音楽を学ぶことは退屈ではないけれど、この時間は嫌いだ。
 少し気取った十六歳、 粧雪花(よそいせつか)は常に物事を諦観して生きていた。

 ──さむ。

 四月が始まって間もないこの頃は、まだ肌寒く、室内でもカーディガンを着用していないと凍え死んてしまう。
 普段は楽器を使うので閉め切っている音楽室の窓も、教師が教室をあけていて今は換気と称して全開になっている。
 風によって窓際に立ち籠める、華やかで甘い香り。
 校舎の近くにある部室棟の裏側にとても大きな藤の花が植わっているのだ。この音楽室は部室棟に隣接したところにあり、窓際からの藤の花の眺めは良いものだった。
 丁度この時期が見頃であるとか、そうでないとか。藤の花の香りのお陰で多少の寒さも平気に感じられた。
 
「なあ、セツ〜ここの調号なんだったけ?」

 右隣に座っている生徒が、自主学習のために教師が配ったプリントを持って泣きついてくる。
 雪花は周りから名前の二文字をとって、周りからは『セツ』という愛称で呼ばれていた。捻くれた性格でも目立つ容姿をしていることもあり、浮いているということはない。逆にクラスでの立場は所謂一軍で、カースト上位に位置していた。
 もちろん、その彼とつるむ友達はそれと同じくらいに目立つ容姿と明るい性格の持ち主だ。

「……ソの音から始まっているから、ト長調でしょ。もう忘れたの?」

 大方いつもしている会話の流れなのだろう。ため息をつきつつも、適当に説明する。
 彼の家系は生粋の音楽一家であった。母親は音楽教室の講師で、姉も一人、両親に影響されて音大に進んでいる。
 もちろん、彼も幼い頃は母親の音楽教室に毎週通っていた。
 だからといって、音楽授業のときにこうも毎回頼られては少し困ると彼は思う。

「わー! それだ! あざーっす! お前、いつも面倒くさそうにする割には教えてくれるよなあ。いいやつだなあ」

 汚い字でプリントに答えを書き写し、大袈裟に喜ぶ。
 周りの生徒たちは『うるせーぞ、おまえらー!』と笑いながら二人を囃したてていた。
 彼とこの隣の席のクラスメイトは、中学の頃からの仲のいい友人である。
 と言いつつも、友人が一方的に雪花の側にくっついているような関係なのだが、彼もそれを拒否するようなことはない。
 きちんと友人としての相互の好意があった上で、成り立っている関係だ。

「教えなかったらもっと面倒くさくなるからだよ」

 愛想無く返事をするが、友人もそれが照れ隠しだと分かっているため傷つくようなことはなかった。
 逆に父性によって愛がヒートアップしたのか、彼に飛びつきぎゅっと抱きしめてくる。
 誰にでもこんな感じの距離感で接する性格なこともあり、特に驚く理由もない。けれども、急な激しいスキンシップに彼は顔を顰める。

 ──近い……。

 少なくとも友人に恋愛感情を抱いていることはなく、今後も好きになることはないだろう。
 一方で、雪花は女兄弟の多い女家庭で育ち、習い事の周りも年配の女性が多かった。身近な同性は父親のみ。
 すなわち男性への免疫があまりないのだ。
 多勢な異性愛者の立場に例えれば、恋愛対象ではなくとも異性と抱き合うようなものでもある。少しばかりは意識する人もいるはずで、それは雪花も同じだった。

「あ。ごめんちょっと近かったな」

「……別に」

 彼の不快そうな表情を見て、友人はパッと側から離れ、自分の席に座り直す。
 わざわざ謝ることでもないのに、と雪花は心の中で呟く。
 いかにも相性の悪そうな二人が今まで程々の距離感で仲良くやってこれたのはこれが理由である。
 友人は潔癖な彼が嫌がるようなことは行わなかったし、したとしても、きちんと自分の非を認めて謝罪をしてくれた。

 更には自分の"セクシュアリティ"を告白したとき。どうなることかと肝が冷えたが、決して態度を変えず「そうなんだな〜」と平然と相槌を打っていた。
 全員が全員、このような対応が当たり前にできる訳ではないことを彼も分かっている。
 だからこそ、心の広い友人たちのことを大切にしようと思い、今まで雪花なりの良識ある態度で接してきたつもりだ。

「というかさ、最近どーなのよ。お前の"好きな子"と」

 他の人には聞こえないよう小さな声で、友人は耳打ちする。
 男子生徒のみの周りに対して気を遣っていることからもわかるように、彼の性的指向は同性愛者でマイノリティだ。
 好きな人は同じ男子校に通う、他クラスの生徒。友人には、その人についても伝えていた。

「はあ。最近も何も前と変わらないよ。話したことないし」

 露骨に態度を冷たくして答える彼。
 何もセンシティブな同性間の恋愛について、平然と土足で踏み込まれることが、嫌なわけではない。友人は絶対に彼の傷つくようなことは言わないと理解しているから。
 ただ、自分の肝の小ささが露呈することが嫌だったのである。
 彼は色々な理由も踏まえて、好きな人に声をかけることができなかった。もし好きな人が異性愛者で同性愛者に嫌悪感を抱いていたときのことを考えると恐ろしい。

「オレの勘だけど、ソイツもまあまあお前のこと気になってると思うんだよね〜たまに教室の前通りかかると、お前のこと見てんの!」

 友人は自信満々に意見を述べるが、根拠のないことをペラペラと話す姿にはムッとしてしまう。
 仮にこの言葉を鵜呑みにして告白し、玉砕でもしたらどう責任を取ってくれるのか。

「気のせいだろ。お前が目立つだけ」

 否定して、再びプリントの問題を解き始める。
 友人は彼の放った後半の言葉に引っかかったようで、しばらくの間唖然とした。
 実を言うと、雪花の容姿は誰が見てもかなり整っている。
 ハーフのように目鼻立ちがはっきりとしていて、全体的に色素の薄い瞳や髪色。体毛は薄いのにも関わらず、まつげの毛量だけは多くて長いといういいとこ取り。
 この容姿に釣り合いの取れるスタイルは流石に持っていないだろうと思えば、身長は百八十近くあり、足も長くてすらっとしていた。
 芸能人に負けない顔の華やかさとスタイルの良さだ。

「いや目立つのは明らかにお前だろ……! 告白するとかしないとかじゃなくてさー、声かけて仲良くなんないと始まるもんも始まらねぇよ?」

 当然のように、そういう友人も整った容姿だ。
 恐らくずば抜けたイケメンが側にいると美的感覚も狂い、自己肯定感も下がるのだろう。ちょっとばかり謙遜をしている。
 しかしそれ以上に雪花の自己肯定感は低く、そんなところを不憫に思っているのか。友人はさり気なく助言をした。

「……だって、俺が話しかけたら絶対変だと思われる」

 顔を悲しそうに歪ませると、軽く俯く。
 表情が苦しそうだったため勇気を出すように強めに促すわけにもいかない。
 友人は席から離れると、そっと側の窓枠に腰を掛ける。

「変だと思われるって感じるのは、お前がイケメンだから? "中学のとき"のこと引きずってんの? オレはお前の好きな人がそんなことする人だとは思わねーけど」

 断じて怒りの篭った声色ではなかった。まるで、子どもをあやすかのように優しく問いかけただけ。
 彼は『中学のときのこと』という言葉に拒否反応を示していた。相当のトラウマがあるのか、血がでそうな程に唇を思いっきり噛みしめてしまう。

「そんなの、わかんないだろ。それにお前は俺と同じじゃないんだから。俺が振られたとしても痛みを負わないのをいいことに、好奇心で安全圏から指示だけして。責任取れないくせに文句言うなよ」

 無意識の内に次々と言葉をこぼしてまで彼は怒鳴っている。
 声量こそはないものの、普段より声色が冷たく不快感を顕にしていると分かった。
 友人は驚愕して身体が固まっていたが、彼も自分がこんなことを言ったことに動揺している様子だ。
 二人して、目を丸くさせている。

「……すまん。少しおせっかいだったかもな」

 この場の状況を早急に理解して、先に口を開いたのは友人の方だった。
 普段は自分の思うことを面倒ではっきりと意見しないタイプの彼なのだ。そんな彼が不満を口にし、悲しむ様子を見て、今回はさすがに調子に乗りすぎたと思っているらしい。
 落ち込みつつも申し訳なさそうに彼を見つめていた。

「違う……俺が言い過ぎた。……ごめん」

 すかさず、雪花も謝罪の言葉を言う。
 年頃の男の子が誰かを傷つけしまったとき、全員が直ぐに謝れるかと言われれば、そうではないのではなかろうか。
 と思えば、彼らはかなり立ち振る舞いの出来ている成熟した青年と言える。
 友人は彼が謝ったことに焦ったようで、既に近い距離からより近くに駆け寄ってきて泣き叫ぶ。

「おい、謝るなよ! 悪いことしてないんだから! お前がしゅんとしてたら悲しいから、イケメンのオレがよしよししてやるー!」

 以前に言ったことを訂正したい。
 きっと友人は全く持って自己肯定感の低いタイプではなく、己の立ち位置をしっかり自覚しているだけの人だ。
 雪花よりはイケメンではない、と思っているだけで、自分がイケメンな部類であることは疑いなく分かっている。
 頭を勢い良く撫でると、またもや彼の胸の中に飛びつく。

「ちょっ、やめろって」

 咄嗟に動きの激しい友人を抱えたことで、椅子から後ろに倒れ込みそうになる。
 ただのじゃれ合いだとしてもいくら何でもまずいと思った。万が一頭を打ったら、軽い怪我では済まないかもしれない。
 でも、それ以上に椅子は動かず、彼らが倒れることはなかった。友人がなぜか途端に彼の身体へ体重をかけるのを止めたからである。
 
「ん? てか、お前の机の引き出し、なんか入ってるぞ?」

 余りにも突拍子の無い言葉だった。
 彼が今日、授業に持ってきた荷物は授業が始まってからずっと机の上に出したままにしている。何かが机の引き出しに入っているということは、あり得ないのだ。
 思いがけなく手を伸ばし、机の中を覗くと、友人の言っていることが嘘でないということがはっきりとした。

「……? あ、本当だ。数学のノートが何でここに?」

 表紙を眺めるとはっきりと『数学』という文字が書かれていた。
 ここの教室は音楽の授業でしか使わないはずなのに、どうして当人は数学のノートを持ってきたのだろうと疑問を抱く。
 訳がわからずに、二人は顔を見合わせて困惑してしまう。

「前の授業ってBクラスだよな? 表紙には名前書いてないけど、中見たら字とかで誰のか大体わかるんじゃね?」

 友人の提案に雪花は同意する。
 彼はともかく友人の交友関係はかなり深く広い。中学のときに同じクラスだったとか。塾が同じだったとか。
 理由は様々だが、廊下ですれ違うほとんどに仲睦まじく挨拶を交わす姿を彼は毎日側で見ている。その友達の中で誰の字が上手くて下手なのかくらいは記憶に残っているはずだ。

「これ、日記か……?」

 中身を覗いた途端、あっ、と声が出た。隙間なくびっしりと文字が書き込まれている。
 時々区切られて空行のある位置には日付が書かれていたことから、内容は日記のようなもので間違いないと想像した。

 一ページ目の一番上から、内容を心の中で読み上げていく。
 そこにはノートの持ち主の好きな人はどこがかっこいいか、ということ。果てには、好きな人がしていた胸きゅんなエピソードまで綴られている。
 内容はしっかりと読み込めば純粋な恋心で、ストーカーではないと思いたいが、尋常ではないほどに愛が重い。読んでいるこちらまで甘すぎて胸焼けするくらいだ。

「わぁお。ずいぶん熱烈な愛なことで──ってこれ、絶対見ちゃダメなやつじゃねーか! 閉じろ、閉じろ!」

 やはり、ここまでくると寛容な友人も対処しきれないみたいである。彼の手のひらから無理やりノートを奪い取ると、颯爽と元にあった机の中に押し込む。
 ノートの持ち主が恥ずかしい思いをしないようにも先程の出来事をなかったことにしようとしているのだと思う。

「……この人も。俺と同じで、男が好きなんだ」

 それと却って、彼の反応は友人とは違った。ノートを読んでからずっと目をきらきらとさせている。
 ここは男子校で、ノートの持ち主の好きな人は同じ学校の生徒。ならば、ノートの持ち主も同じく男に片想いをしているということ。
 理解のある友人に恵まれたとはいえ、初めて自分と同じ人に出逢ったのだ。喜ぶのはやむを得ない。
 普段は表情の変化が乏しい彼が見せる嬉しそうな表情に気付き、友人は緩やかに口を開く。

「なあセツ。お前これに返事してみたら?」

 恍けたように言うなと思ったが、友人の表情は至って真剣だった。
 仕舞われていたノートを机の上に置き直すと、一番最新の日記が書かれていたページの隣。つまり、まだ何も書かれていない空白のページに友人は人差し指を指す。
 
「返事? べつに俺宛でもないけど……」

 友人の言うことに首を傾げる。
 正しく彼の座った席にノートが入っていたものの、恐らく持ち主は単純に今日の授業中使っていた席にたまたま自分の持ち物を置き忘れただけだ。
 加えて、このノートに書かれていたのは恋愛にまつわる日記であって、誓って誰かの意見を求めているものではない。
 ノートの表紙に『数学』とわざわざ記しているということは持ち主にとって、これは生徒たちに露呈されたくはないもの。
 同類のノートを見つけたからといって、一見、雪花にできることは何もないのである。

「それはわかるけど、この人に"交換ノート"とか提案してみるのはどうかと思って」

 驚くべき提案だった。友人はノートの持ち主と彼が仲良くなることを望んでいるようだ。
 交換ノートとは、スマホがないような時代に学生の間で流行っていた友達や恋人などと続ける手書きのコミュニケーションツール。今はほとんど使っている人はいないと予測できた。
 ただし、思い出に残るような気持ちのやり取りを紙に形として残しておけるというのは大いなるメリットだ。思い出にもなる。

「交換ノート? この人とこれでやり取りするってこと?」

 正直、彼はなぜ友人がこのような提案をしたのかということを上手く理解していなかった。
 一体どうして、自分が知らない人といちいちやり取りをしなければならないのか。
 思っていることを赤裸々に態度に出している。

「そーそ! この人ってお前と一緒なんだろ? オレが理解できない気持ちもこの人は分かってくれるんじゃないかな? ノートが無いって気づいたらどうせ取りにくるだろうし」

 このCクラスの後に音楽室を使うのは、放課後の吹奏楽部くらいだ。
 他の誰かに見つかる前にノートの持ち主がこれを取りに戻ってくることができた場合。中にメッセージを書き置いたら、返事が帰ってくる可能性もある。
 突拍子もない話だが、上手くいったときのことを考えると少しばかり魅力的な提案に思えてしまう。
 友人はまたまた言葉を続ける。

「ほらそれにさ。この人がノートを置きっぱなしにした席に、たまたま座ったお前が"同じ"だったとか運命っぽくね!」

 言われてみればそうかもしれない、と。
 『事実は小説よりも奇なり』という言葉があるように。今回の出来事は現実には滅多に起こらないことだと言えた。
 ノートの持ち主と雪花。それぞれに好きな人がいなければ、ドラマチックな恋でも始まっていた可能性がある。
 友人は少女漫画のような展開に出くわしたことにひとりでに盛り上がっている様子だ。

「今日はお前がわがままいって窓際に俺を座らせたんだろ……」

 彼は授業が始まる以前のことを脳内で思い出す。
 友人は窓側の一番後ろの席が寝てても先生にバレにくいからといって、普段はそこに座っている。今日は四月にしては気温の低い日だったため、風が直接当たる位置が嫌だったらしく、雪花と席の位置を替えるよう頼んでいたのだ。
 もっとも特別授業は各々好きな席に座っているので、窓際にこだわる必要は端からないのだけれども。

「あれ、そうだっけ〜」

 友人は自分のしたことを忘れていたのか、あからさまに目を逸らして誤魔化していた。
 同時に職員室に課題のプリントを取りに行っていた教師が帰ってきたようだ。「やべっ先生」と言って、立っていた友人は目の前にある隣の席に帰っていく。

 ──交換ノート、か……。

 本当はこんなことをするのは柄ではないが、少し心が揺れる。
 今まで同じ同性愛者に会ったことはなく、理解のある友人がいても、いつか友人にも自分を置いて女性の恋人ができることを考えれば漠然とした孤独を感じた。
 もしかしたら、異性愛者に話すには気が引けるようなこともノートの持ち主になら出来るようになるかもしれない。
 同じ仲間に背中を押されて、"好きな人"に話しかける勇気が出せるかもしれない。
 迷った末、もう一度だけ日記を読み始めた。

 ──あいつの言うとおり、自分と同じ性的指向の人で唯一の理解者ができるっていうのは少し嬉しいかも。

 ノートに何も書かなければ、いつも通りの平和な日常に戻るだけだ。このノートの所有者も誰かに中身を見られたということを知ることも無いだろう。
 しかしながら、彼はどうせならばと今後の先の見えない茨の道を選んでみることに決めた。
 雪花は、新しいページにノートの持ち主に向けたメッセージを書き残す。この選択が未来に良い影響を齎すことを願って。