「ありがとう。じゃ、お礼に……」
 私はシュトーレンを持ってきて、彼女のトレーに置いた。これはクリスマスに食べるフルーツケーキで、いまの時期の限定商品だ。
「食べてみて」
「え、そんな悪いです」
「いいのいいの」
 ひかるちゃんはきれいな形の大きな瞳を何度か瞬きさせてから、にこっと歯を見せて笑った。
「じゃ、ありがたくいただきます」
 ひかるちゃんが帰ると、焼き上がったシナモンロールを売り場に並べながら真衣さんが「よかったわねぇ」とにやっとした。
「真衣さんは映画館とかたまに行きます?」
「全然行かない。最近、腰が痛くて、二時間なんて座ってられないわよ。前に三時間の映画観ちゃって、死ぬかと思った。それっきり行ってないな」
 真衣さんはいま四十五歳だ。最近、肩こりや腰痛のことでよくぼやいている。子供は中学生の男の子と女の子がいて、旦那さんは文房具メーカーに勤めている。溺愛しているマルチーズの男の子のココもいる。
 房子さんと鉄郎さんが休憩から戻ってくると、私は仕事を終えて店をあとにした。
 スーパーに寄って買い物してから家に帰宅。すぐにテレビをつけて映画を流す。
 今日は以前観て面白かったフランスのサスペンス映画にした。
 昨日の売れ残りのカレーパンをトースターで温めて、牛乳と一緒に食べる。お腹が満たされてソファに横になると、しばらくして雨音が聞こえはじめた。窓の外は灰色に沈み、空気が一段と冷え込んでいる。
 私は寝室から毛布を持ってきて体にかけた。映画は面白いのに、瞼が下がってくる。
 電話が鳴る音が聞こえてはっと目を開けた時、テレビには別の映画が流れていた。
 ローテーブルに置いたスマホはまだ鳴り続けている。
 母からだ、と飛び起きると、スマホに手を伸ばした。
「もしもし?」
『あ、私』
 聞こえてきた声に、私は肩を落とした。
「真琴(まこと)か。どうした?」
『あれぇ、誰かの電話でも待ってたのかな? 残念そうな声色だけども』
 曽根真琴(そねまこと)は高校の同級生だ。脚本家を目指しながらB級グルメのライターをしている。自他ともに認める陰キャで、私とも滅多に会わないが、こうして電話はよくかけてくる。
「そんなことありませんよ」
『ふうん。なら話し相手になってくださいな。ビデオ通話にしてもいい?』
「どうぞ」
 ビデオ通話に切り替えると、パソコンに向かっている真琴が映し出された。よっと挨拶しながら右手を上げる。
『なにしてた?』
「仕事から帰って昼寝してた」
『そりゃお疲れさま』
「そっちはまだ仕事中でしょ?」
『まあね』
 彼女はモニター画面の横に置いた缶を手にとってぐいっと飲む。そして、かたかたとキーボードを叩きはじめた。
「なんかあったの?」
『なんで』
「もうお酒飲んでるから。それジュースじゃないでしょ」
 真琴は笑う。
『ジュースでカロリーは摂取しない主義なんで。いや、ちょっと疲れてさ。今日、取材である店行ったんだけど、なんか嫌な店主でさぁ』
「なんか言われたの?」
『私じゃなくて、従業員に対しての態度? いいおっさんが、若い子たちをずっとねちねちいじめててさ。たった一時間ぐらいいただけで、こっちの胃が変になりそうだったよ。胸糞悪くてしょうがない。味だけ確認してほとんど残してきた』
「そりゃ大変だったね」
 真琴はちらりと振り返ると、眼鏡の奥の目を細めた。
『そっちこそ、なんかあった? 顔が疲れてる』
「母親のことでちょっとね」
『どうしたの?』
 真琴にはすべて話してある。予知や母のことを。
「ちょっと会わないといけない用事ができて、憂鬱なんだよね。いまは連絡待ち」
『そういうことか』
 彼女は缶を持ち上げると私に差し出した。
『賛歌もちょっと飲んだら? こういう時はリラックスしないと』
「そうだね……じゃあ、夕飯作っちゃおうかな。それで晩酌といこう。今夜は肉野菜炒めです」
『いいじゃん、作りなよ』
 スマホを持ってキッチンに移動すると、真琴と会話しながら料理をした。
 フライパンで豚こまと白菜としめじを炒めていると、スマホ画面の向こうから真琴がじっと見つめてくるのに気づいた。
「仕事しないの?」
『人が料理作ってるの見るのって面白い』
 完成した肉野菜炒めとごはんをローテーブルに運んだ。冷蔵庫から缶チューハイも取り出す。
「いただきます」
『召し上がれ』
 缶チューハイをグラスに注ぎ、真琴と乾杯するように差し出してから一口飲んだ。
 肉野菜炒めを食べる。生姜とニンニクを多めに入れたのが効いている。
『おいしい?』
「うまいよ。食べたいでしょ。作ってあげるからおいで」
『来週行くわ』
 これは私たちのいつもの冗談で、彼女がうちに来たことは一度もない。
 真琴は中学時代に少しだけいじめを受けて、それ以来人との距離の取り方がわからなくなったそうだ。普通に人と楽しく過ごしたい気持ちはあるけれど、いざとなると怖くなるらしい。
 そんな彼女が高二の時に私と一緒のクラスになって、彼女のほうから話しかけてきてくれた。
「賛歌って名前、珍しいよね。クリスチャン?」
 クラス替えから一ヶ月たっていたけれど、私も彼女もまだ一人でいた。
「ううん、酸化マグネシウムのサンカ」
 真琴はぽかんとし、私が冗談を言っていると気づくと笑いだした。
「便秘なの?」
「お父さんがね」
 真琴は笑うと顔がくしゃっとなって、ちょっと幼い可愛さが表れる。私たちはクラスメイトたちが振り返るぐらい笑いあって、友達になった。
 賛歌というのは祖母がつけてくれた名前だ。彼女はクリスチャンではないけれど、隣に住んでいた家族がキリスト教徒だった。たまに子供たちが歌う讃美歌が聞こえてきて、祖母はその調べが気に入っていたらしい。
 よく考えてみると、仲がよくなかった祖母が考えた名前を母が受け入れたのは不思議なことだ。私はこの名前が気に入っている。
 真琴は一年のとき、私の噂をちょっとだけ耳にしたらしい。予知騒ぎの一件だ。
 私は(予知親子)として地元では有名だったので、わざわざ二駅離れた高校を選んで入学した。それでも、ご丁寧に私のことを広めてまわる元同級生がいたようで、入学式の時点で私に予知ができるのかと訊ねてきた生徒たちがいた。
 それで私は友達を作らないまま二年生になった。そんな私に真琴は興味を持って、勇気を出して話しかけてきてくれたのだ。
「一人で寂しそうだったから」
 あとで真琴はそう打ち明けてくれたのだけど、私は吹き出してしまった。だってそれはお互いさまなのに。
 高校を卒業して真琴は大学に進学、私は働きはじめたけれど、その間もずっと友達でいた。
 真琴は大学時代にはじめたライター業を卒業後も続け、なんとか頑張っている。夢は脚本家として活躍することだけれど。
 私たちはお風呂に入るまでだらだらと話し続けた。
 お互い気持ちよく酔っぱらって電話を終えると、私はお風呂にゆっくり浸かった。
 出てきて髪を乾かしながらスマホを見ると、母から返事が来ていた。

(連絡ありがとう。二十五日なら都合がいいです。六時半に駅前のコーヒーショップで待っています。)

 クリスマスに母と会う予定ができてしまった。