レジの前には彼がいた。未来の私の恋人だ。
 彼はちらっと私に会釈してから財布を開く。
 レジに移動してパンの値段を打ち込んでいく。今日もいつもと同じラインナップだ。
「あの、映画お好きなんですか?」
 パンを個別に紙袋に入れていると、突然彼にそう訊かれた。
 顔を上げて、笑顔の彼に聞き返す。
「え?」
「このまえ、近くの映画館でお見かけしたので」
「あぁ……」
 ガッビアーノでひかるちゃんと会った時だ。
「僕、あそこで働いてるんです」
「そうなんですか」
 映画館の人だったんだ。
 釣銭とレシートを彼のてのひらにのせる。
「映画、好きなんです」
「じゃあまた来てくださいね。来月までヴァンパイア特集してるんで」
「ヴァンパイア……」
「よかったら、これ」
 彼は財布からチラシを取り出した。恐ろしく小さく折り畳んである。
「ありがとうございます」
 チラシを受け取った時、ドアが開いてひかるちゃんが入ってきた。
 ちらりと彼女は私たちを見てから、トレーとトングを手に取る。
 彼はパンをエコバッグに詰め終えると、じゃあとにこやかに会釈して出て行った。
 電話を終えた房子さんとレジを代わる。
「ひかるちゃん、こんにちは」
 声をかけると、ひかるちゃんは振り返って明るく挨拶を返してくれた。今日はジャージ姿だ。
「部活帰り?」
 房子さんがじろじろ見ながら訊ねる。
「そうなんです。汗かいちゃいました」
「何部なの?」
「陸上部です。長距離」
 ひかるちゃんもいつものパンを買うと、私に小さく手を振って帰っていった。
 そのあと私はお昼休憩に入り、お昼ご飯を食べながら、未来の恋人からもらったパンフレットを見た。
 財布に入るように細かく折り畳んだのだろうが、広げてみると折り目が多過ぎて読みにくい。
 なぜ年末年始にヴァンパイア特集をするのかは不思議だけれど、単にオーナーの好みなのかもしれない。
 私もヴァインパイア映画は好きな作品が多いので、興味がわいた。休み中に観に行ってみよう。
 (ガッビアーノ)は今年三十一日までやっていて、営業開始は明けて三日から。
 それにしても、彼の名前はなんというんだろう? 何歳なのかも気になる。
 母と彼のことで、私の頭はいっぱいだった。
 それでもなんとか無事に仕事納めをして、三十日、ひかるちゃんと千葉の温泉に行った。
 その温泉施設にはいくつもの温泉が用意されていた。
 大浴場や露天風呂の他に、リンゴ風呂やワイン風呂など珍しいお風呂もあり、私たちは肌が真っ赤になるまで満喫した。
 さすがにのぼせて一度お湯からあがり、ジュースを飲みながら休憩所で横になっている時だった。
 ひかるちゃんから改まったように「相談があるんです」と言われた。
「実は私、ずっと悩み事があって」
 仰向けで寝ている彼女は蔦模様の天井を見つめている。
「どんな悩み?」
「私、見えるんです」
「見える……なにが?」
「幽霊」
 私は彼女の横顔をぽかんと見つめた。少し思いつめたような真剣な表情で、冗談のようには見えない。
 彼女はちらっと私を見た。
「こういう話をすると、みんな困った顔をするんです。だから、相談する相手もいなくて」
 おそらく私もそういう顔をしていたはずだ。
 霊感のせいで人と距離ができて、孤独なのだろうか。
「よく見るのは兄の幽霊なんです」
「お兄さん、亡くなったの?」
「二年前に。まだ十九歳でした。交通事故で」
「お気の毒に」
 ひかるちゃんは小さく頷いて目を閉じる。
「それから、たまに出てくるんです。生前と同じ姿で、まるで生きてるみたいに見えます。最初は嬉しかったけど、段々辛くなってきたんです」
 話の続きを待ったが、彼女はそのまま眠りこんでしまったようだった。
 私もうとうとしてしまい、肩を揺すぶられて目を開けるとひかるちゃんが覗き込んでいた。
「なんか食べましょ。お腹空いちゃいました」
 壁の時計を見ると、一時間も眠ってしまっていた。
 お昼にハンバーガーショップでお腹いっぱい食べたのに、もうすっかり消化してしまったようだ。甘いものが食べたい気分だった。
 私たちは温泉施設内のレストランで苺パフェを食べ、家路についた。
 温泉のお礼に私はひかるちゃんを映画に誘った。
 一緒にヴァンパイア映画を観に行こうと。
 彼女は怖い映画が苦手らしいが、私となら観てみたいと言ってくれた。



 翌日の大晦日、私は一人で(ガッビアーノ)へ行った。 
 ひかるちゃんとは四日に映画の約束をしている。
 今日は未来の恋人さんの偵察だ。
 彼は事務仕事なのかもしれないので、映画館に行っても会えないかもしれない。
 このまえ行った時も、私は彼に気づかなかった。でも彼は私を見かけたらしいので、会える可能性としては半々ぐらいだろう。
 会えるかどうかもわからないのに、私は真琴からもらったラベンダー色のニットを着ていった。
 この間まで、ただのお客さんでしかなかったのに、あんな予知を見たあとでは彼を意識しないではいられない。
 映画館に入ってすぐに、私は彼に気づいた。
 彼はグッズ売り場にいた。
 気づいていないふりをしながらグッズ売り場に入っていくと、顔を上げた彼と目が合った。ネームプレートには(中上)(なかがみ)とある。
 あ、と彼は小さく声をあげた。
「来てくれたんですか」
「来ました」
 冗談めかして笑い、カウンター越しに会釈しあう。
「大晦日に映画ですか?」
「特にすることないので。大晦日までお仕事大変ですね」
「バイトの子たちが帰省しちゃったんで、駆り出されました」
 私は彼のネームプレートをちらっと見る。
「中上さんとおっしゃるんですね」
 彼はネームプレートをつまんで見下ろす。
「中上典十(ながみてんと)といいます」
「てんとって珍しい名前ですね」
「てんとう虫からとったそうです。父親が昆虫の研究してるので」
「てんとう虫のてんと。私は青柳賛歌(あおやぎさんか)といいます」
「さんかも珍しい名前ですね。漢字はどういう?」
「讃美歌の賛歌です。てんとってどう書くんですか?」
 レジ脇のメモ用紙にさらさらっと彼は(典十)と書いた。
 中上典十さん。
「賛歌さんのところのパン、ほんとにおいしいですよね」
「ありがとうございます。照り焼きチキンと野菜のバゲット、お好きですよね」
 彼は恥ずかしそうに目を細める。
「やっぱり覚えられちゃうもんなんですね」
「常連のお客さんが選ぶパンは大体決まっているので」
「なるほど。そういえば僕も、昔からの常連さんの映画の好みは覚えちゃってます」
「典十さんはここで働いて長いんですか?」
「高校の時のバイトから合わせると、もう八年ですね。十六歳からここにいるんで」
「じゃあいま、二十三歳ですか?」
「そうです」
「私も二十三です。同い年ですね」
 足音が聞こえて振り返ると、スタッフの制服を着た若い女性が近づいくるところだった。私をちらっと見て会釈する。
「中上さん、ちょっといいですか?」
 私は邪魔をしないようにすぐその場を離れた。
 チケット売り場に向かいながら振り返ると、典十さんと女性スタッフは笑いながらなにか話していた。