有坂春子はスマホのアラームを止め、ゆっくり瞬きをした。
(まだ眠い。でも、仕事……)
三十路を目前に控えてイマイチ疲れの取れなくなった体をベッドから起こし、床に素足をつける。廊下に繋がるドアのすき間から、嗅ぎ慣れた〝煮干しだし〟の匂いが漂ってきた。
それだけで寝起きの憂鬱さがふっと軽くなるのは、同居人の千明暦が用意してくれる朝食が、格別に美味しいからだ。
「おはよー暦さん。今日のお味噌汁の具は?」
着替えとメイク、そしてストレートボブのヘアセットまで済ませた春子が、キッチンでてきぱきと動く暦を背後から覗く。
クールな目元をした暦は、この家で唯一の和室に住まう五十六歳。おくれ毛の一本も許さないひっつめ髪がトレードマークで、いつも和服姿。こうして料理をする時は、昔ながらの白い割烹着を身に着けている。
何人もの男性と結婚遍歴があるが、最後の結婚相手だった男性とも結局うまくいかなかったらしい。
離婚の際の財産分与で、この一軒家を与えられたという話だ。
家の他に受け取った資産も相当なものらしく、まだまだ働ける年齢の暦だが、定職には就かず気ままに暮らしている。
おかげで春子は会社から帰って来るたび、幼少期に専業主婦の母が家にいてくれた時のような安心感を覚える。
母親なんて言ったら暦が怒るのは確実なので、口にはしないが。
「里芋とネギよ。ご飯は自分でやんなさい」
彼女は春子専用の椀に味噌汁をよそって手渡し、隣のコンロで鮭を焼き始める。
すでに味のついた塩鮭ではなく、生鮭を自家製のタレにつけて小麦粉をまぶし、フライパンで焼いてくれる。加熱しながらじっくりとタレを絡めている間、キッチンにはえもいわれぬ甘じょっぱい香りが漂った。
ふっくらと炊けたご飯を茶碗に注いで春子が席に着くと、はじかみと青じそを添えた鮭が絶妙なタイミングで出てくる。
さらには作り置きのこんにゃく炒めと暦特製の海苔の佃煮まで登場し、春子の目が輝いた。
(全部ご飯に合うやつ……!)
旅館の朝食とまでは言わないが、平日の朝にこれほど充実した朝食を食べている独身の会社員は少ないだろう。
暦の真心と料理の腕に感謝しながら、春子は「いただきまーす」と両手を合わせる。