2 ガッビアーノ、ラ・ピッコロ
日曜のお昼少し前、私はミニシアター(ガッビアーノ)へ行った。
(ガッビアーノ)とはイタリア語でカモメという意味らしい。
駅から線路沿いに歩いて数分、グレーと黄色と白の四角い建物が見えてきた。建物の正面にはカモメのレリーフが飾られている。小ぶりだがなかなか立派な映画館だ。
日曜だから混んでいるかもしれないと心配したが、ワインカラーのカーペットのロビーには客が数えるほどしかいなかった。
図書館のように静まり返った中、小声で話をしているのは黒いソファに座った年配の男女のみ。他の客はグッズ売り場や壁際に並べられたチラシを静かに物色している。
私はチケット売り場で、三十分後に上映される昔のフランスのミュージカル映画の座席指定をすました。トイレに行ってから売店でコーラとホットドッグを買う。遅く起きたのでまだなにも食べていないのだ。
開場を知らせるアナウンスが流れると、私と老夫婦はもぎりの若い女性にチケットを渡して入場した。細い通路を進んで開いたままのドアの中に入る。
私は中央の見やすい座席に腰をおろし、自分の部屋にいるようにくつろいで映画を鑑賞した。客同士離れているので、ホットドッグを食べる音も気を使わないですむ。
古い映画なので大きなスクリーンで観るのははじめてだった。ラストの別れのシーンになると涙がこぼれていた。
映画が終わって館内が明るくなると、少し残っていたコーラを飲み干してからロビーに戻った。
出口に歩いていくと、ソファに座っている人が私を見ていることに気づいた。それはひかるちゃんだった。
彼女は手を振ると立ち上がって駆け寄ってきた。黄色いチェック柄のワンピースにロングブーツがよく似合っていた。
「賛歌さーん。すごい偶然」
「ほんとだね。ひかるちゃんも映画観に来たの?」
「はい。なに観たんですか?」
私は壁に貼られている映画のポスターを指差した。
「ひかるちゃんはこれから観るの?」
「そうなんですけど、上映までまだ一時間もあるんです」
ちらっと上目遣いで私を見て微笑む。
「賛歌さん、お昼まだなら一緒にどうですか?」
「私、映画観ながらホットドッグ食べちゃったんだけど……」
「駅前のカフェなら軽いものがありますよ。行きましょ!」
彼女はダッフルコートに袖を通すと、私の腕を引っ張って歩き出した。
寒い風に吹かれながら駅まで戻り、軽いランチも出すチェーン店のカフェに入る。
窓に面したカウンター席に並んで座ると、ひかるちゃんはにこにこしながら私を見つめた。
「いつもお店でちょっとしか喋れないから、こうして一緒にお茶できて嬉しいです」
「ほんとに?」
彼女は頷いて、卵のサンドイッチをつまんで一口食べる。咀嚼して飲み込んでから笑った。
「私、あんまり友達いないんですよ。学校でもいつも一人で、こうしてお茶するとかもなくて」
「意外。ひかるちゃんて友達いっぱいいそうに見えるもん」
「別に仲間はずれにされてるわけじゃないんです。自分から距離を作っちゃうんですよね」
私は孤独だった学生時代を思い出して小さく頷いた。
「わかるかも。私も一人でいることが多かったから」
「賛歌さんこそ、明るくて話しやすいから、大勢の友達に囲まれてたんだろうなぁって思ってたんですけど」
「そんなことないよ」
私は苦笑して、チーズケーキをフォークで切って口に運ぶ。
「賛歌さんはなんで一人でいたんですか?」
予知のせい、とは言えない。
「私もひかるちゃんと同じだよ。自分から距離を作ってたんだと思う」
私は紙ナプキンで口を拭いてから、映画館のほうを向いだ。
「話は変わるけど、小さい時、父親に(ガッビアーノ)に何度か連れていってもらったんだよね」
「お父さんも映画好きなんですか?」
「うん。特に古い映画がね」
父に映画館に連れていってもらったのがきっかけで、私は映画に興味を持った。
「いまでもたまに一緒に観に行くんですか?」
「ううん、いまは行かないかな」
ちらっと私は腕時計を見た。一時半。あと十分ぐらいしたら、映画館に戻ったほうがいいよと声をかけよう。
「賛歌さんのお父さんって、なんのお仕事してるんですか?」
「普通の会社員だよ」
「お母さんもお仕事してるんですか?」
「うちの母親は離婚して家を出てったから、ちょっとわからないな」
ひかるちゃんはあっという顔をした。
「ごめんなさい、余計なことを……」
「いいのいいの。気にしないで」
彼女はしょんぼりした様子でサンドイッチを齧る。
私は笑いながら軽く彼女の肩を叩いた。
「そういえばチケットくれたとき、ひかるちゃん、あんまり映画観ないって言ってたよね。今日は特別観たい映画があったの?」
「いえ……実は(ガッビアーノ)で知り合いが働いてるんです。どうせ家でゴロゴロしてるなら、映画でも観においでって誘われて、しかたなく」
バツが悪そうに説明するひかるちゃんを見て、私は笑ってしまった。
「あの、また無料チケットをもらったら、誘ってもいいですか? 今度は一緒に映画を観たいです」
「もちろん、いつでも誘って。あ、もう時間だよ。戻ったほうがいいね」
ほんとだ、とひかるちゃんは私の腕時計を覗き込むと腰を上げた。
「まだ話していたいけど」
「また今度ゆっくりお茶でもしようよ」
「絶対ですよ」
ひかるちゃんは名残惜しそうに手を振り、映画館に戻っていった。
*
「金曜は悪かったねぇ。いや、病院が長引いて、寄れなかったんだよ」
月曜日のお昼に沢井さんは店に現れた。
お昼時で混んでいるのに、買い物がすんでもなかなか帰ろうとしない。他のお客さんはちらちら彼のことを見ていた。
房子さんはレジ打ちに集中し、私はパンを袋に詰めていく。客が多い時は私もレジを手伝うのだ。
会計を待っている男性客は邪魔そうな顔で沢井さんを一瞥する。
「友達にここのパン食べさせたらはまっちゃってさぁ。そうそう、水曜に食パンの予約いれとかなきゃ。朝イチで取りにくるよ」
奥から笑顔の鉄郎さんが一瞬だけ出てきた。
「はぁい、予約いれときますね。沢井さん、気をつけてお帰りください」
男性客が神経質そうな咳払いをすると、沢井さんは一瞬黙り込んだ。その男性客が出ていくと、(かわりもんだね)というように沢井さんは目をむいて、くすくす笑う。レジにトレーを置いた女性客は、沢井さんのことをちらりとも見ない。
ドアが開いて新しい客が入ってきた。真衣さんがかっこいいと褒めていた若い男性だった。
彼はカレーパンと照り焼きチキンと野菜を挟んだバゲット、ドーナツをトレーにのせる。前の客がレジを終えると、彼は静かにトレーを置いた。
ちらりと隣に立っている沢井さんを見る。目があうと、彼は小さく会釈してみせた。不意をつかれたように沢井さんは一拍遅れて会釈を返す。それから、ようやくドアに向かった。
「んじゃ、またね。あぁあ、膝がいてえや」
ほっとしながら私はパンを袋に詰めていく。
「レジ袋はどうなさいますか?」
訊ねると、彼はコートのポケットから茶色いエコバッグを取り出した。
「大丈夫です」
彼は千円札をキャッシュトレーに置くと、パンをエコバッグに入れた。
日曜のお昼少し前、私はミニシアター(ガッビアーノ)へ行った。
(ガッビアーノ)とはイタリア語でカモメという意味らしい。
駅から線路沿いに歩いて数分、グレーと黄色と白の四角い建物が見えてきた。建物の正面にはカモメのレリーフが飾られている。小ぶりだがなかなか立派な映画館だ。
日曜だから混んでいるかもしれないと心配したが、ワインカラーのカーペットのロビーには客が数えるほどしかいなかった。
図書館のように静まり返った中、小声で話をしているのは黒いソファに座った年配の男女のみ。他の客はグッズ売り場や壁際に並べられたチラシを静かに物色している。
私はチケット売り場で、三十分後に上映される昔のフランスのミュージカル映画の座席指定をすました。トイレに行ってから売店でコーラとホットドッグを買う。遅く起きたのでまだなにも食べていないのだ。
開場を知らせるアナウンスが流れると、私と老夫婦はもぎりの若い女性にチケットを渡して入場した。細い通路を進んで開いたままのドアの中に入る。
私は中央の見やすい座席に腰をおろし、自分の部屋にいるようにくつろいで映画を鑑賞した。客同士離れているので、ホットドッグを食べる音も気を使わないですむ。
古い映画なので大きなスクリーンで観るのははじめてだった。ラストの別れのシーンになると涙がこぼれていた。
映画が終わって館内が明るくなると、少し残っていたコーラを飲み干してからロビーに戻った。
出口に歩いていくと、ソファに座っている人が私を見ていることに気づいた。それはひかるちゃんだった。
彼女は手を振ると立ち上がって駆け寄ってきた。黄色いチェック柄のワンピースにロングブーツがよく似合っていた。
「賛歌さーん。すごい偶然」
「ほんとだね。ひかるちゃんも映画観に来たの?」
「はい。なに観たんですか?」
私は壁に貼られている映画のポスターを指差した。
「ひかるちゃんはこれから観るの?」
「そうなんですけど、上映までまだ一時間もあるんです」
ちらっと上目遣いで私を見て微笑む。
「賛歌さん、お昼まだなら一緒にどうですか?」
「私、映画観ながらホットドッグ食べちゃったんだけど……」
「駅前のカフェなら軽いものがありますよ。行きましょ!」
彼女はダッフルコートに袖を通すと、私の腕を引っ張って歩き出した。
寒い風に吹かれながら駅まで戻り、軽いランチも出すチェーン店のカフェに入る。
窓に面したカウンター席に並んで座ると、ひかるちゃんはにこにこしながら私を見つめた。
「いつもお店でちょっとしか喋れないから、こうして一緒にお茶できて嬉しいです」
「ほんとに?」
彼女は頷いて、卵のサンドイッチをつまんで一口食べる。咀嚼して飲み込んでから笑った。
「私、あんまり友達いないんですよ。学校でもいつも一人で、こうしてお茶するとかもなくて」
「意外。ひかるちゃんて友達いっぱいいそうに見えるもん」
「別に仲間はずれにされてるわけじゃないんです。自分から距離を作っちゃうんですよね」
私は孤独だった学生時代を思い出して小さく頷いた。
「わかるかも。私も一人でいることが多かったから」
「賛歌さんこそ、明るくて話しやすいから、大勢の友達に囲まれてたんだろうなぁって思ってたんですけど」
「そんなことないよ」
私は苦笑して、チーズケーキをフォークで切って口に運ぶ。
「賛歌さんはなんで一人でいたんですか?」
予知のせい、とは言えない。
「私もひかるちゃんと同じだよ。自分から距離を作ってたんだと思う」
私は紙ナプキンで口を拭いてから、映画館のほうを向いだ。
「話は変わるけど、小さい時、父親に(ガッビアーノ)に何度か連れていってもらったんだよね」
「お父さんも映画好きなんですか?」
「うん。特に古い映画がね」
父に映画館に連れていってもらったのがきっかけで、私は映画に興味を持った。
「いまでもたまに一緒に観に行くんですか?」
「ううん、いまは行かないかな」
ちらっと私は腕時計を見た。一時半。あと十分ぐらいしたら、映画館に戻ったほうがいいよと声をかけよう。
「賛歌さんのお父さんって、なんのお仕事してるんですか?」
「普通の会社員だよ」
「お母さんもお仕事してるんですか?」
「うちの母親は離婚して家を出てったから、ちょっとわからないな」
ひかるちゃんはあっという顔をした。
「ごめんなさい、余計なことを……」
「いいのいいの。気にしないで」
彼女はしょんぼりした様子でサンドイッチを齧る。
私は笑いながら軽く彼女の肩を叩いた。
「そういえばチケットくれたとき、ひかるちゃん、あんまり映画観ないって言ってたよね。今日は特別観たい映画があったの?」
「いえ……実は(ガッビアーノ)で知り合いが働いてるんです。どうせ家でゴロゴロしてるなら、映画でも観においでって誘われて、しかたなく」
バツが悪そうに説明するひかるちゃんを見て、私は笑ってしまった。
「あの、また無料チケットをもらったら、誘ってもいいですか? 今度は一緒に映画を観たいです」
「もちろん、いつでも誘って。あ、もう時間だよ。戻ったほうがいいね」
ほんとだ、とひかるちゃんは私の腕時計を覗き込むと腰を上げた。
「まだ話していたいけど」
「また今度ゆっくりお茶でもしようよ」
「絶対ですよ」
ひかるちゃんは名残惜しそうに手を振り、映画館に戻っていった。
*
「金曜は悪かったねぇ。いや、病院が長引いて、寄れなかったんだよ」
月曜日のお昼に沢井さんは店に現れた。
お昼時で混んでいるのに、買い物がすんでもなかなか帰ろうとしない。他のお客さんはちらちら彼のことを見ていた。
房子さんはレジ打ちに集中し、私はパンを袋に詰めていく。客が多い時は私もレジを手伝うのだ。
会計を待っている男性客は邪魔そうな顔で沢井さんを一瞥する。
「友達にここのパン食べさせたらはまっちゃってさぁ。そうそう、水曜に食パンの予約いれとかなきゃ。朝イチで取りにくるよ」
奥から笑顔の鉄郎さんが一瞬だけ出てきた。
「はぁい、予約いれときますね。沢井さん、気をつけてお帰りください」
男性客が神経質そうな咳払いをすると、沢井さんは一瞬黙り込んだ。その男性客が出ていくと、(かわりもんだね)というように沢井さんは目をむいて、くすくす笑う。レジにトレーを置いた女性客は、沢井さんのことをちらりとも見ない。
ドアが開いて新しい客が入ってきた。真衣さんがかっこいいと褒めていた若い男性だった。
彼はカレーパンと照り焼きチキンと野菜を挟んだバゲット、ドーナツをトレーにのせる。前の客がレジを終えると、彼は静かにトレーを置いた。
ちらりと隣に立っている沢井さんを見る。目があうと、彼は小さく会釈してみせた。不意をつかれたように沢井さんは一拍遅れて会釈を返す。それから、ようやくドアに向かった。
「んじゃ、またね。あぁあ、膝がいてえや」
ほっとしながら私はパンを袋に詰めていく。
「レジ袋はどうなさいますか?」
訊ねると、彼はコートのポケットから茶色いエコバッグを取り出した。
「大丈夫です」
彼は千円札をキャッシュトレーに置くと、パンをエコバッグに入れた。