「ねえ、あれ伊佐敷くんじゃない?」
「ほんとだ。うわ、高そうな車乗ってる~」
ある日の午後。秋にしてはうららかな天気と、教師のゆったりとした話し声を子守歌に、睡魔と戦っていた時のことだ。
クラスメイトの女子が声を上げたのを皮切りに、授業中だというのにクラスの全員が窓の外を見た。そこには、ここ校舎の2階から見える校門の側に、黒塗りの車とその車から降りてくる豊騎の姿があった。車の前方には、誰もが知るエンブレム――円の中に星が輝く形のものだ――が掲げられている。
「何してんだ、あいつ」
今日は学校を休むって言ってたくせに。わけがわからない。今朝、俺は確かに豊騎からの【今日は学校に行けない。ご飯も不要だと久美子さんに伝えてくれ】というメッセージを受け取ったのだ。不必要な嘘を豊騎がつくとも思えない。それに、あの高そうな車は誰の物だろう。志信さんの車はレトロな配色が可愛らしいコンパクトカーなので、違う。そして、豊騎の周りに志信さん以外で高級車が買えるほどの金持ちがいたとも思えない。豊騎が俺に話していないのなら、別だけど。
そこまで考えて、ピカッと脳内に閃きが走る。
「ハッ……まさか、ヤクザの姐さん……?」
もしかして、もしかしたら。数少ない脳の皺を伸ばせ、俺。俺は真剣に今しがた目撃した高級車と、豊騎の関係を考えてみた。
豊騎に金持ちの知り合いがいるようだ、プラス、豊騎は人妻が好き、イコール、豊騎の本命はヤクザの姐さんだった!?
「姐さん? どこに姐さんがいんの?」
「いや、まだやり手の女社長って線も捨てきれない……!」
「何それ~おもろ、想ちゃん」
俺の呟きを聞きつけた陽が、横から茶々を入れてくる。けど、それどころではない。豊騎、お前……危ない世界に足を踏み入れるなんて。志信さんが泣くぞ。俺が志信さんの号泣する姿を思い描いていると、教室の扉がガラリと開いた。
「おい伊佐敷、重役出勤だな。大幅な遅刻だ」
歴史教師の黒川先生が、皮肉っぽく豊騎に言う。豊騎はちらりと先生に視線をやってから、「家庭の事情で遅れました」とだけ言って、席に着いた。豊騎はすぐ後ろの席なので、勢いよく振り返って囁く。
「豊騎、途中から来るならそう言えよ。弁当1個しか持ってきてねーよ」
「別にいい。後で購買に行くから」
豊騎はなんとなくだけど、沈んでいる様子だ。普段から陽みたいにぺちゃくちゃ喋るタイプでもないけど、今日はあからさまに人と話したくないですオーラを全身から醸し出している。
「伊佐敷くんの家ってお金持ちなのかな」
「え~知らない。聞いてみれば」
「あんたが聞いてよお」
教室の後ろのほうから、そんな噂話が聞こえてきた。豊騎はうんざりしたように顔を顰めると、机に突っ伏して寝始めてしまった。歴史の黒川先生が途端に眉をひそめたが、豊騎を注意することもなく授業を再開し出した。
豊騎に何があったんだろう。
***
「今日、これからみんなでカラオケ行かねえ?」
放課後、凝り固まった肩の筋肉をほぐすように背伸びしている陽へ、声をかけた。豊騎はまだ机に突っ伏して寝ている。遅刻してきたと思ったら、今日は1日中眠っていた。育ち盛りで眠いのか?
「俺はいいよん。とっしーは?」
「いいけど……急だな」
泉くんは突然カラオケに行こうと言い出した俺を不思議がるように、眼鏡の縁をクイッと直した。普段の俺はカラオケ好きってわけでもないから、変に思われるのは当然だ。でも、俺の行動原理はだいたい豊騎のため、というか豊騎のせいだ。
「あのな、ここだけの話……豊騎のやつ、ヤクザの姐さんに失恋したんだよ」
ひそひそと声を抑えて泉くんに伝えると、泉くんは「……は?」と、とんでもない点数のテスト結果を見せた時と同じ顔で俺を見た。
俺が1日考えた推理はこうだ――俺の母親、久美子への報われない片思いから脱却したかった豊騎は、ひょんなことからヤクザの姐さんと出会ってしまう。またしても人妻。やはり己の性癖から逃れられないのだ、と悟った豊騎は、運命を受け入れて姐さんに決死の覚悟で告白をした。だが、姐さんは常識的な女性だったので、未成年を相手には出来ない、と断られてしまった。傷心の豊騎を、高校まで高級車で送ってくれる、優しい姐さん。やっぱり諦められない! そう思った豊騎は涙にくれるのだった――
そこまで長々と説明した後、泉くんは一瞬ポカン、と口を開いて俺を見据えた。それから、「天辰はなんでいっつもそうなるんやって」と呆れたように呟き、「え、いつもって何が」と俺が返すと、今度は「ハアアア」とクソでかいため息を吐いた。そして、眼鏡を外して眉間を指で揉みだした。頭が痛むらしい。お大事に。
「豊騎、豊騎。起きろって。カラオケ行こう」
名前を呼んで眠る豊騎の肩を容赦なくばんばんと叩く。豊騎はゆっくりと身体を起こし、半分しか開いていないまぶたを手でこすっている。
「ほら、行くぞ。早く歩けって」
180センチ近くある長身の男をひきずって歩くのは、しんどい。だけど失恋した可哀想な親友のためだ。俺は体力ゲージが減るのもなんのその、と気合いを入れて、豊騎を引っ張りカラオケ店へと向かった。
***
「いかない~でえ~♪ この愛が幻だったと認めるのならあ~♪」
「何、この曲」
「知らん」
「たぶんだけど、昭和時代の歌謡曲……かなあ」
カラオケ店に着く頃にはすっかり元気を取り戻していた豊騎。だけど、マイクを握った途端、またなんだかおかしくなってしまった。誰も知らない昔の曲、しかも失恋曲ばかりを歌っている。しっかりとこぶしまで効かせて。
「……な。失恋したって俺の推理、当たってただろ?」
泉くんに囁くと、泉くんはしきりに頭を傾げて「いやでも、そんなはずは……」などと呟いている。陽は慣れない曲調にしばらく固まっていたけど、ようやく正気に戻ったようだ。部屋に置かれていたタンバリンを思う存分に使いこなし、豊騎の歌を盛り上げている。
そうして豊騎が何曲か知らない昔の歌謡曲を歌い終わった時。豊騎のスマホが震え、着信を知らせた。
「悪い、ちょっと電話してくる」
「いってらー」
豊騎を見送ってから、飲んでいたドリンクが空になっているのに気づく。マイクを独占していた豊騎の居ぬ間に、と流行りのアイドルソングを歌い出した陽を横目に、俺はドリンクバーを目指して部屋を出る。同じ階にあったよな、とカラオケ店の店内地図を思い出しながら廊下を歩くと、トイレがある方向から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「仕送りはありがとうございました。でも、金輪際やめてください。迷惑なので。学校までの送り迎えも結構です」
豊騎の声は冷凍庫の中みたいに冷たい。あいつは口が悪いし、愛想を振りまくタイプでもないけど、ここまで言葉に棘がある喋りかたをするやつでもない。電話の相手は誰なんだろう。気になって足をもう一歩進めると、トイレの中から豊騎が飛び出てきて、あわや衝突しそうになった。
「あっぶね……想、何してんだよ」
「あ、いやあ、ドリンク取りに来た」
「ドリンクバーなら反対側だけど」
「え、嘘、マジ!?」
今気づきました、みたいなオーバーリアクションで俺は飛び跳ねた。盗み聞きしてたことはなんとなく豊騎に話せなくて、黙ったままドリンクバーへ向かう。何故か豊騎もついてきた。メロンソーダをグラスに注ぎながら、「……豊騎、失恋くらい誰でもするって。お前くらいイケメンならすぐ別の相手が見つかるよ」と俺は豊騎に声をかける。
「失恋? 何の話だよ」と言う豊騎。え、だってさっき電話で揉めてたし。失恋ソング歌ってたし。きっとヤクザの姐さんに手を出そうとしたことがヤクザにばれて、穏便にことを進めようとして和解金を豊騎に渡した――そんなことなんじゃないかと思ったのだ。
「あの歌はしのさんの趣味でよく聞いてただけ。その想像力を別のことに生かせよ。想だけに」
豊騎はそんなことを言ってから、「上手いっ」と自画自賛で己の拙いギャグ台詞を称えていた。カラオケでテンションが上がってきて何よりだ。
「あ、2人ともおけーりー。なんかね、スタッフの人から大部屋に移動できますよって言われたんよ。だからあ、行こうぜ!」
部屋に戻るなり、陽はウキウキと告げてきた。親切なスタッフさんもいるもんだね、なんて談笑しながら部屋を移動する。移動先の大部屋は、恐らくこのカラオケ店で1番広い部屋だった。ずらりと部屋の隅を囲むようにソファ席が並び、部屋の中央にはミニステージもついている。これは豊騎・オン・ステージが始まってしまいそうだ。
大部屋に興奮して室内に足を踏み入れた俺たちだったが、そこですぐに異変に気がついてしまった。
「うわ、酒くさっ」
「さっきまで宴会でもしてたみたいやな」
鼻をつまんで言う、泉くん。部屋中に、アルコール臭が充満していた。この臭さだといくら消臭剤を使おうが、空気清浄機を作動させようが、すぐには臭いが取れそうにない。だから俺たちに部屋を移動するように頼んできたのか。スタッフの親切の裏にあった魂胆を知ってしまい、がっくりと力が抜ける。まあ、臭いさえ我慢すればいい話なんだけど。
既に部屋を交換してしまったし、と俺たちが諦めて部屋の扉を閉め、さあ歌おうとしたその瞬間。ダンッ、と物凄い物音を立てて、豊騎が机に倒れ込んだ。
「豊騎!? ど、どうした」
慌てて豊騎の顔を抱き起こすと、豊騎の目はとろんと夢でも見ているように甘ったるくなり、意味もなく「へへへ」と笑い出していた。どうやら、アルコールの匂いだけで酔い潰れてしまったらしい。そんなことあるのか。いや、現になってるから、あるんだろうけど。
豊騎を抱えて困惑する俺を見てから、顔を見合わせる、陽と泉くん。
「……じゃっ、後はよろしくう」
「あ、おいっ、待てよ! 俺だけ置いてくつもりか!? この裏切り者おおおお!!」
2人の袖を掴もうとしたけど時すでに遅し。陽と泉くんは俺を見捨ててさっさと大部屋を出ていってしまった。酒乱の志信さんの介抱をした経験があるから、かもしれない。アルコール分解酵素の数は、かなりのパーセンテージで遺伝的要素に左右されるという。志信さんのように、酔っぱらった豊騎が暴れ出すと思ったんだろうな。
「だからって俺ひとりでどうしろと!?」
豊騎を抱えて悲鳴を上げる。広い部屋の中に、俺の悲鳴が響き渡った。
「んん~……あつい。あついいいい!」
「わあ!? 豊騎何してる、服を脱ぐな!」
何をトチ狂ったのか、いきなり制服のシャツのボタンを外し始める豊騎。上半身の裸が露になり、鍛えられた豊騎の胸筋が目の前に広がる。初めて見るものでもないけど、俺の身体はさっそく反応してしまう。バクバクと猛スピードでケイデンスを上げる心臓。だんだんと不穏になる、俺の下半身。
「豊騎、しっかりしろお! しっかりしてくれ、そうじゃないと、俺、俺の息子がああああ……」
上裸の豊騎に抱き着かれた格好で、俺はこの状況に絶望して叫んだ。テーブルの上に置かれていたマイクが、「キイイイン」とハウリング音を鳴らした。
「ほんとだ。うわ、高そうな車乗ってる~」
ある日の午後。秋にしてはうららかな天気と、教師のゆったりとした話し声を子守歌に、睡魔と戦っていた時のことだ。
クラスメイトの女子が声を上げたのを皮切りに、授業中だというのにクラスの全員が窓の外を見た。そこには、ここ校舎の2階から見える校門の側に、黒塗りの車とその車から降りてくる豊騎の姿があった。車の前方には、誰もが知るエンブレム――円の中に星が輝く形のものだ――が掲げられている。
「何してんだ、あいつ」
今日は学校を休むって言ってたくせに。わけがわからない。今朝、俺は確かに豊騎からの【今日は学校に行けない。ご飯も不要だと久美子さんに伝えてくれ】というメッセージを受け取ったのだ。不必要な嘘を豊騎がつくとも思えない。それに、あの高そうな車は誰の物だろう。志信さんの車はレトロな配色が可愛らしいコンパクトカーなので、違う。そして、豊騎の周りに志信さん以外で高級車が買えるほどの金持ちがいたとも思えない。豊騎が俺に話していないのなら、別だけど。
そこまで考えて、ピカッと脳内に閃きが走る。
「ハッ……まさか、ヤクザの姐さん……?」
もしかして、もしかしたら。数少ない脳の皺を伸ばせ、俺。俺は真剣に今しがた目撃した高級車と、豊騎の関係を考えてみた。
豊騎に金持ちの知り合いがいるようだ、プラス、豊騎は人妻が好き、イコール、豊騎の本命はヤクザの姐さんだった!?
「姐さん? どこに姐さんがいんの?」
「いや、まだやり手の女社長って線も捨てきれない……!」
「何それ~おもろ、想ちゃん」
俺の呟きを聞きつけた陽が、横から茶々を入れてくる。けど、それどころではない。豊騎、お前……危ない世界に足を踏み入れるなんて。志信さんが泣くぞ。俺が志信さんの号泣する姿を思い描いていると、教室の扉がガラリと開いた。
「おい伊佐敷、重役出勤だな。大幅な遅刻だ」
歴史教師の黒川先生が、皮肉っぽく豊騎に言う。豊騎はちらりと先生に視線をやってから、「家庭の事情で遅れました」とだけ言って、席に着いた。豊騎はすぐ後ろの席なので、勢いよく振り返って囁く。
「豊騎、途中から来るならそう言えよ。弁当1個しか持ってきてねーよ」
「別にいい。後で購買に行くから」
豊騎はなんとなくだけど、沈んでいる様子だ。普段から陽みたいにぺちゃくちゃ喋るタイプでもないけど、今日はあからさまに人と話したくないですオーラを全身から醸し出している。
「伊佐敷くんの家ってお金持ちなのかな」
「え~知らない。聞いてみれば」
「あんたが聞いてよお」
教室の後ろのほうから、そんな噂話が聞こえてきた。豊騎はうんざりしたように顔を顰めると、机に突っ伏して寝始めてしまった。歴史の黒川先生が途端に眉をひそめたが、豊騎を注意することもなく授業を再開し出した。
豊騎に何があったんだろう。
***
「今日、これからみんなでカラオケ行かねえ?」
放課後、凝り固まった肩の筋肉をほぐすように背伸びしている陽へ、声をかけた。豊騎はまだ机に突っ伏して寝ている。遅刻してきたと思ったら、今日は1日中眠っていた。育ち盛りで眠いのか?
「俺はいいよん。とっしーは?」
「いいけど……急だな」
泉くんは突然カラオケに行こうと言い出した俺を不思議がるように、眼鏡の縁をクイッと直した。普段の俺はカラオケ好きってわけでもないから、変に思われるのは当然だ。でも、俺の行動原理はだいたい豊騎のため、というか豊騎のせいだ。
「あのな、ここだけの話……豊騎のやつ、ヤクザの姐さんに失恋したんだよ」
ひそひそと声を抑えて泉くんに伝えると、泉くんは「……は?」と、とんでもない点数のテスト結果を見せた時と同じ顔で俺を見た。
俺が1日考えた推理はこうだ――俺の母親、久美子への報われない片思いから脱却したかった豊騎は、ひょんなことからヤクザの姐さんと出会ってしまう。またしても人妻。やはり己の性癖から逃れられないのだ、と悟った豊騎は、運命を受け入れて姐さんに決死の覚悟で告白をした。だが、姐さんは常識的な女性だったので、未成年を相手には出来ない、と断られてしまった。傷心の豊騎を、高校まで高級車で送ってくれる、優しい姐さん。やっぱり諦められない! そう思った豊騎は涙にくれるのだった――
そこまで長々と説明した後、泉くんは一瞬ポカン、と口を開いて俺を見据えた。それから、「天辰はなんでいっつもそうなるんやって」と呆れたように呟き、「え、いつもって何が」と俺が返すと、今度は「ハアアア」とクソでかいため息を吐いた。そして、眼鏡を外して眉間を指で揉みだした。頭が痛むらしい。お大事に。
「豊騎、豊騎。起きろって。カラオケ行こう」
名前を呼んで眠る豊騎の肩を容赦なくばんばんと叩く。豊騎はゆっくりと身体を起こし、半分しか開いていないまぶたを手でこすっている。
「ほら、行くぞ。早く歩けって」
180センチ近くある長身の男をひきずって歩くのは、しんどい。だけど失恋した可哀想な親友のためだ。俺は体力ゲージが減るのもなんのその、と気合いを入れて、豊騎を引っ張りカラオケ店へと向かった。
***
「いかない~でえ~♪ この愛が幻だったと認めるのならあ~♪」
「何、この曲」
「知らん」
「たぶんだけど、昭和時代の歌謡曲……かなあ」
カラオケ店に着く頃にはすっかり元気を取り戻していた豊騎。だけど、マイクを握った途端、またなんだかおかしくなってしまった。誰も知らない昔の曲、しかも失恋曲ばかりを歌っている。しっかりとこぶしまで効かせて。
「……な。失恋したって俺の推理、当たってただろ?」
泉くんに囁くと、泉くんはしきりに頭を傾げて「いやでも、そんなはずは……」などと呟いている。陽は慣れない曲調にしばらく固まっていたけど、ようやく正気に戻ったようだ。部屋に置かれていたタンバリンを思う存分に使いこなし、豊騎の歌を盛り上げている。
そうして豊騎が何曲か知らない昔の歌謡曲を歌い終わった時。豊騎のスマホが震え、着信を知らせた。
「悪い、ちょっと電話してくる」
「いってらー」
豊騎を見送ってから、飲んでいたドリンクが空になっているのに気づく。マイクを独占していた豊騎の居ぬ間に、と流行りのアイドルソングを歌い出した陽を横目に、俺はドリンクバーを目指して部屋を出る。同じ階にあったよな、とカラオケ店の店内地図を思い出しながら廊下を歩くと、トイレがある方向から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「仕送りはありがとうございました。でも、金輪際やめてください。迷惑なので。学校までの送り迎えも結構です」
豊騎の声は冷凍庫の中みたいに冷たい。あいつは口が悪いし、愛想を振りまくタイプでもないけど、ここまで言葉に棘がある喋りかたをするやつでもない。電話の相手は誰なんだろう。気になって足をもう一歩進めると、トイレの中から豊騎が飛び出てきて、あわや衝突しそうになった。
「あっぶね……想、何してんだよ」
「あ、いやあ、ドリンク取りに来た」
「ドリンクバーなら反対側だけど」
「え、嘘、マジ!?」
今気づきました、みたいなオーバーリアクションで俺は飛び跳ねた。盗み聞きしてたことはなんとなく豊騎に話せなくて、黙ったままドリンクバーへ向かう。何故か豊騎もついてきた。メロンソーダをグラスに注ぎながら、「……豊騎、失恋くらい誰でもするって。お前くらいイケメンならすぐ別の相手が見つかるよ」と俺は豊騎に声をかける。
「失恋? 何の話だよ」と言う豊騎。え、だってさっき電話で揉めてたし。失恋ソング歌ってたし。きっとヤクザの姐さんに手を出そうとしたことがヤクザにばれて、穏便にことを進めようとして和解金を豊騎に渡した――そんなことなんじゃないかと思ったのだ。
「あの歌はしのさんの趣味でよく聞いてただけ。その想像力を別のことに生かせよ。想だけに」
豊騎はそんなことを言ってから、「上手いっ」と自画自賛で己の拙いギャグ台詞を称えていた。カラオケでテンションが上がってきて何よりだ。
「あ、2人ともおけーりー。なんかね、スタッフの人から大部屋に移動できますよって言われたんよ。だからあ、行こうぜ!」
部屋に戻るなり、陽はウキウキと告げてきた。親切なスタッフさんもいるもんだね、なんて談笑しながら部屋を移動する。移動先の大部屋は、恐らくこのカラオケ店で1番広い部屋だった。ずらりと部屋の隅を囲むようにソファ席が並び、部屋の中央にはミニステージもついている。これは豊騎・オン・ステージが始まってしまいそうだ。
大部屋に興奮して室内に足を踏み入れた俺たちだったが、そこですぐに異変に気がついてしまった。
「うわ、酒くさっ」
「さっきまで宴会でもしてたみたいやな」
鼻をつまんで言う、泉くん。部屋中に、アルコール臭が充満していた。この臭さだといくら消臭剤を使おうが、空気清浄機を作動させようが、すぐには臭いが取れそうにない。だから俺たちに部屋を移動するように頼んできたのか。スタッフの親切の裏にあった魂胆を知ってしまい、がっくりと力が抜ける。まあ、臭いさえ我慢すればいい話なんだけど。
既に部屋を交換してしまったし、と俺たちが諦めて部屋の扉を閉め、さあ歌おうとしたその瞬間。ダンッ、と物凄い物音を立てて、豊騎が机に倒れ込んだ。
「豊騎!? ど、どうした」
慌てて豊騎の顔を抱き起こすと、豊騎の目はとろんと夢でも見ているように甘ったるくなり、意味もなく「へへへ」と笑い出していた。どうやら、アルコールの匂いだけで酔い潰れてしまったらしい。そんなことあるのか。いや、現になってるから、あるんだろうけど。
豊騎を抱えて困惑する俺を見てから、顔を見合わせる、陽と泉くん。
「……じゃっ、後はよろしくう」
「あ、おいっ、待てよ! 俺だけ置いてくつもりか!? この裏切り者おおおお!!」
2人の袖を掴もうとしたけど時すでに遅し。陽と泉くんは俺を見捨ててさっさと大部屋を出ていってしまった。酒乱の志信さんの介抱をした経験があるから、かもしれない。アルコール分解酵素の数は、かなりのパーセンテージで遺伝的要素に左右されるという。志信さんのように、酔っぱらった豊騎が暴れ出すと思ったんだろうな。
「だからって俺ひとりでどうしろと!?」
豊騎を抱えて悲鳴を上げる。広い部屋の中に、俺の悲鳴が響き渡った。
「んん~……あつい。あついいいい!」
「わあ!? 豊騎何してる、服を脱ぐな!」
何をトチ狂ったのか、いきなり制服のシャツのボタンを外し始める豊騎。上半身の裸が露になり、鍛えられた豊騎の胸筋が目の前に広がる。初めて見るものでもないけど、俺の身体はさっそく反応してしまう。バクバクと猛スピードでケイデンスを上げる心臓。だんだんと不穏になる、俺の下半身。
「豊騎、しっかりしろお! しっかりしてくれ、そうじゃないと、俺、俺の息子がああああ……」
上裸の豊騎に抱き着かれた格好で、俺はこの状況に絶望して叫んだ。テーブルの上に置かれていたマイクが、「キイイイン」とハウリング音を鳴らした。