9月だというのに蒸し暑い空気が教室の中まで充満する、そんな不快な日。高校で行われる文化祭の準備が、始まりを告げた。
「クラスの出し物、やりたいものがある人は挙手をしてください」
 学級委員長の佐藤さんがクラスメイトに呼びかけた。
 出し物か、演劇なんかいいかも。そう思って「劇はどうかな? 脚本なら俺書くし」と提案した。だけどすぐに「(そう)ちゃんが書いたらヒロインが人妻になっちゃうでしょ。人妻趣味はもういいでーす」と(ひなた)に却下される。陽のそんな発言に、クラスの連中が笑い出す。
 だから俺に人妻趣味なんてないっての。
 春先に豊騎(あつき)のためと思って俺が描いた同人誌の話は、久美子から豊騎、豊騎から陽、泉くんにまで伝わっていた。それ以来、いくら訂正しようとしても陽たちは俺のことを人妻大好き男だと思っている節がある。
 その後、俺の演劇以外にも展示、屋台、アイス屋などの意見が出たものの、出し物がひとつに決まらない。
「はいはーい! 男装アンド女装カフェはどう? 委員長、絶対似合うよ~」
 膠着状態だった話し合いの最中、陽が声を上げた。おまけに佐藤さんにはウインク付きで。佐藤さんは少し頬を赤らめた。陽はチャラいけどイケメンではあるので、これも自然の摂理なのか。陽のやつ、割と長く付き合っていた「ゆうちゃん」とも最近別れたらしくて、またチャラさに磨きがかかっている。
「……チッ、あいつはまた……」
 俺の2個後ろの席から、地を這うような声が聞こえてきた。俺のすぐ後ろは4月から変わらず豊騎なので、この声は泉くんだ。相変わらず、陽がモテることにキレているみたいだ。
「じゃあ、採決とります! 展示がいい人ー。屋台がいい人ー……」
 佐藤さんがクラス全員に聞いて、書記の田辺さんが黒板に正の字を書いている。そして、うちのクラスの出し物は陽が提案した「男装アンド女装カフェ」に決まった。衣装係、調理係、接客係の3つに分けて作業をすることになるらしい。
天辰(あまたつ)くんは女装して接客ね」
「え、俺の意見は!?」
 裁縫が得意ということで初めに委員長から衣装係に任命された伊藤さんは、俺の顔を見るなり接客係に指名してきた。男子の意見など彼女にとっては紙くずに等しいみたいだ。席を歩き回りながら、「伊佐敷(いさしき)くんは接客」「泉くんは調理」「井上くんも調理」「真子(まご)くんは接客」とひよこの性別分けでもしているようなスピードで、あれよあれよという間に役割分担が決められていく。
 俺は母親似なこともあり女顔なので、女装メンバーに選ばれるのは覚悟していた。だけど、まさか豊騎まで接客係になるとは。
「……おい。何笑ってんだよ」
 親友の女装姿を思い浮かべ、笑いを堪えていると、それを察したらしい豊騎が言う。
「いや、豊騎も着れるサイズの衣装用意すんの大変だろうなーって」
「あ? そんなこと言ってっけど想、お前の女装姿を写真に撮って久美子さんに送りつけてやっからな」
「それだけはやめてえええ!」
 俺は豊騎の脅し文句に簡単に屈した。だって、久美子が俺の女装姿なんて見たら、その先が怖過ぎるんだもん。きっと日常的にスカートを履かせようとしてくるに決まってる。「想ちゃん似合うんだもの!」とかなんとか言って。
「はーい、接客係のひとたちは採寸するからこっちに集まって」
 衣装係筆頭の伊藤さんが叫んでいる。めったに見られない豊騎の女装姿を笑ってやろうと思っていたけど、どうやらそれどころじゃなさそうだ。ため息を吐いて、俺も集まりに参加しようと席を立った。

 ***

 文化祭当日。フリフリの可愛らしい衣装を手に、俺は葛藤していた。
「天辰くん、何固まってんの。早く着替えて」
「うわあ、はいっ」
 衣装係の伊藤さんから厳しい声が飛び、思わず返事をしてしまう。うう、嫌だ。だって、文化祭の準備で仮の衣装を試着した日から、なんだか親友の視線が妖しい。まさか好きな人に似てるからって俺でもいいのか!? いつかの疑いがまた頭をもたげる。
 でも、このまま俺だけ衣装を着ないわけにもいかない。教室の中、男子用にとそっけなくつけられた暗幕の影で、ひっそりと俺は衣装の袖に手を通した。男子用の衣装は、フリルがたっぷり施されたクラシカルなメイド服だ。緑のチェック柄がおしゃれなデザイン。衣装係の伊藤さんはコスプレイヤー兼衣装制作もしている、その道では有名な人だったらしい。確かに、出来栄えはすごくいい。くるぶしのちょっと上まで丈のあるスカート部分を持って、俺はひらりとその場で1回転してみた。
 暗幕に取り付けられた姿見の中には、若かりし頃の母親とそっくりな俺がいる。ウィッグまで被らされてるから、再現度は完璧だ。
「これじゃあいつを勘違いさせちまうよおお」
 俺が頭を抱えて呻いていると、もう衣装に着替え終わっていた陽がやって来て、「どしたん~?」なんてのんきな口調で聞いてくる。
「み、身の危険を感じるのッ!」
「えー、自分のほうが女装似合うからって自慢してる?」
「そうじゃねえよ! あ、ほら、あそこ……!」
 俺が指差した先。暗幕の向こうから、こちらを覗いている豊騎と目が合った。気のせいか瞳がいつもよりギラついている気がする。
 最初は俺の話を取り合おうとしなかった陽も、そんな豊騎を見て悲鳴を上げた。
「キャーッ、豊騎さんのエッチ!」
「殴るぞ?」
 豊騎は陽に向かって拳を振り上げる。陽は猛スピードでこの場から逃走していく。
「あ、待てよ陽!」
 俺を置いていかないでくれ。というか、豊騎と2人きりにさせないでくれ! そんな思いを込めた声は残念ながら陽には届かない。
 豊騎は無言のまま、ずんずんと俺の目の前まで迫ってくる。
「……な、なんだよ……」
 上から見下ろされて怖くなり、か細い声で聞くと、豊騎は「想、お前さ……」と何かを言いかけてまた口を閉ざす。なんなんだよ。こっちは緊張してんだからさっさと言え。しばらく至近距離で見つめ合うという、謎の時間が訪れた。そして、ようやく豊騎が話し出した。
「……俺も着替えるから、暗幕の外で見張っててくれ。朝から変な女子軍団に追われててさ」
「あ、うん。わかった」
 少し困ったように言う豊騎に、俺は頷く。てっきり、母親そっくりの俺の女装姿に何か言うかと思ったのに。拍子抜けした俺は、なんだかもやもやとしたはっきりしない気分のままに、暗幕の外側で豊騎の着替えを待つことになった。
 そんな俺のすぐ側を、「伊佐敷くんどこ行った!?」「女装姿の写真……プレミア価格つくぞ!」「探せ探せ」と恐ろしいことを言いながら女子数人が駆けていく。豊騎は女子に塩対応な男だけど見た目がそりゃあもうハチャメチャに良いので、こうしたイベントごとの時には隠れ豊騎ファンがどこかから這い出てくるのだった。まあ、さっきの子たちは写真の転売が目的みたいだったけど。
「――××高校第△回文化祭、まもなく始まります」
 校内放送が流れる。今日は波乱の1日になりそうだ。

 ***

「キャーッ、佐藤さん一緒に写真撮ってください!」 
「伊藤さん、あの、握手してもいいですか……」
 俺たちのクラスの「男装アンド女装カフェ」はそれはもう人が行列を作るくらい、人気を博していた。主に豊騎と、男装した学級委員長の佐藤さんと伊藤さんが、だったけど。というか、伊藤さんは衣装係のメイン人力だったはずなのに、男装して接客もしてるし。有名コスプレイヤーらしいから集客を見込んで頼まれたんだろうけど、最初に係分けした意味とは。
 俺はクラス内人事にもやつきながらも、調理係から受け取った飲み物と軽食をトレイに乗せ、客席へと運んだ。そこでは、女装した豊騎を取り囲む他クラス女子の一味を相手に、陽が値段交渉をしていた。
「真子くんとか他の男子と写真撮るのは100円なのに、伊佐敷くんだけ高過ぎませんか!?」
「すんませーん。伊佐敷は当店1番人気なので、1枚1万円になりまーす」
「ね、値下げとかって」
「しませーん。1円たりともまけられませーん」
「くっ……さ、3枚買いますっ……!」
「まいどありー」
 どうやら、豊騎の隠れファンが周りをうろついていることを知った陽が、豊騎との撮影権だけをありえない値段に設定したようだ。豊騎のファンのひとりは財布を取り出して悔しそうにプルプルと震える手で、お札を取り出そうか、仕舞おうか躊躇っている。それを見ていた陽は、サッと女子の持っていた財布から3万円を奪い取った。
「はい確かにー。じゃあ、お写真どうぞ!」
「う、うう……私の3万円が……」
 極悪非道な取引が行われている。女の子は悔し泣きしつつも、女装した豊騎の隣に立ってピースを作った。陽がインスタントカメラで撮影し、その場で出てきた写真を手渡している。
「わ、私も1枚買います!」
「私も!」
 先陣を切った子に触発されたのか、写真の値段に引いていた他の女子たちも次々に手を上げた。豊騎は普段、写真を頼まれてもすげなく断るので、ツーショット写真が合法的に撮れるというだけでも価値があるのかもしれない。豊騎の顔は無表情で、目なんて死んだ魚みたいに輝きがないけど。あれでもいいのか、とちょっと思う。
「ぐっ、さらば、私の渋沢栄一……!」
 手持ちの1万円札に別れを告げながら、豊騎と写真を撮る女子たち。
 俺はさすがに豊騎のファンの子が哀れになって、そっとその子たちのテーブルに軽食のクッキーを置いた。心ばかりのサービス品だ。
 俺が豊騎と写真を撮る女子たちを憐憫の眼差しで見つめていると、陽がこちらを見て駆け寄ってくる。
「あ、想ちゃん~ナイスタイミング。ちょっとここの客捌き、かわってくんない? 俺の元カノがこれから来るから、案内したくて。一瞬抜けたいんだあ」
「おう、いいけど」
 元カノ、って例の「ゆうちゃん」かな。前に陽から見せられた写真の女子の顔を思い浮かべながら、頷く。陽は「あんがとー」と言うなり早足で教室を出ていった。女装しているというのにあいつ、堂々としてやがる。普段と変わらない態度で過ごしている陽に感心して、「陽の元カノが来てんだって」と豊騎に言った。豊騎は興味なさそうに「へえ」としか言わなかったが、偶然近くのテーブルの上の食器を下げに来ていた泉くんが、俺の言葉に振り返った。
「……ゆうが来てるって、あいつが言うてたんか?」
「名前は言ってなかったけど。『元カノが来る』とだけ言ってた」
「そうか」
 泉くんはなんだか悲しそうだ。手にしていたお皿を持って、とぼとぼと生気のない足取りで調理場へと戻っていく。
「どうしたんだろ、泉くん」
 いつもキリッとしている泉くんの見慣れない姿に俺が頭を傾げていると、豊騎が呆れたように「想はにぶ過ぎ」なんて言ってきた。にぶい? 俺が気づいていない何かがあるとでも言いたげだ。
「なんだよ。気になるなー」
「どうせそのうちわかることだから、気にすんな。それより想、ちょっとこっち見ろ」
「え?」
 パシャリ。響くシャッター音。まばたきをひとつしてから豊騎を見た。豊騎はいつのまにかスマホを俺に向かって構えて、ニヤニヤと笑っている。やられた。
「おま、豊騎~! 久美子に送るなよソレ!?」
「残念。もう送った」
「ふっざけんなよ!!」
 ギャハハと笑って逃げる豊騎を追いかける。笑う豊騎を見た周りの豊騎ファンの女子たちは、「伊佐敷くんが笑ってるー!」「家宝にする!家宝にする!」と大興奮でスマホカメラで連写していた。そんな女の子たちとぶつからないよう懸命に障害物を避けながら、俺は豊騎の後を追う。大して広くもない教室の中、ましてや慣れない女物の服を着ていては、逃げ続けられるはずもなく。教室の入り口付近で、俺は豊騎を捕まえた。
「さっきの写真、消せ!」
 母親に見られる前に消さないと、これから定期的に女装することになるかもしれない。俺は豊騎の腕をひっしと掴んで、詰め寄った。
「……嫌だって言ったら?」
 豊騎は相変わらずニヤニヤと楽しそうに笑っている。性格の悪いやつめ。ムカついたので、強引にでも豊騎のスマホを奪うことにした。
「寄こせっ」
「あ、馬鹿、危な……」
 ジャンプしてから豊騎に体当たりをかます。狙いは豊騎が手にしていたスマホだったけど、勢いがあまってそのまま床に倒れこみそうになる。豊騎がなんとか受け止めてくれたおかげで、俺は床にダイブせずに済んだ。が、その後の体勢が問題だった。
「……」
「……」
 豊騎にぎゅっと抱き締められた状態の俺。しかも、2人が着ているのは女物のフリフリメイド服。息がお互いの顔にかかるほど接近した俺たちは、この倒錯した絵面に困惑して、しばらく無言のままで固まった。
 俺たちを見た客が口々に「百合だ……」「いや、薔薇で作った造花では」「細けえことはいいんだよ!」と騒ぎだしていたけど、そんなのどうでもよかった。
 豊騎に女装なんて似合わないだろうと散々笑っていたのに、こうして間近で見ると、まるで笑えなかった。顔が、綺麗過ぎる。ドキドキと高鳴り始める心臓。頼むから今ここで反応しないでくれよ、と俺は己の下半身がいつかのように起き上がらないように祈った。
 俺たち接客係の男子は、衣装係の女子たちにメイクを施されていたので、全員が女装にマッチするように顔を改造されていた。特に豊騎は元の顔の作りが精巧だからなのか、ハッとするぐらいの美形に仕上がっている。アイラインを引かれて強調された切れ長な目、彫刻みたいに美しい鼻、控えめだけど形の良いリップライン。
 俺が豊騎の顔に見とれていると、豊騎は動揺したように瞳を左右に彷徨わせた。茶色がかった瞳の真ん中、黒い瞳孔がきゅっと開くのが見える。
「ただいまあ……って、想ちゃんとあっくんは何してんの」
 俺と豊騎が抱き合ったまま硬直していたその時、元カノを出迎えに行っていた陽が教室へ戻ってきた。陽は俺たちを見て苦笑いしている。陽の隣には、前に写真で見たことのある育ちのよさそうな女の子が立っていた。
「な、なんでもない! いらっしゃいませ」
 慌てて豊騎から離れて、陽の元カノに挨拶する。元カノは薄く微笑んで会釈してくる。おお、礼儀正しい。いかにもお嬢様女子高の生徒、って感じだ。その後、陽が手早く「こちら水城結羽(みずきゆう)ちゃん。で、こっちはダチの想ちゃんと、あっくんね」と俺たちに元カノを紹介する。やっぱり、この子が例の「ゆうちゃん」だった。
「としくんも、このクラスなんだよね?」
 陽の元カノ、ゆうちゃんはそう言って、きょろきょろと教室を見回した。誰かを探しているようだ。でもとしくんって誰だ。俺が答えあぐねている間に、陽が「あー」と声を上げた。
「とっしーは裏の調理場にいるんだ。呼んでくるね」
 そう言って、陽は調理場へ歩いていく。取り残される、ゆうちゃんと俺、豊騎。
 おい、初対面の3人を置いていくなよ。と思いつつ、ひとつ疑問が浮かんでいた。ゆうちゃん、泉くんとも知り合いだったのか? どういう関係?
「ゆ、ゆうちゃんさん、泉くんとも友達なんですか?」
「うん。私たち3人、小学生の頃からの幼馴染なんだ」
「はえー! そうだったんですか」
 幼馴染3人組のうち、2人が付き合うとかまるで少女漫画のヒロインみたいな人だな。あ、でも陽とはもう別れちゃったんだっけ。それにしては、今も仲良さそうに見えるけど。
「ゆうちゃんさん、陽とは別れた……んですよ、ね?」
 あんまり根掘り葉掘り聞くのはよくないと思いつつも、つい好奇心に負けた。俺が尋ねると、ゆうちゃんは気まずそうな顔をして「うん」と言った。
「ほんとはひなと付き合うつもりなんてなかったんだけどね。としくんが私のこと、全然相手にしてくれないから」
「……ん? え、それはつまり、どういう……?」
「あっ、としくん!」
 不穏な言葉を吐いてから、ゆうちゃんはこちらへやって来た泉くんを見た途端、立ち上がってぱたぱたと走り出す。そして泉くんに抱き着き、「としくん、会いたかったよ。どうしてゆうの連絡、無視するの……?」と、涙ながらに訴えた。
「……あの『ゆう』って女、とんだビッチ」
 その様子を見ていた豊騎がゆうちゃんにまで聞こえる声量で失礼な発言をしたので、「あー! 女心は秋の空、と言いますよねえ!」と言葉を被せる。危ねえ。ゆうちゃん、物腰は柔らかい子だけど、なんだか怒らせたらまずい気がする。俺の第6感がそう言っている。
 ゆうちゃんに抱き締められた泉くんは、物凄く苦々しい表情でゆうちゃんを見下ろしていた。そして、そんな泉くんたちを見た陽はというと、「あららー」と、どこか他人事みたいに笑っていた。