親友が俺の母親に片想いしているみたいなんだが

 季節は初夏。放課後になってもまだ、見上げれば突き抜けるように青い空がそこにある。こうも日が長いと、夕方でもはっきりと人影が見えるからいいよな。そう。はっきりと、見えてしまう。良くも悪くも……。
「なーにしてんだろ、あいつ」
 偶然帰り道で見つけた豊騎(あつき)の後ろ姿を、俺は追っていた。豊騎は高校入学時から深夜のコンビニでアルバイトをしているので、放課後になると仮眠を取るため爆速で帰宅する習慣がある。それなのに、こんなところで何をしているのか。
「そりゃデートじゃね?」
 一緒に帰宅路を歩いていた(ひなた)が、彼女に送るメッセージをポチポチ打ちながら言う。
 デート。豊騎が? 俺の母親のことはもう吹っ切ったのか。その隣で泉くんは「違うだろ」と呟く。うん。俺も泉くんと同意見だ。
 きっとたまたまこの辺に用事があったんだろう。そう決めつけていた俺だったが、次の瞬間、予想外のものを見てしまった。
 駅の前にある広場で、こちらに向かって手を振る40代くらいの女性。その人は、豊騎の前まで走っていく。そしてなんと、豊騎も笑顔でその女性に挨拶していたのだ。
「何、誰!?」
 思わず隣にいた陽にしがみついて問い詰めてしまった。陽は「や、俺に聞かれても」と苦笑している。
伊佐敷(いさしき)のお母さんとか、か?」
「いや……あいつの母親、だいぶ前に亡くなってるって言ってた」
 去年、豊騎から聞いた話だ。1人暮らしをしている理由も、そのことが関係している。実の父親からは認知されておらず、母親が亡くなりその後はしばらく親戚の家にいたそうだ。うちの母親が毎日あいつの分の飯まで用意するのは、そんな豊騎の家庭事情に同情したから、というのも大きい。
「そうだったのか」
 豊騎の家庭事情を知って、なんとなくしんみりとする泉くんと、俺。
「じゃあ、あの人誰なのー?」
 不思議そうに陽が首を傾げた。俺もそれが知りたい。気になった俺たちは、悪いと思いつつ豊騎と女性の後をつけることにした。
 どうやら駅前で事前に待ち合わせの約束をしていたらしき豊騎と例の女性。二言三言話してから、やがて駅の中へと入っていく。慌てて俺たち3人も彼らに続いてホームの中へ入った。
「げ、逆方向じゃん」
 豊騎たちの向かった先を見て、陽が呻く。陽の家は豊騎が乗ろうとしている電車とは逆方面に最寄り駅があるのだ。「陽だけ帰るか」と言うと、陽は駄々をこねるように「やだやだあ、仲間外れにしないでえ~」と言って何故か泉くんにしがみつく。
「おいひなっ、抱き着いてくんな!」
「ん? んん~? とっしーさては筋トレしてんな、大胸筋が立派だあ」
「……自分、マジでやめえやッ……!」
 泉くんは陽にペタペタと胸を触られて、耳まで真っ赤になった。彼は俺の中で「友達の中でも怒らすと怖そうランキング1位」だったので、おや? と意外に思う。普段の様子を見ているとそこまでこの2人は仲良くない。むしろ、俺と陽に比べれば距離があるくらいだ。でもこうして見ると、2人はやっぱり幼馴染なんだなあ。
 ほっこりとした気持ちで2人を眺めていたので、危うく豊騎を見失うところだった。
 豊騎と女性が乗り込んだ電車に、俺たちも乗り込む。同じ車内の、少し離れた場所から豊騎たちを観察した。彼らの会話まではよく聞こえなかったものの、豊騎の表情はよく見えた。
「豊騎が笑ってる、だと……?」
 驚きのあまり、俺はあんぐりと口を開けた。確実に、あの女性と豊騎は初対面ではない。豊騎の女性に対する数々の塩対応を見てきたので、そう直感する。でも、俺はあの人を知らない。そのことが、少し胸をチクりと痛ませた。豊騎は所かまわず威嚇しまくってる野良猫みたいなやつだけど、俺にだけは家庭の事情とか、言いづらいことも話してくれているとばかり思っていた。ただ、俺がそう思い込みたかっただけ、だったのかな。
 俺がしゅんと落ち込んでいるうちに、電車は2つ分の駅を通過する。急行電車だからか。俺と豊騎の家は、学校のある駅から電車だと1つ隣の駅にある。どこまで行くんだろう。そう思っていると、電車がまた別の駅に停車する。そして豊騎たちもホームへと下りていった。走って彼らを追いかける。
「なあ、この辺って何があったっけ」
 学校より5つ離れた駅から通学している泉くんに尋ねると、泉くんは顔を顰めた。
「……住宅街くらいしかなかったと思う。スーパーとコンビニはあるかもな」
「ええ……?」
 本当にあの2人はどこへ向かっているというんだ。不安になりながらも追いかけ続けると、ようやく目的地にたどり着いたらしい。豊騎と女性の足取りが止まった。俺たちはサッと電柱の影に隠れて、2人の行き先を見つめた。だけど、ここには特に目ぼしい店は何もない。何の変哲もない、ただの住宅地が広がるだけだった。
「あー、おうちデートかあ」
 そんな陽の呟きが聞こえたと同時に、豊騎と女性がある一軒家の中へと入っていくのが見えた。
 おいおい、待て待て待て!
「それはライン超えてるんじゃないかなあ!?」
 俺はいてもたってもいられず、豊騎の目の前に飛び出し、叫んだ。叫んでみてから、周りが住宅地だったことを思い出した。静かな街に、俺の声がさぞかし響き渡ったことだろう。今になって恥ずかしくなってきた。後ろからは「うわ、想ちゃんだいたーん」と緊張感のない陽の声が聞こえてくる。
「想? こんなとこで何してんだ」
 女性の家に入りかけていた豊騎は驚いたのか、珍しくぽかんと口を開けて、間の抜けた顔をしていた。例の女性は家の中から不思議そうに俺たちを見つめている。うう、気まずい。なんだか俺のほうが間男のような気分だ。
「久美子……俺の母親じゃなくて、この人が豊騎の本命ならそれでもいいよ。不倫でさえなければ俺は止めない! でもさあっ、親友の俺にはひとことくらい相談してくれてもよかったんじゃねえの!?」
「何の話?」
「え?」
「いや、こっちが聞いてんだけど」
 俺と豊騎は、お互いに混乱して聞き返した。
 何、この状況。
 いったん話を整理しよう。俺はおずおずと豊騎を見上げ、家の中にいる女性をてのひらで示した。
「え、え、この人、豊騎の彼女さん、なんでしょ?」
「違うわこのボケが!」
「コラッ、お友達になんて口きいてんの豊騎!!」
 豊騎のエセ関西弁ツッコミに被さって、雷のような激しい怒号が飛んだ。突然の大声に、俺と豊騎の身体がビクッと震える。ついでに豊騎の頭には鉄拳も飛んできた。「痛ッ」と豊騎が小さく呻く。
「ごめんなさいねえ、躾がなってなくて。わたくし豊騎の伯母(おば)伊佐敷志信(いさしきしのぶ)と申します」
 志信さん、と名乗る女性は、先ほどの怒鳴り声とは打って変わって、由緒正しいおうちの令嬢みたいな丁寧な挨拶をしてきた。
「え、お、伯母さん!?」
「そう。伯母さん」
 言われてみれば、目元とか少し豊騎に似ている気がしてきた。てっきりこの女性が豊騎の彼女だと思っていたので、安堵感にホッとため息を吐く。
「なーんだ。あっくんの親戚か」
「……こんにちは」
 後ろに隠れていた陽と泉くんも、豊騎の伯母さんという事実を聞き、ぞろぞろと家の前に現れる。
 急に男子高校生がこう何人も出てきたら不信感を抱かれても仕方なさそうなものだけど、志信さんは意外にも「豊騎、こんなにお友達出来たの。やるじゃない!」と言って笑っていた。懐の広い人だ。
「そうだ。これから焼肉を食べるんだけど、みんなもよかったら食べていって」
 志信さんのそんな提案に、陽と泉くんは「ええ~いいんすかあ!?」「ありがとうございます」と既に乗る気満々の返事をした。
「お前ら少しは遠慮しろよ……」
 豊騎は迷惑そうにぼやいていたものの、伯母である志信さんにはどうやら強く出られないらしい。渋々だったけど、俺たちを玄関に招き入れている。
「――それじゃっ、あっくんの伯母さんにカンパーイ」
「「「「カンパーイ」」」」
 カチン、と炭酸飲料が入ったグラスをぶつけ合う。テーブルに置かれたプレートの上で、焼かれている肉がジュウジュウと美味しそうな音を立てていた。志信さんはひとりだけビールの入ったグラスを勢いよく飲んでいる。
「……肉、多めに買ってきておいてよかったわ。まさか豊騎のお友達をこの家に招く日が来るなんてねえ」
 ビールを飲み干してから、志信さんはどこか遠くを見つめてしんみりと言った。後をつけている時から薄々感じてはいたが、豊騎とはだいぶ仲がいいようだ。豊騎が友達を作り、家にまでその友達らが押し掛けてきたことが彼女にとっては嬉しい出来事だったらしい。もしかしたら豊騎が以前世話になっていた親戚とは、志信さんのことだったのか。
「なあ豊騎、ひょっとして志信さんってお前の親がわりをしてくれてた人……?」
「ああ」
 なんでもないように豊騎は肉を食べながら頷く。おー、この人が。俺はなんだか感慨深くて、志信さんの顔をまじまじと眺めてしまった。すると視線に気づいた志信さんが、ニカッと白い歯を見せて笑いかけてきた。
「君が天辰(あまたつ)くんでしょ。豊騎がいつも世話になってるね。お母さんは元気?」
「え、あ、はい。元気です」
 なんで久美子の様子を聞くんだ、という疑問が頭に浮かんだけど、すぐにうちの母親が豊騎に飯を作ってることを知っているに違いない、ということに思い至る。
「あたしは豊騎の母親の姉なんだけどね。結婚も出産もする気がなかったから……あ、まあ今もないんだけど。だからこの子の母親が亡くなってからは豊騎の世話をするつもりでいたのよ。それなのにこいつってば、中学に上がったら『絶対ひとり暮らしする』って言って聞かなくて」
「あー……」
 その頃の豊騎があまりにも想像にたやすかったので、俺は豊騎を見てうんうんと頷いた。豊騎は不満そうだ。眉間に皺を寄せてひたすら肉を食うマシーンと化している。豊騎に食いつくされる前に、と俺もプレートの上にある肉を箸で掴み、食べる。うん、美味しい。かなり高級なお肉なんじゃないだろうか。この家も普通の一軒家にしては立派な作りだし、志信さんは経済的にまったく困っていなさそうだ。余計に、豊騎がひとり暮らしを強行した理由がわからなくなる。
「でも中学生でひとり暮らしって、かなりハードモードっすよね? 伯母さんよく許しましたねえ」
 陽は泉くんの取り皿に焼いた野菜をぽいぽいと放り込みながら、言う。泉くんは野菜が嫌いなので、口をへの字にして陽を睨んだ。
「いやいや、あたしもこの家から豊騎を出すつもりなかったよ。でもねー。『自分たちを捨てた父親を見返すんだ』って凄まれちゃって。生活費も自分で稼ぐって言い張るしで。こっちが折れたわけよ」
 中学生が出来るアルバイトといったら、新聞配達くらいしかない。ということは、豊騎は中学に通いながら早朝に新聞配達の仕事もしていたわけだ。伯母さんとの仲も良好なんだし、素直に厚意に甘えておけばよかったのに。そうしないところが、豊騎を豊騎たらしめてるんだろうけど。
「……そんな豊騎がこーんなにたくさんお友達を作ったなんてねえ。子供は勝手に育つっていうの、本当だったわ」
 しんみりと言った志信さんだったが、ゴクゴクとビールをおかわりするうちに、嫌なことまで思い出してきてしまったらしい。次第に「豊騎の父親はほんっとにクズなんだよ! ったくあのヤローがよお」と口調が荒々しいものになっていく。
「伯母さん、落ち着いて」
 泉くんが宥めるように言って、志信さんからグラスを取り上げようとした。が、酒が回ってきた志信さんは俺たちの予想以上に凶暴だった。「酒! 酒をよこせええ!」と陽や泉くんに掴みかかる。陽は半泣きで「ギブです、ギブです!」と叫んでから缶ビールを志信さんに献上していた。
「なんか、ようやくあの人がお前の親戚だって実感したなー」
 主に暴れるところを見て、だったけど。豊騎は「しのさん今日はテンションたけえなあ」なんてことを呟いていた。
 いや、お前に友達が出来たのが嬉しかったんじゃねえの。とは、言わずに心に仕舞っておいた。志信さんのために。
(そう)ちゃん、ご飯は冷蔵庫にあるからね。ちゃんとチンして豊騎(あつき)くんと食べるのよ」
「はいはい、もう10回は聞いたって」
「家の戸締りもしっかりね!」
「はいはい」
 後ろ髪を引かれるように何度もこちらを振り返ってくる母親を、半ば押し出すみたいにして玄関から見送った。両親は今日から1泊2日の旅行へ出かける。
 季節は夏。外から差し込む太陽の光が眩しくて、目を細めた。昼前の時間だっていうのに、外は汗ばむくらい暑い。久美子と父さんが行く軽井沢は、ここよりかは涼しいのかな。今は夏休みだし、家族旅行についていくという選択肢もあった。だけど、いつも親から必要以上に干渉されている分、こういう時くらいは親離れをしてみたい。そんな気持ちが勝った。俺をまだ小さな子だと思っている母親は、俺が旅行に行かないと言うと物凄く渋ったが、「豊騎くんが家に泊まってくれるならいいわよ」なんて交換条件を持ち出してきた。
「久美子さんたち、もう出かけたのか」
 玄関の鍵を閉めてリビングに戻ると、夜勤のコンビニバイトを終えて仮眠していた豊騎が、いつのまにか1階まで下りてきていた。その姿を目にしてギョッとする。上半身が裸で、スウェットパンツしか着ていない。見たくなくても、自然と割れた腹筋や鍛えられた上腕二頭筋に視線が吸い寄せられてしまった。
「お、おま、なんちゅーカッコしとんだ!?」
「だって想の部屋、冷房の効き悪くて暑いんだよ」
 目のやり場に困って、てのひらで顔を覆う。当たり前だけど何も見えなくて、勘で歩いていたら、ドン、と思い切り豊騎にぶつかってしまった。豊騎は「どこ見て歩いとんねん」とイラついたように言う。が、俺はそれどころじゃなかった。視界いっぱいに豊騎の裸――正確に言えば胸部あたりの肌、が広がっていたからだ。
「ギャアアアア!!」
「うるせえ」
「服を! 着ろ!!」
 頭に触覚が生えた害虫を見つけた時と同じくらい、絶叫したと思う。ご近所さんから苦情が入ったとしたら、それは全部豊騎のせいだ。意外と柔らかくてしっとりしていた豊騎の肌の感覚を忘れたくて、俺はヘドバンするくらいの勢いで頭を振った。そして、目に毒な豊騎の裸をなかったことにするため、その辺に転がっていたTシャツを拾って、豊騎目がけてぶん投げた。

 ***

「おっ邪魔しまーす」
 (ひなた)の声が玄関から聞こえてくる。出迎えた豊騎が「邪魔するなら帰ってやー」とふざけるのも聞こえてきた。その後すぐに黙ったのは、きっと泉くんの氷みたいに冷たい視線に黙らせられたんだろう。
 夏休みだからといって、遊んでばかりいられない。今年はいつメンに救世主――泉くんのことだ――もいることだし、最終日に焦らなくて済むよう、みんなで手分けして課題を終わらせることにした。
 ジュースの入った2リットルのペットボトルと、家にあった菓子類を適当に運んできた俺の自室には、豊騎と俺、陽、それに泉くんが背の低い丸テーブルを囲むようにして座っている。
「俺は国語担当するから。みんなのテキストこっちにください」
 俺がそう言うと、陽が「はいよー」といい1番にテキストをこちらへ寄越した。各自、得意分野を振り分けて人数分の課題を全てこなす――そんな計画のもと、俺は今日、ここにみんなを呼びつけたのだ。絶対、1日で片をつけてやる。俺はメラメラと闘志を燃やして手に持ったシャープペンシルに力を入れた。
 ――そして数時間後。豊騎はこっくり、こっくりと舟を漕いでいるし、陽はずっとスマホをいじっている。まだ真面目に課題をやっているのは、泉くんだけだった。ちなみに俺はというと、問題文が難しくて途中から筆が止まってしまっていた。ダメじゃん。
「……泉くん、もう後は君次第だ。任せた」
 弱気になって、俺は泉くんの肩をねぎらうように叩いた。任せられた泉くんは不服なようで、「天辰(あまたつ)が勉強会しようって言うたのに」と愚痴っている。そんな泉くんも、かろうじて課題を進めてはいたけど、さっきから視線がチラチラと陽のスマホへと移ろっていた。陽と連絡を取っているのが誰なのか、気になるのかもしれない。俺も気になる。陽にしては長続きしている例の彼女なのか?
「そーいや想ちゃん、今日はお母さんたち留守なの? もう俺ら何時間かいるけど帰ってこないね」
 俺が陽に彼女について聞こうとした瞬間、陽から逆にそんなことを聞かれてしまった。そういや説明してなかったっけ。
「ああ、今日から明日まで旅行でいないんだ」
「じゃあ想ちゃんひとりでお留守番なの!? 不安~」
「失礼な。今晩は豊騎もうちに泊まるし大丈夫だっての」
 俺がそう言うと、陽は「え!」と小さく叫んでから、ニヤニヤしながら豊騎を叩き起こした。豊騎は「フガッ!?」と奇妙な声を上げて飛び起きる。まぶたが半分しか開いていない顔だ。
「え~じゃあ今夜は想ちゃんとあっくん、2人っきりなのお? キャッ」
「何が『キャッ』だよ」
「ドッキドキだねっ!」
 同意を求めるように、陽は豊騎の顔を覗き込む。寝ているところを起こされて不機嫌マックスな豊騎は、陽の顔を片手で横に押しのけた。その押しのけられた陽を、泉くんが回収する。さっきからせわしなくテーブルの周りをぐるぐる動いていた陽は、元の座り場所へぬいぐるみみたいに置かれた。
「ひな、もうジブン黙っとき」
「えーん、怒られたあ」
 陽が嘘泣きをし始めたところで、もう集中力が持ちそうにないと今日はギブアップすることにした。元より成績優秀者が泉くんしかいない俺たちのグループが、1日ぽっきりで夏休みの課題を終えられるわけがなかった。悲しい現実と向き合うことにした俺は、テキストを横にのけていそいそとゲーム機を取り出した。
「1階でスマブラでもやろうぜ」
 ああ、これこそ男子高校生が送るべき正しい夏休みの風景だよな。勉強、の二文字を脳内から追放し、俺たちは夜までゲームに明け暮れたのだった……。

 ***

 陽と泉くんが帰った後、我が家には俺と豊騎だけが取り残された。ちなみに豊騎は明後日までアルバイトを休んだらしいので、両親が旅行から帰ってくるまで言葉通り「2人きり」というわけだ。
 豊騎が1階で散らかしたリビングの掃除をしているうちに、俺は自分の部屋のベッドの隣に、敷布団を敷いた。
「豊騎、布団敷いといたから。お前も風呂入れよー」
「ああ」
 階下から響く豊騎の返事を聞きながら、なんだか浮足立つような、そわそわした気持ちになる。意識しなきゃいいのに、今朝見てしまった豊騎の裸を思い出す。張りのある筋肉。俺とは違って労働によって鍛え上げられた身体だ。正直、かっこいいと思ってしまったことは否定出来ない。しかも、見ただけでなくアクシデントで触れてしまったのがいけなかった。豊騎の体温まで思い出してしまう。
「うわ、やめろやめろやめろ」
 いくら仲の良い友達だからって、裸を見せられたらそりゃ意識するよな。俺がおかしいわけじゃないよな。そもそも、あいつは俺の母親のことが好きなヤバイ性癖持ちの男なわけで……。
 思考が迷走し始めたところで、ふと下半身に違和感を覚えた。なんだ? と思って下を向く。
「……ヒッ……!」
 悲鳴を上げそうになって、慌てて己の口を両手で抑えた。ありえない。信じたくない。俺はショックのあまりガタガタと震え出した。そんなはずないよな。そうだよな。見間違えの可能性に賭けて、もう一度俺は自分の身体を見下ろす――だけど、現実は時に残酷だ。俺の大切な()()は、元気に起き上がっていた。
「なんでだよおおおおお」
 ベッドに突っ伏して、涙した。こうなる直前に豊騎の裸を思い描いていたのだから、もう言い訳のしようもない。俺は、親友の裸に劣情を抱いてしまったケダモノなんだ。えぐえぐと泣きながらも、未だに萎えない分身を悲しく見下ろした。
 最近、ちゃんと抜けてなかったせいで性欲の対象がバグったのかも。かすかな希望に縋って、いつも使っていた秘蔵本を取り出そうとベッドの下に手を伸ばした、その時。前触れもなく部屋の扉が開いた。
「……ッ、うわあ!」
「あ? 変な体勢で何しとんねん」
 ベッドの上で海老反りをするという、奇天烈な行動を取った俺を見て、豊騎が呆れたように言い捨てた。俺がこの部屋で悶々としている間に、シャワーを浴びて戻ってきたようだ。くそくそくそ。豊騎のやつ、足音立ててこいよ。お前は忍者か。
 急な海老反りのせいで、腰が痛かった。濡れた髪の毛をタオルでガシガシと拭いている豊騎を、俺は恨みを込めて睨みつける。すると、俺の視線を受けて何かに気づいたかのように、豊騎はニヤリと片方の口角だけを上げて、笑った。
「もしかして想……エロ本でも読んでた?」
 ギクッ。図星を突かれて、俺は固まる。こういう時、嘘が上手くつけない自分の性格に嫌気がさす。何も言い返せない俺を見た豊騎は、笑顔のままゆっくりとこっちへ歩いてくる。
「な、なんだよ。こっち来るなって……!」
 濡れ髪のイケメンが迫ってくるんですけど。こういうとあたかも少女漫画のあらすじみたいだったけど、俺にとってこれは危機的状況だった。特にマイ・サンが。まだ完全には萎えていない息子が反応しませんように、と俺は半泣きで祈っていた。何か萎えるものを考えないと。俺は母親の顔を思い浮かべる。うん、いい感じに賢者モードになってきたぞ。
 ベッドの上に座っていた俺に近づいてきた豊騎は、そのまま俺を覆うような形でベッドに両手をついた。豊騎と接触するのを避けたせいで、俺の身体はベッドの上へ完全に倒れる。つまり、はたから見たら豊騎が俺をベッドの上に押し倒したような図が出来上がっていた。
 頑張って萎えさせようと努力していたのに。もうおしまいだ。
「……は、離れろって。何ふざけてんだよ……」
 消え入りそうな俺の声。豊騎の顔が至近距離にあるせいで、まともに前を見られない。少し視線を下げているから、豊騎の着ているTシャツの柄しか目に入らなかった。でも、まだ豊騎が服を着ていてくれてマシだったかも。今朝みたいに着ていなかったら、と思うとゾッとする。裸の豊騎に押し倒された俺が、性欲を爆発させて豊騎に襲い掛かる様子を妄想した。うわあ、と声が出そうになる。そうなったら俺はもう学校に行けなくなるだろうな。そんなことを延々と考えていたら、豊騎がクスリと笑った。
「なーにひとりで百面相してんだよ」
 豊騎はそう言って、俺の頬を片手で軽くつまんだ。本当に軽くだったので、痛くもなんともない。豊騎らしからぬ態度に、唖然とする。これじゃまるで、恋人を揶揄うみたいな態度だ。え、俺、豊騎の恋人だったっけ? んなわけない。豊騎は俺の母親が好きなんだし。
「お、おお、お前、こういうのは久美子にしろよ。あ、いや、それもマズイか」
 混乱してきた。豊騎は動揺しまくる俺のことなんかまるで気にしないようで、子猫でも可愛がるみたいに俺の頭や頬を撫でている。
 まさか、本当に豊騎の性癖は「人妻の息子」になってしまったんじゃないだろうな。新たな疑惑が生まれたところで、豊騎が耳元で囁いた。 
「想、お前……とんでもない勘違いしてるってこと気づいてる?」
「ななな、何の話でしゅか……」
 もう呂律も回らなくて、盛大に舌を噛む。ドキドキしまくる俺をよそに、依然としてニヤニヤした笑みを浮かべている豊騎。俺の問いには答えず、更に顔を近づけてくる。キスの射程距離だ。逃げなきゃ、と思うのに、俺は豊騎の唇から目が離せない。あと5センチ。あと3センチ。あと1センチ……そして、豊騎の下唇の一部分が、俺の唇にほんの少しだけ触れた瞬間。豊騎はサッとベッドの下に手を伸ばした。
「ふーん、こういうのが好きなんだ」
 豊騎が手に取り、日の下にさらされた俺の秘蔵本――それは、クーデレ系キャラがヒロインの漫画だった。一応、全年齢もの。
「あー! 俺のお宝が!」
 取り返そうと手を伸ばしたが、豊騎は俺を羽交い締めにして、そのままの体勢で本を開いた。
「……ええと、なになに。『君ってほんとに馬鹿だよね。私にいいようにされて、喜んでるなんて』」
「いやあああ、脳が破壊されるうううううう!!」
「ハハハ! おもしれー」
 俺はその晩、豊騎に抱き締められたまま、オカズにしていた漫画本を朗読されるという拷問を受け続けたのだった。
 9月だというのに蒸し暑い空気が教室の中まで充満する、そんな不快な日。高校で行われる文化祭の準備が、始まりを告げた。
「クラスの出し物、やりたいものがある人は挙手をしてください」
 学級委員長の佐藤さんがクラスメイトに呼びかけた。
 出し物か、演劇なんかいいかも。そう思って「劇はどうかな? 脚本なら俺書くし」と提案した。だけどすぐに「(そう)ちゃんが書いたらヒロインが人妻になっちゃうでしょ。人妻趣味はもういいでーす」と(ひなた)に却下される。陽のそんな発言に、クラスの連中が笑い出す。
 だから俺に人妻趣味なんてないっての。
 春先に豊騎(あつき)のためと思って俺が描いた同人誌の話は、久美子から豊騎、豊騎から陽、泉くんにまで伝わっていた。それ以来、いくら訂正しようとしても陽たちは俺のことを人妻大好き男だと思っている節がある。
 その後、俺の演劇以外にも展示、屋台、アイス屋などの意見が出たものの、出し物がひとつに決まらない。
「はいはーい! 男装アンド女装カフェはどう? 委員長、絶対似合うよ~」
 膠着状態だった話し合いの最中、陽が声を上げた。おまけに佐藤さんにはウインク付きで。佐藤さんは少し頬を赤らめた。陽はチャラいけどイケメンではあるので、これも自然の摂理なのか。陽のやつ、割と長く付き合っていた「ゆうちゃん」とも最近別れたらしくて、またチャラさに磨きがかかっている。
「……チッ、あいつはまた……」
 俺の2個後ろの席から、地を這うような声が聞こえてきた。俺のすぐ後ろは4月から変わらず豊騎なので、この声は泉くんだ。相変わらず、陽がモテることにキレているみたいだ。
「じゃあ、採決とります! 展示がいい人ー。屋台がいい人ー……」
 佐藤さんがクラス全員に聞いて、書記の田辺さんが黒板に正の字を書いている。そして、うちのクラスの出し物は陽が提案した「男装アンド女装カフェ」に決まった。衣装係、調理係、接客係の3つに分けて作業をすることになるらしい。
天辰(あまたつ)くんは女装して接客ね」
「え、俺の意見は!?」
 裁縫が得意ということで初めに委員長から衣装係に任命された伊藤さんは、俺の顔を見るなり接客係に指名してきた。男子の意見など彼女にとっては紙くずに等しいみたいだ。席を歩き回りながら、「伊佐敷(いさしき)くんは接客」「泉くんは調理」「井上くんも調理」「真子(まご)くんは接客」とひよこの性別分けでもしているようなスピードで、あれよあれよという間に役割分担が決められていく。
 俺は母親似なこともあり女顔なので、女装メンバーに選ばれるのは覚悟していた。だけど、まさか豊騎まで接客係になるとは。
「……おい。何笑ってんだよ」
 親友の女装姿を思い浮かべ、笑いを堪えていると、それを察したらしい豊騎が言う。
「いや、豊騎も着れるサイズの衣装用意すんの大変だろうなーって」
「あ? そんなこと言ってっけど想、お前の女装姿を写真に撮って久美子さんに送りつけてやっからな」
「それだけはやめてえええ!」
 俺は豊騎の脅し文句に簡単に屈した。だって、久美子が俺の女装姿なんて見たら、その先が怖過ぎるんだもん。きっと日常的にスカートを履かせようとしてくるに決まってる。「想ちゃん似合うんだもの!」とかなんとか言って。
「はーい、接客係のひとたちは採寸するからこっちに集まって」
 衣装係筆頭の伊藤さんが叫んでいる。めったに見られない豊騎の女装姿を笑ってやろうと思っていたけど、どうやらそれどころじゃなさそうだ。ため息を吐いて、俺も集まりに参加しようと席を立った。

 ***

 文化祭当日。フリフリの可愛らしい衣装を手に、俺は葛藤していた。
「天辰くん、何固まってんの。早く着替えて」
「うわあ、はいっ」
 衣装係の伊藤さんから厳しい声が飛び、思わず返事をしてしまう。うう、嫌だ。だって、文化祭の準備で仮の衣装を試着した日から、なんだか親友の視線が妖しい。まさか好きな人に似てるからって俺でもいいのか!? いつかの疑いがまた頭をもたげる。
 でも、このまま俺だけ衣装を着ないわけにもいかない。教室の中、男子用にとそっけなくつけられた暗幕の影で、ひっそりと俺は衣装の袖に手を通した。男子用の衣装は、フリルがたっぷり施されたクラシカルなメイド服だ。緑のチェック柄がおしゃれなデザイン。衣装係の伊藤さんはコスプレイヤー兼衣装制作もしている、その道では有名な人だったらしい。確かに、出来栄えはすごくいい。くるぶしのちょっと上まで丈のあるスカート部分を持って、俺はひらりとその場で1回転してみた。
 暗幕に取り付けられた姿見の中には、若かりし頃の母親とそっくりな俺がいる。ウィッグまで被らされてるから、再現度は完璧だ。
「これじゃあいつを勘違いさせちまうよおお」
 俺が頭を抱えて呻いていると、もう衣装に着替え終わっていた陽がやって来て、「どしたん~?」なんてのんきな口調で聞いてくる。
「み、身の危険を感じるのッ!」
「えー、自分のほうが女装似合うからって自慢してる?」
「そうじゃねえよ! あ、ほら、あそこ……!」
 俺が指差した先。暗幕の向こうから、こちらを覗いている豊騎と目が合った。気のせいか瞳がいつもよりギラついている気がする。
 最初は俺の話を取り合おうとしなかった陽も、そんな豊騎を見て悲鳴を上げた。
「キャーッ、豊騎さんのエッチ!」
「殴るぞ?」
 豊騎は陽に向かって拳を振り上げる。陽は猛スピードでこの場から逃走していく。
「あ、待てよ陽!」
 俺を置いていかないでくれ。というか、豊騎と2人きりにさせないでくれ! そんな思いを込めた声は残念ながら陽には届かない。
 豊騎は無言のまま、ずんずんと俺の目の前まで迫ってくる。
「……な、なんだよ……」
 上から見下ろされて怖くなり、か細い声で聞くと、豊騎は「想、お前さ……」と何かを言いかけてまた口を閉ざす。なんなんだよ。こっちは緊張してんだからさっさと言え。しばらく至近距離で見つめ合うという、謎の時間が訪れた。そして、ようやく豊騎が話し出した。
「……俺も着替えるから、暗幕の外で見張っててくれ。朝から変な女子軍団に追われててさ」
「あ、うん。わかった」
 少し困ったように言う豊騎に、俺は頷く。てっきり、母親そっくりの俺の女装姿に何か言うかと思ったのに。拍子抜けした俺は、なんだかもやもやとしたはっきりしない気分のままに、暗幕の外側で豊騎の着替えを待つことになった。
 そんな俺のすぐ側を、「伊佐敷くんどこ行った!?」「女装姿の写真……プレミア価格つくぞ!」「探せ探せ」と恐ろしいことを言いながら女子数人が駆けていく。豊騎は女子に塩対応な男だけど見た目がそりゃあもうハチャメチャに良いので、こうしたイベントごとの時には隠れ豊騎ファンがどこかから這い出てくるのだった。まあ、さっきの子たちは写真の転売が目的みたいだったけど。
「――××高校第△回文化祭、まもなく始まります」
 校内放送が流れる。今日は波乱の1日になりそうだ。

 ***

「キャーッ、佐藤さん一緒に写真撮ってください!」 
「伊藤さん、あの、握手してもいいですか……」
 俺たちのクラスの「男装アンド女装カフェ」はそれはもう人が行列を作るくらい、人気を博していた。主に豊騎と、男装した学級委員長の佐藤さんと伊藤さんが、だったけど。というか、伊藤さんは衣装係のメイン人力だったはずなのに、男装して接客もしてるし。有名コスプレイヤーらしいから集客を見込んで頼まれたんだろうけど、最初に係分けした意味とは。
 俺はクラス内人事にもやつきながらも、調理係から受け取った飲み物と軽食をトレイに乗せ、客席へと運んだ。そこでは、女装した豊騎を取り囲む他クラス女子の一味を相手に、陽が値段交渉をしていた。
「真子くんとか他の男子と写真撮るのは100円なのに、伊佐敷くんだけ高過ぎませんか!?」
「すんませーん。伊佐敷は当店1番人気なので、1枚1万円になりまーす」
「ね、値下げとかって」
「しませーん。1円たりともまけられませーん」
「くっ……さ、3枚買いますっ……!」
「まいどありー」
 どうやら、豊騎の隠れファンが周りをうろついていることを知った陽が、豊騎との撮影権だけをありえない値段に設定したようだ。豊騎のファンのひとりは財布を取り出して悔しそうにプルプルと震える手で、お札を取り出そうか、仕舞おうか躊躇っている。それを見ていた陽は、サッと女子の持っていた財布から3万円を奪い取った。
「はい確かにー。じゃあ、お写真どうぞ!」
「う、うう……私の3万円が……」
 極悪非道な取引が行われている。女の子は悔し泣きしつつも、女装した豊騎の隣に立ってピースを作った。陽がインスタントカメラで撮影し、その場で出てきた写真を手渡している。
「わ、私も1枚買います!」
「私も!」
 先陣を切った子に触発されたのか、写真の値段に引いていた他の女子たちも次々に手を上げた。豊騎は普段、写真を頼まれてもすげなく断るので、ツーショット写真が合法的に撮れるというだけでも価値があるのかもしれない。豊騎の顔は無表情で、目なんて死んだ魚みたいに輝きがないけど。あれでもいいのか、とちょっと思う。
「ぐっ、さらば、私の渋沢栄一……!」
 手持ちの1万円札に別れを告げながら、豊騎と写真を撮る女子たち。
 俺はさすがに豊騎のファンの子が哀れになって、そっとその子たちのテーブルに軽食のクッキーを置いた。心ばかりのサービス品だ。
 俺が豊騎と写真を撮る女子たちを憐憫の眼差しで見つめていると、陽がこちらを見て駆け寄ってくる。
「あ、想ちゃん~ナイスタイミング。ちょっとここの客捌き、かわってくんない? 俺の元カノがこれから来るから、案内したくて。一瞬抜けたいんだあ」
「おう、いいけど」
 元カノ、って例の「ゆうちゃん」かな。前に陽から見せられた写真の女子の顔を思い浮かべながら、頷く。陽は「あんがとー」と言うなり早足で教室を出ていった。女装しているというのにあいつ、堂々としてやがる。普段と変わらない態度で過ごしている陽に感心して、「陽の元カノが来てんだって」と豊騎に言った。豊騎は興味なさそうに「へえ」としか言わなかったが、偶然近くのテーブルの上の食器を下げに来ていた泉くんが、俺の言葉に振り返った。
「……ゆうが来てるって、あいつが言うてたんか?」
「名前は言ってなかったけど。『元カノが来る』とだけ言ってた」
「そうか」
 泉くんはなんだか悲しそうだ。手にしていたお皿を持って、とぼとぼと生気のない足取りで調理場へと戻っていく。
「どうしたんだろ、泉くん」
 いつもキリッとしている泉くんの見慣れない姿に俺が頭を傾げていると、豊騎が呆れたように「想はにぶ過ぎ」なんて言ってきた。にぶい? 俺が気づいていない何かがあるとでも言いたげだ。
「なんだよ。気になるなー」
「どうせそのうちわかることだから、気にすんな。それより想、ちょっとこっち見ろ」
「え?」
 パシャリ。響くシャッター音。まばたきをひとつしてから豊騎を見た。豊騎はいつのまにかスマホを俺に向かって構えて、ニヤニヤと笑っている。やられた。
「おま、豊騎~! 久美子に送るなよソレ!?」
「残念。もう送った」
「ふっざけんなよ!!」
 ギャハハと笑って逃げる豊騎を追いかける。笑う豊騎を見た周りの豊騎ファンの女子たちは、「伊佐敷くんが笑ってるー!」「家宝にする!家宝にする!」と大興奮でスマホカメラで連写していた。そんな女の子たちとぶつからないよう懸命に障害物を避けながら、俺は豊騎の後を追う。大して広くもない教室の中、ましてや慣れない女物の服を着ていては、逃げ続けられるはずもなく。教室の入り口付近で、俺は豊騎を捕まえた。
「さっきの写真、消せ!」
 母親に見られる前に消さないと、これから定期的に女装することになるかもしれない。俺は豊騎の腕をひっしと掴んで、詰め寄った。
「……嫌だって言ったら?」
 豊騎は相変わらずニヤニヤと楽しそうに笑っている。性格の悪いやつめ。ムカついたので、強引にでも豊騎のスマホを奪うことにした。
「寄こせっ」
「あ、馬鹿、危な……」
 ジャンプしてから豊騎に体当たりをかます。狙いは豊騎が手にしていたスマホだったけど、勢いがあまってそのまま床に倒れこみそうになる。豊騎がなんとか受け止めてくれたおかげで、俺は床にダイブせずに済んだ。が、その後の体勢が問題だった。
「……」
「……」
 豊騎にぎゅっと抱き締められた状態の俺。しかも、2人が着ているのは女物のフリフリメイド服。息がお互いの顔にかかるほど接近した俺たちは、この倒錯した絵面に困惑して、しばらく無言のままで固まった。
 俺たちを見た客が口々に「百合だ……」「いや、薔薇で作った造花では」「細けえことはいいんだよ!」と騒ぎだしていたけど、そんなのどうでもよかった。
 豊騎に女装なんて似合わないだろうと散々笑っていたのに、こうして間近で見ると、まるで笑えなかった。顔が、綺麗過ぎる。ドキドキと高鳴り始める心臓。頼むから今ここで反応しないでくれよ、と俺は己の下半身がいつかのように起き上がらないように祈った。
 俺たち接客係の男子は、衣装係の女子たちにメイクを施されていたので、全員が女装にマッチするように顔を改造されていた。特に豊騎は元の顔の作りが精巧だからなのか、ハッとするぐらいの美形に仕上がっている。アイラインを引かれて強調された切れ長な目、彫刻みたいに美しい鼻、控えめだけど形の良いリップライン。
 俺が豊騎の顔に見とれていると、豊騎は動揺したように瞳を左右に彷徨わせた。茶色がかった瞳の真ん中、黒い瞳孔がきゅっと開くのが見える。
「ただいまあ……って、想ちゃんとあっくんは何してんの」
 俺と豊騎が抱き合ったまま硬直していたその時、元カノを出迎えに行っていた陽が教室へ戻ってきた。陽は俺たちを見て苦笑いしている。陽の隣には、前に写真で見たことのある育ちのよさそうな女の子が立っていた。
「な、なんでもない! いらっしゃいませ」
 慌てて豊騎から離れて、陽の元カノに挨拶する。元カノは薄く微笑んで会釈してくる。おお、礼儀正しい。いかにもお嬢様女子高の生徒、って感じだ。その後、陽が手早く「こちら水城結羽(みずきゆう)ちゃん。で、こっちはダチの想ちゃんと、あっくんね」と俺たちに元カノを紹介する。やっぱり、この子が例の「ゆうちゃん」だった。
「としくんも、このクラスなんだよね?」
 陽の元カノ、ゆうちゃんはそう言って、きょろきょろと教室を見回した。誰かを探しているようだ。でもとしくんって誰だ。俺が答えあぐねている間に、陽が「あー」と声を上げた。
「とっしーは裏の調理場にいるんだ。呼んでくるね」
 そう言って、陽は調理場へ歩いていく。取り残される、ゆうちゃんと俺、豊騎。
 おい、初対面の3人を置いていくなよ。と思いつつ、ひとつ疑問が浮かんでいた。ゆうちゃん、泉くんとも知り合いだったのか? どういう関係?
「ゆ、ゆうちゃんさん、泉くんとも友達なんですか?」
「うん。私たち3人、小学生の頃からの幼馴染なんだ」
「はえー! そうだったんですか」
 幼馴染3人組のうち、2人が付き合うとかまるで少女漫画のヒロインみたいな人だな。あ、でも陽とはもう別れちゃったんだっけ。それにしては、今も仲良さそうに見えるけど。
「ゆうちゃんさん、陽とは別れた……んですよ、ね?」
 あんまり根掘り葉掘り聞くのはよくないと思いつつも、つい好奇心に負けた。俺が尋ねると、ゆうちゃんは気まずそうな顔をして「うん」と言った。
「ほんとはひなと付き合うつもりなんてなかったんだけどね。としくんが私のこと、全然相手にしてくれないから」
「……ん? え、それはつまり、どういう……?」
「あっ、としくん!」
 不穏な言葉を吐いてから、ゆうちゃんはこちらへやって来た泉くんを見た途端、立ち上がってぱたぱたと走り出す。そして泉くんに抱き着き、「としくん、会いたかったよ。どうしてゆうの連絡、無視するの……?」と、涙ながらに訴えた。
「……あの『ゆう』って女、とんだビッチ」
 その様子を見ていた豊騎がゆうちゃんにまで聞こえる声量で失礼な発言をしたので、「あー! 女心は秋の空、と言いますよねえ!」と言葉を被せる。危ねえ。ゆうちゃん、物腰は柔らかい子だけど、なんだか怒らせたらまずい気がする。俺の第6感がそう言っている。
 ゆうちゃんに抱き締められた泉くんは、物凄く苦々しい表情でゆうちゃんを見下ろしていた。そして、そんな泉くんたちを見た陽はというと、「あららー」と、どこか他人事みたいに笑っていた。
 (ひなた)の元カノゆうちゃんが泉くんに抱き着いた後。ゆうちゃんが陽の元カノだと知っているクラスメイトたち(陽はゆうちゃんと付き合ってた時に周りに言いふらしていた)は、これから修羅場が起きるぞ、と固唾を飲んで陽、泉くん、ゆうちゃんの3人を見つめていた。
「ゆう、ジブンひなと付き合ぉてたんやろ。それやのにこんなことして、何してんねん」
 泉くんは冷たい目でゆうちゃんを見下ろして、言った。泉くんの瞳が怖過ぎて、見ているだけで寒気がしてくる。とてもじゃないけど、女の子に向ける目ではない。2人は幼馴染なはずなのに、なんでこんなにも険悪な雰囲気なんだ。
 関係のない俺でさえ震えるほど泉くんは怖い顔をしているのに、ゆうちゃんはそれでも怯まなかった。
「ひなちゃんとは、遊びだったんだもん。私の好きな人は、昔も今も、としくんだけだよ」
 ゆうちゃんはそう言うと、ぎゅっと泉くんに抱き着いた手に更に力を込めた。
「ひ、陽、大丈夫か?」
 思わず、陽の肩に手を置いた。「ゆうちゃんは優しい子だ」と言っていたし、陽にしては長く付き合いが続いていたので、ゆうちゃんのあんな言葉を聞いたら傷ついたはずだ。だけど陽はショックを受けた風でもなく、「あーいやあ……あはは、俺も本気じゃなかったし」なんてへらへらと笑っている。この3人、どういう関係性だよ。わけわからん。
 俺が混乱していると、泉くんが動いた。抱き着いてきたゆうちゃんを、無理矢理自分からはがし、突き飛ばす。ゆうちゃんは転びはしなかったものの、ふらりとよろめいた。
「俺、前にはっきり断ったよな。『ゆうを好きになることはあれへん。他に好きな人がおるから』って。ジブンがこないしていつまでもひなを巻き込むから、ひなは俺のことを……ッ!」
 泉くんはそこまで喋って、何かを思い出したようにハッとした顔になる。そして陽を見つめ、口をつぐんでしまう。え、何。話の続きが気になるんだけど。前々から陽と泉くんの、幼馴染にしては微妙な距離感が気になってはいた。まさか、ゆうちゃんの存在が原因だったんだろうか。
 それにしても、この3人の関係性が複雑なので頭がこんがらがってきた。俺は声を潜めて、隣にいた豊騎に「この状況ってどういうことなんだろうね」と聞いてみた。豊騎は神妙な顔をして泉くんを一瞬眺めてから、俺を見つめる。そして、やれやれと呆れたように頭を横に振った。
「一目瞭然だろ。ゆうって女は、泉を振り向かせるためにわざと陽と付き合った。陽は全部わかった上で、泉に見せつけるため芝居してたんだ」
「え、泉くんに見せつけるため? なんで?」
「そりゃ泉が陽のことを諦めて、ゆうとやらと付き合うように、だろうが」
 豊騎の言葉を聞いて、脳内に衝撃が走る。
「泉くんって陽のことが好きなの!?」
 なけなしの理性が働いたおかげで、俺は小声のまま叫んだ。豊騎は「だから見りゃわかんだろ、アホ」と俺を小馬鹿にした。
 豊騎は前から気づいていたらしいけど、泉くんがまさか陽のことを好きだったなんて。青天の霹靂だ。男同士だからびっくりとかではなく、泉くんは頭がよくて自分にも他人にも厳しいタイプだし、目つきも悪いし(これは関係ないか)、陽みたいなチャラついている人間は好きにならないと思っていたから。人の恋路って、よくわかんないもんだなあ。
「……あー、みんな、文化祭の途中なのに騒いじゃってごめんね。とっしー、俺からもいっこ話していいかな?」
 気がつけば、陽が泉くんとゆうちゃんの前に立ち、2人を見据えていた。泉くんと比べると、陽はキャラに似合わず落ち着き計らっている。なんだか知らない人があそこにいるみたいだ。
 陽は静かな声で、泉くんに語りかけた。
「とっしーもゆうちゃんも、俺にとって大事な幼馴染だよ。でもゆうちゃんに優しくないとっしーは、嫌いだ」
 そう言った陽は、顔から微笑みを取り去る。初めて見る、陽の険しい表情。いつも笑っているやつの真顔って恐ろしいものなんだ、と気づく。泉くんは陽の逆鱗に触れてしまったのか。こんなに怒っている陽は、見たことがなかった。
「そないして、今回もゆうを庇うんやな。ひなは……」
 泉くんは涙を滲ませながら言って、教室を走り去っていった。教室内は、騒然となる。チャラ男代表の陽がキレたかと思ったら、今度はいっつも怖い顔をしている泉くんが泣きだしたんだから、当然だ。
 ゆうちゃんはすぐに走っていった泉くんを追いかけようとしていたが、陽にそれを止められていた。泉くんはどこへ行ったんだろう。
「俺、泉くんを探してくる!」
 豊騎に声をかけると、豊騎は「俺も行く」と歩き出そうとした。けれど、衣装係兼、接客係の伊藤さんが豊騎の手を引いて止めに入る。
「伊佐敷くんは行かないで。うちのクラスの稼ぎ頭なんだから」
 そうだった。豊騎の写真代だけでクラスの売り上げはとっくに経費分を超え、前代未聞の金額を達成しそうなのだ。もう女子とツーショット写真を撮りたくない豊騎は恨みがましい目で俺を見ていたが、仕方ない。俺は伊藤さんの指示通り、豊騎をその場に置いてひとりで教室を後にした。

 ***

 泉くんを探して学校の周りを歩き、10分ほど経った頃。商店街の中に入ると、とあるゲームセンターで泉くんを見つけた。
「クソクソクソクソクソ!」
 一生分の「クソ」を連呼しながら、泉くんは筐体のボタンを連打している。怖過ぎる。心配で探しに来たんだけど、やっぱり引き返そうかな。そう思っていたら、泉くんが視線に気づいたのか、こちらを振り返った。
「あれ、天辰(あまたつ)。こないなとこでなにしてんねん」
「……一応、泉くんを探しにきたんだけど」
 むしろそれ以外にどんな用事があったら、文化祭を途中で抜け出してこんなところに来るというんだ。そう言ってやりたかったけど、俺は泉くんの目つきが未だに怖いので、黙っておいた。すると泉くんは手を止めて、「ほな、茶でもしばくか」と言った。
「はあ、やっぱこれやわ」
 コンビニの軒先にしゃがみ込んだ泉くんは、さっきコンビニで買ってきたキャラメルラテを啜って、満足そうに笑っている。好きな飲み物を飲んだら、少し機嫌が直ったらしい。泉くんは顔に似合わず(と言ったら失礼だけど)甘いものが好きなのだ。俺はカフェラテを啜り、今頃文化祭は無事に終わったのかなあ、なんて考えた。
「今日は天辰にも迷惑かけてしもたな。すまん」
「泉くんが謝ることないよ。陽にあんな態度取られたら傷つくの、わかるし。泉くんは陽のことが好きなのに……あっ」
 そこまで言いかけて、泉くんが陽を好きなことは本人に言うべきじゃなかったと思い、俺は口を手で押さえた。完全にやってしまった、と冷や汗をかいていたけど、泉くんは照れくさそうに「なんや、天辰にもばれてたんか」と笑うだけだった。
「あんなキレ方してたら、そらばれるやんな。陽にもばれてるやろうな」
 どうだろう。陽は泉くんが自分を好きなこと、気づいているんだろうか。豊騎が言うには「陽は泉が自分を諦めるように仕向けてた」らしいけど。
「俺、小学5年生の時にこっちに越してきてな。初めは関西弁を馬鹿にされたし、友達の作り方もわからのうて。そんな頃、ひなとゆうに出会うたんや」
 泉くんはそこまで言って、またキャラメルラテをひとくち啜る。懐かしい思い出を語る彼の顔は、どこか悲しそうに見える。
「ひなはな、今はあんなチャラついとるけど、あの頃はしっかりした子やった。いつも内気やった俺とゆうのことを引っ張ってくれて。惚れてまうのに、時間はそうかからんかった」
「そういや……俺が陽を好きなこと、天辰はキモがらへんのか?」
 思い出したように聞いてくる泉くんへ、「人妻を好きな男子高校生だっているんだから、それくらい普通だよ」と言う。「ああ、そういやそうやったな」と泉くんは笑った。泉くんも未だに俺の性癖は人妻だと誤解してるみたいだ。
「3人の関係が崩れ出したのは、ゆうが俺に告白してからやった。ひなが、あからさまに俺を避け出したんや」
「そうなんだ?」と俺が聞くと、泉くんは頷く。陽が泉くんを避けていたから、同じ高校なのに1年の時、陽から泉くんの話を聞かなかったわけか。今になって、数か月前に覚えた違和感の謎が解けた。同じクラスになったら避け続けるのも難しくて、また陽は泉くんと普通に話すようになった、らしい。陽は優しいんだか、冷たいんだか、よくわからないやつだ。
「あいつ、ゆうのことが好きなんやろか。俺、告白する前にふられてもうたんかな」
 泉くんが俯くと、アスファルトの地面に雨が降る。泣くほど好きな相手に自分の気持ちを拒絶されるなんて、泉くんのつらさは俺なんかには1ミリも理解することなんて出来ないだろう。ずるずるとその場にうずくまってしまった泉くんの背中を、ゆっくりとさすった。
 市内に流れる無線から、夕方のチャイムの音楽が流れ始める。もうすぐ日没の時間だ。
 そろそろ帰らないと。でも泣いている泉くんを放って帰るわけにもいかない。どうしようと悩んでいると、商店街の向こう側から見知った人影がふたつ現れた。
「あっれー、2人ともこんなとこにいたんだ」
 陽は、教室で泉くんと喧嘩したことなんてなかったかのように、普段通りの口調で言った。隣にいる豊騎は、俺に向かって「連絡くらいしろよ! 迷子のお知らせで呼び出すとこだったぞ」と文句を言う。
「とっしーはまだ泣いてんの? もう俺っち怒ってないから。泣き止んでよ~」
 泣いている泉くんを目ざとく見つけた陽が、そう言って泉くんの涙で濡れていた頬を袖で拭った。泉くんは気まずそうに下を向いている。こんな2人を見ていると、さっき泉くんが話していた「ひなは昔しっかりした子だった」というのは本当だったんだな、とわかる。
「え、ゲーセンにいたんだ。いいなー。俺もなんかやろっと」
 泉くんからさっきまでゲーセンにいた話を聞きつけたらしい陽は、ゲーセンの店頭に置いてあるUFOキャッチャーコーナーに走っていった。さっきは泉くんのことがあってよく見てなかったから、と俺も見に行く。そしたら、あるものを見つけた。
「ピザまるくん!」
 UFOキャッチャーの景品を指差して、俺は思わず叫んだ。そこには俺が今ドはまりしているキャラクター、ピザまるくんのぬいぐるみがあったからだ。ピザまるくんはピザと秋田犬から生まれた新種の犬なのだ(という設定)。まだあまりキャラクターグッズがなくて、シールくらいしか商業化されていなかったから、このぬいぐるみは貴重だ。
 筐体のガラス部分に両手をつき、覗き込む。ぬいぐるみをよくよく観察すると、チーズがとろっと溶けだしていて、サラミやピーマンが乗っているところまで、忠実に再現されていた。これは絶対にほしい!
「何これ、気持ちわるッ」
 豊騎がピザまるくんを目にして悪態をつく。即座に「失礼な!」と怒り、俺はいそいそと小銭を筐体に入れ、ボタンを操作し始めた。
「うーん……あっ、惜しい。あともうちょっとなんだけどなあ……」
 それから持ち金の2千円が全部なくなるまで粘ってはみたものの、ガラスケースの中にいるピザまるくん人形はピクリとも倒れなかった。項垂れていると、背後から「どけ」と豊騎の声が聞こえた。素直にどくと、豊騎はお金を筐体に入れてピザまるくんを睨みつけた。そして、「……よし」と自分を鼓舞するように頷いてから、ボタンを押し始める。俺たちが緊張した面持ちで見守る中、なんと豊騎はピザまるくん人形をゲットすることに成功した。
「やったあ! 豊騎すげえ」
 大喜びでぴょんぴょんその場で跳ねていると、人形を取り出し口から取った豊騎は、「ん」と言って、俺に差し出してくる。
「え、え、くれんの!?」
「うん、やるよ。こんなんほしがるのお前くらいだし」
「ありがとー豊騎!」
 なんだかんだ言って、豊騎はいつも俺を助けてくれるいいやつだ。テンションがぶち上がって、俺はどさくさに紛れて豊騎に抱き着いてしまった。やってからマズった! と反省したけど、豊騎もまんざらでもなさそうだ。笑っている。
 そんな俺たちを見て何かを考えているようにあたりを見回していた泉くんは、何かお目当てのものを見つけたらしい。そそくさと姿を消したと思ったら、数分後にすぐ戻ってきた。その手には、目つきの悪いペンギンキャラの小さいぬいぐるみを持っている。
「ひな、このキャラ好きやったよな?」
「うわ、よく覚えてたねー」
「……やる」
「おー。ありがと」
 泉くんは今日あんなことがあって落ち込んではいたけど、まだ陽のことを諦める気はないようだ。頑張れ、泉くん。俺と豊騎は、泉くんに向けてガッツポーズを作った。陽と泉くんが今後どういう関係になっても、こうやってみんなで遊べますように。そんな祈り込めて、俺はピザまるくんのぬいぐるみを抱き締めた。
「あ、そうだ。久美子さんの分もなんか取ってくか」
 帰り際、豊騎が呟く。
 豊騎はいつも俺を助けてくれるいいやつ――つい一瞬前、俺はそう思った。けど、前言撤回。やっぱあいつ、俺の母さんに取り入りたいだけなのかも。
「今日みんなに集まってもらったのは、ほかでもない。もうすぐ豊騎(あつき)の誕生日だからです」
 俺は自室のベッドの上に立ち上がり、我が家へ呼びつけた(ひなた)(いずみ)くんを見下ろした。陽はくっちゃくっちゃと俺の母親から差し入れられたお菓子をひたすらに食っている。ひとりで食い尽くす勢いだ。その隣に座っている泉くんは、怪訝そうな目で俺を見上げている。
「泉くんは去年いなかったから知らないと思うし、説明するね。実は去年の豊騎の誕生日当日、豊騎をうちに呼んで俺らと久美子でサプライズパーティーしたんだよ。あいつを泣かせてやろ―と思って。飾り付けもして、ケーキも用意したの。でも豊騎のやつ、何て言ったと思う? 『あざっす』のひとことだけだよ!」
 俺は去年の悔しさを思い出して憤慨した。泉くんは「そら伊佐敷は感動して泣くようなタイプやないやろ」と言う。そんな泉くんの言葉を聞いて、更に俺は怒りを爆発させた。
「だからこそ泣かせたいんだよ! 豊騎が感動して泣きじゃくる顔、見たいじゃん!? 見たくない? おい、陽はいい加減菓子食うのやめろ! 人の話聞いてんのか」
「えー聞いてる聞いてる。あっくんの誕生日でしょ。はいはい」
「適当!」
 やる気のない陽の返事に出鼻をくじかれた俺は、しなしなとベッドの上で崩れ落ちる。豊騎、お前の日頃の行いのせいだぞ。俺しかお前の誕生日を本気で祝おうとはしていないみたいだ。あ、久美子と志信(しのぶ)さんは違うけど。あの2人は無条件で協力してくれるはずだ。豊騎のことが大好きだから。
「とりあえずケーキ買って、食いもんは久美子に用意してもらおうと思うんだけど。何がいいかな、定番のチキンとかハンバーグでいいか?」
(そう)ちゃんが食べたいだけじゃーん。それにあっくん和食しか食べないでしょ、基本」 
「俺だってたまには洋食が食べたいんだよおおお」
 豊騎の誕生日にかこつけて好物の洋食を食らおうとしていた俺の計画は、陽の指摘によって早くもバレてしまった。無念。
「だって毎日毎日おじいちゃんのご飯、みたいな和食を出されてみろよ。お前だってすぐ()をあげるぞ、絶対!」
「あっくんを感動させたいって主旨はどこ行ったのさ……」
 陽が呆れたように呟く。その時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。久美子だ。
「想ちゃん、お菓子足りてる? もっと食べるかなと思って持って来たわよ」
「あ、お母さんありがとうございまっす! 俺もらいます」
 元気よく手を上げてニコニコしている陽に、泉くんが「まだ食うんかい」とドン引きしている。
「あーそうだ、今度また豊騎の誕生日会やるからさ、うち使ってもいい? また料理を久美子にお願いしたいんだけど」
「そうなんですよー。今、料理を和食にするか洋食にするかで想ちゃんが文句言ってて」
「あら、そうなの。困ったわね~。豊騎くんは和食好きだからいつも通り和食にすればいいのに」
「……でもー、普通パーティーって言えば洋食じゃん」
 洋食への未練。というか誕生日パーティーにまで茶色い和物しか出てこない食卓とか、男子高校生らしさの欠片もないだろ。久美子に作ってもらってる分際であんまり文句は言えないけど。俺は母親を前にして、もごもごと不満を口にした。久美子はそんな俺を見ると、腰に両手を当ててぷうっと頬を膨らませる。おい、40代がぶりっこ仕草しないでくれ。
「もう、想ちゃんには別に洋食も作ってあげるから。好き嫌いしちゃダメよ。将来、豊騎くんと結婚するってなった時のために和食も好きになっときなさい!」
 ぶりっこ口調で俺を叱った後、久美子はとんでもない発言をした。案の定、久美子の発した「豊騎くんと結婚する」という言葉に陽が目をキラキラとさせている。揶揄い甲斐のあるおもちゃを見つけた大型犬、みたいな顔だ。
「え、結婚~? なになに、想ちゃんってばあ、あっくんと結婚する約束でもしてんの!?」
 ニタニタと嫌な笑みを浮かべて、陽は俺の脇腹を小突いてくる。「そうだったのか、天辰(あまたつ)」と母親の話を真に受けたらしい泉くんが本気で聞いてきたので、俺はため息を吐いた。
 最近、豊騎の近くにいると妙にドキドキしてしまうから、この話題は心臓に悪い。まさか、家族にバレるくらい俺の気持ちって筒抜けだったりする? いや、そんなことはないと思いたい。なんとか誤魔化そうと、俺は意識して眉間に皺を寄せ、険しい表情を作った。
「んなわけねーだろ!! 久美子もなに嘘教えとんじゃい!」
「えーだって、豊騎くん毎日うちでご飯食べてるし、想ちゃんと仲良しだし。もうこれはうちにお婿として来てくれたら私もパパも安心できるんだけどなあ」
「まず大前提として言わせてもらうけど、男同士は結婚出来ないでしょうが!」
 俺は理路整然と事実を述べたつもりだった。だけど、俺の言葉を聞いた久美子は、「ぷぷぷ」と笑いを抑えきれないように片手で口元を押さえた。
「やあだ想ちゃん、そんなの10年後はどうなってるかわかんないでしょー? 同性婚出来る国も増えてきてるんだから、日本でだってそのうち出来るようになるわよ」
「あーもう話が通じない!! もういい、久美子は退場してください」
 ここに母親を残していたらずっと揶揄われそうなので、ぐいぐいと肩を押して部屋から追い出した。扉をしっかりと閉める。「もっとみんなとお喋りしたいのにい、ケチ!」と扉の向こうから声が聞こえてきたけど、知らんぷりをする。
「……てか、同性婚もバリバリ許容してくれる両親でよかったじゃーん」と陽が言う。口元は笑っているのに、瞳はどこか冷たい。さっきまでの久美子との会話に何か思うことでもあるのか。陽のやつどうした、という意味を込めて泉くんに視線を投げると、泉くんは言いづらそうに「ひなのとこはだいぶ保守的やもんな」と言った。
 保守的な家に育ったのにチャラ男に成長するとは。陽なりの反抗なのか、それは。会ったこともない陽の両親の顔を想像してみるけど、上手くいかない。
「まーね。想ちゃんの家族とはだいぶ違うかも」
 そう言って苦笑する陽。泉くんが陽を昔から好きなことを知っている手前、陽自身が同性婚についてどう思うのか、聞かなければいけない気がした。恐る恐る、「陽はどう思ってんの? 同性婚」と尋ねてみる。
「え、俺? まあ想ちゃんちみたいな家族がいて、誰も反対してこなくて、誰も泣かないで済むんだったら、すればいいと思う」
「誰も泣かないで済む、ねえ」
 前から感じていたけど、どうも陽の価値観というのは、自分よりも周りが傷つくか、傷つかないかで物事を判断しているようだ。泉くんの恋路を応援したい俺としては、チャンスさえあれば2人を引き合わせたい。でも、意外にも難攻不落っぽい陽と泉くんがどうすればくっつくのか、見当もつかない。
 視線だけで「ごめん」と泉くんに謝る。また泉くんが泣く日が来たら、全力で慰めよう。それくらいしか、俺は役に立てそうにないから。
「とりあえず話を誕生日会に戻すけど。料理は久美子に任せて、ケーキの受け取りは俺が行く。陽と泉くんは各々でプレゼント用意しておいて。んで、家の中の飾り付けのために当日は待ち合わせして――」
 豊騎の誕生日パーティーの段取りを確認する。スマホに入れているメモ帳アプリを起動させ、豊騎の誕生日にやることリストを書き留めておく。ケーキの注文、料理の準備。それから各自で豊騎へのプレゼントの用意。俺はイラストを描いて渡すつもりだった。豊騎のやつ、今年こそ感動して泣いてくれるかな。

 ***

 そしてやってきた10月27日。豊騎の誕生日。
 豊騎を呼ぶ前に俺の家へ集まった俺、陽、泉くんの手によってバルーンが飾られたリビング。「17」の文字がテーブルの上をふよふよと漂っている。
「よっ、さそり座の男ぉ!」
 陽の掛け声で豊騎がリビングへやってきた。一応サプライズパーティーなので誕生日を祝うとは言っていなかったが、去年もやったので豊騎は察していたようだった。入って来るなり、「あ、今年もあざっす」と久美子にお辞儀をしている。おい、今年もあざっすのひとことで終わらせるんじゃないだろうな。
 去年と同様に用意しておいたケーキに蝋燭を灯し、みんなで「ハッピーバースデー」の歌を歌いながら豊騎に火を吹き消してもらう。ケーキをみんなで食べた後は、久美子お手製の手料理に舌鼓を打った。今年はちゃんと俺用に洋食(ハンバーグやポテトもある!)も用意されていた。
 我が家のリビングにみんなの笑い声が響き渡った。志信さんも来られればよかったのに、と少し残念になる。仕事が終わらなくて、今日は来られないらしい。また後日、豊騎が志信さんの家に出向くそうだ。
 そして、豊騎の涙腺をどうしても崩壊させたい俺は、「豊騎、俺たちからプレゼントもあるぞお!」と季節外れのサンタクロースみたいに床に積まれたギフトボックスを抱えて、豊騎に見せつけた。ここからがメインイベントだ。
「はい、これは俺から。誕生日おめでとうな」
 そう言って、自作のイラストを豊騎に手渡す。いつかの同人誌のリベンジだ。今回は漫画ではなく、1枚絵。力を入れてフルカラーで描いた、豊騎、俺たちいつメンの似顔絵。おまけに久美子と志信さんも小さく描いておいた。豊騎は嬉しそうに微笑んで「おー、上手いじゃん。これは俺? あ、こっちのやつはお前だろ。可愛いじゃんか」とはしゃいだ。
「か、可愛いって、おま……」
「あれれえ~想ちゃん照れてんの? 照れちゃってる感じ?」
 豊騎の言葉に照れなかったと言ったらそりゃ嘘だ。でも陽が小突いてくるのはウザかったので「うるせえ!」と怒鳴る。泉くんは豊騎を見てにっこり笑って、「よかったな、伊佐敷」とまるでお父さんのように言った。
「私からはこれね。ちょっとお高めのシャーペン。来年受験だし、たくさん使ってね」
 久美子はそう言って小さな包みを豊騎に手渡した。受験のひとことに顔を思わず顰める。「うわ、嫌なこと思い出させんなよー久美子」と文句を言ったが、母親はそんな俺をスルーして「ああ、あとこっちは志信さんから」と言って、今度は写真立てを豊騎に渡している。      
 俺たちがなんだなんだとその写真立てを覗き込むと、それは豊騎らしき小さい男の子と、その子を抱えて微笑む女性の写真だった。女性のほうはたぶん、若い頃の志信さんだろう。
「え、それどうしたの」
 不思議に思って久美子に聞いてみると、「志信さんに渡してくれって頼まれたのよ」となんでもないように返された。初耳なんですけど。
「え、え、志信さんと知り合いだったんだ!?」
「そりゃあそうよ。いつも食費を届けてくださって。いい人よねえ」
「……豊騎の分の食費、志信さんが出してたのか」
 どうりで豊騎の好物ばかり食卓に並ぶわけだ。うちはそんなに裕福でもないのによく豊騎のためにたくさんの料理――朝食、夕食はもちろん、作り置きの夜食なんかも毎日渡している――を用意出来るな、と思っていた。志信さん、酒乱なことを除けば本当に完璧な人だよな。
「俺っちからはこれ~。食べてねッ」
「でか!」
 陽が特に大きいギフトボックスを豊騎に渡すと、豊騎の顔がプレゼントの包みに隠れて見えなくなる。こんなに大きいなんて中身はなんなんだ。豊騎が緊張した面持ちで包み紙を剥がす光景を、俺たちは静かに見守る。ボックスの中身は巨大なチョコレート菓子だった。どでかい包みの中に、小さいチョコレートがたくさん詰まっている。陽は「俺にもちょっとちょうだいね」なんて言って、豊騎よりも先にチョコレートを開けて食べだしている。自由か。
 これで、次に豊騎にプレゼントを渡すのは残すところ泉くんだけとなった。豊騎に喜んでもらえるか不安なのか、はたまた照れくさいのか、いつになくもじもじと所在なさげにしている泉くん。
「……伊佐敷、おめでとう。これからもよろしくな」
 泉くんは小さな声で言うと、色紙と何かのディスクを豊騎に差し出した。豊騎は泉くんからそれを受け取ると、何故か目を見開いて震え出す。
「こ、これは……! 泉、お前……!」
 感極まったように言葉をなくした豊騎。どうした、と様子を伺うと、なんと泣いていた。泣くほど喜んでいる。あの、豊騎が。
 いったい泉くんは何をあげたんだ、とプレゼントの中身を確認する。それは、豊騎の好きなお笑い芸人のサインと、公演のブルーレイディスクだった。腑に落ちたような、それでも納得出来ないような。俺が今回目的として掲げていた「豊騎を感動して泣かせること」は達成出来たけど、まさか泉くんに先を越されるなんて。
「……な、なんか、すまんな。天辰」
「謝らないで……余計に惨めになるから……」
 悔しさを押し殺して震える俺を、泉くんがおろおろとフォローするという、あまり見られない光景が見られた、奇妙な1日だった。
「ねえ、あれ伊佐敷(いさしき)くんじゃない?」
「ほんとだ。うわ、高そうな車乗ってる~」
 ある日の午後。秋にしてはうららかな天気と、教師のゆったりとした話し声を子守歌に、睡魔と戦っていた時のことだ。
 クラスメイトの女子が声を上げたのを皮切りに、授業中だというのにクラスの全員が窓の外を見た。そこには、ここ校舎の2階から見える校門の側に、黒塗りの車とその車から降りてくる豊騎(あつき)の姿があった。車の前方には、誰もが知るエンブレム――円の中に星が輝く形のものだ――が掲げられている。
「何してんだ、あいつ」
 今日は学校を休むって言ってたくせに。わけがわからない。今朝、俺は確かに豊騎からの【今日は学校に行けない。ご飯も不要だと久美子さんに伝えてくれ】というメッセージを受け取ったのだ。不必要な嘘を豊騎がつくとも思えない。それに、あの高そうな車は誰の物だろう。志信さんの車はレトロな配色が可愛らしいコンパクトカーなので、違う。そして、豊騎の周りに志信さん以外で高級車が買えるほどの金持ちがいたとも思えない。豊騎が俺に話していないのなら、別だけど。
 そこまで考えて、ピカッと脳内に閃きが走る。
「ハッ……まさか、ヤクザの姐さん……?」
 もしかして、もしかしたら。数少ない脳の皺を伸ばせ、俺。俺は真剣に今しがた目撃した高級車と、豊騎の関係を考えてみた。
 豊騎に金持ちの知り合いがいるようだ、プラス、豊騎は人妻が好き、イコール、豊騎の本命はヤクザの姐さんだった!?
「姐さん? どこに姐さんがいんの?」
「いや、まだやり手の女社長って線も捨てきれない……!」
「何それ~おもろ、(そう)ちゃん」
 俺の呟きを聞きつけた(ひなた)が、横から茶々を入れてくる。けど、それどころではない。豊騎、お前……危ない世界に足を踏み入れるなんて。志信さんが泣くぞ。俺が志信さんの号泣する姿を思い描いていると、教室の扉がガラリと開いた。
「おい伊佐敷、重役出勤だな。大幅な遅刻だ」
 歴史教師の黒川先生が、皮肉っぽく豊騎に言う。豊騎はちらりと先生に視線をやってから、「家庭の事情で遅れました」とだけ言って、席に着いた。豊騎はすぐ後ろの席なので、勢いよく振り返って囁く。
「豊騎、途中から来るならそう言えよ。弁当1個しか持ってきてねーよ」
「別にいい。後で購買に行くから」
 豊騎はなんとなくだけど、沈んでいる様子だ。普段から陽みたいにぺちゃくちゃ喋るタイプでもないけど、今日はあからさまに人と話したくないですオーラを全身から醸し出している。
「伊佐敷くんの家ってお金持ちなのかな」
「え~知らない。聞いてみれば」
「あんたが聞いてよお」
 教室の後ろのほうから、そんな噂話が聞こえてきた。豊騎はうんざりしたように顔を顰めると、机に突っ伏して寝始めてしまった。歴史の黒川先生が途端に眉をひそめたが、豊騎を注意することもなく授業を再開し出した。
 豊騎に何があったんだろう。

 ***

「今日、これからみんなでカラオケ行かねえ?」
 放課後、凝り固まった肩の筋肉をほぐすように背伸びしている陽へ、声をかけた。豊騎はまだ机に突っ伏して寝ている。遅刻してきたと思ったら、今日は1日中眠っていた。育ち盛りで眠いのか?
「俺はいいよん。とっしーは?」
「いいけど……急だな」
 泉くんは突然カラオケに行こうと言い出した俺を不思議がるように、眼鏡の縁をクイッと直した。普段の俺はカラオケ好きってわけでもないから、変に思われるのは当然だ。でも、俺の行動原理はだいたい豊騎のため、というか豊騎のせいだ。
「あのな、ここだけの話……豊騎のやつ、ヤクザの姐さんに失恋したんだよ」
 ひそひそと声を抑えて泉くんに伝えると、泉くんは「……は?」と、とんでもない点数のテスト結果を見せた時と同じ顔で俺を見た。
 俺が1日考えた推理はこうだ――俺の母親、久美子への報われない片思いから脱却したかった豊騎は、ひょんなことからヤクザの姐さんと出会ってしまう。またしても人妻。やはり己の性癖から逃れられないのだ、と悟った豊騎は、運命を受け入れて姐さんに決死の覚悟で告白をした。だが、姐さんは常識的な女性だったので、未成年を相手には出来ない、と断られてしまった。傷心の豊騎を、高校まで高級車で送ってくれる、優しい姐さん。やっぱり諦められない! そう思った豊騎は涙にくれるのだった――
 そこまで長々と説明した後、泉くんは一瞬ポカン、と口を開いて俺を見据えた。それから、「天辰(あまたつ)はなんでいっつもそうなるんやって」と呆れたように呟き、「え、いつもって何が」と俺が返すと、今度は「ハアアア」とクソでかいため息を吐いた。そして、眼鏡を外して眉間を指で揉みだした。頭が痛むらしい。お大事に。
「豊騎、豊騎。起きろって。カラオケ行こう」
 名前を呼んで眠る豊騎の肩を容赦なくばんばんと叩く。豊騎はゆっくりと身体を起こし、半分しか開いていないまぶたを手でこすっている。
「ほら、行くぞ。早く歩けって」
 180センチ近くある長身の男をひきずって歩くのは、しんどい。だけど失恋した可哀想な親友のためだ。俺は体力ゲージが減るのもなんのその、と気合いを入れて、豊騎を引っ張りカラオケ店へと向かった。

 ***

「いかない~でえ~♪ この愛が幻だったと認めるのならあ~♪」
「何、この曲」
「知らん」
「たぶんだけど、昭和時代の歌謡曲……かなあ」
 カラオケ店に着く頃にはすっかり元気を取り戻していた豊騎。だけど、マイクを握った途端、またなんだかおかしくなってしまった。誰も知らない昔の曲、しかも失恋曲ばかりを歌っている。しっかりとこぶしまで効かせて。
「……な。失恋したって俺の推理、当たってただろ?」
 泉くんに囁くと、泉くんはしきりに頭を傾げて「いやでも、そんなはずは……」などと呟いている。陽は慣れない曲調にしばらく固まっていたけど、ようやく正気に戻ったようだ。部屋に置かれていたタンバリンを思う存分に使いこなし、豊騎の歌を盛り上げている。
 そうして豊騎が何曲か知らない昔の歌謡曲を歌い終わった時。豊騎のスマホが震え、着信を知らせた。
「悪い、ちょっと電話してくる」
「いってらー」
 豊騎を見送ってから、飲んでいたドリンクが空になっているのに気づく。マイクを独占していた豊騎の居ぬ間に、と流行りのアイドルソングを歌い出した陽を横目に、俺はドリンクバーを目指して部屋を出る。同じ階にあったよな、とカラオケ店の店内地図を思い出しながら廊下を歩くと、トイレがある方向から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「仕送りはありがとうございました。でも、金輪際やめてください。迷惑なので。学校までの送り迎えも結構です」
 豊騎の声は冷凍庫の中みたいに冷たい。あいつは口が悪いし、愛想を振りまくタイプでもないけど、ここまで言葉に棘がある喋りかたをするやつでもない。電話の相手は誰なんだろう。気になって足をもう一歩進めると、トイレの中から豊騎が飛び出てきて、あわや衝突しそうになった。
「あっぶね……想、何してんだよ」
「あ、いやあ、ドリンク取りに来た」
「ドリンクバーなら反対側だけど」
「え、嘘、マジ!?」
 今気づきました、みたいなオーバーリアクションで俺は飛び跳ねた。盗み聞きしてたことはなんとなく豊騎に話せなくて、黙ったままドリンクバーへ向かう。何故か豊騎もついてきた。メロンソーダをグラスに注ぎながら、「……豊騎、失恋くらい誰でもするって。お前くらいイケメンならすぐ別の相手が見つかるよ」と俺は豊騎に声をかける。
「失恋? 何の話だよ」と言う豊騎。え、だってさっき電話で揉めてたし。失恋ソング歌ってたし。きっとヤクザの姐さんに手を出そうとしたことがヤクザにばれて、穏便にことを進めようとして和解金を豊騎に渡した――そんなことなんじゃないかと思ったのだ。
「あの歌はしのさんの趣味でよく聞いてただけ。その想像力を別のことに生かせよ。想だけに」
 豊騎はそんなことを言ってから、「上手いっ」と自画自賛で己の拙いギャグ台詞を称えていた。カラオケでテンションが上がってきて何よりだ。
「あ、2人ともおけーりー。なんかね、スタッフの人から大部屋に移動できますよって言われたんよ。だからあ、行こうぜ!」
 部屋に戻るなり、陽はウキウキと告げてきた。親切なスタッフさんもいるもんだね、なんて談笑しながら部屋を移動する。移動先の大部屋は、恐らくこのカラオケ店で1番広い部屋だった。ずらりと部屋の隅を囲むようにソファ席が並び、部屋の中央にはミニステージもついている。これは豊騎・オン・ステージが始まってしまいそうだ。
 大部屋に興奮して室内に足を踏み入れた俺たちだったが、そこですぐに異変に気がついてしまった。
「うわ、酒くさっ」
「さっきまで宴会でもしてたみたいやな」
 鼻をつまんで言う、泉くん。部屋中に、アルコール臭が充満していた。この臭さだといくら消臭剤を使おうが、空気清浄機を作動させようが、すぐには臭いが取れそうにない。だから俺たちに部屋を移動するように頼んできたのか。スタッフの親切の裏にあった魂胆を知ってしまい、がっくりと力が抜ける。まあ、臭いさえ我慢すればいい話なんだけど。
 既に部屋を交換してしまったし、と俺たちが諦めて部屋の扉を閉め、さあ歌おうとしたその瞬間。ダンッ、と物凄い物音を立てて、豊騎が机に倒れ込んだ。
「豊騎!? ど、どうした」
 慌てて豊騎の顔を抱き起こすと、豊騎の目はとろんと夢でも見ているように甘ったるくなり、意味もなく「へへへ」と笑い出していた。どうやら、アルコールの匂いだけで酔い潰れてしまったらしい。そんなことあるのか。いや、現になってるから、あるんだろうけど。
 豊騎を抱えて困惑する俺を見てから、顔を見合わせる、陽と泉くん。
「……じゃっ、後はよろしくう」
「あ、おいっ、待てよ! 俺だけ置いてくつもりか!? この裏切り者おおおお!!」
 2人の袖を掴もうとしたけど時すでに遅し。陽と泉くんは俺を見捨ててさっさと大部屋を出ていってしまった。酒乱の志信さんの介抱をした経験があるから、かもしれない。アルコール分解酵素の数は、かなりのパーセンテージで遺伝的要素に左右されるという。志信さんのように、酔っぱらった豊騎が暴れ出すと思ったんだろうな。
「だからって俺ひとりでどうしろと!?」
 豊騎を抱えて悲鳴を上げる。広い部屋の中に、俺の悲鳴が響き渡った。
「んん~……あつい。あついいいい!」
「わあ!? 豊騎何してる、服を脱ぐな!」
 何をトチ狂ったのか、いきなり制服のシャツのボタンを外し始める豊騎。上半身の裸が露になり、鍛えられた豊騎の胸筋が目の前に広がる。初めて見るものでもないけど、俺の身体はさっそく反応してしまう。バクバクと猛スピードでケイデンスを上げる心臓。だんだんと不穏になる、俺の下半身。
「豊騎、しっかりしろお! しっかりしてくれ、そうじゃないと、俺、俺の息子がああああ……」
 上裸の豊騎に抱き着かれた格好で、俺はこの状況に絶望して叫んだ。テーブルの上に置かれていたマイクが、「キイイイン」とハウリング音を鳴らした。
 豊騎(あつき)が風邪をひいたらしい。最近、前にも増してコンビニの夜勤バイトのシフトを入れまくり、睡眠を犠牲にして働き過ぎていたからだという。今日が日曜日でよかった。じゃなかったら、また学校の教師陣から説教されるところだったぞ、豊騎。豊騎はこのところ睡眠不足のせいで、ほとんどの授業で爆睡をかますという悪行をしでかし、教師から問題児としてマークされているのだ。
【久美子さんに風邪移すといけないから、今日はご飯食べに行けない。お前から久美子さんに謝っておいてくれ】
 そんな豊騎から送られてきたメッセージの文面を、俺はなんとも言えない気持ちで眺めた。この間の失恋疑惑は俺の勘違いだったし、豊騎は未だに俺の母親のことが好きなんだろう。「久美子さんに風邪移すといけないから」なんて、あいつも好きな人に対しては健気な姿勢を見せたりするんだな。
「久美子ー。今日豊騎来れないって。あいつの分の飯、作んなくていいから」
「えっ、どうして。豊騎くんどうしたの!?」
 1階で優雅にヨガをしている最中の母親に豊騎が来ないことを伝えると、両手を真横に伸ばし大きく開脚したポーズのまま、久美子が顔だけを勢いよくこちらをグリンッと振り返った。なんか新種の生き物みたいで、怖い。
「風邪ひいたってさ」
「あらまあっ、たいへーん! 想ちゃん、看病しに行ってあげなさい」
「なんで俺が。風邪移したら悪いからってうちに来ないのに、俺が行ったら本末転倒じゃん」
「何言ってんのっ、想ちゃんはお馬鹿さんだから風邪なんてひかないでしょ。ほら、作り置きのおかず持たしてあげるから行ってきなさい。あ、あとおでこ冷やすやつも必要よね」
 久美子は早口でまくし立てると、「ああ忙しいっ」と言いながらドタバタと足音を立て、キッチンへ走り去っていった。
 あれ、俺の聞き間違いかな。今、息子に向かって、あろうことかその生みの親である母親が「馬鹿」とか言っていたような気がするんだけど。まあ、事実だから俺に怒る権利もないか。ため息を吐いて、仕方なく豊騎の家に行くため自分の鞄を取りに2階へ上がる。そして豊騎へ【久美子が看病しに行けってうるせえから、これからそっち行く】とメッセージを送った。
 ああなってしまった久美子に歯向かっても無駄だということはよくわかっていたし、なんだかんだ言って、俺も豊騎のことが心配だった。

 ***

 豊騎の家は俺の家から徒歩で5分かかるか、かからないかくらい近くにある。久美子に持たされたタッパーとスポーツドリンク、冷却シートなどを手にしていくらか歩くと、すぐに豊騎の住むアパートの前に着いてしまった。部屋の入口にあるチャイムを鳴らして豊騎が出てくるのを待つ。が、シーンと静まり返るばかりで、部屋の中からは物音さえ聞こえてこない。
 まさか、中で倒れてるんじゃないだろうな。そう思って焦り、ガチャガチャと玄関のドアノブを引っ張ってみたが、開かない。施錠はしっかりしてあるみたいだ。スマホを取り出して豊騎に電話をかけつつ、どうにか中の様子を確かめようと、アパートの裏手に回った。今度は窓から侵入を試みる作戦だ。豊騎の部屋の窓に手をかける。お、窓は鍵が閉まっていない。不用心だけど、今は緊急事態なので好都合だ。すぐに窓を開け、窓枠に掴まり部屋の中へと入る。
「豊騎、大丈夫か!?」
 声をかけながら部屋の中を見渡した。相変わらず物が少ない部屋だ。豊騎はここを「基本、寝るだけの家だから」なんて言っていたけど、それは本当なんだろう。ぺらっぺらの薄い敷布団がひとつと、洗濯機、コンパクトサイズの冷蔵庫、それにテレビ。それくらいしかない部屋は、狭いワンルームなのにがらんとしていて、見ていて寂しさを感じさせた。というか学生なのに机も教科書類もないのは、まずいだろ。
「豊騎、どこだ?」
 てっきり布団で寝ているだろうと思ったのに、豊騎の姿は見えない。その時、何かがもぞりと動いた気がして、目を凝らして部屋の入口付近を見つめた。玄関の少し手前で、豊騎が倒れている。
「豊騎……! しっかりしろ!」
 慌てて豊騎の身体を抱き起こす。頬をペチペチと叩くと、豊騎は「んん……むにゃ、きりぼしだいこん……」と意味不明なことを口走っている。寝言だ。寝てんじゃねえよ。心配して損したわ。ぽいっと俺が豊騎の身体を床に放り捨てると、ゴンッ、と鈍い音を立てて豊騎が再び床に倒れ伏す。
「いってえな……」
「あ、起きた」
 今しがたの衝撃で目を覚ましたらしい豊騎は、俺を見上げて「あれ、いつ来たんだ?」と不思議そうな顔をした。「お前が眠りこけてた間だよ」と返して、俺は豊騎の額に手の甲を当てた。思ったより熱かったので驚く。
「……うわ、熱あんじゃねえかよ」
「そりゃ風邪ひいてるからな」
「病院は行ったのかよ。コロナの検査は」
「したした。陰性。風邪ですねーってよ」
「そっか。体温は何度だった?」
「38度」
「起きてる場合か! 寝ろ!!」
 そう言って、身体を起こそうとしていた豊騎の肩を押す。また床に転がる豊騎。「お前が起こしたんだろうが」と恨みがましい声が下から聞こえてきたけど、聞こえないふりをした。
 本当は豊騎に久美子からの差し入れを届けたら帰ろうと思っていた。でも、高熱を出している豊騎を放置するわけにもいかない。看病、するか。決心したので、転がっている豊騎の両足首を掴み、ずるずると布団が敷いてある場所まで運ぶ。「うおおお、病人の扱いじゃねえ……」と低い唸り声が聞こえてきたものの、また聞こえないふりをした。
「ほら、水分とれ。飲め飲め」
「そんな一気に飲めな、ゲホゲホ、お、溺れる……」
 久美子に持たされたペットボトルを豊騎の口元に注ぎ込む。豊騎は目を白黒させて暴れていたけど、まあ大丈夫だろう。よし、スポーツドリンクを飲ませたから水分補給はひとまずオッケー。次は、身体を温めないと、だ。
「そんな薄着だから風邪ひくんだ。ほら、着ろ着ろ」
「……あっっ、ついな……」
 クローゼットから適当に何着か服を取って来て、長袖シャツ1枚だった豊騎に次々と服を着せていく。フード付きパーカー2枚。Gジャン、皮ジャン、ダウンジャケットでフィニッシュ。これでもう寒くないはず。
「よしよし、じゃあ頭冷やすやつ貼っとくな」
「冷たッ、痛、冷た過ぎて痛い!?」
「……さっきからうるさいなあ。熱あるんだから大人しくしてろって。腹減ってんのか? ほら、食え食え」
 冷却シートを豊騎の額に貼ったら騒ぎ始めたので、久美子の作った卵粥(たまごがゆ)をスプーンで豊騎の口の中へ突っ込んだ。
「ん~~(熱い熱い熱い!)」
「上手いか? よし、もっと食え食え」
「……(終わった)」
 保温バッグに入れてきたから熱々ほかほか状態の粥を食べさせてやると、豊騎はたちまち静かになった。全部食べ終わったのを確認してから、持ってきたタッパーを水道で洗う。そして布巾で水気を取って、鞄の中に仕舞った。全て終えてから豊騎の様子を見に戻ると、豊騎はすやすやと寝息を立てて眠っていた。
 俺の看病のおかげだな。明日にはきっと元気になってるに違いない。我ながらグッジョブ、俺。手際のいい看病に自画自賛していると、スマホがぶるぶると震える。久美子から電話がかかってきた。
「あ、久美子? 豊騎なら今寝かせて飯食べさせた。もう帰るとこ」
「帰るって何を言ってるのよ想ちゃん! 豊騎くんひとり暮らしだし。今晩は想ちゃん、豊騎くんのおうちにお泊りして看病してあげなさい!」
「え、なんで俺がそこまですんの」
「いっつもお世話になってるでしょ!」
 久美子はそこまで言うと勝手に通話を切った。「ツー、ツー」という機械音がスマホから流れてくる。うちの母親、前から思ってはいたけど豊騎に甘過ぎるのでは。マジで久美子と豊騎、デキてんじゃないだろうな。そんなことになったら父親が泣くぞ。
 豊騎の家へ泊まれと母親に命令されてしまった以上、このまま帰ったらどんな文句を言われるかわかったもんじゃない。仕方ないので今晩はここに泊まるしかなかった。
「……俺が望んだんじゃないんだからな? 違うからな?」
 眠っている豊騎に念を押しておく。親友に下心を抱いていることは否定出来ないので、勝手にやましい気持ちになってしまう。おまけに、これからすることは余計に誤解を与えかねない行動だったから。
「ふ、風呂入れないからな。これは看病だから。俺だってやりたくねーんだぞ? 仕方なく、久美子に世話を頼まれたからするだけだからな? お、俺が触りたいからとかじゃ絶対ないからな」
 だって、高熱で汗をかいてるだろうし。汗かいたなら身体を拭かないと。ドキドキする己の心臓に嘘をつくように、俺は延々と豊騎の寝顔に向かって言い訳を続けた。
 豊騎を起こさないように、そうっと豊騎に着せたジャケットを1枚、また1枚と脱がしていく。なんでもないことなのに、熱にうなされた豊騎がたまに漏らす苦しそうな声や、汗の伝う首筋のせいで、嫌な緊張感があった。俺は下腹部の分身に「落ち着け落ち着け落ち着け」と魔法の呪文を唱え続けた。
 そうして、残るは最初に豊騎が着ていたシャツ1枚だけとなった。ゴクリと唾を飲み込む。この下は、裸だ。もう何回も見たことあるし、流石にもう驚かない、はず。俺の息子は相変わらず不穏なものの、意を決してシャツのボタンに手をかけた。白くて滑らかな肌が、眼下に広がる。思わず息を呑んだ。
「落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け!」
 下半身に嫌な力を感じたので、もう一度呪文を唱え、ボタンを3つ外したところで適当にタオルを突っ込んだ。こんな状態で汗が拭けてるのか疑問だけど、それどころではない。俺が大丈夫じゃない。必死になってガシガシとタオルを振り回したおかげで、俺の息子が完全にパワーを漲らせてしまう前に、なんとか汗を拭き終えることが出来た。ホッとして安堵のため息を吐いていると、眠っていた豊騎が顔を顰めだした。
「……ん……さむい……」
「え、わあッ!? 豊騎、離せ、今すぐ離せええええ!!」
 熱で朦朧としているらしい豊騎は、抱き枕か何かと間違えたのか、俺を抱き込むとそのまま眠り出してしまう。なんとか抜け出そうともがきにもがいてみたものの、がっちりとホールドされてしまっていて、豊騎の腕からは逃げられなかった。馬鹿力め。
「離してくれ、頼むから」
「……すー、すー……」
「いやあああああっ!!」
 豊騎の体温が背中から伝わってくるだけでもやばいというのに、今度は豊騎の寝息が俺の首筋に当たった。悲鳴を上げて暴れたのに、豊騎はびくともせず眠っている。
「い、嫌だ、このままじゃ、あ、あ、ああっ……!」
 恐れていたことが起きてしまった。目線を下に下げると、俺の息子くんは「やっほー」とでも言ってるかのように元気に起き上がっている。俺は悲しいのか、情けないのか、よくわからないままに泣いた。豊騎のせいにしたかったけど、豊騎だけのせいではない。これも全部、俺が親友に不義理な下心を持っているせいだ。
 翌朝、豊騎は目を覚ますと、俺が腕の中にいるのを見て「ギャアッ」と悲鳴を上げた。悲鳴を上げたいのはこっちだ、と文句を言う元気すらもう俺には残っていなかった。俺は結局、一睡も出来なかった。
 豊騎(あつき)がアルバイトを始めたらしい。正確に言えば、今までやっていたコンビニでの夜勤アルバイトを辞めて、カフェでアルバイトすることにしたらしい、という話だけど。近頃の豊騎は何かに追われるようにアルバイトに明け暮れていて、体調を崩したり、居眠りするせいで教師から説教をされ続けていた。あいつもようやく「このままじゃヤバイ」と気づいたようだ。そして、そんな時にちょうど駅前の商業施設に入っている有名チェーン店のカフェでアルバイト募集が出たのだ。この地域の中では、かなりの高時給。迷いなく豊騎は応募して、すんなり受かったという。
 豊騎からアルバイトについての話を聞いた俺の母親は、「家計に困っているならうちに来ればいいのに」と言っていたけど、それはそれで別の問題が浮上するよな。久美子は俺と豊騎が結婚すればいいと今でもうそぶいているし、同居なんてしたら久美子が余計に張り切りそう。あ、もしかしたら豊騎の狙いはそれなのか? 俺と事実婚状態になれば、久美子と結ばれなくても久美子のそばにいられるから。なんか、そんな状況を示す言葉があったような。
「なんだっけ、あれ。Aを手に入れるためにBを初めに手に入れろ! みたいなことわざ」
 喉のここまで出かかってるんだけど。放課後の教室で俺が泉くんにそう尋ねると、すぐに「『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』か?」と泉くんは答えを教えてくれた。さすが、成績優秀者。
「そう、それ!」
 答えがわかってすっきりした。俺たちの会話を横で聞いていた(ひなた)が、「よく出来まちたね〜」と言って泉くんの頭を撫でる。満更でもなさそうな泉くん。
 将(久美子)を射んと欲すれば先ず馬(俺)を射よ。まさに豊騎が考えそうなことではあるけど、そうだとしたら嫌だ、と思ってしまうのは俺のわがままなのかもしれない。でも、俺の勝手だろ。豊騎がイケメンで、男同士なのに俺をドキドキさせるのが悪い。
 豊騎の裸を見てからこの身に起きている決定的なエラーは、治らないままだ。悪化している気さえする。今もそうだ。豊騎は俺と同じ制服の白シャツ、ブレザーを着ているのに、何故か自然と豊騎の顔と身体の線を視線で辿ってしまう。
「……何。さっきからジロジロ見てっけど」
 豊騎を看病した日、この腕に抱かれて寝てたんだよな……なんて思いながら豊騎の二の腕を凝視していたら、豊騎が不審者を見上げるみたいな目で見返してきた。慌てて豊騎が手にしていたプリントを指差す。
「や、そ、その呪文みたいなメニュー名! 全部覚えんの」
 豊騎が新しくバイトするカフェのメニュー表だ。問われた豊騎は「そうだけど」と短く言う。
「うへえー、めっちゃ多いな。ま、頑張れ」
「こんなの、タバコの種類コンプよか楽勝よ」
 さすがコンビニバイト経験者。理不尽なクレームや面倒な客にも対応してきただけある。面構えが違う。
「今日でバイト3日目だっけ? 後で冷やかしに行くからねん」
「おー、ホイップクリーム増し増しにしてやんよ」
 陽と豊騎は商品のカスタマイズについて話している。抹茶味のドリンクには何が合うのか、とか。エスプレッソショット追加したら苦いのかな、と素朴な疑問を陽がぶつけていた。というか、新人バイトの分際で勝手にカスタム増量とかしてたらすぐにクビになるのでは。そう思ったけど、黙っておいた。夜勤バイトを続けて身体を壊すより、日中カフェで働いたほうが豊騎の負担が少ないと思ったから。
 だけど豊騎のカフェでのアルバイトには、俺たちが思うよりも壮絶な展開が待っていた。

 ***

「あっ、来たよ!」
伊佐敷(いさしき)くーん!」
「こっち見て!!」
 豊騎の新しいアルバイト先である駅前のカフェでは、今まで見たことのないくらい人だかりが出来ていた。その全てが女の子だ。大半はスマホのカメラを店内にいる豊騎へ向けている。
「え、何これ」
 俺と泉くんが唖然として固まっていると、一緒に来た陽がさっと動き出した。
「ね、ね、みんな何してんの~?」
 陽は近くにいた女子高校生のひとりに声をかける。その子はうざったそうに陽を見返して、「ここにマジエグいイケメンバイトがいるって動画がバズってたから、見に来てんの。てか忙しいんで話しかけないでもらっていい? 邪魔」と早口で言い切った。こんな風に女子から冷たくあしらわれた経験のない陽は、ちょっと涙目になっている。
「う……なんだよお、そんなに豊騎のほうがいいのかよお」
 すっかり自信を失ってしまった陽は、泉くんの肩に隠れて泣き始めた。泉くんは動揺しているせいか、眼鏡の縁を意味もなくカチャカチャと直し続けている。
 それにしても、いつのまに豊騎は有名人になってしまったんだ。カフェの外から店内を覗き込むと、なんと満席だった。おまけに外にまで待機列が出来ている。応援しに来たので注文もせず帰るわけにいかない俺たちは、渋々ながら列の最後尾へと並んだ。
 行列は長く、すぐには店内に入れそうにない。手持無沙汰でスマホを取り出す。そういえばさっき陽が話しかけた女の子が「動画がバズってた」と言ってたよな。そのことを思い出して、動画アプリを起動させた。【カフェ店員 伊佐敷豊騎】で検索する。あ、ヒットした。
「20万回再生……!?」
 驚き過ぎて、ついその場で大声を上げてしまった。「チッ、うるせえな」と周りの女子から舌打ちをされたけど、しょうがないだろと言い返したくもなる。だって、20万回って。豊騎は芸能人でもインフルエンサーでもないんだぞ。
「あ、あのあの、豊騎ってもしかして世間一般的に見ても超イケメンなやつだったのか?」
「今頃気づいたのー想ちゃん」
 呆れたように言う陽。嘘だろ。確かにイケメンだとは日々思っていたけど、ここまでとは思っていなかった。豊騎のやつ、なおさら人妻にうつつを抜かしてる場合じゃないだろ。
 そろそろ目の前の現実を受け入れざるを得ない。俺の親友はイケメン店員として有名になってしまったらしい。
 こちらの困惑をよそに、絶賛アルバイト中の豊騎は、押し寄せる客を前にしてもうろたえることもなく、淡々とカウンター越しに注文を取っている。
 女子に囲まれキャーキャー言われてる豊騎を見て、俺たちは面白くなかった。特に陽なんか、歯をギリギリ言わせて「あっくんの塩対応っぷりを知ればこんなブーム、すぐに過ぎ去るよ……そうに決まってる……」と呟いている。あの後も何回かレジに並んでいる女子にアタックしてみたものの、害虫を見る目で「話しかけんな」と言われたのが相当キているようだ。いつもへらへらと浮かべている笑顔はどこへやら、行列の終着点にいる豊騎を恨みがましい瞳で睨みつけている。その隣に並んでいる泉くんは、最初は陽を気にしていたものの、今はスマホでカフェのメニュー表を眺めては「キャラメル……でも抹茶も捨てがたいなあ」と声を弾ませていた。ただ甘い飲み物を飲むのが楽しみな人じゃん。陽を好きなら今こそ慰めて株を上げるチャンスなのにな。もったいない。
 そうこうしているうちに、カフェの店員さんたち(もちろん豊騎も含め)が猛スピードで客をさばいたのか、待機列が動き出す。やっと店内に入ると、「連絡先交換してください!」「彼女いるんですかあ」「仕事終わり時間ありますか!」などと、豊騎に猛アピールする女子たちの声が耳に飛び込んできた。豊騎はその声に答えはしないものの、にっこりと営業用スマイルを返している。
 あ、そういうことか。突然の豊騎フィーバーの謎が解けた。学校などとは違い、アルバイト中の豊騎は話しかけてくる客を無下に扱ったりしない。勤務時間中は、賃金が発生するからだ。つまり、客に対する営業用の豊騎を見て、女子たちは理想のイケメンがいる! と錯覚してしまったわけだ。実際の豊騎はちっとも優しくないし、笑顔を振りまいたりしない。もしも豊騎が学校でやっているように全員に塩対応をしていれば、彼女たちはすぐにこのカフェからいなくなっていたはずだ。
「……でも、あの調子じゃそろそろ限界が近いな」
 1年半以上、豊騎の近くであいつの表情を見てきたのでわかってしまう。愛想笑いをしている豊騎の片頬はピクピクと痙攣し始めていたし、どんなに隠そうとしても目の奥には苛立ちが滲んでいた。
「次にお並びのかた、こちらへどうぞー」
 豊騎が俺たちを見て言う。やっと列の順番が来た。
「モテモテで羨ましいですなあ、あっくんよお……あ、チョコレートラテひとつね」
 陽が恨み言のついでに注文を入れる。泉くんは「抹茶フラペ、ホイップ増し増しで!」とウキウキしている。
「俺はほうじ茶ラテで。豊騎、なんか大変そうだな」
 俺がそう言うと、豊騎はそれまで顔に張り付けていた営業用笑顔を取り去り、真顔になった。
「……ああ、本当にな。俺の動画上げたやつ、開示請求して訴えようかと思ってる」
「お、おお」
 割とガチめに困っていたようだ。店としては集客出来ているからいいことなんだろうけど。
 その後、順番にお会計を済ませ、俺の番になる。
 小銭をトレイに並べていると、突然ひとりの女の子が割り込んできた。何事だとびっくりしていると、その女子は「伊佐敷くん、無視しないでよ。連絡先もらえるまで、私ここから絶対に動かないから!」と豊騎に向かって叫んだ。騒然となる店内。この様子をスマホで撮影し出す客。ああ、カオスだ。
 豊騎はこの状況にうんざりしたようにため息を吐いた。そして、ピリピリと尖った声のトーンで言った。
「俺、付き合ってる人がいますから!」
「嘘、じゃあ彼女ここに連れてきてよ」
 豊騎にそう言われるであろうことを承知の上だったのか、女の子は即座に言い返す。どうする、豊騎。
 俺たちと周りのオーディエンスが息を呑んで見守る中、豊騎は何故か腕を伸ばして俺の手を掴んだ。え、え、何。
「こいつが俺の恋人です」
 なんだそれ!? 「キャアー」と違う意味で悲鳴が上がる。悲鳴を上げたいのはこっちだよ。
「ちょっと想ちゃん、水くさいじゃん! 付き合ってたんなら教えてよ」
「いやいやいやいや!? 俺は付きあ――」
 俺は付き合ってない。そう言おうとしたのに、豊騎が俺の口を手で思いっきり押さえつけたので、「もがもがもが」という不明瞭な声にしかならなかった。何するんだよ、と豊騎を睨む。が、豊騎は一歩も引かなかった。
「俺たち、付き合ってるよな……?」
 そう言う豊騎の瞳は恐ろしいまでに見開かれていて、まるで「否定したらただじゃおかない」とでも言っているようだ。美形の怒り顔って怖い。大して強くもない俺は、恐怖に屈した。
「ハ、ハイ……」
 俺、これからどうなっちゃうんだろう。
「あ、来たよっ!」
伊佐敷(いさしき)くん、天辰(あまたつ)くんと付き合ってるってほんとなの?」
 朝、俺と豊騎(あつき)が教室に入るなり数人の女子が駆け寄ってきた。目を爛々とさせ俺たちの顔を交互に見つめている。みんなゴシップに夢中なようだ。暇なのかな。既に同様のやり取りを何回か繰り返していた俺は、げんなりとしてため息を吐いた。
 豊騎が新しいバイト先のカフェで、俺を指し「こいつが俺の恋人です」なんてとんでもない発言をしてからというもの、すぐにその様子を撮影していた不届きものが動画をアップし、その動画がバズりにバズった。「イケメンカフェ店員には、なんと彼女ではなく彼氏がいた!」というセンセーショナルな話題は、娯楽を求めていた人たちには面白かったようだ。おかげで、あれから毎日のように「本当に付き合ってるのか」と突撃取材を受けている。
「……ちょっと。俺の彼氏に近づき過ぎ。離れて」
 豊騎がそう言って、俺の目の前にいた女子を遠ざけた。すると、「『俺の彼氏』だってえ!」「キャーッ」と女の子たちは楽しそうに叫びながら走り去っていく。
 カフェの前で俺と付き合っているフリをしてから、豊騎は俺と一緒にいる時は変に芝居がかった振る舞いをするようになった。未だに動画を見て押し掛けてくる女子への牽制のつもりなんだろうけど、俺に対してでろでろに優しい豊騎なんて慣れなくて、気持ち悪い。あと、「彼氏」と言われるたびになんだか胸のあたりがそわそわしてしまうので、やめてほしい。
「豊騎、お前今までこんな風に俺に優しくしたことなんてなかっただろうが。あと彼氏ってなんだよ」
 文句を言って豊騎を見上げる。でも豊騎は素知らぬ顔で、今度は俺の手を握ってきた。ひやりと冷たい指先が触れて、ビクッと肩が震える。
「おま、お前、ななな何して」
「例の動画、開示請求して肖像権侵害で訴えるにはまだ時間がかかるから。それまでは恋人のフリしてくれよ」
「ええええ……?」
 俺の困惑をよそに、豊騎は握った手を恋人繋ぎにして、指まで絡ませる。少しカサついた豊騎の肌が俺の肌の上を滑り、背筋にぞくぞくとした感覚が走った。まずい。またしても、俺の分身の危機だ。繋いだ手から逃れたくて自分の手を引っ張ってみたものの、力を込められてしまって手を離すことができなかった。握力、強過ぎ。
 豊騎は物凄い握力で俺の手をがっちりと捕らえたまま、2人の手の上でスマホをカメラを構え、シャッターを押した。SNSに載せて俺たちの仲をアピールする、とのことだ。俺に拒否権はないらしい。
「あ、あの。豊騎さん、そろそろ手を離してはもらえないでしょうかね」
「は、無理だけど」
「はあ!? こっちのほうが無理ですけど!」
 席に座ってからも、豊騎は手を離そうとしない。そんな俺たちの様子を見ていた(ひなた)が、「仲良ち~」なんて言ってハートマークを手で形どり、こちらへ見せてきた。ふざけんな。泉くんも、惚れた弱みがあるからって陽に釣られてハートマークを作らないでくれ。陽のやつを止めてくれ。ついでに豊騎も。

 ***
  
 放課後、1階の昇降口まで下りて学校の外を見ると、校門の前にいつか見た高級車と同じ車が止まっていることに気がついた。円の中に星が輝くエンブレムが日差しを受けてキラリと光っている。あの車種ってお高いはずなんだけど、この街で流行ってんのかな。車の持ち主は誰なんだろうと思いつつ、校門を通り抜ける。俺の隣を歩いていた豊騎は、何故だか高級車を睨みつけていた。
「豊騎、あの車に知り合いでもいるのか?」
「……いや、別に」
 豊騎はそう言うと、いきなり俺の腰に腕を回してきた。脈絡も何もなかったので、避けきれず俺はされるがままになってしまう。
「おいっ、豊騎!」
 何してんだお前は、という意味を込めて豊騎を睨みつけたが、豊騎は俺のほうなんてちっとも気にせずにまだ高級車を睨みつけている。なんなんだ。今は周りに豊騎を追いかけている女子たちもいない。ここで恋人の演技をする必要なんてないだろ。
 腰に腕を回されているから、否応なしに近づいてしまう距離。歩くたびにお互いの腰がごつんと当たるので、そのたびに変な気持ちがむくむくともたげてくる。やめろ。落ち着け。豊騎と触れ合うと暴走しそうになる息子を、心の中で叱る。こんな往来でやらかしたら、一生もんの黒歴史になっちまう。
 俺が息子の反応を必死に抑える努力をしているなんて、露ほどにも知らないだろう豊騎は、学校からたいして離れてもいない場所で突然「ちょっと、話つけてくっから。先行ってて」と言うなり、学校のほうへ走っていってしまった。
 やっぱり何かがおかしい。何かが起きている。だけどその何かの実態がわからないので、ひたすらもやもやする。急に豊騎の体温が消えたので、妙に寒く感じた。
「んー怪しいっすねえー」
「だろ? やっぱ最近のあいつ変だよな」
 通学路を逆走していった豊騎の後ろ姿を見て、陽が頭を傾げた。俺も怪しいと思っていたので同調したが、「んーん。あっくんじゃなくってえ、想ちゃんのが変」と矛先を向けられてしまう。
「はあ!? 俺はいつも通りだろ」
「仲良しの友達が困ってんだから、恋人のフリくらいしてあげたらいいじゃーん。なんでそんなキョドってんの?」
「キョ、キョドってなんかねーし!」
 ギクリ。思い当たる節しかない。主に豊騎との接触で起きる分身の誤作動とか、心臓の誤作動とか。やましさのあまり、ついどもってしまった。
 俺の不審過ぎる態度に、陽は揶揄うチャンスだと言わんばかりにニヤケ顔を作る。
「それともお、彼氏のフリしたらなーんか不都合があるのかにゃ?」
「……」
「あー図星だにゃーん! その顔は図星だった顔だにゃーん」
「にゃんにゃんうるせえにゃん! ……あっ」
 陽の気色悪い語尾につられた。悔しい。陽と泉くんは笑いもせず、生暖かい目で俺を見ている。せめて笑い飛ばしてくれよ。
「この間のあっくんの告白動画、かーなり再生数回ってんねえ」
 羞恥に震える俺を華麗にスルーした陽は、スマホで動画投稿アプリを眺めて呟いた。カフェで盗撮されていた動画のことだ。横から陽のスマホ画面を覗き込むと、コメント欄では【せめて彼女であれよ】【は? 変な女よか男同士のほうがマシだわ】と意見がまっぷたつに分かれ、抗争が始まっていた。中には【男子と男子がいちゃついてんのてえてえ】なんてコメントもあったが、まあこれは稀有な意見だった。
「でもさあ、この調子じゃそろそろカフェでの出待ち隊もいなくなってんじゃねえ? 偵察に行こーよ」
「ひな、伊佐敷がモテまくってたのがそないに悔しかったんか」
 泉くんが言うと、陽は小さい子供のように唇をとんがらせた。
「だって今彼女いないんだもん! 寂しいんだもん! そんな時にあんなの見せられたらムカつくっしょ」
「ただの八つ当たりじゃん……」
 陽の言い分にドン引きしていると、「か、彼女はいなくても、俺がっ……そばにおるやろ」と泉くんが控えめに陽のフォローに入る。
 おお、泉くんにしては頑張った。俺は密かに泉くんの勇気を称えて拍手をしたが、陽は「いや、とっしーは早くゆうちゃんにちゃんと返事かえせよ。また無視してんだろ」と辛辣に言い返した。がっくりと項垂れる泉くん。この2人の仲はまだまだ進展しないようだ。

 ***

 駅前にある豊騎のバイト先のカフェの店内は、先日とは打って変わって、ほどよい客の入り具合だった。全面ガラス張りのため、広々とした店の中がよく見える。テラス席ではペット同伴でティータイムを楽しむ人がいたり、店内の奥側ではパソコンを開きながら優雅にコーヒーを飲んでいる人も多い。この前は店内がとても狭く感じたけど、あれは単に豊騎目当ての客が多過ぎたからだったようだ。本来の店は広く、開放感のある素敵なカフェだった。
「……あっくんがいない時はこんなに静かなんだねえ」
 俺と同じようなことを感じたのか、店内のソファー席に腰を下ろした陽は、きょろきょろと周りを見回して驚いたように言った。その隣に座った泉くんは店内には全く興味がないようで、手に持っている季節限定のストロベリーラテに夢中な様子。
 俺はアイスコーヒーを啜りながら「平日のカフェなんてフツーこんなもんだろ」と言い、カウンターの中で忙しなく動いているスタッフたちを眺めた。ここで働いている人たち、豊騎ほどではないにしてもみんな顔が整っている。顔採用でもあるのか?
「あ、あっくん」
 静寂の時は早くも終わりを告げそうだ。陽が呟いた後、カフェの入り口から豊騎が「おはようございます」とスタッフに挨拶しながら入ってきた。もちろん、後ろに追っかけの女子軍団を引き連れて、だ。この間より頭数は減っていたけど、まだまだ女子の人数は多い。イケメン店員・豊騎にはたくさんファンがついているみたいだ。
 学校前まで謎に戻っていた豊騎は何をしていたんだろう。バイトのシフト時間に少し遅れたようで、豊騎は裏にあるスタッフルームに入ってエプロン姿に着替えてきた後、カウンター内にいる先輩店員らしき人に頭を下げている。先輩店員は豊騎に「いいよいいよ」と笑い返した。バイトに入って以来、物凄い集客力を見せている豊騎に対して、強くは出られないようだ。
「確かに……かっこいい、かも」
 ふと呟きが漏れてしまう。カフェの制服である黒シャツにエプロンをつけた豊騎は、女子に騒がれるのも納得なくらい、様になっていた。俺が豊騎の友達じゃなくて、このカフェで出会った客だったら、その場で恋に落ちてしまっていたかも。そんな幻想さえ浮かんだ。 
 その後は、この間のような大騒ぎになることもなく、平穏な一日が過ぎていった。豊騎の追っかけファンたちもだいぶ大人しくなった。今日は時々レジに女子が駆けていき豊騎の連絡先をねだる、くらいのものだった。
 だけど、事件は俺たちが油断しきっていたその時、起きた。
「伊佐敷くん。伊佐敷、豊騎くん」
 凛とした、鈴を鳴らしたような声が店内に響く。声の主は、どこか気の強そうなところはあるけど美人な女の子だ。よく見ると、陽の元カノで幼馴染のゆうちゃんが通うお嬢様女子高の制服を着ている。でも、誰?
 見たことのない女の子を前にして、豊騎はにわかに表情を強張らせた。
「あんた……もしかして綾小路家(あやのこうじけ)の手先か?」
「まさか。私は伊佐敷くん、あなたの婚約者の西園寺姫花(さいおんじひめか)よ。会うのはずいぶんと久しぶりだから、覚えていないのも無理はないけれど」
 謎の女の子――西園寺姫花は豊騎に言う。なんか話しかたがひと昔前のラノベのヒロインっぽい子だな、というのが俺の受けた第一印象だ。てか、待って。婚約者って何。初耳なんですけど。
 豊騎は一瞬悩むように額に手を当ててから、先輩店員へ「すみません。休憩入ります」とひとこと告げて、エプロンを脱ぎ捨てた。俺たちがハラハラと見守っている間にカウンター内から出てきた豊騎は、西園寺姫花に「来い」とでも言うように、顎をしゃくった。
 カフェの外へと出ていく豊騎たちを慌てて追う、俺、陽、泉くん。
「綾小路の使いの者に伝えたはずだ。俺にはもう将来を考えている恋人がいるから、婚約なんて出来ないと」
 今は休憩時間だからなのか、豊騎は途端に偉そうな口調になる。だけど、西園寺姫花はまったく怯まない。両腕を胸の前で組むという、いかにもプライドの高いお嬢様っぽいポーズを取っている。
「あら、私はあなたに恋人がいても構わないわよ。愛人のひとりやふたり、許す度量がなければ西園寺の名が廃るもの」
「……話が通じないな」
 2人のやり取りを見て、「伊佐敷のやつ、ほんまに金持ちの家の子やったんか」と泉くんが言う。よっぽど驚いたのか、眼鏡がずり落ちているが気づかないままだ。
「あの姫花って子、すごいオーラだねえ。あっくんの追っかけちゃんたち、手も足も出ないみたい」
 陽がそう言った通り、カフェまでついてきていた数人の豊騎のファンたちは、西園寺が喋り出してからというもの、豊騎を遠巻きに見てひそひそと仲間うちで話しているだけだった。西園寺さん、なんかいかにも強そうだもんな。ラノベヒロインっぽいし。
「想ちゃん、ライバル出現でだいピ~ンチだね?」
 にゅっ、と横から俺の顔を覗き込んでくる陽。おい、ちょっとこの状況を面白がってるだろ。陽のやつめ。
 陽にうんざりして顔を顰めていると、陽の言葉を聞きつけたのか、豊騎がこちらを振り返った。
「俺が好きなのは想だけだから」
 真顔で突然、そんなことを言う豊騎。少女漫画かよ。そう馬鹿にしたかったのに、愚かな俺の心臓はドキドキと、ときめき始めてしまう。「ちょ、おま、役に入り込み過ぎだぞ」と、誤魔化すように言って笑ってみたけど、豊騎は笑わない。
「……恋人のフリじゃなくて、本気だって言ったらどうする?」
「え……?」
 本気、ってどういう意味だ。元々たいしてよくもない俺のIQが急激に低下する。あ、豊騎の真剣な顔ってマジでイケメン。
 みんなが見つめる中、俺はきっと宇宙いち間抜けな顔を晒していた。