「すみません、せっかく来てもらったのに。たぶん、あいつ、無理だと思うんで」
今日は中止で、と高校生の少年に頭を下げられ、大学生だった南は苦笑ひとつで了承を返した。
バンドの練習にサポートで参加していただけだったので、実際にべつに構わなかったのだ。
そうと決まれば帰ろう、と。荷物を片づけていると、おろおろと諍いを見守っていた少女が、少年をスタジオの隅に引っ張った。
ひそひそとふたりで話しているが、やたらと距離が近い。付き合っているのかもしれないな、と他人ごとで南は思った。よくあることだ。メンバー内での色恋沙汰も、喧嘩別れも。
とにもかくにも練習がなくなった以上、長居は無用。「お先」と告げて、南はスタジオをあとにした。地上に向かう階段を上る。
若い人間が集まっているのだ。喧嘩など、どこのバンドでもあるだろう。だが、しかし。
――あんな漫画みたいに飛び出さなくてもいいのにな。
十数分前。メンバー内で揉め、スタジオを飛び出した少年の顔が頭に過る。「あ」という小さな声が聞こえたのは、笑いそうになった瞬間だった。
「なにやってんの、おまえ」
植え込みに座り込んでいる少年を見とめ、南は思わず呟いた。その台詞に、少年の眉間にむっとした皺が寄る。
「なにって、べつに……」
漫画みたいにスタジオを飛び出し、漫画みたいに植え込みに座り込んでいた子どもの腹が、漫画みたいなタイミングでぐぅと鳴った。
気まずそうに逸らされた横顔の赤さは、暗がりの中でも見て取れる。まぁ、これはちょっと恥ずかしかったかもしれないなぁ、と。思いやる大人げを持ち合わせていた南は、淡々と問いかけた。
「なに、腹減ってんの? 金は?」
「……持ってきてない」
つまるところ、スタジオに置きっぱなしということらしい。
取りに帰ったついでに謝ればいいのに。そう提案するには、あまりにも声音が痛恨とし過ぎていた。しかたなく違う台詞を選ぶ。
「貸してやろうか?」
顔を数回合わせた程度の関係ではあるものの、仏心というやつだ。
数百円程度であれば返ってこなくとも構わない。それに、似た界隈に籍を置いている身だ。今後もどこかで会うことはあるだろう。
「いや、それは駄目」
「なんでだよ」
妙にはっきりと断られ、南は問い返した。みるみるうちに気まずそうになる顔は、気持ち良いほどに感情と表情が直結している。
「ばあちゃんが、バンドはいいけど、金の貸し借りだけはするなって。……なんだよ、笑うなよ。だから言いたくなかったのに!」
「笑ってねぇよ、べつに」
ちょっと犬みたいだな、と思ったのと、話す内容がほほえましかった、というだけだ。田舎育ちの自分に言われたくないだろうが、随分としっかりとした祖母がいるらしい。
憤慨した様子の少年を見下ろしたまま、さて、と南は考えた。よく知らない人間と金銭の貸し借りはしないという価値観は大変まともである。とは言え、じゃあ、と放置して帰るのも、さすがになんというか。
……と、考えたところで、リュックの中のおにぎりの存在を思い出した。朝握ったものだが、暖房のついた場所に置いていたわけでもなし、まぁ、大丈夫だろう。そう判断した南はアルミホイルで包んだおにぎりを手渡した。提案ではなく、決定事項として。
「金じゃなかったらいいだろ、ほら」
きょとんと見上げてくる顔は、高校生とは思えないほど幼い。
笑いそうになるのを堪え、じゃあな、と歩き出そうとした南を、慌てた声が引き留める。
「待って。もうちょっと、ここにいて」
振り返った先の瞳が、迷子のようだったからいけない。絆されてしまい、南は隣に腰を下ろした。季節は真冬と言っていい時期で、触れた石は冷えて冷たかった。
寂しいなら下に戻れよ、と呆れ半分で言えば、そういうんじゃないし、と拗ねているとしか思えない声が応じる。
それがあまりにもあまりだったので、堪えきれず南は笑った。
時東悠。当時、『Ami intime』という男女三人のグループで活動していた、高校生の名前だった。
[16:南凛太朗 1月7日15時25分]
南食堂は十時開店の二十一時閉店営業だ。
合間の中休みは十四時から十六時。その時間で適当に休憩を取りつつ、南は夜の仕込みを行ってる。とどのつまり、営業している日はほとんどずっと食堂にいるというわけだ。
今日も今日とてカウンター内で仕込みをしていると、がらりと店の戸を引く音がした。準備中の札をものともせずに立ち入る人間はそういない。
春風あたりだろうと踏んでいると、予想どおりの顔が目の前の椅子を引いた。
「めっちゃ、外、寒かった。いつ降り出してもおかしくないよ、雪」
「そういや、そんなことも言ってたな。朝のニュースで」
来て早々のにぎやかな声に苦笑気味に応じると、ダウンジャケットを脱ぎながら、へらりと笑う。
「やっぱり? クソ寒いもんなぁ。あ、凛、なんか温かいものない?」
「おまえの頭に俺に対する遠慮はないのか」
「えー。なにをいまさら」
いまさら。そう言われてしまうと、返すことのできる言葉はない。なにせ生まれたころから一緒の間柄だ。
脇に除けていた小鍋を一瞥し、問いかける。三が日は過ぎているが、白みそを消化したくて作ってしまったのだ。
「雑煮でも食うか?」
「あ、マジ? 食べる、食べる。白みそ?」
「おう。あれな。餅は焼かねぇからな。煮たやつな」
このあたりの雑煮は、いたってシンプルな関東風だ。すまし汁に焼いた角餅。白みそで作る南家の雑煮がイレギュラーなのだが、春風にとっては懐かしい味だろう。
「そうだった、そうだった。凛のおばちゃんの雑煮はそうだったねぇ」
「レンジ使ってるし、時短だけどな」
野菜と一緒に煮てもいいのだが、時間がかかる。これで良し、とレンジで温まった丸餅を鍋に戻して、味を馴染ませる。ひと煮立ちして椀に注ぎ、鰹節を振りかければ完成だ。
「おー、サンキュ。温まる」
「気をつけろよ」
嬉々として箸を握る姿に注意を促せば、笑った春風が行儀悪くカウンター内を箸で示した。
「チビじゃねぇんだから、大丈夫です。そういや、なんでこんなところで作ってるの、これ。裏メニューってやつ?」
「そういうわけでもないんだけど」
「だよね。おまえ、そういう依怙ひいきっぽいことしないもんね」
「まぁ、……かもな」
「そのわりには、時東くんを依怙ひいきしてるけどねぇ」
なんの気もない調子でずばりと言って、春風が椀に口を付ける。はふはふと餅を食べる様子をしばし眺め、南は問いかけた。
「なぁ」
「なに? うまいよ? おばちゃんの味に似てる。懐かしいな」
「いや、そうじゃなくて。俺、依怙ひいきしてるか? その、なんというか」
「芸能人に接するみたいに、ってこと?」
言い淀んだ南の言葉を正確にくみ取って、春風が顔を上げる。そうして、ふっとほほえんだ。
「どうだろうね」
「おまえなぁ……」
からかって楽しんでいることが丸わかりである。南が声を尖らせたところで、春風はどこ吹く風だったが。
「気になるなら聞いてみたら? 今日には来るんじゃなかったっけ」
「仕事次第だろ」
あの日と同じように。長引くことがあれば来ないかもしれない。来るとしても何時になるのかまではわからない。時東の来るタイミングはいつもそうだ。
「そりゃ、そうか。人気者も大変だねぇ」
そうだな、と南は相槌を打った。
正月休みのあいだにも、幾度となくテレビで見たくらいである。人気のある芸能人のスケジュールはハードと聞くが、あのストレス具合を鑑みるになかなかのものだったに違いない。
――それで逃避先が「ここ」とか、相当だよな、あいつも。
「でも、あの子も、そろそろ現実逃避の期限が迫ってるかもねぇ」
「なんの期限?」
箸休めのように呟かれた台詞に眉をひそめれば、春風が首を傾げた。
「聞いてない? 曲が作れないんだって。長い長いスランプらしいよ」
「聞いた」
味がわからなくなっちゃった。そう笑って告げようとして、失敗した顔を思い出す。本人に失敗したつもりはなかったのだろうが、南には泣き笑いのようにしか見えなかったのだ。
うまく受け流してやれただろうか、と思ったことも覚えている。
「あ、そう。ならいいんだけど。それで、……まぁ、それだけじゃないんだろうけど、俺にオハコが回ってきたんだよね。結構前に」
「聞いてねぇ」
「そういや、凛には言ってなかったかな。月ちゃんと海斗くんに伝えたら、凛にも伝えた気分になっちゃってたな」
はは、といとも軽い調子で笑って、春風は続ける。
「まぁ、べつに、俺はどっちでもよかったんだけどさ。月ちゃんたち以外の誰かに曲を提供するのも新鮮味があっていいかなぁ、とか。でも、知らない誰かのために作るのは俺のポリシーに反するんだよな、とか」
バンドを組もうと南を誘ったのは、大学生だった春風だ。
もっとも、春風がギター片手に作曲を始めたのはもっとずっと昔のことで、小学校の中学年くらいのころには、南の隣で弾いていた記憶がある。
自分のアイデンティティがこの店であるのならば、春風にとってのそれは作曲なのだろう。南は勝手にそう解釈をしていた。
「とは言え、知らない相手でもないと言えばないじゃない。だから、まぁ、ありかなぁ、とか。あの事務所に恩義はないけど、社長さんは嫌いではないし。でもなぁ、とか思ってたらさ。来たでしょ、あの子」
ここに、と。優しいような声音で春風が言うものだから、南はどんな顔をするべきかわからなくなってしまった。
この幼馴染みが自分と同じように、食堂を大切に思ってくれていることを知っている。時東のファンが度々訪れ辟易としていたときも、度を越えた行為があったときも。普段の飄々とした態度を畳み込み、本気で怒ってくれた。
そうして、――時東も。この店を認知したのなんて、たった数ヶ月のことだろうに。あたりまえの顔で馴染んで、大事にしたいのだと体現してくれた。
だから、それで十分だと。それ以上を塞き止めるべきだった。
「まぁ、いろいろと言いたいことはあるし。端的に言えば、ちょっといい加減にしろよ、クソガキ、とも思わなくもなかったんだけどさ。案外、あの子、おもしろかったから。作るのはありかな、と思っちゃって。だから引き受けることにしたんだけど」
「……そうか」
「時東くんがどう思っているのかは知らないけど。社会はいつまでも待ってはくれないからねぇ」
ここで缶詰してもいい、と。あの夜、時東は南に言った。自分はそれを受け入れた。だが、ギターの音が聞こえてくることは、あまりなかったのだ。弾いては途切れ、弾いては途切れの繰り返し。
口を出すつもりはなかったし、できるとも思っていない。だから、これは、気心の知れた幼馴染みだからこそ言えることだ。
記憶の淵に、幼い時東の顔が浮かんだ。はじめて会ったときに見た、楽しそうにメンバーとじゃれていた笑顔と、三人で成功して、自分の歌で食べていく、と宣言したときのまっすぐな瞳。
もう随分と見ていないな、と思った。大人になってからの時東は、いつもどこか苦しそうだ。だから、放っておけなかったのかもしれない。
「聞きたい、今度」
「歌うのは無理だよ、俺」
「知ってる」
「だよね。じゃあ、まぁ、それは時東くんにでも聞かせてもらいな、家賃代わりに」
笑って箸を置いた春風に、南は苦笑を浮かべた。
「いつまで来るか、わからねぇけどな」
「え? なんで?」
「今はここに気が向いてるだけって話だろ」
あたりまえのことを、あたりまえに言っただけだ。それなのに、春風はふっと笑みを消した。真顔のまま、南の顔を覗き込む。
「最後に訊くけど。どうかした?」
東京で数日前に聞いたものとまったく同じ台詞だった。あのときと似た顔を自分がしているのだとすれば、本当にまったくどうしようもない。
苦笑するしかない気分で、南は首を横に振った。
「どうもしない」
最初から、決めていたことだ。ここに来るあいだは受け入れてやろう、と。けれど、来なくなったら、それまでだ、と。完全に受け入れ、絆され切ってしまう前に、思い直すことができてよかった。
本心で、そう思っているつもりだった。
つかの間の休息地。羽を休め、疲れが癒えたらまた飛び立っていく。それでいいし、そうであってほしい。
楽しそうに夢を語る瞳が、南は決して嫌いではなかったのだ。
今日は中止で、と高校生の少年に頭を下げられ、大学生だった南は苦笑ひとつで了承を返した。
バンドの練習にサポートで参加していただけだったので、実際にべつに構わなかったのだ。
そうと決まれば帰ろう、と。荷物を片づけていると、おろおろと諍いを見守っていた少女が、少年をスタジオの隅に引っ張った。
ひそひそとふたりで話しているが、やたらと距離が近い。付き合っているのかもしれないな、と他人ごとで南は思った。よくあることだ。メンバー内での色恋沙汰も、喧嘩別れも。
とにもかくにも練習がなくなった以上、長居は無用。「お先」と告げて、南はスタジオをあとにした。地上に向かう階段を上る。
若い人間が集まっているのだ。喧嘩など、どこのバンドでもあるだろう。だが、しかし。
――あんな漫画みたいに飛び出さなくてもいいのにな。
十数分前。メンバー内で揉め、スタジオを飛び出した少年の顔が頭に過る。「あ」という小さな声が聞こえたのは、笑いそうになった瞬間だった。
「なにやってんの、おまえ」
植え込みに座り込んでいる少年を見とめ、南は思わず呟いた。その台詞に、少年の眉間にむっとした皺が寄る。
「なにって、べつに……」
漫画みたいにスタジオを飛び出し、漫画みたいに植え込みに座り込んでいた子どもの腹が、漫画みたいなタイミングでぐぅと鳴った。
気まずそうに逸らされた横顔の赤さは、暗がりの中でも見て取れる。まぁ、これはちょっと恥ずかしかったかもしれないなぁ、と。思いやる大人げを持ち合わせていた南は、淡々と問いかけた。
「なに、腹減ってんの? 金は?」
「……持ってきてない」
つまるところ、スタジオに置きっぱなしということらしい。
取りに帰ったついでに謝ればいいのに。そう提案するには、あまりにも声音が痛恨とし過ぎていた。しかたなく違う台詞を選ぶ。
「貸してやろうか?」
顔を数回合わせた程度の関係ではあるものの、仏心というやつだ。
数百円程度であれば返ってこなくとも構わない。それに、似た界隈に籍を置いている身だ。今後もどこかで会うことはあるだろう。
「いや、それは駄目」
「なんでだよ」
妙にはっきりと断られ、南は問い返した。みるみるうちに気まずそうになる顔は、気持ち良いほどに感情と表情が直結している。
「ばあちゃんが、バンドはいいけど、金の貸し借りだけはするなって。……なんだよ、笑うなよ。だから言いたくなかったのに!」
「笑ってねぇよ、べつに」
ちょっと犬みたいだな、と思ったのと、話す内容がほほえましかった、というだけだ。田舎育ちの自分に言われたくないだろうが、随分としっかりとした祖母がいるらしい。
憤慨した様子の少年を見下ろしたまま、さて、と南は考えた。よく知らない人間と金銭の貸し借りはしないという価値観は大変まともである。とは言え、じゃあ、と放置して帰るのも、さすがになんというか。
……と、考えたところで、リュックの中のおにぎりの存在を思い出した。朝握ったものだが、暖房のついた場所に置いていたわけでもなし、まぁ、大丈夫だろう。そう判断した南はアルミホイルで包んだおにぎりを手渡した。提案ではなく、決定事項として。
「金じゃなかったらいいだろ、ほら」
きょとんと見上げてくる顔は、高校生とは思えないほど幼い。
笑いそうになるのを堪え、じゃあな、と歩き出そうとした南を、慌てた声が引き留める。
「待って。もうちょっと、ここにいて」
振り返った先の瞳が、迷子のようだったからいけない。絆されてしまい、南は隣に腰を下ろした。季節は真冬と言っていい時期で、触れた石は冷えて冷たかった。
寂しいなら下に戻れよ、と呆れ半分で言えば、そういうんじゃないし、と拗ねているとしか思えない声が応じる。
それがあまりにもあまりだったので、堪えきれず南は笑った。
時東悠。当時、『Ami intime』という男女三人のグループで活動していた、高校生の名前だった。
[16:南凛太朗 1月7日15時25分]
南食堂は十時開店の二十一時閉店営業だ。
合間の中休みは十四時から十六時。その時間で適当に休憩を取りつつ、南は夜の仕込みを行ってる。とどのつまり、営業している日はほとんどずっと食堂にいるというわけだ。
今日も今日とてカウンター内で仕込みをしていると、がらりと店の戸を引く音がした。準備中の札をものともせずに立ち入る人間はそういない。
春風あたりだろうと踏んでいると、予想どおりの顔が目の前の椅子を引いた。
「めっちゃ、外、寒かった。いつ降り出してもおかしくないよ、雪」
「そういや、そんなことも言ってたな。朝のニュースで」
来て早々のにぎやかな声に苦笑気味に応じると、ダウンジャケットを脱ぎながら、へらりと笑う。
「やっぱり? クソ寒いもんなぁ。あ、凛、なんか温かいものない?」
「おまえの頭に俺に対する遠慮はないのか」
「えー。なにをいまさら」
いまさら。そう言われてしまうと、返すことのできる言葉はない。なにせ生まれたころから一緒の間柄だ。
脇に除けていた小鍋を一瞥し、問いかける。三が日は過ぎているが、白みそを消化したくて作ってしまったのだ。
「雑煮でも食うか?」
「あ、マジ? 食べる、食べる。白みそ?」
「おう。あれな。餅は焼かねぇからな。煮たやつな」
このあたりの雑煮は、いたってシンプルな関東風だ。すまし汁に焼いた角餅。白みそで作る南家の雑煮がイレギュラーなのだが、春風にとっては懐かしい味だろう。
「そうだった、そうだった。凛のおばちゃんの雑煮はそうだったねぇ」
「レンジ使ってるし、時短だけどな」
野菜と一緒に煮てもいいのだが、時間がかかる。これで良し、とレンジで温まった丸餅を鍋に戻して、味を馴染ませる。ひと煮立ちして椀に注ぎ、鰹節を振りかければ完成だ。
「おー、サンキュ。温まる」
「気をつけろよ」
嬉々として箸を握る姿に注意を促せば、笑った春風が行儀悪くカウンター内を箸で示した。
「チビじゃねぇんだから、大丈夫です。そういや、なんでこんなところで作ってるの、これ。裏メニューってやつ?」
「そういうわけでもないんだけど」
「だよね。おまえ、そういう依怙ひいきっぽいことしないもんね」
「まぁ、……かもな」
「そのわりには、時東くんを依怙ひいきしてるけどねぇ」
なんの気もない調子でずばりと言って、春風が椀に口を付ける。はふはふと餅を食べる様子をしばし眺め、南は問いかけた。
「なぁ」
「なに? うまいよ? おばちゃんの味に似てる。懐かしいな」
「いや、そうじゃなくて。俺、依怙ひいきしてるか? その、なんというか」
「芸能人に接するみたいに、ってこと?」
言い淀んだ南の言葉を正確にくみ取って、春風が顔を上げる。そうして、ふっとほほえんだ。
「どうだろうね」
「おまえなぁ……」
からかって楽しんでいることが丸わかりである。南が声を尖らせたところで、春風はどこ吹く風だったが。
「気になるなら聞いてみたら? 今日には来るんじゃなかったっけ」
「仕事次第だろ」
あの日と同じように。長引くことがあれば来ないかもしれない。来るとしても何時になるのかまではわからない。時東の来るタイミングはいつもそうだ。
「そりゃ、そうか。人気者も大変だねぇ」
そうだな、と南は相槌を打った。
正月休みのあいだにも、幾度となくテレビで見たくらいである。人気のある芸能人のスケジュールはハードと聞くが、あのストレス具合を鑑みるになかなかのものだったに違いない。
――それで逃避先が「ここ」とか、相当だよな、あいつも。
「でも、あの子も、そろそろ現実逃避の期限が迫ってるかもねぇ」
「なんの期限?」
箸休めのように呟かれた台詞に眉をひそめれば、春風が首を傾げた。
「聞いてない? 曲が作れないんだって。長い長いスランプらしいよ」
「聞いた」
味がわからなくなっちゃった。そう笑って告げようとして、失敗した顔を思い出す。本人に失敗したつもりはなかったのだろうが、南には泣き笑いのようにしか見えなかったのだ。
うまく受け流してやれただろうか、と思ったことも覚えている。
「あ、そう。ならいいんだけど。それで、……まぁ、それだけじゃないんだろうけど、俺にオハコが回ってきたんだよね。結構前に」
「聞いてねぇ」
「そういや、凛には言ってなかったかな。月ちゃんと海斗くんに伝えたら、凛にも伝えた気分になっちゃってたな」
はは、といとも軽い調子で笑って、春風は続ける。
「まぁ、べつに、俺はどっちでもよかったんだけどさ。月ちゃんたち以外の誰かに曲を提供するのも新鮮味があっていいかなぁ、とか。でも、知らない誰かのために作るのは俺のポリシーに反するんだよな、とか」
バンドを組もうと南を誘ったのは、大学生だった春風だ。
もっとも、春風がギター片手に作曲を始めたのはもっとずっと昔のことで、小学校の中学年くらいのころには、南の隣で弾いていた記憶がある。
自分のアイデンティティがこの店であるのならば、春風にとってのそれは作曲なのだろう。南は勝手にそう解釈をしていた。
「とは言え、知らない相手でもないと言えばないじゃない。だから、まぁ、ありかなぁ、とか。あの事務所に恩義はないけど、社長さんは嫌いではないし。でもなぁ、とか思ってたらさ。来たでしょ、あの子」
ここに、と。優しいような声音で春風が言うものだから、南はどんな顔をするべきかわからなくなってしまった。
この幼馴染みが自分と同じように、食堂を大切に思ってくれていることを知っている。時東のファンが度々訪れ辟易としていたときも、度を越えた行為があったときも。普段の飄々とした態度を畳み込み、本気で怒ってくれた。
そうして、――時東も。この店を認知したのなんて、たった数ヶ月のことだろうに。あたりまえの顔で馴染んで、大事にしたいのだと体現してくれた。
だから、それで十分だと。それ以上を塞き止めるべきだった。
「まぁ、いろいろと言いたいことはあるし。端的に言えば、ちょっといい加減にしろよ、クソガキ、とも思わなくもなかったんだけどさ。案外、あの子、おもしろかったから。作るのはありかな、と思っちゃって。だから引き受けることにしたんだけど」
「……そうか」
「時東くんがどう思っているのかは知らないけど。社会はいつまでも待ってはくれないからねぇ」
ここで缶詰してもいい、と。あの夜、時東は南に言った。自分はそれを受け入れた。だが、ギターの音が聞こえてくることは、あまりなかったのだ。弾いては途切れ、弾いては途切れの繰り返し。
口を出すつもりはなかったし、できるとも思っていない。だから、これは、気心の知れた幼馴染みだからこそ言えることだ。
記憶の淵に、幼い時東の顔が浮かんだ。はじめて会ったときに見た、楽しそうにメンバーとじゃれていた笑顔と、三人で成功して、自分の歌で食べていく、と宣言したときのまっすぐな瞳。
もう随分と見ていないな、と思った。大人になってからの時東は、いつもどこか苦しそうだ。だから、放っておけなかったのかもしれない。
「聞きたい、今度」
「歌うのは無理だよ、俺」
「知ってる」
「だよね。じゃあ、まぁ、それは時東くんにでも聞かせてもらいな、家賃代わりに」
笑って箸を置いた春風に、南は苦笑を浮かべた。
「いつまで来るか、わからねぇけどな」
「え? なんで?」
「今はここに気が向いてるだけって話だろ」
あたりまえのことを、あたりまえに言っただけだ。それなのに、春風はふっと笑みを消した。真顔のまま、南の顔を覗き込む。
「最後に訊くけど。どうかした?」
東京で数日前に聞いたものとまったく同じ台詞だった。あのときと似た顔を自分がしているのだとすれば、本当にまったくどうしようもない。
苦笑するしかない気分で、南は首を横に振った。
「どうもしない」
最初から、決めていたことだ。ここに来るあいだは受け入れてやろう、と。けれど、来なくなったら、それまでだ、と。完全に受け入れ、絆され切ってしまう前に、思い直すことができてよかった。
本心で、そう思っているつもりだった。
つかの間の休息地。羽を休め、疲れが癒えたらまた飛び立っていく。それでいいし、そうであってほしい。
楽しそうに夢を語る瞳が、南は決して嫌いではなかったのだ。