空に見えたものは誰にも話してはいけないのだ。
 私は予知のことを訊かれると、「あれは冗談で、母に言われたとおりに振る舞っただけ」と嘘をついた。
 するとまわりはほっとしたように、また私を気の毒そうに見つめるようになった。憐みは拒絶よりはましだった。
 それからの私は、他人の目を通して母を見るようになった。母は常軌を逸しているように見えた。
 あなたは交通事故にあう、あなたは大病をする、あなたは強盗にあう……相手の気持ちを考えずに、予知したことをそのまますべて伝えてしまう母。それは暴力のようなもので、周囲が拒絶反応を示すのは当然のことだった。
 私は中学にあがった頃にはもう、母とはまともに口をきかなくなっていた。
 そんなとき、母はある人物と出会った。
 母は当時、アレルギー性蕁麻疹の治療で皮膚科に通っていた。
 唇や目のまわりがぷっくりと腫れてなかなか治らない。近所の皮膚科に行ってみると、アレルギー性蕁麻疹だと診断されたのだ。
 原因はよくわからない。いままで平気だった化粧水でも腫れるし、食後に突然腫れることもある。体調が悪くても腫れる。
 四十歳になった母は、急に体の衰えを感じることが増えていた。腰痛に肩こり、貧血。そこに新たに加わったアレルギー性蕁麻疹。
 皮膚科の待合室で母が鬱々としていると、隣に座っていた同い年ぐらいの女性が話しかけてきた。
 彼女の名前は江崎玉乃(えざきたまの)。
 近所に住む、公務員の女性だった。毎週土曜日、首にできたイボの治療に来ていた。
 年は母のひとつ年上。話してみると、母と同じようにこの街で生まれ育ち、同じ中学と高校に通っていたことがわかった。
 意気投合した二人は皮膚科の診察を終えると、近くのドーナツショップで話の続きをした。 
 二人はまず皮膚科医への愚痴で盛り上がった。
 毎回同じ症状だからって、今日は腫れた部分を見てもくれなかったと母は不満を漏らす。すると玉乃も「またイボが増えてますね」ってまるで私の過失みたいに顔をしかめられるのが嫌なのよね、と憤慨する。
 そうよねわかるわ、とお互いを慰めあうことが母には嬉しくてたまらなかった。こういう友達のようなやりとりは何年ぶりだろう。
 玉乃は美人ではないが善良そうなやさしい顔立ちで、母の言葉にいちいち頷き、そうねと同調してくれる。それがなんとも心地いい。
 二人はその日から頻繁に会うようになった。
 玉乃に心を許した母は、予知のことも打ち明けた。
 玉乃は驚いたけれど、「まどかさんてすごいのね」と好意的に受け止めたという。
 ここまでの話はすべて、母が父に話したことを、私が父から聞いたものだ。
 私が中学二年生になった時、母は玉乃夫婦とおかしなことをはじめていた。
 予知を掲げた(予知会)という会社を立ち上げたのだ。そして一年後にはトラブルを引き起こしていた。(予知会)を利用していた客が詐欺にあったと訴え出たのだ。その客を玉乃の夫が殴ったとかで、テレビニュースにもなる事件に発展した。
 それがきっかけで、さすがの父も母とはもうやっていけないと匙を投げた。おそらく私を守るためでもあったのだろう。
 母は離婚を嫌がったけれど、父の意志は固かった。離婚に応じないなら、私を連れて出て行くと父が迫ると、ようやく母は諦めた。
 母がいまも玉乃たちと(予知会)を続けているのかどうかは知らない。
 おそらく縁は切れていないだろう。つながりを断つ理由が母にはない。自分の能力を誇示したい母にとって、その力を褒め称えてくれる玉乃のような存在は貴重だ。
「お待たせしました」
 どんと素っ気なくテーブルにナポリタンが置かれ、私は我に返って空から店内に視線を戻した。
 小山のように盛られたナポリタンにタバスコと粉チーズを振りかける。
 ナポリタンを食べながらメールをチェックしたが、返信はまだなかった。



 店に戻ると、パート主婦の真衣さんがレジにいた。
 房子さんはスタッフルームでお昼休憩をとっている。私と交代で鉄郎さんもご飯を食べに行った。
 少し客が途切れたところで、私は真衣さんに、沢井さんが食パンを取りに来たかどうか訊ねた。お昼に受け取りに来ることになっている。もう一時過ぎだ。
「それがまだなのよ」
 なめてるわよね、と声には出さずに言って真衣さんは顔をしかめる。私は苦笑するだけにしておいた。
 たぶん沢井さんは今日、来ないのだろう。来る時は時間ぴったりに来店するから。
 焼き上がったカレーパンを売り場に並べていると、背の高い男性客が入ってきた。
 いらっしゃいませと声をかけると、ちらっと視線を寄越して会釈する。ベージュのロングコートを着て、寒かったのか肩を縮めるようにしていた。
 トレーとトングを手にした彼は、揚げたてのカレーパンを真っ先に取った。迷いなく照り焼きチキンと野菜を挟んだバゲットとチョコがけのドーナツものせてレジに置く。
 男性客が帰ると、すぐに真衣さんが口を開いた。
「いまのお客さん、かっこいいよね」
「え? あぁ……」
「職場、このへんなのかな。週に何度か来るじゃない。なんの仕事してるんだろう」
 私はあまりじろじろお客さんの顔を見ない。でも真衣さんは違うようだ。
 私が返答に困っていると、制服姿の女の子が入ってきた。紺色のダッフルコートに白いマフラーを巻いている。
「こんにちは」
 彼女は近くの高校に通う常連さんで、名前は町野ひかる。高校一年生の十六歳だ。週に数回、学校帰りに寄ってくれる。
 私も厨房から顔を出して、真衣さんと声をそろえてこんにちはと返した。
「今日、寒いですねぇ」
 ひかるちゃんは手をこすりあわせて笑う。
「そんな短いスカート穿いてるからよ」
 真衣さんはそう言って、ひかるちゃんの膝上丈のスカートを指差した。紺色のハイソックスを履いてはいるが、確かに寒そうだ。
「真衣さんだって学生時代はミニスカート穿いてたんでしょ?」
「まぁ、そうだけど……」
 くすくす笑いながら、ひかるちゃんはトレーに照り焼きチキンと野菜を挟んだバゲットとチュロスをのせて、レジにやって来た。
「賛歌さん、これ」
 ひかるちゃんはコートのポケットから細長い封筒を取り出すと、私に差し出した。
「なに?」
「映画のチケットです。線路沿いにあるミニシアターの」
 この街にはひとつだけ小さな映画館がある。駅から線路沿いに数分歩いたところにあるミニシアター(ガッビアーノ)だ。
「知り合いがチケットくれたんですけど、私はあんまり映画は観ないので。賛歌さん、映画が好きなんですよね?」
 前に休日はなにをしてるのかと彼女に訊かれて、映画を観ることが多いと答えたことを思い出した。でも私は映画館に行くことは滅多になく、家のテレビでサブスクの映画を安く楽しんでいるのだけれど。
「いいの?」
「二枚あればよかったんですけどね。彼氏とかお友達と行けるから」
「賛歌ちゃんに彼氏はいないわよ」
 余計なことを言う真衣さんの腕を軽く拳で押しやってから、私は封筒を受け取った。中を見てみると、映画の招待券が入っている。
「いま上映してるのならなんでも観られるみたいです。月末まで使えるので、暇な時にでも観に行ってみてください」