私立傑名(けつめい)高校は、国立大学進学率ナンバーワンの進学校だ。しかも、卒業生に政治家や実業家が多いせいか、〝政治家の道に一番近い高校〟だなんて言われているらしい。ウソかホントかは知らないけど。
 もちろんその分、試験期間は地獄のひとことに尽きる。
 自主性を重んじるとかなんとかで、教師は授業時間に試験の答え合わせをしない。だから学生同士で対策を打っておかないと、とてもではないが次の試験には生き残れないと来たもんだ。
 そんな傑名高校の二年生、しかも二学期となると、内申やら学内評価やらが大学受験に大いに絡んでくる。だから当然、今回の中間試験で上位だった人たちに、みんな群がっていくわけで。
「だからって、これはちょっと……」
 午後の授業が終わった昼下がり。掲示板に中間試験の学年順位が貼り出されると、廊下は同級生たちでごちゃごちゃし始めた。殺気立っている男子や女子が学年上位の人たちに群がるせいで、歩きにくいったらない。
「もう少し、周りを見て歩いてほしいよな──(いた)っ」
 知らない女子がおれの肩にぶつかった。
「ごめんっ」
 謝りながらもおれを振り返りもせず、女子が一直線に向かう先は──ああ……もう、勘弁してくれ。
立脇(たてわき)くん、二位だったね! すごすぎ!」
「この問題なんだけどさ、わかんなくて。今から陸也(りくや)んとこの教室行っていい?」
「あ、オレも!」
 やっぱり陸也だ……。
「じゃあ全員、このあと教室集合な? 一緒に答案を見てこう」
 群がった人たちに陸也が応じる。はにかみながらも歯を見せる笑顔に、女子の数人が口を引き結んだ。たぶん黄色い悲鳴を押し殺したんだろう。
 わかる。あいつには抗えない魅力があるんだよな。
 一見細腕に見えるけど、ボクシング部に所属しているから脱いだら腹筋が割れてるところとか。少し焼けた肌に精悍な目元をしているところとか。これには女子のみならず、男子の視線も陸也を追ってしまうくらいだ。
「陸也、試験もいいけどそろそろ部室に顔出してくんない? 後輩のモチベがさ……」
「じゃあ、明日の朝練に抜き打ちで行っちゃおうか?」
「立脇くん、駐輪場の清掃なんだけど、やっぱ人集まんなくて。ごめん」
「謝らなくていいよ! 俺も参加するから」
 学校での陸也を一言で表すと、『宮沢賢治の詩みたいなやつ』だ。
 病気とは無縁な丈夫な体を持ち、文武両道なのに奢らず精進し、誰にも分け隔てなく接する。南に死ぬほど困ってるやつがいれば無条件で手を貸し、北にケンカがあれば行って仲裁してやり──とにかく、そこに立っているだけで誰からも好かれ、羨望をもらう存在だ。他の人間なら許されない発言も、陸也なら許される……なんてこともしょっちゅうある。
 ──ふと、相手の一挙手一投足、会話の一つ一つを眺めて、追って、実況している自分に気づいた。
 相手にそれを悟られる前に、目をそらす。
「立脇のやつ、インターハイ優勝して試験も二位とかバケモンだよな」
「親が弁護士なんだろ? くそーっ、遺伝か!」
「やっぱ家が金持ちだと、生まれた時から教育が違うんかなぁ」
 おれのそばにいた人たちが、陸也には聞こえない距離から、ため息とともに口々に漏らす。
「俺らと同い年なのに、どういうふうに生きてきたらあんな完璧なやつが出来上がるのかな?」
「……」
 彼らの会話にとっさに反論しかけたけど、思い直して口を閉じた。
 そんなことより、自分の順位を見に行かなきゃ。
「で、おれは何位だ……?」
「──(けい)、三位だったよ」
 掲示板に歩み寄ろうとしたところを、背後からかかった声に引き止められる。
「えっ、三位? うそ──いや、ホントだ!」
 掲示された学年順位にも、ちゃんと三位に『鞘本圭』の名前がある。
 私立学校とはいえ、おれは奨学金をもらってるから成績上位をキープしておかないと立場がなくなってしまう。最近ちょっと成績が伸び悩んでて不安だったけど、これなら現状維持どころか、記録更新だ!
 来年も奨学金が続けられるかも。嬉しい。生きた心地がする。
「やっ、た……! うわぁ、マジでほっとした。──いや、ちょっと待て」
 はて、おれの順位をわざわざ教えてくれた親切な人はいったい誰だ?
 背後を確認して、とっさに肩が跳ねた。
 お互いの視線がかち合うと、相手の顔がぱっと明るくなる。
「……陸也?」
「圭、また順位上げたな?」
 待って。いや、勘弁してほしい。この状況でおれに声かけてくるなんて、どうかしてる!
「な、なんのつもり」
「なんの……って。三位なんてめっちゃすごいだろ。それに、俺と順位並んでるのも嬉しいって言いに来たの、おかしいか?」
「いやそうじゃなくて」 
 おれの声は変につっかえた上、陸也はきょとんとしつつ会話を止めようとしない。
「圭が三位だったのに、なんで誰も勉強を教えてもらいに来ないの? 俺が試験の復習お願いしたいくらいなんだけど」
「い、いやいや、普通はよく知らない相手に勉強を教えてもらおうと思わないからじゃない?」
「じゃあ俺が圭のことをみんなにプレゼンするか」
「頼むからそれだけはやめろ……じゃなくて!」
 ただでさえ陸也と関わらないようにやってきたのに、向こうから近づいてきたら台無しだ。なのに、なんでこいつは平気な表情でいられるんだ!
「あれって……鞘本(さやもと)、だっけ」
「え、陸也と鞘本って知り合いなの?」
 危惧したそばから同級生たちがざわめき始めた。おれと陸也との間柄を探る人たちを横目に見て、思わず上履きに視線を落とす。
「なんで急に、おれに話しかけてくんの」
「真剣な話、どうしてもわかんない試験問題があってさ、教えてほしいんだ。ここんとこお前が俺を避けてるのは知ってたけど──」
「それはお互い様だろ」
 おれがお前を避けてるのを知ってて、同じように一年半も黙りこくってたのは、陸也だってそうだ。
「……なのに、なんで今さら」
 ここまで言ってもなお、陸也はおれの顔を真っ直ぐに覗き込む。その視線が痛い。
「嫌いなら嫌いって、お前の口からはっきり言ってほしいんだよ。そこまで言われたら、理由はともあれ俺も学校で無理に話しかけたりしないから」
 お前を嫌いだって?
 馬鹿言うなよ。
 気を抜いたらいつまで経っても顔を見つめてしまいそうで、相手の視線に抗うのに苦労しているくらいなのに。
 陸也からにじみ出る魅力は、イケメンだからとか、優しい素振りをするからとか、紳士だからとか、そういう上辺だけのものじゃない。もっと、根底にある魅力だ。周囲の羨望をなんとも思っていない様子とか、笑顔を見せた時の愛嬌とか、言葉がうまく出てこない時の紅潮した頬周りとか。
 ……だから俺はお前のことがダメなんだと、そう説明できればどれだけよかっただろう。
「このままだとホントに、一生会話できなくなっちゃうような気がしてさ。圭、俺を助けてくんない?」
「それ、試験問題のことだよな?」
「そうやってはぐらかすの、もうやめろ」
 あ。いつもの陸也だ。
 いつもの癇癪(・・・・・・)が、普段は猫を被っている心の隙間から、ほんの少しまろび出た気がした。
「ほかの人なら、どんな態度をされたってどうでもいい。だけどお前とだけは、このままでいるのはムリ。俺もお前から目を背けるのは、もうやめるから」
「……ただ、大学受験が終わるまでできるだけ静かにしたいってだけ」
「受験終わったら元通り接してくれんの?」
 陸也が無邪気な頃の声に立ち戻って、核心を問いかけてくる。
 おれの頭の中で、まだ声変わりしていない頃の陸也の声が、鮮明に響いた。
 ──俺たち、ずっとずっと、二人で支え合って生きていこうな!
 かつて、おれたちはそう誓い合ったはずだった。
「……陸也さ」
「うん」
「猫被るの疲れちゃった?」
 しまった。やっぱ言わなきゃよかった。
 陸也が疲れきっていたところで、もう〝完璧な人間〟をやめることなんかできないのに。
 そう思ったと同時に、陸也の背後で声がした。
「──あ、あそこだ。陸也!」
 理想の陸也を待ちわびている同級生たちが、おれたちの立ち話の間を縫って声を掛ける。
「おーい、陸也ぁ! 助けてくれー!」
 『ノートを移させて欲しい』だの、『もう先生来るよ』だの、同じクラスの奴らがしきりに陸也を呼んでいる。
「行ったほうがいい」
「だけど」
「じゃ」
 おれの方から強引に話を終わらせて、自分の教室に戻る意思表示に手を挙げる。
 陸也は一瞬迷ったみたいだが、複数の声に押される形で、諦めて自分の教室へ戻っていった。おれと、同じ教室で切磋琢磨する人たち、そのどっちが優先度が高いのか、ちゃんとわかってくれたみたいだ。
 そうして陸也の姿が見えなくなってから、やっとおれは肺の中に溜め込んでいた息を吐き出すことができた。
 ホームルームも終わった教室内が、放課後に向けて一斉に動き出した。塾へ行く人は帰り支度を。まだ部活を引退していない人は部室へ。彼らを横目に見つつ、おれは席に座ったまま大学受験用の参考書を取り出す。
 学校内での評価は成績だけじゃなくて部活の成果も関わってくるから、傑名高校に所属する大抵の学生は何かしらの部活に入っている。帰宅部なんておれくらいしかいないだろう。
 だけどそれも仕方のないことだ。部活に入ればその分お金もかさんでしまうし、塾に通う経済的余裕もないので独学で受験に備えなきゃいけない。そう考えると、部活に使っている時間を勉強に割いても足りないくらいだ。
 でも、大学受験さえ終われば……。
 ──受験が終わったら元通り接してくれんの?
 陸也の言葉を思い出して、ペンを走らせる手が止まる。
 たぶん、陸也との関係は綺麗さっぱり元通りとはいかないだろう。おれとあいつの住む世界は、ずいぶん変わってしまったから。
 いや今思えば、おれたちは最初から別々の世界に住んでいて、たまたま中学卒業間際まで奇跡が続いただけなのかもしれない。
「勉強中に別のこと考えるなよ、おれ」
 秋も深まってくると差し込む午後の西日が心地よくて、集中力が散漫になってくる。あくびがでそうになるのをどうにか噛み殺した。
「ここ数日、中間試験対策で睡眠時間を削ってたしな」
 伸びをして、眠気を追い払う。
「……よし」
 ペンを手にとって参考書に取り掛かった。


 設問とにらみ合ってから、どれくらい時間が経ったんだろう。
 妙な音がして、意識が戻ってきた。軽くて規則的な音だ。
 何だ、今の。足音……?
 頭がぼんやりしてる。まぶたが重くて目を開けられない。
 あれ……。おれ、何やってたんだっけ。さっきまで参考書の問題を解いてたはずなんだけど。
 もしかして、寝落ちた? 机の上に突っ伏してんのかな。
 頭のどこかでは早く起きて勉強を再開しなきゃって思う反面、本能は『まだ寝ていたい』とおれの思考力をもう一度奪おうとしていた。
 ちょっとだけ。あと数分だけ寝てしまおう……。
 意識がもう一度沈みかけた瞬間、さっき感じていた微かな足音がもう一度やって来て、近づいて──止まった。
 ちょっと、怖いんだが。誰かが忍び足で近づいてきて、おれを起こしもしないで、ただ目の前で立ち止まったってこと? そんな状況で目を開けるなんて、勇気がいるどころの話じゃない。
 混乱していると、口元に何かが触れた。なんだろう。何が起こってる?
 ──そう思った時にはもう、唇が塞がれてた。
 柔らかな、だけど確かな感触がする。
「……」
 息を押し殺す。
 寝ぼけているとか、風が当たったとか、虫がいるとか、そんな曖昧な感触じゃない。これは気のせいじゃない。
 何かが、おれの唇に、当たってる──。
 なんだ……これ。
 え、どういうこと。
 指の先とはぜんぜん違う感触だ。おれの唇が全部覆いかぶさるくらいのもの。だけど机につっぷしているような冷たさじゃない。参考書の無機質な感触でもない。
 それよりもっと、やわらかくて、あたたかくて、それが触れた瞬間に、心臓から全身がドッと高鳴りを感じるもの。
 キスだ。
 おれ、キスされてる。
 だれに……?
 本当ならこんな不意打ち、犯罪級にやばい。寝込みを襲われるのと同じだ。いつもだったら飛び起きて教室から逃げて誰かに助けを求めるレベル。
 だけど、まぶたを開ける勇気がない。
 この目で相手の正体を確認するのが、怖かった。
 おれの唇に優しく触れてくるそれは、いつだったか、おれが欲しいと思っていた感覚そのもので……。
 ふと、唇から温かさが離れた。その瞬間に感じたよくわからない名残惜しさに、机の上に置いていた指がちょっとだけ跳ねてしまった。
 カラン、とペンが落ちる音がする。
 間を置かず、今度は誰かがおれの髪に触れる。指の先で、ほんの少しだけ、まるで壊れ物に触れるみたいな力加減で。
 そして、おれに口づけをしたその相手が、かすかに声を漏らす。
「……圭」
 ──学校でおれの名前を呼ぶのは、たったひとりだけ。
 何度も、何度も聞いた深い声音は、間違いようもなくあいつの声だった。
 なんでそんな、寂しげな声でおれを呼ぶんだろう。いつも学校で飽きるほど名前を聞いていて、いつだって会話をしようと思えばできて、さっきだって、おれの感情なんかお構いなしに、向こうから話しかけてきたじゃないか……。
 髪を浅く梳いていた指が離れる。
 机のそばにあった人の気配が離れていって、やがて、小さな足音が教室から遠ざかった。
 それでもおれは、しばらく狸寝入りをやめられなかった。
 数十秒後にまたあいつが戻ってきたら、どうしよう。どんな顔をすればいい。おれが途中から起きていただなんて知られたら……。
 あるいはこれも、疲労がおれに見せている都合のいい夢なんだろうか。
 薄く目を開ける。茜色に染まった教室は、部活で出払って誰もいない。おれはやっぱり参考書を下敷きにしながら机につっぷしている。
 だけど、さっきの出来事が夢だとは思い込ませてくれなかった。おれの指の先から床に落ちたペンが、今はちゃんと参考書のページの隙間に置かれていたからだ。
 ゆっくり身体を起こす。首や肩が凝り固まっている。だけど痛みよりも驚きで胸がいっぱいだった。
 恐る恐る、唇に手を持っていく。
 あの感覚は、やっぱり夢でも嘘でもない。
 いまさらになって身体がカッと熱くなる。狂おしい感覚がする。なんで、どうしてって感情に、ぐるぐるとめまいがした。
 泣きそうだった。
 だってあれが、おれの……、初めてのキス、だなんて。
「……なんで……」
 なんでこんなことしたんだよ。
 なあ、陸也。

        *        *

 帰りの電車の中で、寝落ちした分の遅れを取り戻そうと参考書を広げたけれど、陸也がしたことの意味を考え始めてしまって全然集中できなかった。結局家に着くまでの一時間半を、答えの出ない問題に漫然と思考を費やしながら電車に揺られた。
 都営団地の古びた階段を登り、回覧板が出ていたのでそれを手に持った。鍵を取り出して開け、狭い玄関に入る。
 とにかく、家では何事もなかったみたいに振る舞わないと。
「ただいま」
「おかえりぃ」
 廊下のすだれの向こうから、気だるい声がした。
 リビングに入ると、夜勤前の母さんがテーブルに座って、疲れた顔をうつむかせていた。だけどおれを見るや否や、クマの浮かんだ目元を無理やり上げて笑う。濃い化粧と他所(よそ)行きの服はきらびやかなはずなのに、どこか陰が差しているように見えた。
「おかえり。中間試験どうだった?」
「フツウ。大学受験に影響がない成績で、ほっとしたかな」
「頑張ったね。あ、あと、昨日置いといてくれた進路希望見たよ」
 母さんは言葉とともに、テーブルに置かれている紙切れをおれに返してきた。一年生の時から定期的に配られている進路希望調査の、最終調査票だ。家に帰ってきた時母さんがうつむいてたのは、これを見てたからか。
「ほんとにこれで大丈夫? 志望は全部、国公立大?」
「傑名高校だと志望校なんてみんなこんなもんだよ」
「私大は受けないのね?」
「そこ全部落ちたら、おれ就職するから」
 これ以上、母さんに苦労なんかかけさせられない。
「……そう。そこは昔っから変わんないんだね」
 母さんは嬉しいんだか悲しいんだかよくわからない表情で口をすぼめて、テーブルに肘をつきながら、もう一度進路調査票を眺める。
「お母さん思うんだけど、圭はもうちょっとワガママになってもいいんだよ? 傑名高校にも奨学生で入ってもらって、お母さんの負担もだいぶ減ったし」
「……」
 おれは、狭い部屋の中を視線だけで見渡した。
 キッチンとリビングがほとんどニコイチになった部屋と、寝室。このアパートの部屋の間取りはこれが全部だ。寝室は心ばかりのカーテンで仕切ってあって、片方はおれの勉強机が空間を占領してしまっている。
 母さんはシングルマザーで、仕事はおれが高校に入った今も昼と夜の掛け持ちだった。だから学費が浮いたところで、受験の参考書代に、毎日の三食に、納める高い税金に……奨学生だのバイトだの、おれがしている微々たる金策に比べれば、まだまだお金が湯水のように消えていくのが鞘本家の現状だ。
 ワガママに振る舞えるものなら、とっくにそうしてる。
 だけど、ワガママは選ばれた人間の特権だと思うのだ。
 ……そんなことを面と向かって言ったら、母さんはきっともっと悲しむだろうな。
「今だって十分ワガママだよ」
 顔を合わせないよう寝室に移動して、学ランを脱いだ。母さんもこれ以上進路について議論する気はなかったみたいで、すぐに「あ、そうそう」と壁越しに声を跳ねさせる。
「陸也くんの記事、見つけちゃったんだよね」
 ワイシャツのボタンを外す手が、止まる。
 さっきまで忘れていたキスの感触が蘇りそうになって、首を強く振った。
 だめだ。今は思い出すな。
「陸也がなんだって?」
 寝室から顔だけ出してリビングを見ると、母さんがおれの方まで歩み寄って、スマートフォンの画面を印籠のように見せつけてくる。
 ネットニュースのスポーツ欄だ。
 そこには、ボクシングのリングを背景にして、トレーニングウェア姿で写真に映っている陸也の姿があった。
「陸也くん、夏のインターハイ優勝したんだって? すごいじゃん。『今後も活躍が期待される将来有望な選手』だってさ」
 なぜか本人でもない母さんが自慢げな表情だった。
「あー、これたぶん、傑名高校(うち)のボクシング部の部室だ」
「コメントするのそこ? 陸也くんを見なさいよ、この極限まで絞られた肉体をさ」
「……しってるよ」
 あいつの体脂肪率がとんでもないってことも。この笑顔は絶対作り笑いだ、ってことも。
「あいつ、いつの間に取材なんか受けてたのか」
 本人はもてはやされるのがそこまで好きじゃなかったはずなのに。
 別の写真には、グローブとハーフパンツで構えを取る陸也のショットがあった。たぶん、この前のインターハイの試合中に撮られたものだ。割れた腹筋に、血管の筋が浮き出た腕、汗しぶきまで、写真は陸也の全部をあまさず写している。さっきまで遠くで見ていた陸也と同一人物だとは、とてもじゃないけど信じられないくらいだ。
 だけど、対戦相手を捉える眼差しはやっぱり陸也で……。
「陸也くんから何にも聞いてないの? さすがにメッセくらいはしてるよね」
「いや、まともな連絡はもうずいぶん取ってない」
「同じ学校にいるのに?」
「よく見て。陸也以外にも傑名高校生が紹介されてるでしょ」
 思わず、半笑いになる。
「ほら、試験で毎回学年一位を張ってる書道家。全国模試も現国で一位取るような人だよ。こっちは、柔道部で主将をしてる警視総監の息子さん」
 家が書道の家元だかなんだかで超金持ちの(ふじ)とかいうやつは、送り迎えも車でしてもらってるって話だし。警視総監の父を持つ海堂(かいどう)の家では『将来の官僚がすることじゃない』って理由でバイトを禁止されている、なんて噂もある。
 三人はお互いに気が合うのか、学校内で一緒にいるところをよく見かけた。三位一体(さんみいったい)って感じだ。取材側もたぶんそれを知ってて三人を取材したんだと思う。
「陸也の周りって、こういうすごい人たちばっかなんだよ。だから、今の陸也がおれとつるむわけない。住む世界が違いすぎる」
「そう? 陸也くんに限って、そんな子じゃないと思うんだけど──」
「母さん、時間やばいよ。仕事遅れる」
 陸也の幼い頃の思い出を語ろうとする母さんを遮って、そのまま玄関へと送り出した。
「いってらっしゃい」
 家の中に一人きりになると、しんと静まり返った部屋が一段と冷たくなった気がした。
「冬にはまだ早いはずなんだけどな」
 もう一度寝室に戻って、途中だった着替えを済ませた。
 小学生の頃は、一人で夜まで留守番するのが怖くて何度も泣いた。そしていつも泣き疲れて、そのまま寝てしまう。だから次の朝には涙なんかとっくに乾いてしまうのだ。夜勤明けで疲れた寝顔をしている母さんを見ていると、自分から「寂しい」だなんてとても言い出せなかった。
 当時の心細さを漏らした相手は、やっぱり陸也だけだ。
 ──陸也くんから何にも聞いてないの? さすがにメッセくらいはしてるよね。
 母さんの声が頭の中で響く。
 私服に着替えて学習机の席に腰を下ろす。机に置いていたスマートフォンを手に取って、陸也とのやり取りが残っているメッセージ画面を開いた。
 一番最後のメッセは画像だった。数学の設問をスマホで撮ったたもの。画像が送られてくる前に、写真についての一文が添えられている。
『俺のヤマカンだと次の中間にこの問題が出るはず。たぶん。でもこれワケわからん。教えて』
 おれだってわからなかったし、もっと頭のいい同級生なんていくらでもいるだろ、とも思った。同時に、おれなんかにまだ連絡をくれるのが嬉しかったのも事実だ。手元の参考書から似た問題をピックアップして解読に四苦八苦し、納得いく答えと解き方を記した写真だけをメッセに返信した。
 陸也からは、
『神! あんがとな』
 と返ってきた。
 そうしたら本当に当日のテストでその問題が出るんだから、驚いた。勘というレベルでは済まされない。天性のギフトを持っているとしか思えなかった。
 画面をスクロールしてメッセの履歴を遡る。
『ヤイバの最新刊読んだ?』
『漫画買う金ない』
『今度中学の何人かと遊ぶ予定ができたんだけど、圭行かねえ?』
『ごめん。パス』
 会話を始めるのはいつも陸也で、それを一言で終わらせてしまうのが、おれだ。
 そうしているうちに陸也からはメッセの来る頻度がどんどん減って、中間試験の問題を除くと最後にメッセージが来たのは夏休み前だった。
 万事こんな調子なのに、おれが陸也と幼馴染だなんて、学校で言えるはずがない。
 関係を築き上げるための時間はものすごくかかるクセして、壊すのにかかる時間はなぜか一瞬だ。人はこうやって知らないうちに、友人を失っていくんだろう。
「そういや、インターハイ優勝のお祝い、何もしてなかった」
 タッチキーボードを打って、メッセを入れる。
『インターハ』
 ふと手が止まった。
「……都合の良いときだけこっちから話しかけるなんて、不義理も甚だしいな」
 こんなに冷たく接していれば、普通の人間なら嫌になって離れていくはずなのに、陸也は不義理なおれに対しても昔と変わらず接しようとする。いや変わらないどころか、むしろ──。
 スマホを持っていないほうの指が、無意識に唇を撫でる。なんだかすごく、後ろめたいことをしている気分だった。
 なんで陸也はいきなり全部をすっとばして、おれにキスなんかしたんだろう。
「……いや、忘れよう」
 寝ているところを狙ったってことは、陸也もきっとおれに気づいてほしくないはずだ。
 キスのことは事故か何かだと思って、綺麗さっぱり無かったことにしようと心に決めた。
 メッセに途中まで打った『インターハ』の文字を消す。
 仲が良かった頃の記憶をしまい込んで、手に持っていたスマホを机に伏せた。