巻から続く残りの既刊、全部。母さんへの差し入れっぽいお菓子の箱も入っている。
「二人で会うのはほんとに久しぶりだなぁ」
 陸也がポテトに手を伸ばしながら言うので、紙袋を脇においた。「ほれ」とポテトケースの取り出し口をこちらに向けてくれる。一緒に食べようという合図だ。
「最後にどこかへ遊びに行ったの、いつだっけ?」
 と、陸也。
「二十八巻を一緒に買いに行った時以来かも」
「そんな前だっけ? 感覚的には昨日くらいに思ってたのに」
「それが打ち切りになっちゃうんだから──」
「言うなっ」
 さっきまでのキリッとした態度はどこへ言ったのか、陸也は盛大に溜息をついてテーブルに突っ伏した。
「俺と圭を繋いだバイブルが……っ!」
「繋いだって、そんな大げさな。白状するとあの時図書館で声をかけたのは、たまたまおれの周りに陸也をなだめられような人が誰もいなかっただけで……、司書さんがいたら多分声かけてもらえたはず」
「それでも、お前が俺を助けてくれただろ」
 昔の思い出を優しく愛でるような柔らかい声とともに、テーブルに突っ伏していた陸也が顔を上げる。
「あんときの俺、新しい漫画は図書館にあまり置いてないって知らなくてさ。圭が司書さんに問い合わせてくれたよな」
「それでヤイバの入荷がないってわかると、一にも二にもおれに実物を見せたいって本屋に引っ張ってさ」
「今になって思えば、勉強中のお前を机から引っ剥がすなんて、小さい頃の俺って相当やばいよな」
「いや、嬉しかったよ」
 実を言うとおれはあの時、握ってくれた陸也の手と、これから起こるであろう未来に期待して、ドキドキした。これまで一度だって、同級生とどこかへ遊びに行くことも、漫画の話もしたことなかったから。
 家のことや将来のことに漠然とした不安を抱えていたおれを、陸也はいつも明るい場所に連れて行ってくれた。
「懐かしいな……」
 ヤイバの話題も出たことだし、いざ堰を切ったように思いの丈をぶつけるタイムに突入か──と思ってたのに、陸也は変わらず頬杖をついて、柔らかい表情でおれの顔をいつまで経っても見つめている。
 その眼差しが普段見ている陸也のどの顔とも違うように思えて、なんだか落ち着かない。
「こんな定型文を誰かに口にすると思わなかったんだけど」
「ん?」
「おれの顔になんかついてる?」
 陸也は質問に答えず、目を細めながら小さく息を吐いた。
「よかった、いつもの圭だ」
「何言ってんの。おれはいつも同じだよ」
「今日も会ってくれるかどうか半信半疑だったんだよ。てっきり嫌われたもんだと……」
 前から思ってたけど、お前のその嫌われるって、なんだ?
「そんなわけないだろ。だって、お前はおれの……」
「親友?」
 陸也がおれの言葉尻を先取りする。
「……恩人、だから」
 とっさに口から出た単語は、どこか曖昧な陸也への感情の中で、一番的確な気がした。
「陸也には、いつも助けてもらってばかりだよ」
「そう? 俺が中学の頃なんて、暴れてる記憶しかないんだけど」
 高校のみんなに言っても絶対信じてもらえないだろうけど、と陸也が唇を弓なりにしてほくそ笑む。
「中学の時にお前がブチギレたことを言ってるなら、あれはおれの代わりに怒ってくれたようなもんだろ」
 中三の秋だっただろうか。一度は癇癪が落ち着いてきていた陸也が、いきなり同級生と取っ組み合いの喧嘩を始めたことがあった。
 おれは正直、たとえスポーツでも暴力的なものが嫌いだ。陸也が情操教育のために親からボクシングを習わされていたことは知っていたが、殴り合いを見るのが怖くて小学生以来は試合の見学を避けてたくらいだ。
 陸也は顔を真っ赤にして相手の顔を殴って、教師に引き剥がされて泣きじゃくった。おれは困り果てて、暴力は嫌いだと陸也に言った。
 『おれの母さんはおれが生まれる前、父親に殴られて逃げてきたんだ』と。
 当時の陸也はおれの言葉にハッとしたみたいだったけど、怒りそのものは収まらなくて。
 ──で、でもっ……、あいつが圭のこと『ガリ勉』って言ったんだ! お前はずっと、ずっと、お母さんを楽させたくて小学校の時から頑張ってるのに……悔しかったんだよっ!
 陸也の叫びを聞いたおれは、言葉が出てこなかった。
 自分でそうしたいと思っていたわけじゃないのに、喉がつかえて、涙が出た。
 受験の模試は結果がよくなくて、目指していた傑名高校へ行くには偏差値が思うように伸びずにいた。今思い返しても一番辛かった頃だ。
 当時のおれは、自分の苦労なんか誰も見ていないと本気でふてくされていた。そんな誰にも言えなかったおれ自身の不安や悲しみ、怒りを、陸也は代弁してくれた。それが嬉しくて、今まで押し込めていた感情が涙になって出てきたんだと思った。
 泣き出したおれを、陸也は仰天しながらも必死に慰めてくれた。
 ──俺にだけは吐き出してよ。じゃなきゃ、圭が破裂しちゃう。圭がつらい思いをしてるところを見るくらいなら、俺に八つ当たりしてくれたほうが数百倍いいよ。
「あの時、陸也にだけは吐き出していいんだって思えたのが、おれには救いだった」
 こうやって救われるたびに、陸也の存在はおれの中でどんどん膨れ上がっていく。憧れがともだちに変わり、いつのまにか幼馴染になって、それがあの日、恩人に昇華した。
 ……でも、そのあとは?
 これからおれたちは、一体どこへ向かうんだろう?
「あの時は俺だって圭に救われたんだよ。俺にとってボクシングって親に言われてただ習わされてるだけのもんだったけどさ、なんで言う通りにしなきゃいけないのか、その理由があの日にやっとわかった」
「ああ……」
「圭に『暴力は嫌いだ』って言われてから、俺が拳を振るうのが相手にどんな影響を与えるのか、その意味を深く考えるようになってさ」
 そういえば、陸也が暴れたり癇癪を起こしたのは、あれが最後だ。高校に入ってからはぱったりと暴力沙汰を起こさなくなった。
 その後はボクサーとしてどんどん高みへ上り詰めた。そして気づいた時にはインターハイで優勝する実力をつけたのだから、陸也のポテンシャルは恐ろしい。
 ……そういえば、学校での猫被りが始まったのも、その時からかも。
「陸也ならプロボクサーにもなれるんじゃないの? プロってどうやってなるか知らないけど……あ、でも弁護士目指してるんだったっけ。大学も法学部志望だろ?」
「実は、進路迷っててさ……」
「え、そうなの?」
 陸也は珍しく自信が揺らいだ笑顔で曖昧に唸った。
「最近、俺は弁護士よりボクサーの方が性に合ってるかもって思うんだよな。部活の顧問も、ジムのコーチも、プロで活躍できるって言ってくれてるし」
「すご。お墨付きってやつか」
「弁護士は、なってみないと合ってるかわかんないからな……ま、俺のことは今はいいんだよ」
 せっかくいつもと違う陸也の表情が見れたと思ったら、本人は心の底からこの話題を打ち切りたい様子だった。
「とにかく何が言いたいかというと、圭のおかげでインターハイに優勝できたようなもんだってこと」
「陸也が頑張った結果だろ。おれは何にもしてない」
 優勝まで応援もしてないどころか、インターハイ優勝のプレゼントも一度は諦めてしまったくらいだ。
「おれは陸也からたくさんの物をもらったのに、おれは陸也に何も返せてない。だからさっきの話に戻るけど、おれは陸也が嫌いとかじゃなくて、その……強いて言えば、おれはそんなおれ自身が嫌いっていうか」
「俺は好きだけどな、圭のこと」
「……え?」
 伏し目がちになった陸也の手が伸びて、テーブルに肘をついていたおれの手に伸びる。
 どきりとした。
「それって、どういう……?」
 もしかして、手を握られるとか?
 放課後の日差しがいきなり頭に思い浮かぶ。目を閉じていたのに、やけに生々しく感じられた唇の感触──。
 陸也の指先が、おれの着ているシャツの裾を撫でた。参考書の上で何度もペンを走らせたせいで擦り切れて、テカテカしているところを。
「裾が擦れるまで頑張るところとか、俺は好きだよ」
「……あ、ああ。そういうこと」
 顔に熱がのぼる。
 ばか。なんなんだよ。なんでこんなにオロオロしてしてるんだ、おれは。
「その分、圭は我慢しすぎて自分を押し込めちゃうところがある。それがちょっと心配かな。だから今日は直接話せて安心した」
 裾を摘んで撫でている陸也の手から、腕を引いた。陸也はおれの行為に抵抗しなかったし、それ以上の追求もしなかった。同じように腕を引いて、おどけた仕草で肩を上下させる。
「ま、もし今日会ってくれなかったら、また別の手を考えるだけの話なんだけどな」
「別の手って……はは、大げさだな。おれをふんじばって、ここまで引きずってくるつもりか?」
「それはいいな。逃げられないように圭を縛っちゃおっか」
「え……」
 表情も仕草もまったく変えずにさらりと言うものだから、ぎょっとした。
「そういう暴力的な冗談、おれ以外にはしないほうがいいぞ……?」
「はは。しないし言わない。ってか、お前がふんじばるとか言ったんだろ」
「すみません」
「それに、万が一お前に暴力を振るう奴がいたら、俺が絶対に許さない。それがたとえ、俺自身でも」
 そう宣言して、陸也は歯を見せた。
「暴力なんか使わなくったって、俺の諦めの悪さ、知ってるだろ?」
 相変わらず、陸也は小っ恥ずかしいことを面と向かってさらっと言う。
 さっきからぎょっとさせられたり、おれに小っ恥ずかしい思いをさせたり、感情のジェットコースターみたいなことをさせて、陸也はいったいどうしたんだろう?
「え……と。あ、そんなことよりヤイバの話、しよう。ほら、今日はそのために会っただろ? そういや、なんで打ち切りになっちゃったんだろうな?」
「え?」
 今度は陸也がぎょっとする番だった。
「圭まさか、打ち切りの理由をネットとかでまだ確認してないの?」
「そりゃ、ネタバレはいやだったし。打ち切りになるのが決まってるマンガの続きなんて、ネットで先に知っちゃったら読む気が失せるだろ」
 陸也からもらったまま隣の席に置いていた紙袋を、改めてテーブルに置く。その中からヤイバの続巻を出そうとした瞬間──ガッと手首を掴まれた。
「っ……!」
 全身が跳ねてしまうほどの強い力だ。
 手首を握ってきたのはもちろん陸也だった。
 陸也はこっちを怖い目つきで見ては、おれにだけ聞こえる声量で言う。
「ここでは出さないほうがいい」
「え……、どういうこと」
「理由は聞くな。とにかく、家に帰って読むことを強くオススメする。読めばわかるから」
「お、おう」
 な、なんだったんだ、今のは?


 それからの陸也との会話は、ヤイバの内容というより、ヤイバに絡んだおれたちの思い出話がほとんどだった。たぶん、ネタバレを避けていたおれへの陸也なりの配慮だったと思う。
 あっという間に帰りの時間になって、おれたちは駅で別れることになった。おれは電車で家に帰り、陸也はこれから塾だという。
「打ち切り最終巻は、必ず二人で買って、二人で読もうな」
 陸也が息巻いた。今時小学生だってこここまで期待にはち切れそうな表情なんかしないだろ、って表情だ。
「最新刊が出るのって、いつくらいかな?」
「今が十月の末だろ。次の本誌が連載最後だから、新刊は十二月下旬くらいになるんじゃないか?」
 十二月下旬……クリスマスが近いな。
「その時にまた、今日みたいに勉強の息抜きしよう」
 陸也の声が、ワントーン柔らかくなる。
 もしかして、そっちが本命なのかな。おれのことを気遣ってくれているのかもしれない。
「だったらその時に、インターハイ優勝のお祝いもさせてほしい」
 うつむかせていた顔を上げて、今度こそ陸也の顔を、ちゃんと真正面から見る。
「優勝おめでとう。ずっと言えなくて、ごめん」
「今言ってくれたじゃん。あんがとな」
「おれ、ほんとは今日プレゼント渡そうと思ってたんだけど、どうしても決められなくて……」
 陸也は怒ったり残念がったりするどころか、口元を緩めてニヤニヤしている。
「な、なんだよ」
「なにそれめっちゃ嬉しい」
「おい、話の趣旨わかってるよな? こっちは『プレゼントをあげられなくてごめん』って誠心誠意謝罪してるんだけどな?」
「圭の口から祝ってくれるのが嬉しいんだよ。しかも、プレゼントをどうしても決められなかったって、いったい普段からどういう生活してたらそんな可愛げあること言えんの!」
 こいつ、完全におれをからかってる!
 それに、プレゼントを今日あげられなかったのは、そんなにポジティブな理由じゃなくて……。
 説明しようと思ったけど、やめた。
 もしかしたら陸也は、おれとの関係が中学から何も変わっていないのだと思いたいのかもしれない。
「わかったもういい。とにかく最新刊のついでに、プレゼントを見繕って持ってくるってだけだから」
「うん。めっちゃ楽しみにしてる」
「期待するなよ。誠意は込めるけど金には限度がある」
「俺にとっては円より圭の誠意のほうが市場価値が高いんだな、これが」
「お前の市場でだけな」
 また明日と言って、改札をくぐった。
 振り返った先にまだ陸也がいることはわかっていたが、あえて振り返ってやらなかった。
 いつも陸也は一枚上手(うわて)だ。それがちょっと悔しかったから。
「あのさ、圭」
 歩こうとしたところに、背中から声がかかる。
 さっき決めたことを破って背後を振り返ると、陸也はなぜか少し泣きそうな表情で、それを隠すかのように手の甲で口を隠していた。
「なに?」
「ヤイバの続き、読み終わったらさ……」
「ん?」
「……感想、きかせてくんない?」
 なんで、そんな当たり前なことを改めて聞くんだろう。
 おれは相手の言葉に首をかしげるしかなかったけど、感想を聞かせること自体にはなんの問題もないから、手を振って相手の希望に対する答えとした。
 陸也の顔が『今は何も言ってほしくない』って訴えていたからだ。

        *        *

 家に帰ると、母さんはまだ帰ってきておらず部屋はしんとしていた。
 おれは早速持っていた紙袋からヤイバの続巻を取り出して読み始めた。勉強や夕食の買い出しなどよりもよっぽどこちらのほうが気になったからだ。
 二十九巻から順番に内容を追っていく。それから数巻までは今までと同じような、熱いバトルと王道展開、合戦の敵国との衝突や主人公たちの葛藤、絆がこれでもかという程盛り込まれていた。
 だけど、最新刊に近づくにつれ「ん?」と首をかしげる場面が多くなった。
「なんか……二人の距離、近くね?」
 ヤイバと卯月はお互いに『刀』と人間という間柄で、これまで何度も価値観の差ですれ違ってきた。だけどすれ違うなりに、お互いの受け入れられない部分や大切なものが何かを、何度もすり合わせてきたはずだ。
 それだけに、二人は必要以上にベタベタしない。むしろそれを美徳としている部分がある。
 なのに……。
 領主同士の合戦や、ライバルの『刀』たちの襲撃など、目の前にある問題をそっちのけで主人公二人はいつも一緒にいるようになる。なんかヤイバがくさいセリフを吐き出す。卯月がいちいち相棒の言葉にはにかんでいる。意味もなく手を握る。
 しかも、なんか二人で顔赤らめてない?
「ええ……、そうじゃないだろ……」
 こう、二人の関係はもっと──なんて言えばいいんだ? 尊い? というか、男の友情、っていうか? いや友情以上家族未満、相棒以上兄弟未満っていうか。つまり、手を握るとかお互いの顔を見つめて頬を染めるとか、そんなに簡単な記号で消化されるようなものじゃなかったはずだ。
 そして、発売予定の最新刊から、一つ前の巻。
 ヤイバが衝撃的なセリフを吐く。
『俺はお前が好きだ』
 とっさに本を閉じた。
 誰に負けたわけでもないのに敗北感がして、背もたれに背中を預けながら天井を仰いだ。
「そうじゃないだろ……っ!」
 アニメ放映が終わったことで一度は原作の人気が落ち着いてきたものの、ここ数年『名双剣ヤイバ』が再ブレイクしていたのは知ってた。
 その火付け役になったのが、ヤイバのキャラクターを『推し活』する大人の女性だということも知ってた。
 推し活の中には、自分たちで好きなキャラクターとキャラクターをくっつけさせる妄想が大好きな人もいるらしい、って話も聞いたことがあった。
「いや……いやいやいや。でも作者だけにはそれをやってほしくなかった」
 作者は何を考えてるんだ……。いや、編集者は何をしていたんだ。なんでこれを雑誌に載せられると思った?
 放心状態になりつつ、どこか冷静な思考でスマホを手に取って『ヤイバ打ち切り』と検索をかけてみた。
 一番に上の欄にネットニュースが出た。
『名双剣ヤイバが本誌打ち切りへ。作者自身による〝公式ボーイズラブ展開〟が少年誌読者の間で物議を醸す』
 ボーイズラブ、という単語がやけに目に入ってきた。
 やっぱりあれ、おれの大げさな勘違いじゃなくて、BLだよな。
「……今までの三十数巻は、なんだったんだ……」
 これが、おれたちのバイブルの末路か。
 窓から机に差し込んでくる西日が、顔に焼き付いて痛い。
 自分でも笑っちゃうくらい膝の力が入らないまま、椅子からなんとか立ち上がり、本棚の前でしゃがむ。整然と並んでいるヤイバの数冊を適当に掴んで、本棚から引き抜いた。
 漫画をどけたことで、背板にピッタリとくっつくいて隠れていた一冊の本が現れた。二十ページもないような、薄い本。表紙にはヤイバと卯月のイラストが描かれているけれど、こ出版社から出ている正式な漫画じゃない。
 これは、おれと陸也が中学生の時、新刊と間違って買った同人誌だ。
「そっか。だから陸也は……」
 ファストフード店からの帰り際、陸也がおれの手首を強引に掴んでまで続巻を読むのをやめさせた理由が、よくわかった。
 これの存在を思い出させるからだ。


 小学生の頃に誓った二つの約束──お互いに支え合って生きていくことと、ヤイバの新刊は一緒に買って読むこと──は、中学生になっても変わらず続けられていた。
 だけど一つだけ困ったことがあった。
 おれたちが中学の頃は、ヤイバが空前の大ブームで、何年か続いていたアニメはもちろん、映画化、トレーディングカード化、遊園地コラボ……とにかく街を歩けばヤイバのキャラクターを見ない日はないというほど人気だった。
 その影響か、新刊は出る度に飛ぶように売れて、在庫が品薄になったのだ。
 ネットで予約を取ろうにもおれはスマホを持っていないし、陸也がネットで買い物をするには親の許可がいる。新刊は発売開始の数時間後に売り切れるので、日中に学校があるおれたちが放課後本屋に駆け込んだところで間に合わない。
 仕方なしにおれたちは、生まれて初めて本屋の『取り寄せ』というものをやってみたけど、書店員さんには『入荷までは少なくとも二週間以上待っていただくことになります』と言われる始末だ。
 この難題にはおればかりか、いつもなら打開策を思いつく陸也もスマホを片手にうんうんと唸った。
『……どうする? 今日はやめる?』
 おれは陸也に提案したが、あいつは首をちぎれんばかりに横に振った。
『続き気にならねえの? ヤイバ死ぬかもしんないんだよ?』
『主人公が死ぬことはないと思うけど』
『ばかっ。あの作者、平気で登場人物を殺すじゃんか!』
 そうは言っても、どの本屋にも在庫がないのだから動きようがないじゃないか。
 本屋のはしごで足が棒になっていたせいか、そう訴える気力がおれには残っていなかった。
『お……ちょっとまって、おお!』
 すると、必死にスマホ画面に食いついていた陸也が、一気に顔を輝かせた。
『このお店なら「在庫あり」にマルついてる!』
『うっそ!?』
『いますぐ行かないとなくなっちゃうかも。ちょっと遠いけど、行こう!』
 とにかくおれも、ヤイバの続きは気になる。当時の陸也も、買ったところで隠しておくところがないって理由で雑誌を買っていなかったから、単行本でしか続きを読むことができなくてウズウズしていた。
 駅を乗り継いでやってきた本屋は、なんだか普通の本屋より大きかった。それに、本以外の品物もたくさんあった。文房具とか、キャラクターのキーホルダーとか、画材とか、そういうのも取り揃えている。
 本屋って、本だけじゃなくてなんでもある所なんだな。
 そう思いながら目的の棚にたどり着くと、ヤイバの在庫はたしかにあった。
 あったにはあったが……。
『なんか、ページ少なくない?』
『うーん。でもヤイバって表紙に書いてあるし』
『絵柄も、なんか……』
『でも最近のヤイバは、キャラの作画がよく変わるからな』
 おれの投げかけた疑問に対して、陸也にしては珍しく煮えきらない返事で否定する。もしかしたらあの時の陸也もこの本の何かがおかしいと思っていただんだろうけど、その小さな違和感は、続きを読みたい欲求のせいで見て見ぬふりされていたのかもしれない。
 陸也が本を持ってレジへ行き、購入した。そのままおれの家に帰って、誰もいない畳の寝室でふたりきり、その本を広げて読んだ。
『……』
『……』
 いつもなら『まだそのページ読んでない』とか、すごい展開がきたら『うぉー!』と叫んでいたはずのおれたちは、その本の衝撃的な内容を前にして、一言も声を出せなかった。
 最後のページをめくって、本が閉じられる。印刷されたインクの匂いが立ち上った。
 言葉を出すのが悪いことのような気がして、おれたちはどちらも黙っていた。その日も、西日は怖いくらい真っ赤な色で、おれたちの肌を刺していた。
 先に口を開いたのは陸也だった。
『なんか……、すごかった』
 たしかに、そうとしか言いようがない。
『ヤイバと卯月の距離、すっごく近かったよね』
 おれも、そうとしか答えられなかった。
 いや、近かったどころではないのだが。
 ここでは口にはできないような……保健体育ですら習わないようなことを、恋愛関係にないはずの主人公たちが、堂々と行っていた。
 この場合なんと言うのが正解なのか、誰からも教わっていない。
『なんか、いちゃいちゃしてたな』
『うん。いちゃいちゃしてた』
 もう一度表紙を見る。表紙は普通に、剣を構えるヤイバとその後ろで背中合わせになる卯月。なにも変なことはない。
 内容以外は……。
『これ、なんか、おかしいよな』
 陸也の呆然としたつぶやきに、頷く。
『うん。だって、ヤイバと卯月はたぶん、お互いキスしないよね』
『してもハグくらいだと思うな』
『だよな。二人の間の『好き』って、たぶん、そういうことじゃないと思うんだけど……』
 一通り『おかしいよな』『うん』を繰り返した後、おれは壁に掛け立てられた時計の針を見て、もう陸也が帰る時間だと我に返った。
『でもさ、男同士でも──』
『陸也、もう時間が』
 何かを言いかけた陸也に気づかず声をかけてしまったせいで、おれたちの声が重なる。
『あ、ごめん。なに?』
『なんでもない。その漫画、やるよ』
 陸也はそう言ったのち、おれの家を出るまでほとんど喋らず、帰路についたのだった。
 ずっと後になっておれは、あの漫画が作者じゃない別の読者が描いたもので、原作のキャラクターを使ってファンアートやファン漫画を書く完全非公式な創作物──二次創作というのものだと知った。
 でも、たぶんあの日のおれたちは、どちらもこれが本物の続巻じゃないことに気づいていた。シナリオなど無いも同然で、ただひたすら二人がいちゃいちゃしているだけだったから。
 だけど、おれはこの同人誌を捨てられなかった。
 その晩はずっと、間違って買った漫画のことばかりを考えて、考えて……。布団に入った時、気づいたのだ。
 ──男同士でも、あんなことしていいんだ。
 ──男同士でも、『好きな人』ってカウントしていいの?
 ──男、同士でも。
 ──陸也、とでも……。
 『男同士』がいきなり『陸也』にすり替わった瞬間が、忘れられない。
 寝返りを打って、この感情は悪いものなのではないかと、布団を頭まで被って誰にも姿を見られないように小さくなった。
 たしかにおれと陸也は友人というには親しすぎるかもしれない。いつも二人でいた。お互いに支え合って生きていこうと無邪気に誓い合い、真面目に守ってきた。
 その上でおれは、他の誰かにキスされるのが許せなくても、陸也にキスをされるのなら本望だと気づいてしまった。
 キスどころか、何をされたっていい。
 恋人になる段階なんかすっ飛ばして、結婚できるならしてしまいたい。結婚が『死が二人を分つまで』って言うなら、相手は陸也以外には考えられなかった。
 同人誌が捨てられないのは、その気付きのせいだ。
 だから今もこうして、本棚の奥に同人誌を隠している。
 ファストフード店からの帰り際、おれに見せた陸也の表情を思い出した。
 ──感想、きかせてくんない?
「……言えるわけないだろ……」
 たぶん陸也は、ヤイバの公式がボーイズラブ展開に走ったとおれが知っている前提で、会話をしていたに違いない。
 ──よかった、いつもの圭だ。
 そりゃいつものおれだよ、知らなかったんだから。
 知ってたら、まともでいられるはずがない。
 陸也が続巻をその場で読もうとしたおれを止めたのも……、公式がBL路線に走ったことをおれが知れば、間違えて同人誌を読んだ日を思い出させると思ったのかも。
「じゃあ……あの時のキス、は……っ」
 あれは、同人誌を読んだ日に対する、あいつなりの答え合わせだったんじゃないか。抱いた感情が、夢でも幻でもないと実感するための……。
 そうなると、別れる直前まで陸也としていた会話の意味ですら、百八十度すべて変わる。
 ──俺は好きだけどな、圭のこと。
 ──そうだな。逃げられないように圭を縛っちゃおっか。
 ──俺の諦めの悪さ、知ってるだろ?
 せり上がってきた熱に、口元を押さえた。
 苦しい。
 よくわからない感情に情緒をぐちゃぐちゃにされて、涙が出た。
「このタイミングで泣くとか……おかしいだろ」
 おれはずっと、自分の感情をあえて見て見ぬふりしてた。そのおかげで漠然としていたはずの感情は、陸也と会って漫画を受け取った今日になって、形を得てしまった。
 やっぱり、おれは陸也が好きだ。
 そしてきっと、陸也も同じ気持ちなんだ──。