1 死の予知



 晴れた空に棺がひとつ。
 傍らの椅子に腰かけた、喪服姿の私。隣には父とその恋人もいる。
 祭壇の上の遺影は母のものだ。薄い微笑みを浮かべて私を見下ろしている。
 はっと息を吸い込むと、空の映像は消えていた。
「さんちゃん、信号変わったわよ?」
 不思議そうに顔を覗き込んでいる房子(ふさこ)さんを見て我に返り、頷いてから横断歩道を歩きはじめる。
 もう一度空を見上げると、そこには雲ひとつない青空がただ広がっていた。
「ねえ、見て。もう梅の蕾がふくらんでるじゃない。まだ十二月だけど、春は近いのねえ」
 房子さんが指差した誰かの家の庭木の枝には、可愛い小さな蕾がいくつもついていた。そうですねぇと上の空で返事をしながら、私はいま見た予知のことを考えていた。
 棺と母の遺影。
 どうやら母は死ぬらしい。
 それは決定事項で、覆されることはない。
 二十三年生きてきて、私は何度も未来に起きる出来事を見てきた。
 それはよく晴れた空に映し出される。
 これは予知だ。
 そう、母に教えられた。
 母もそれを見ることができる。
 私にも見えるとわかったとき、彼女はとても満足そうにしていた。
 でも私はこの能力をありがたいと思ったことは一度もない。むしろ邪魔なものだと嫌い続けてきた。
 だから未来の出来事が見えても考えないようにしてきたし、忘れるようにつとめてきた。
 もし、未来を変えることができたのなら、予知することにも意味があると思えたかもしれない。でも過去の経験から私は学んだ。未来は変えられないことを。
 知り合いの身に起きる事故、災難、病気、事件。そういう出来事を事前に知ると、私はなんとか未来を変えようと試みた。でも、どうしても変えることはできなかった。予知はすべて現実のものとなった。
「実子(みこ)がね、サンタさんへのお願いをなかなか言わないのよ。去年はすぐに教えてくれたんだけど」
 房子さんは六十八歳。一緒に暮らす孫の実子ちゃんは五歳だ。
 房子さんの息子で四十歳の柏鉄郎(かしわてつろう)さんは、私が働く柏ベーカリーの店主である。奥さんは三年前に家を出て行って、いまは房子さんと三人で暮らしている。
 私は高校生の時から近所にある柏ベーカリーに通い、高校卒業後にはそこで働きはじめた。
 パンは鉄郎さんと私が焼く。接客は房子さんとパート主婦の島津真衣(しまづまい)さんがしている。
 私は朝の六時に出勤して鉄郎さんとパンを作る。開店は十時。忙しくなければ二時には仕事を終えて帰る。鉄郎さんたちは閉店の八時まで働いている。
 店が暇な時は、私と一緒に房子さんも店を出る。実子ちゃんのお迎えに行くために。ちなみに保育園は私の帰宅ルートの途中にある。
「サンタさんですか。もうそんな季節なんですね」
「さんちゃん、クリスマスの予定はあるの?」
 私は苦笑いを浮かべた。
「仕事ですよ。クリスマスは忙しいじゃないですか」
 うちはピザも人気で、クリスマス当日には何枚も予約が入っている。おそらく残業になるだろう。
「夜の話よ。お友達とパーティーとかしないの?」
「友達少ないので」
 そうこうしているうちに、実子ちゃんが通う保育園に着いた。
「ちょっと待ってて」
 房子さんは小走りで園の中に入っていく。しばらくして、少しふくれっつらの実子ちゃんと手をつないで戻ってきた。
「ほら、さんちゃんにご挨拶は?」
 実子ちゃんは顔をそむけて空を睨みつける。房子さんは苦笑いしながら私に説明した。
「お友達とおもちゃの取り合いっこして負けたんだって」
 ふふ、と笑ってしまった私を見た実子ちゃんは、気まずそうな表情で俯く。
 じゃあまた、と二人と別れると、駅前のスーパーに寄った。
 トイレットペーパーを買って家に向かいながら、ちらちら空を見てしまう。さっきより雲が出てきた。風が強くなったせいで耳が冷たい。
 駅の反対側に出て五分ほどのところに、私が暮らす古いマンションがある。部屋は三階の角部屋で、ユニットバスのワンルームだ。狭くて古いが、駅から近いわりには家賃が安いので気に入っている。
 自慢は大きめのテレビと黄色いソファだ。ソファで寝転がって映画を観るのが、私の唯一の娯楽である。
 帰宅すると、水を一杯飲んでソファに横になった。目を閉じて、さっきの予知の映像を頭の中で再生する。
 母は死ぬ。それも、この一年以内に。
 私が予知した出来事は、過去の経験からだいたい一年以内に起こっている。早い時は数日後には。
 パッと目を開いて起き上がると、ローテーブルに置いたスマホを手に取った。
 電話の連絡先を表示させる。母の名前はない。番号指定拒否にしてあるからだ。
 番号指定拒否の一覧を表示させると、母の電話番号が見つかった。
 高校の卒業式に「卒業おめでとう」と母の声が留守番電話に録音されていた。声を聞くのは両親が離婚して母が家を出て行った日以来、三年ぶりだった。録音はすぐに削除して、この番号を拒否設定した。
 もう八年も会っていないし、話もしていない。
 この先も会うつもりはなかったけれど、どうすればいいんだろう?
 うちの家族は母のせいでバラバラになった。
 予知ができると周囲に吹聴してまわり、挙句の果てに怪しげな人たちとおかしな仕事をはじめた。
 困り果てた父は母に離婚を切り出し、母は家を出ていった。
 精神的に参ってしまった父は、出会い系アプリで知り合った女性にすがり、彼女を家に出入りさせるようになった。そうなるともう、私は家に居場所がない。高校を卒業すると逃げるように家を出た。いまは父ともほとんど連絡を取っていない。
 父は母が死ぬと知ったら、どういう反応をするだろう?
 一緒に暮らしている恋人もいるし、ほんの少し同情するだけかもしれない。わざわざ教える必要はないだろう。
 そもそも、母はなぜ死ぬんだろう?
 病気か事故だろうか。
 母はいま五十歳だ。八年前はなんの病気にもかかっていなかった。
 病気じゃなければ、事故だろうか。交通事故とか。母は運転ができるが、いまも日常的に運転しているかどうかはわからない。
 予知で見たことを母に伝えるべきだろうか?
 未来は変えられないのだから、伝えないほうがいいに決まっている。
 だからといって、母が死ぬとわかっていてなにもしないまで訃報を待つのは怖かった。
 目を開くと、私はスマホを手に取った。
 番号指定拒否にした母の電話番号を解除して、連絡先に登録しなおす。
 登録名は高木(たかぎ)まどか。離婚して青柳(あおやぎ)から旧姓に戻っていた。
 母にショートメールを送る。

(賛歌(さんか)です。会って話したいことがあります。)

 返信は来るだろうか?
 深いため息をつき、気を紛らわせるために見たくもないテレビをつけた。



「おはようございます」
 柏ベーカリーはお客さんが三人も入ったら、すれ違うのにも苦労しそうな小さなお店だ。
 当然厨房も広くないが、より狭苦しく感じられるのは、店主の鉄郎さんが大男だからだろう。
「おっはよー。今日も寒いね」
 身長百八十五センチで体重は百キロを超える彼は、見た目はラグビー選手だが運動は苦手だ。