「バケツプリンを作るで」
長い黒髪を一つに括った翼が、張り切って宣言した。
「きゅ、急すぎない? っていうか、なんでプリン?」
「海未は食べたくないんか?」
「……食べたいけど」
「じゃあ、いいやん」
「バケツサイズの理由は?」
「でかいほうがテンションが上がるやん?」
二十二歳、成人女性の翼は、まるで小学生男子みたいなことを言って白い歯を見せた。
翼の突発的な行動はいつものことだ。理由を考えるよりも一緒に動いたほうが最終的には楽しいことを知っている私は、手を洗うためにソファーから腰を上げた。
「私、料理もお菓子作りも全然できないし、普通のプリンすら作ったことないよ?」
「気にしないでええよ。絶対楽しいやろうし、やろうや」
「材料は?」
「もう買うてきてる。冷蔵庫に入ってるで」
「最初から私に拒否権はないやつじゃん」
笑顔の翼につられて笑いながら、洗面所に向かう。冷たい水で手を洗いながら鏡に映る自分を見ると、引いてしまうくらい隈が濃く、肌も荒れていて酷い顔だった。
原因は明らかだ。睡眠不足と、栄養不足と、メンタルの不調。
私は都内の美容院に美容師として勤めていた。
勤めて“いた”と過去形なのは、二週間前に退職したからだ。
その日が来たのは本当に、突然だった。眠れないな、食べられないな、仕事行きたくないな、そんな毎日の繰り返しの先にあったのは、ベッドから出られない朝だった。
まだ新人でお客様からの指名も少ないとはいえ、皆に迷惑をかけるわけにはいかない……と思っていたけれど、ダメだった。体調不良で休みますと電話で伝えたとき、店長にひどく罵倒されたこともあって、翌日は無断欠勤をしてしまった。
そうなると、社会人としてはもう終わりに等しい。嫌なことを記憶から消し去りたい人間の防衛本能が働いたのか、退職までのやり取りの記憶はすでに曖昧だ。
専門学校に通うために高いお金を出してもらったのに、たった二年で辞めてしまったという罪悪感からまだ両親に仕事を辞めたことを言えずにいる私が、日中公園をぶらついているところを翼に見つかったのが、ちょうど三日前の話だ。
「海未?」
声をかけてきたのは、艶のある長い黒髪を靡かせる女の人だった。――と、いうか。
「……翼?」
「え、ほんまに海未やん! こんなところで会うなんて偶然やなあ!」
中学校からの友達・翼だった。
頭がよかった翼は私とは違って中学卒業後は県内有数の進学校に通っていたし、私も就職してからなかなか顔を合わせる機会がなかったけれど、今でも年に一度の誕生日には互いにメッセージを送りあう付き合いの長い友達だ。
「今日は仕事休みなん? ああ、そっか、美容師さんって平日休みやもんなあ」
美人に分類される顔立ちなのに、昔から何一つ変わらない、快活な笑顔。
どんなにくだらないことでもバカ騒ぎして遊んだ中学生時代が、なぜか走馬燈のように頭の中を駆け巡って、硬直してしまった。
「なんや、どうしたん? っていうか顔色悪いな? 大丈夫か?」
その純粋な優しさを受け止めるには、私の防波堤はとっくに限界で。
「……つばさあああああ~!」
「うわ⁉ めっちゃ涙出るやん⁉ 干からびるで⁉」
久々に会う友達の前で、号泣してしまい。
子どものように手を引かれながら翼の家に連れ込まれて、話を聞いてもらいながらあれやこれやと一緒の時間を過ごし、今日にいたるというわけだ。
翼は今、都内の大学で院生をしているらしい。なんの研究をしているかは説明されても私にはサッパリわからない分野だったけれど、プリンの研究ではなかった気がする。
……でも、バケツプリンを作って食べるなんて、かなりワクワクする。ワクワクしないわけなくない?
大きなプリンを見てはしゃぎながら食べる私と翼の姿を想像しただけで、ニヤける。鏡に映る私の顔は、心なしかさっきよりも明るくなっているように見えた。
リビングルームに戻ると、ダイニングテーブルの上にはプリン作りに必要そうな材料が並べられていた。……こうして見ると、バケツの異物感が際立っている。
「本物のバケツじゃん! これに材料入れて作るの?」
「せやで。ちゃんと煮沸消毒してるから、安心してええよ」
想像以上に大きくて、笑える。このサイズのプリンを本当に作るの?
「うっわ! テンション上がってきた!」
「そりゃよかった。じゃあ、早速はじめるで」
翼がスマホを操作して、バケツプリンの調理工程が載っているどこかの企業のサイトを開いた。私も横から覗き込んで、羅列された文字と写真を見る。
「全然頭に入ってこない。最初に何をやればいいの?」
「水に粉ゼラチンを振り入れるらしいで。ほら、海未。やってみ。水は100c、粉ゼラチンは45gや。もう分量は量っとるから混ぜるだけでええよ」
「至れり尽くせりとはこのことですな」
「全体に行き渡るようにやで。うん、上手や」
翼がニッコリと笑って褒めてくれる。ただ混ぜただけなのに、自己肯定感が上がって気分がよくなる。
「ふふん。今日から天才パティシエ・海未と呼んでもいいよ?」
「今日の夕方から雨が降るらしいで。洗濯物は早めに取り込まんとなあ」
「関西人ならツッコんでくれる? 恥ずかしいんだけど」
脇腹にチョップを入れると、翼は「やめい」と笑いながら体を捩った。
「次はカラメル作りか。砂糖100g、水50ccを鍋に入れて温めて作るんやて」
翼はそう言って、私を鍋の前に立たせた。どうやら私が作るらしい。分量は例のごとくもう翼が量っているから入れるだけの状態だけど……って、え?
「砂糖の量、多くない⁉」
「バケツプリンやからな」
「100gって数字で言われてもピンとこなかったけど、こんなに?」
「せやで。このスプーン、大さじ一杯が15gや。何杯入れるかわかるか?」
「ヤバくない? めちゃくちゃ太るじゃん!」
「プリンやからな。バケツサイズの」
同じようなことしか言わない翼のスタンスに、身が引き締まる。そう、私たちはバケツプリンを作ろうとしているのだ。
相当の覚悟が必要だ……!
「やるよ、私……! 戦わなければ、勝てない!」
「戦士の顔になったな」
きりっとした顔を作ってコンロに火をかけると、慌てた翼が止めた。
「待って、なんでもう火かけるん? 材料を入れてからにせえや」
「先に鍋を温めとくんじゃないの?」
「オーブンとごっちゃになってるやん……ま、ええか。最初に砂糖と水入れといてな。沸騰して泡立ってきたら弱火にするんやで」
私がいくら料理ができなくても、どれだけやらかしそうでも、翼は私にパティシエを続投希望のようだ。
「熱湯がいるみたいやな……隣のコンロも使って火、沸かすで」
水を入れたヤカンに火をかけて、翼はスマホに視線を落とす。
「砂糖と水が褐色になるまで加熱したら蓋を被せて、隙間から熱湯を注ぐみたいや」
「なんでわざわざ蓋をするの?」
「カラメルってめっちゃ跳ねるらしいで。火傷したくないやろ?」
「え、怖い! 私絶対失敗する!」
鍋の前から逃げ出したくなるが、翼はニコッと笑ってそれを許さない。
「まあまあ、挑戦してみ。なんかあったらウチも道連れになったる」
「守ってはくれないの?」
「跳ねるカラメルからは難しいなあ」
淡々と口にしながら、翼はヤカンをかけていたほうのコンロの火を消した。視線で促されて、私は左手にヤカン、右手に鍋の蓋を持ち……。
長い黒髪を一つに括った翼が、張り切って宣言した。
「きゅ、急すぎない? っていうか、なんでプリン?」
「海未は食べたくないんか?」
「……食べたいけど」
「じゃあ、いいやん」
「バケツサイズの理由は?」
「でかいほうがテンションが上がるやん?」
二十二歳、成人女性の翼は、まるで小学生男子みたいなことを言って白い歯を見せた。
翼の突発的な行動はいつものことだ。理由を考えるよりも一緒に動いたほうが最終的には楽しいことを知っている私は、手を洗うためにソファーから腰を上げた。
「私、料理もお菓子作りも全然できないし、普通のプリンすら作ったことないよ?」
「気にしないでええよ。絶対楽しいやろうし、やろうや」
「材料は?」
「もう買うてきてる。冷蔵庫に入ってるで」
「最初から私に拒否権はないやつじゃん」
笑顔の翼につられて笑いながら、洗面所に向かう。冷たい水で手を洗いながら鏡に映る自分を見ると、引いてしまうくらい隈が濃く、肌も荒れていて酷い顔だった。
原因は明らかだ。睡眠不足と、栄養不足と、メンタルの不調。
私は都内の美容院に美容師として勤めていた。
勤めて“いた”と過去形なのは、二週間前に退職したからだ。
その日が来たのは本当に、突然だった。眠れないな、食べられないな、仕事行きたくないな、そんな毎日の繰り返しの先にあったのは、ベッドから出られない朝だった。
まだ新人でお客様からの指名も少ないとはいえ、皆に迷惑をかけるわけにはいかない……と思っていたけれど、ダメだった。体調不良で休みますと電話で伝えたとき、店長にひどく罵倒されたこともあって、翌日は無断欠勤をしてしまった。
そうなると、社会人としてはもう終わりに等しい。嫌なことを記憶から消し去りたい人間の防衛本能が働いたのか、退職までのやり取りの記憶はすでに曖昧だ。
専門学校に通うために高いお金を出してもらったのに、たった二年で辞めてしまったという罪悪感からまだ両親に仕事を辞めたことを言えずにいる私が、日中公園をぶらついているところを翼に見つかったのが、ちょうど三日前の話だ。
「海未?」
声をかけてきたのは、艶のある長い黒髪を靡かせる女の人だった。――と、いうか。
「……翼?」
「え、ほんまに海未やん! こんなところで会うなんて偶然やなあ!」
中学校からの友達・翼だった。
頭がよかった翼は私とは違って中学卒業後は県内有数の進学校に通っていたし、私も就職してからなかなか顔を合わせる機会がなかったけれど、今でも年に一度の誕生日には互いにメッセージを送りあう付き合いの長い友達だ。
「今日は仕事休みなん? ああ、そっか、美容師さんって平日休みやもんなあ」
美人に分類される顔立ちなのに、昔から何一つ変わらない、快活な笑顔。
どんなにくだらないことでもバカ騒ぎして遊んだ中学生時代が、なぜか走馬燈のように頭の中を駆け巡って、硬直してしまった。
「なんや、どうしたん? っていうか顔色悪いな? 大丈夫か?」
その純粋な優しさを受け止めるには、私の防波堤はとっくに限界で。
「……つばさあああああ~!」
「うわ⁉ めっちゃ涙出るやん⁉ 干からびるで⁉」
久々に会う友達の前で、号泣してしまい。
子どものように手を引かれながら翼の家に連れ込まれて、話を聞いてもらいながらあれやこれやと一緒の時間を過ごし、今日にいたるというわけだ。
翼は今、都内の大学で院生をしているらしい。なんの研究をしているかは説明されても私にはサッパリわからない分野だったけれど、プリンの研究ではなかった気がする。
……でも、バケツプリンを作って食べるなんて、かなりワクワクする。ワクワクしないわけなくない?
大きなプリンを見てはしゃぎながら食べる私と翼の姿を想像しただけで、ニヤける。鏡に映る私の顔は、心なしかさっきよりも明るくなっているように見えた。
リビングルームに戻ると、ダイニングテーブルの上にはプリン作りに必要そうな材料が並べられていた。……こうして見ると、バケツの異物感が際立っている。
「本物のバケツじゃん! これに材料入れて作るの?」
「せやで。ちゃんと煮沸消毒してるから、安心してええよ」
想像以上に大きくて、笑える。このサイズのプリンを本当に作るの?
「うっわ! テンション上がってきた!」
「そりゃよかった。じゃあ、早速はじめるで」
翼がスマホを操作して、バケツプリンの調理工程が載っているどこかの企業のサイトを開いた。私も横から覗き込んで、羅列された文字と写真を見る。
「全然頭に入ってこない。最初に何をやればいいの?」
「水に粉ゼラチンを振り入れるらしいで。ほら、海未。やってみ。水は100c、粉ゼラチンは45gや。もう分量は量っとるから混ぜるだけでええよ」
「至れり尽くせりとはこのことですな」
「全体に行き渡るようにやで。うん、上手や」
翼がニッコリと笑って褒めてくれる。ただ混ぜただけなのに、自己肯定感が上がって気分がよくなる。
「ふふん。今日から天才パティシエ・海未と呼んでもいいよ?」
「今日の夕方から雨が降るらしいで。洗濯物は早めに取り込まんとなあ」
「関西人ならツッコんでくれる? 恥ずかしいんだけど」
脇腹にチョップを入れると、翼は「やめい」と笑いながら体を捩った。
「次はカラメル作りか。砂糖100g、水50ccを鍋に入れて温めて作るんやて」
翼はそう言って、私を鍋の前に立たせた。どうやら私が作るらしい。分量は例のごとくもう翼が量っているから入れるだけの状態だけど……って、え?
「砂糖の量、多くない⁉」
「バケツプリンやからな」
「100gって数字で言われてもピンとこなかったけど、こんなに?」
「せやで。このスプーン、大さじ一杯が15gや。何杯入れるかわかるか?」
「ヤバくない? めちゃくちゃ太るじゃん!」
「プリンやからな。バケツサイズの」
同じようなことしか言わない翼のスタンスに、身が引き締まる。そう、私たちはバケツプリンを作ろうとしているのだ。
相当の覚悟が必要だ……!
「やるよ、私……! 戦わなければ、勝てない!」
「戦士の顔になったな」
きりっとした顔を作ってコンロに火をかけると、慌てた翼が止めた。
「待って、なんでもう火かけるん? 材料を入れてからにせえや」
「先に鍋を温めとくんじゃないの?」
「オーブンとごっちゃになってるやん……ま、ええか。最初に砂糖と水入れといてな。沸騰して泡立ってきたら弱火にするんやで」
私がいくら料理ができなくても、どれだけやらかしそうでも、翼は私にパティシエを続投希望のようだ。
「熱湯がいるみたいやな……隣のコンロも使って火、沸かすで」
水を入れたヤカンに火をかけて、翼はスマホに視線を落とす。
「砂糖と水が褐色になるまで加熱したら蓋を被せて、隙間から熱湯を注ぐみたいや」
「なんでわざわざ蓋をするの?」
「カラメルってめっちゃ跳ねるらしいで。火傷したくないやろ?」
「え、怖い! 私絶対失敗する!」
鍋の前から逃げ出したくなるが、翼はニコッと笑ってそれを許さない。
「まあまあ、挑戦してみ。なんかあったらウチも道連れになったる」
「守ってはくれないの?」
「跳ねるカラメルからは難しいなあ」
淡々と口にしながら、翼はヤカンをかけていたほうのコンロの火を消した。視線で促されて、私は左手にヤカン、右手に鍋の蓋を持ち……。