おれが陸也と初めて話したのは、小学校高学年になりたての体育の時間だった。
 その時は体力測定の50m走をやっていて、合図とともに一人ずつグラウンドの直線コースを走ることになっていた。
 引っ込み思案で他の同級生の誰とも話しかけられなかったおれには、誰が速く走れるのか勝負しようと息巻いている男子たちの輪にも入れなくて、一人でポツンとしていた。
 おれが初めて見た陸也は、風を切り裂くみたいに走っていた。これ以上ないくらい楽しいって表情で、脇目も振らず、ただ速く走ることだけを考える真剣な眼差し。他の同級生の顔を覚えられないおれの目にも、立脇陸也という名前は早くから印象に残っていた。
『立脇くーんっ!』
『うぉーっ、陸也がまた一番だ!』
 女子が黄色い声援を飛ばす。男子が誰よりも速く駆ける陸也の姿に興奮の声を上げる。
 走り終えてこちらに戻って来る陸也は、全力を尽くしたって満足げな顔でキラキラ輝いていた。体育着は新品の白色で、シワ一つない。両親に新しいものを買ってもらって、きっとアイロンもかけてくれたんだろう。
 しかも靴は巷で話題になっている最新のキッズモデルだった。チラシやCMで『翼が生えたかのように軽やかに走れる』とか、『人間の足に合わせた細かい設計』とか、そんな謳い文句をおれたちの誰もが聞いただろう。クラスでも欲しいって言う人がたくさんいた中、陸也は早いうちからその運動靴を手に入れていた。
 つまるところ、当時から陸也はみんなの憧れを詰め込んだような存在だった。
 ──一度でいいから、あんなふうになってみたい。
 一瞬だけ火花みたいに散った感情は、自分の姿を見下ろしてすぐに消えた。体操着は知り合いのツテを探しまくってもらったお下がりだ。袖や裾は黄ばんでいて、自分の手でどれだけアイロンをしてもへなへなになってしまう。
 運動靴は履き潰してボロボロで、靴底とメッシュのつなぎ目がほつれそうだ。買い替えたいと一度言ったら母さんに渋られてしまった。
 陸也の靴──いや、誰の靴と比べても、自分の靴がみすぼらしいのは、幼心にわかっていた。
 なんでうちは貧乏なんだろう。そう思うたび、母さんに悪いことをしているようで恥ずかしかった。
『──なんだと、このっ!』
 おれの思考は、突然耳をつんざいた叫び声に阻まれた。
 びくりとして顔を上げると、さっきまで爽やかな笑顔でいたはずの陸也が、一人の男子の襟元を掴み上げて取っ組み合おうとしていた。
 あ。ケンカだ。
『せんせぇーっ!』
 ほんの少し場を離れていた先生に向かって、女子がしきりに叫ぶ。その間にも陸也は押し倒した男子の胴に馬乗りになって髪を掴んでいた。毛を一本残らずむしり取る勢いだ。
 男子の方も黙っているわけじゃない。陸也の手を引き剥がすため、腕や顔を掴んで遠ざけようとする。指の先が陸也の頬に掠って傷ができた。それでも陸也は怒りが収まらないのか、「うーっ」と唸って顔を真っ赤にしている。
『──何やってるんだ!』
 先生がやってきて、陸也と男子を引き剥がす。女子のうち何人かは泣き出すし、男の子は状況を説明しようと我先に言葉をまくし立てて、結局何を言っているのかわからないありさまだ。陸也に押し倒された男子もしまいには泣き出して、それを陸也が暗い目つきで睨みつけている。
 これにはさすがの先生もいささか混乱したようで、少し遠くで突っ立っていたおれに、すがるような視線を向けてきた。
 ぎょっとしたけど、もう遅い。
『鞘本、ちょっと立脇と保健室まで行ってくれるか?』
 なんで掴みかかった方を保健室へ連れて行くんだろうと思ったけど、陸也の膝が擦りむいていることに気づいて、納得した。
 おれは陸也と並んで歩いて、とぼとぼと保健室へ向かった。
 会話なんてあるはずもない。さっきまで頭の毛をむしり取ろうとしていた相手に話しかける勇気がなかった。おれはよくわからない気持ちで、自分が悪いことをしたわけでもないのに、うつむきながら歩いた。
『……うっ、ひぐっ……』
 耳元でむせび声が聞こえたので、顔を上げる。
 どういうわけか陸也は、目元を真っ赤にして泣いていた。とめどなく、ぽろぽろと涙を流して、目元を何度も拭っている。
 なんでさっきまで怒っていた人間が、泣いてるんだ……?
『だ、大丈夫? どこか痛いの?』
『あ、あいつ……俺が50m走で一番になれたのは、あの運動靴があるからだって言ったんだ。『オレだってあの靴があればお前なんかより速く走れる』って!』
『えっと……うん』
『お、俺、一位とかそういうのどうでも良くて、去年よりも速く走って、お父さんとお母さんに褒められたかったんだ。『立脇家の人間ならいつもベストを尽くしなさい』って言うから。だから毎日放課後に、れんしゅうしてっ……いっぱいはしって……』
『え、50m走のために練習したの?』
 陸也の肌が少し日に焼けているのは、走りの練習をしていたからだろうか。おれは勉強だけで精一杯で、体育の予習をしようだなんてちらりとも思ったことがなかった。
 陸也は目や口をしわくちゃにして、なんだかはち切れそうだなと思った時には感情を爆発させていた。
『お、おれが一番速く走れるのは、う、運動靴とか、関係ないんだよっ! あいつはどうせ練習すらしてないくせにっ!』
 何度も言葉をつっかえさせながら、最後にはうわーっ、と声を上げて泣いた。
 さっきまでキラキラと目を輝かせていた相手が、おれの前でだけわんわん泣いている姿に、なんだか肩の力が抜けた。
 おれは一人っ子だけど、たぶん、弟がいたらこんな感じなんだろうか。
『あんまり擦ると、肌がカサカサになっちゃうよ』
 涙でぐしょぐしょになった顔をどうしても放っておけなくて、何度も目を擦る陸也の手をそっと握って離した。
『えっと、たぶんだけどさ、練習いっぱいがんばったんなら、一位じゃなくったって、立脇くんがすごいってことは変わんないと思うよ』
 だって、おれには真似できないことだから。
『おれ……っ、すごい? 一位じゃなくても、すごいって言ってくれる? すごいの、ずっとかわんない?』
『うん。だっておれ、ついさっきまで、運動靴や服を買い替えられなくて、恥ずかしいって思っちゃってた。君みたいに練習するって考えなんか、まったく思いつかなかったよ』
『ん……?』
 陸也がこちらの存在を初めて知ったとでも言いたげに、頭から爪先を何度も眺めた。たぶん、おれの服装に意識を留めたことがなかったんだろう。
『おまえんち、金ないの?』
『うん。でも、お金なんかなくたって、おれも走りの練習して何か一つでも一番になれてたら、母さんを喜ばせられたかな』
 校舎に入る戸口の前で、陸也が立ち止まる。その手を握っていたおれも、つられてその場で立ち止まった。
 濁ることを知らない瞳が、またさっきのような輝きを取り戻す。
『50m走の順番がまだ来てないなら、測定の時におれの靴と交換する?』
『え……?』
 その提案は、おれの頭で考えてみても、とても魅力的な気がした。
『……いいの?』
 さっきまでの涙が嘘みたいに、陸也は赤くなった目元をぎゅっと細めて、屈託なく笑う。
『いいよ!』


 あの日におれは確信した。陸也は世界一すごいやつなんだって。
 おれが一生かかっても思い浮かばなかったことを、なんの打算もなしに提案してくれる。初めてしゃべった相手にすら、自分の新しい靴をためらいなく交換してくれる。
 保健室で手当したあと、おれたちはとびきりの作戦を思いついた同志みたいに運動場へとんぼ返りした。そして、おれのぼろぼろな靴と、陸也のぴかぴかの靴を交換した。
 交換した靴を履いてみると、新品特有の硬さがして、親指が痛くて、なによりサイズが陸也のほうが大きくて、かかとが脱げそうだった。そんな状態で走ったおれの50mの記録はビリに近かった。
 それでも、いつもなら憂鬱に過ぎるはずだった体育が、あの時間だけは眩しかった。
 それ以降、陸也を他とは違う特別な人間なのだと認識し出すと、いろんな事実が後からおれの目についたものだ。
 たとえば、テストの時も陸也は常に一位だったな、とか。
 陸也の学力も努力の結果なのだと知ってから、おれは必死になって机にかじりついたが、一度だって陸也を追い越せなかった。それでも、陸也は毎回『頑張ったな!』とおれを労ってくれた。
『圭、塾に通ってないんだろ? 俺はほら、塾で授業よりも先に問題を解いてるだけだからさ』
 成績ではなく頑張りを誉めてくれた陸也に、嫉妬する気は起こらなかった。今にして思えば、あいつはただ何事にも熱量があるだけで、癇癪もその一つに過ぎなかったんだろう。
 おれの中で陸也の存在は、あの日からどんどん膨れ上がっている。
 中学の初期までは、殴る、蹴る、憤る、感極まって泣くと、あれだけ喜怒哀楽の激しかった陸也が、家の裕福さや本人の能力も相まって、高校受験期や傑名高校入学時からはさらに頭角を露わにしていった。
 おれは変わらず机にかじりついて、毎日授業の合間の休み時間ですら参考書を広げ続けていた。なのに、あいつとの差はどんどん開くばかりで。陸也の周りには、裕福な者、共に将来を担う者、一芸に秀でた者たちなどで溢れかえっていた。
 いつの間にか、遠い存在になってしまった陸也。
 今も毎日勉強しなきゃ満足に結果も残せず、親孝行も出来ないおれ。
 学校内外問わず、男女どちらの羨望をも一心に受ける陸也。
 何事にも必死で、一人のことで精一杯で、他人に口下手なままのおれ。
 今や陸也は傑名高校生徒を代表する一人だ。国立大の法学部への入学は確実視されていて、父親の立脇さんは自身が代表をしている大手弁護士事務所を、将来的に陸也へ継がせたいと思っているようだ。ボクシングはインターハイで優勝まで上り詰めた。
 あいつの華々しい将来を考えた時、おれの存在はあいつの邪魔にしかならないかもしれない。
 いや、邪魔か邪魔じゃないか以前に、陸也はもうとっくにおれの手には届かない存在になっていた。
 だからおれはあの時(・・・)、陸也には極力近づかないと決めたのだ。

        *        *

 寝込みをキスされてからの数日間は、学校で陸也がおれに話しかけてくることはなかった。
 やっとおれの態度に愛想を尽かしたんだろうか。いやまさか。目的のためには粘り強さをこれでもかと見せる陸也が? あいつが『嫌いだと圭の口から聞くまでは納得できない』と言ったのなら、絶対に追及の手を緩めないはずなのに。
 その疑問が解けたのは、キスをされてからおよそ一週間後のことだ。
 家で漫然とスマホを眺めていると、画面に現れたポップアップに思わず椅子の背もたれから背中を離した。
『やばい』
『助けて圭』
 ……陸也からのメッセージだ。
「『助けて』って……え?」
 背中からぞわりと寒気が走った。
 陸也に何かあったのか?
 まさか事故に遭ったか、あるいは身内が亡くなった? それとも受験に関わる何かが起こったんだろうか。怪我をした? 病気? まさか警察沙汰になったりしてないよな?
 もしも陸也に何かあったら……どうしよう。
 とりあえず、安否を確認しなければ。勉強とか今日の夕飯の買い物とかはとりあえず全部後にして、一にも二にも電話ボタンを押した。
 耳に当てるとコール音がする。まだ二度か三度しか鳴っていないのに、電子音の無機質さにイライラした。
 そして何分間にも思われたコール音が唐突に途切れて、電話越しに誰かの息遣いが聞こえた。
「陸也? 陸也だよな?」
『……け、い』
 電話越しに聞こえた陸也の声は、いつもの覇気も気力も失って、震えていた。おれに電話してくるまでにどれくらい苦しんだのか、声から察せられる。
「どうした? 今どこ? 何があった? 話せそう?」
『う……な……』
「え、何? よく聞こえない」
『打ち切りになった……』
「え?」
 うちきり……? うちきりって、何が?
 電話越しにまで聞こえる深い息継ぎの後、陸也は思い切り叫んだ。
『ヤイバが打ち切りになっちゃったんだよぉおっ!』
「……は」
 陸也の口から発せられたのは、おれが聞くのを覚悟していた単語とはかけ離れていた。事故でも、遭難でも、病気でもない。もちろん警察沙汰でもない。
「打ち切りって、え? ヤイバってあのヤイバ?」
『そうだよ! 俺たちのバイブル! 『名双剣(めいそうけん)ヤイバ』!』
「打ち切りって?」
『だからっ、次の連載を最後にヤイバが打ち切られちゃうんだってば!』
 そのまま、電話を切ってしまおうかと本気で思った。
「じゃ、おれ勉強あるんで──」
『おい待て! いや、お願いします、切らないでください』
 耳からスマートフォンを離す直前、陸也が鼻をすする音がしたので、とりあえず電話を切るのは思いとどまった。
『お前はショックじゃないのか? ショックだろ? 俺はもう立ち直れないんだけど』
「なあ、おれがどれだけ心配したと思ってる? 『助けて』なんて言うから、てっきりお前が事故か何かにあったのかもって」
『圭、俺のこと心配してくれてたんだ?』
 陸也の声のトーンが一気に跳ね上がった。おれはまんまと相手の術中にはまったのだと気づく。
「……するよ、そりゃ。しますとも」
『ごめん、騙すつもりじゃなかったんだよ』
「いや。ヤイバの打ち切りに泣くほどショックを受けた点は、紛れもない本心だってわかってるけどさ」
 『名双剣ヤイバ』は、おれたちが小学生の頃から今日まで連載を続けている少年漫画だ。いや、打ち切りが決まった今となっては『連載を続けていた』が正しいかもしれない。
 ヤイバは連載開始当初から、雑誌についている『面白かった作品』アンケートで一位を取るほど爆発的な人気を持っていた。
 アニメ化もしたし、当時はキャラクターソングもバンバン出してた。ここ数年じゃコラボカフェとか、アニメ版声優のトークショーとかで女子の人気も高まっていたって話だ。ああ、あと謎解きコラボとかもやってたっけ。
「ショックだよな」
 おれと陸也も例に漏れず、小学生の頃からヤイバにハマりまくっていたから、最低限の気持ちはわかるつもりだ。
『ショックだよ、ショックすぎる。なのに思いの丈をぶつける相手がいない!』
「あいつらがいるだろ? いつも一緒にいる……」
公章(まさあき)恭介(きょうすけ)も、ひどいんだよ!』
「誰? ……ああ、藤と海堂か」
 二人の下の名前って、そんなかっこいい字面(じづら)だったのか。
『あいつら、少年漫画は低年齢層の読み物だってバカにしやがるんだ! ありえないだろ!』
「いや、それは、まあ……ひどいな」
『だろ!?』
 学校で聞くような紳士然とした猫かぶりの陸也とも、藤や海堂といったインテリたちと知的な会話を繰り広げる陸也とも、全然違う声だ。
 おれの知ってる陸也だって、安心できる声。
『ってことでさ、今度の放課後空いてる?』
「え?」
 気を抜いたのもつかの間、相手の提案にぎょっとした。
「いやそれは……」
 陸也に会う未来が現実的になり始めている流れはよくない。非常によくない。
 こいつ、寝込みにキスをした幼馴染と平気で会おうっていうのか? ……いや、逆か? おれが狸寝入りをしていたことに気づいていないからこんな大胆のことができるのか。
 いっそいつもみたいに、忙しいとか受験があるからとか理由をつけて陸也の提案をはねのける手を使うしかないと思ったけど、ここでおれが過度に陸也を避けてしまったら、キスの瞬間に狸寝入りしてたってことがバレてしまうんじゃ……。
 そうなったら、陸也を傷つけてしまうかもしれない。
 それに直接会うのは、陸也がいきなりキスしてきた理由を探れるチャンスかもしれないし。
「放課後はダメ」
 陸也とおれが一緒に下校なんかしたら、周りがびっくりする。
『やっぱ忙しい?』
「……いや。休みの日がいい。土曜なら空いてる」
 ガタッと、何かが動く音がした。陸也が椅子から立ち上がったのかもしれない。
『え、ホント? 会ってくれんの?』
「うん。ショックなんだろ。だったら早く吐き出したほうがいいよ」
 それに、なんだかんだ言ってヤイバはおれにとってもバイブル的存在だ。陸也との会話に気を取られていて感覚が麻痺していたが、今になって打ち切りのショックがおれの胸にも押し寄せてきた。
 あのヤイバが……。
 今は週刊誌を追っていないからなぜ打ち切りになったのかはわからないが、正直、打ち切られるような内容を読むくらいなら積極的に理由を知りたいとも思わなかった。
『じゃあこの際、高校入ってから買ってたヤイバの既刊も持ってくから』
「え、なんで?」
『確かお前、高校入ってから雑誌も単行本も追ってないって言ってたよな? 俺の漫画は大人になるまで圭に貸し出すってのが約束だったろ?』
「あー……、そうだった」
『圭……? 俺とお前で誓ったあの日の約束を、まさか忘れたとか言うんじゃないよな……?』
 陸也が低い声でうめいた。こちらを威圧する凄みと、おれが本当に小学生の頃の約束を忘れていたらどうしようと恐怖する感情とがないまぜになっている感じだ。
 そういうちょっとこどもっぽいところは、相変わらずだな。
「忘れるわけないだろ」
 あれは、50m走測定で初めて会話をしてから数日後だったか。小学校近くの図書館でのことだ。
 陸也は当時親に漫画を禁止されていて、密かに買っていたヤイバの数巻を没収されたらしく、図書館に在庫がないか漫画の棚を見に来たのだ。
 泣きじゃくりながら漫画の棚を見渡す陸也に声をかけたら、ヤイバがなんだの、捨てられただの、続きが読めなくてつらいだの、いつか親を殴っちゃいそうだの、いきなり激情をまくしたてるからびっくりした。
 だからおれは、事情を順序立てて話すようにお願いした。おれがヤイバを知らないと言うと、陸也は驚いた顔をしたものだ。
「陸也がものすごい勢いでストーリーを説明し出したのが、すっごい記憶にこびりついてるんだけど」
『ヤイバを知らないなんて人生損してる、って思ってたからな』
 『名双剣ヤイバ』は端的に言ってしまえば、刀を擬人化したシリアス歴史バトルものだ。
 ヤイバたちのいる世界では、村や城下町で暮らす人とは別に、『刀』と呼ばれる、己の心の形を剣に具現化した存在がいる。
 『刀』は人間とは比較にならないほど好戦的だ。人の集落があれば刃が血を欲する本能を抑えきれなくなるし、『刀』同士がひとたび出会おうものならどちらかが壊れるまで戦いを続けるという、いわば戦闘種族だ。
 『刀』は人から疎まれ、為政者には国取り合戦の手駒として使い倒される運命にある。
 そんな世界観の中、『刀』である主人公・二刀流のヤイバと人間の攻防や絆を描いた少年漫画が『名双剣ヤイバ』だ。
 ヤイバの内容を説明する陸也の嬉々とした表情や、爛々と輝く瞳がおれには眩しかった。そして陸也はおれの手を引っ張って、本屋まで連れて行ってくれたのだ。
 陸也はラミネート包装された実物を指さして、おれに「ほら」と言った。
「今だからわかるけど、あの時の陸也は、おれが漫画をその場で買うもんだと信じて疑ってなかったんだよな」
 実際は紙の本を買う余裕もなければ、スマホも持っていなかったから電子書籍も買う手も使えなかったんだけど。
『あの頃はまだ、お前の家の事情とか知らなかったから……。ごめん』
「謝ることじゃないだろ」
『いや。『漫画買えない』って圭が寂しそうに言うもんだから、俺、『じゃあ俺が買ってやる』って言っちゃっただろ?』
「あぁ……」
 陸也が自分のお金でおれの漫画を買おうとするから、当時は貧乏をバカにされてるみたいで、嫌だったのだ。相手に悪気なんかなかったはずなのに、『施しなんかいらない』といったような意味のことを、陸也に言ってしまった。今だったら『気持ちだけありがたく受け取っておく』と言えただろうけど……。
 そうしたら陸也が、こう提案してきたのだ。
 ──じゃあ今度から、ヤイバの最新刊が出る度に俺が買って、読んだら圭に貸すよ。俺が大人になった時にヤイバが完結したら、そんときに返して。
 初めての50m走の時も、ヤイバの漫画を買えなかった時も、陸也はいつも二人で助け合える方法を模索してくれた。
 それ以来、おれたちはヤイバの最新刊が出る度一緒に本屋へ寄って、額を突き合わせながら中身を読んで、自分の金で買ったはずの本を陸也はおれに預けてくれた。
 そうして六年間の間に積み上がった二十八巻分が、今はおれの本棚の中にあるというわけだった。
 あんなに昔の約束、まだ覚えてくれてたんだ……。
 とはいえ陸也は成長する過程で、ちゃんと言葉で親を説得する術を身に着けた。そのおかげで二十九巻からは、晴れて堂々と彼の自室に置いておくことができている。だから、あんな約束を律儀に守っておれの手元にない残りの漫画を持ってこなくてもいいはずなのに。
『じゃあ、会うのは決まりな。当日はお前んち行くから』
 思い出に浸っているところに、陸也がとんでもない提案を吹っかけてくる。
「『お前んち』って……。待て、陸也がおれの家に来るってこと?」
 高校生になってから一度も家に招いていなくて、ろくに話していなくて、すっかり背も体つきも変わった陸也を、こんな狭いワンルーム同然の部屋に……?
「い、いやいやいや、いいよ。漫画重いだろ。おれが陸也の家の最寄り駅まで行くから」
『そうしてくれると助かるけど、お前は大丈夫なのか?』
「大丈夫って?」
『圭、ここ最近お金ないって言ってたから』
「あ……」
 陸也と顔を合わせるのに気が引けて、誘いを金欠で断っていたのが仇になった。
「こ、交通費と飯代くらいはある! おれだってバイトしてるし」
『そっか。たしか自学教室のスタッフだっけ』
「とにかく家は絶対だめ。散らかってるし、狭いし」
『じゃあせめて、おばさん用の手土産持って帰ってよ。会えてないお詫びにさ』
 その手土産にかこつけて、引き出物レベルの高級な菓子とかをほいと母さんに渡すつもりじゃないだろうな?
「お、お構いなく」
『なんか声裏返ってね?』
「裏返ってない!」
『とにかく土曜な、土曜。すっぽかすなよ』
 やっぱり、陸也と会う流れはどうやっても避けられそうにない。
 いや、難しく考えるな。いつもみたいに陸也と顔を合わせればいいんだ。ヤイバの連載打ち切りに対する陸也の思いの丈を受け止めて、適当に時間つぶして、帰る。なぜキ……いや、なぜ〝あんなこと〟をしたのかは気になるけど、あの日の出来事を忘れようと決意したのは、おれ自身だし。
「わかったよ。じゃあ。……うん、おやすみ」
 通話を切って、スマホを耳から離す。ただ通話をしていただけなのに、なぜか息が切れ切れになっていた。
「はあ……」
 スマホを参考書の上に置く。
 陸也が昔の思い出を掘り起こしたせいで、勉強する気なんてとっくに失せてしまっていた。


 正直あの日の陸也との記憶は、買った漫画の内容なんかよりも、本屋からの帰り道で陸也と交わした会話のほうが鮮明に記憶に残っていた。
『鞘本はなんで図書館にいたの?』
『放課後は毎日あそこで勉強してる、から』
『へー。塾は? 自習室使えばいいじゃん』
『塾は行ってない。おれんちにはお母さんしかいなくて、通うお金がないんだ』
 陸也は目をまんまるにした。彼にとっては、塾に行っていない小学生がいることが驚きだったみたいだ。
『じゃあ、いつも図書館で勉強してんの? すげえ! たぶん俺だったら、ともだちと喋ったり本読んだりして集中できないと思う』
 貧乏をバカにされるかと身構えていたら、陸也は図書館で勉強している部分を純粋に驚いてくれた。
 だから、おれも普段なら絶対に人に言わないようなことを、口から出せたのだと思う。
『……今から言うこと、笑わない?』
『笑わない!』
『塾は行けないけど、おれ、将来はお金のかからない大学に行きたいんだ。お母さんに少しでも楽させてあげたいから。だからせめて、家でダラダラしないようにって思って』
『えーっ、今からもう大学のこと考えてんの? おれそんなこと一回も考えたことない。すっげえなぁ、圭は!』
『え、お、おれ……すっげえ?』
『うん! すっげえよ!』
 すごい、だなんて自分でも自分のことをそういうふうに考えたことはなかった。
 いつもおれは、人にあって自分に無いものばかりに目を向けていた。体操着が新品かお下がりか、とか。月にもらえるお小遣いがいくらだ、とか。テストの点数が一位の人とどれだけ差があるか、とか。
 おれは興奮で頬が火照って、笑いたいんだか泣きたいんだか、よくわからなくなった。
『おれは……立脇くんのほうがすごいと思うけどな』
『そう? 嬉しい! あんがとな!』
 帰り道、陸也とおれの家にそれぞれ枝分かれした道の前で立ち止まる。陸也は約束通り、買った漫画の入った袋ごとおれにヤイバを〝貸して〟くれた。
 そして、照れくさそうに笑ったのだ。
『なんか俺たちって、ヤイバと卯月(うづき)みたいだな』
『ウヅキって?』
『相棒!』
 陸也が力強く唱える。
『ヤイバは『刀』だろ? 『刀』には一生で一人だけ、『鞘』として人間とケイヤクを結べるんだ!』
 ケイヤク、という言葉を受けた時、おれの背中になんだかゾクゾクとしたものが走った。
『ケイヤクを結んだ『刀』は、ただ周りを傷つけるだけだった力を制御できるようになるんだよ!』
『そ、そうなんだ』
『今度からさ、ヤイバの最新刊は二人で買って一緒に読もうぜ。そんで、読んだ本はお前に貸す! この前運動靴を交換したみたいに、勉強も親のことも、足りない部分は二人で補っていくんだ。ヤイバと卯月みたいに!』
 陸也はおれの手をガッと掴み、腕相撲のように強く組んで引き寄せた。
『俺たち、ずっとずっと、二人で支え合って生きていこうな!』


 ──陸也と誓いを立てたあの日は、小学校の思い出というにはあまりにも鮮明な記憶で、今もおれの胸を締め付けてくる。
「よく考えたらあいつ、二回しか話してない相手に距離感ゼロだよな」
 まあ、そこが陸也の美徳なんだけど。
 学習机の横にある小さな本棚に、改めて目を向けた。参考書や図鑑、辞書や小説などが空間を占領する中、漫画は唯一『名双剣ヤイバ』だけが置いてある。一巻から、二十八巻まで。
 当時の陸也にとって、バイブルである漫画を大人になるまで貸すなんて、ほとんど譲ってしまうに近い決断だっただろう。
 椅子から下りて、本棚の前にしゃがむ。
 なんとなく手に取った十巻を開いてみると、主人公のヤイバが卯月の肩を強く持ち、真剣な表情を突きつけていた。
 ヤイバを倒そうとする敵たちが『鞘』となった卯月を狙い続け、卯月が『自分は弱くて役立たずだ』とヤイバから離れようとする。それを、他ならぬ最強の力を持ったヤイバが引き止める。読者の中でも屈指の人気を誇る場面だ。
『何があっても、俺がお前を守る』
『だが──』
『俺はお前の剣だ。そうだろ? おまえが俺の鞘であるように』
『……僕が、君の鞘であるように……?』
 ゆっくりと、漫画を閉じる。
 おれが今まで腐らずやってこれたのは間違いなく、ヤイバを貸してくれて、お互いに助け合おうと言ってくれた陸也のおかげだ。
 当時の陸也は、ただ大好きなヤイバの登場人物ごっこをしたかっただけかもしれないけど、高校生になった今も律儀にあの約束を守ってくれている。
 おれは、そんな陸也のことが──。
「……やっぱり、インターハイ優勝のこと、直接『おめでとう』って言おう」
 次に会う時、お祝いに何か買って送ろうかな。
 それくらいなら、陸也の邪魔にはならないはずだし。