(そう)ちゃん、ご飯は冷蔵庫にあるからね。ちゃんとチンして豊騎(あつき)くんと食べるのよ」
「はいはい、もう10回は聞いたって」
「家の戸締りもしっかりね!」
「はいはい」
 後ろ髪を引かれるように何度もこちらを振り返ってくる母親を、半ば押し出すみたいにして玄関から見送った。両親は今日から1泊2日の旅行へ出かける。
 季節は夏。外から差し込む太陽の光が眩しくて、目を細めた。昼前の時間だっていうのに、外は汗ばむくらい暑い。久美子と父さんが行く軽井沢は、ここよりかは涼しいのかな。今は夏休みだし、家族旅行についていくという選択肢もあった。だけど、いつも親から必要以上に干渉されている分、こういう時くらいは親離れをしてみたい。そんな気持ちが勝った。俺をまだ小さな子だと思っている母親は、俺が旅行に行かないと言うと物凄く渋ったが、「豊騎くんが家に泊まってくれるならいいわよ」なんて交換条件を持ち出してきた。
「久美子さんたち、もう出かけたのか」
 玄関の鍵を閉めてリビングに戻ると、夜勤のコンビニバイトを終えて仮眠していた豊騎が、いつのまにか1階まで下りてきていた。その姿を目にしてギョッとする。上半身が裸で、スウェットパンツしか着ていない。見たくなくても、自然と割れた腹筋や鍛えられた上腕二頭筋に視線が吸い寄せられてしまった。
「お、おま、なんちゅーカッコしとんだ!?」
「だって想の部屋、冷房の効き悪くて暑いんだよ」
 目のやり場に困って、てのひらで顔を覆う。当たり前だけど何も見えなくて、勘で歩いていたら、ドン、と思い切り豊騎にぶつかってしまった。豊騎は「どこ見て歩いとんねん」とイラついたように言う。が、俺はそれどころじゃなかった。視界いっぱいに豊騎の裸――正確に言えば胸部あたりの肌、が広がっていたからだ。
「ギャアアアア!!」
「うるせえ」
「服を! 着ろ!!」
 頭に触覚が生えた害虫を見つけた時と同じくらい、絶叫したと思う。ご近所さんから苦情が入ったとしたら、それは全部豊騎のせいだ。意外と柔らかくてしっとりしていた豊騎の肌の感覚を忘れたくて、俺はヘドバンするくらいの勢いで頭を振った。そして、目に毒な豊騎の裸をなかったことにするため、その辺に転がっていたTシャツを拾って、豊騎目がけてぶん投げた。

 ***

「おっ邪魔しまーす」
 (ひなた)の声が玄関から聞こえてくる。出迎えた豊騎が「邪魔するなら帰ってやー」とふざけるのも聞こえてきた。その後すぐに黙ったのは、きっと泉くんの氷みたいに冷たい視線に黙らせられたんだろう。
 夏休みだからといって、遊んでばかりいられない。今年はいつメンに救世主――泉くんのことだ――もいることだし、最終日に焦らなくて済むよう、みんなで手分けして課題を終わらせることにした。
 ジュースの入った2リットルのペットボトルと、家にあった菓子類を適当に運んできた俺の自室には、豊騎と俺、陽、それに泉くんが背の低い丸テーブルを囲むようにして座っている。
「俺は国語担当するから。みんなのテキストこっちにください」
 俺がそう言うと、陽が「はいよー」といい1番にテキストをこちらへ寄越した。各自、得意分野を振り分けて人数分の課題を全てこなす――そんな計画のもと、俺は今日、ここにみんなを呼びつけたのだ。絶対、1日で片をつけてやる。俺はメラメラと闘志を燃やして手に持ったシャープペンシルに力を入れた。
 ――そして数時間後。豊騎はこっくり、こっくりと舟を漕いでいるし、陽はずっとスマホをいじっている。まだ真面目に課題をやっているのは、泉くんだけだった。ちなみに俺はというと、問題文が難しくて途中から筆が止まってしまっていた。ダメじゃん。
「……泉くん、もう後は君次第だ。任せた」
 弱気になって、俺は泉くんの肩をねぎらうように叩いた。任せられた泉くんは不服なようで、「天辰(あまたつ)が勉強会しようって言うたのに」と愚痴っている。そんな泉くんも、かろうじて課題を進めてはいたけど、さっきから視線がチラチラと陽のスマホへと移ろっていた。陽と連絡を取っているのが誰なのか、気になるのかもしれない。俺も気になる。陽にしては長続きしている例の彼女なのか?
「そーいや想ちゃん、今日はお母さんたち留守なの? もう俺ら何時間かいるけど帰ってこないね」
 俺が陽に彼女について聞こうとした瞬間、陽から逆にそんなことを聞かれてしまった。そういや説明してなかったっけ。
「ああ、今日から明日まで旅行でいないんだ」
「じゃあ想ちゃんひとりでお留守番なの!? 不安~」
「失礼な。今晩は豊騎もうちに泊まるし大丈夫だっての」
 俺がそう言うと、陽は「え!」と小さく叫んでから、ニヤニヤしながら豊騎を叩き起こした。豊騎は「フガッ!?」と奇妙な声を上げて飛び起きる。まぶたが半分しか開いていない顔だ。
「え~じゃあ今夜は想ちゃんとあっくん、2人っきりなのお? キャッ」
「何が『キャッ』だよ」
「ドッキドキだねっ!」
 同意を求めるように、陽は豊騎の顔を覗き込む。寝ているところを起こされて不機嫌マックスな豊騎は、陽の顔を片手で横に押しのけた。その押しのけられた陽を、泉くんが回収する。さっきからせわしなくテーブルの周りをぐるぐる動いていた陽は、元の座り場所へぬいぐるみみたいに置かれた。
「ひな、もうジブン黙っとき」
「えーん、怒られたあ」
 陽が嘘泣きをし始めたところで、もう集中力が持ちそうにないと今日はギブアップすることにした。元より成績優秀者が泉くんしかいない俺たちのグループが、1日ぽっきりで夏休みの課題を終えられるわけがなかった。悲しい現実と向き合うことにした俺は、テキストを横にのけていそいそとゲーム機を取り出した。
「1階でスマブラでもやろうぜ」
 ああ、これこそ男子高校生が送るべき正しい夏休みの風景だよな。勉強、の二文字を脳内から追放し、俺たちは夜までゲームに明け暮れたのだった……。

 ***

 陽と泉くんが帰った後、我が家には俺と豊騎だけが取り残された。ちなみに豊騎は明後日までアルバイトを休んだらしいので、両親が旅行から帰ってくるまで言葉通り「2人きり」というわけだ。
 豊騎が1階で散らかしたリビングの掃除をしているうちに、俺は自分の部屋のベッドの隣に、敷布団を敷いた。
「豊騎、布団敷いといたから。お前も風呂入れよー」
「ああ」
 階下から響く豊騎の返事を聞きながら、なんだか浮足立つような、そわそわした気持ちになる。意識しなきゃいいのに、今朝見てしまった豊騎の裸を思い出す。張りのある筋肉。俺とは違って労働によって鍛え上げられた身体だ。正直、かっこいいと思ってしまったことは否定出来ない。しかも、見ただけでなくアクシデントで触れてしまったのがいけなかった。豊騎の体温まで思い出してしまう。
「うわ、やめろやめろやめろ」
 いくら仲の良い友達だからって、裸を見せられたらそりゃ意識するよな。俺がおかしいわけじゃないよな。そもそも、あいつは俺の母親のことが好きなヤバイ性癖持ちの男なわけで……。
 思考が迷走し始めたところで、ふと下半身に違和感を覚えた。なんだ? と思って下を向く。
「……ヒッ……!」
 悲鳴を上げそうになって、慌てて己の口を両手で抑えた。ありえない。信じたくない。俺はショックのあまりガタガタと震え出した。そんなはずないよな。そうだよな。見間違えの可能性に賭けて、もう一度俺は自分の身体を見下ろす――だけど、現実は時に残酷だ。俺の大切な()()は、元気に起き上がっていた。
「なんでだよおおおおお」
 ベッドに突っ伏して、涙した。こうなる直前に豊騎の裸を思い描いていたのだから、もう言い訳のしようもない。俺は、親友の裸に劣情を抱いてしまったケダモノなんだ。えぐえぐと泣きながらも、未だに萎えない分身を悲しく見下ろした。
 最近、ちゃんと抜けてなかったせいで性欲の対象がバグったのかも。かすかな希望に縋って、いつも使っていた秘蔵本を取り出そうとベッドの下に手を伸ばした、その時。前触れもなく部屋の扉が開いた。
「……ッ、うわあ!」
「あ? 変な体勢で何しとんねん」
 ベッドの上で海老反りをするという、奇天烈な行動を取った俺を見て、豊騎が呆れたように言い捨てた。俺がこの部屋で悶々としている間に、シャワーを浴びて戻ってきたようだ。くそくそくそ。豊騎のやつ、足音立ててこいよ。お前は忍者か。
 急な海老反りのせいで、腰が痛かった。濡れた髪の毛をタオルでガシガシと拭いている豊騎を、俺は恨みを込めて睨みつける。すると、俺の視線を受けて何かに気づいたかのように、豊騎はニヤリと片方の口角だけを上げて、笑った。
「もしかして想……エロ本でも読んでた?」
 ギクッ。図星を突かれて、俺は固まる。こういう時、嘘が上手くつけない自分の性格に嫌気がさす。何も言い返せない俺を見た豊騎は、笑顔のままゆっくりとこっちへ歩いてくる。
「な、なんだよ。こっち来るなって……!」
 濡れ髪のイケメンが迫ってくるんですけど。こういうとあたかも少女漫画のあらすじみたいだったけど、俺にとってこれは危機的状況だった。特にマイ・サンが。まだ完全には萎えていない息子が反応しませんように、と俺は半泣きで祈っていた。何か萎えるものを考えないと。俺は母親の顔を思い浮かべる。うん、いい感じに賢者モードになってきたぞ。
 ベッドの上に座っていた俺に近づいてきた豊騎は、そのまま俺を覆うような形でベッドに両手をついた。豊騎と接触するのを避けたせいで、俺の身体はベッドの上へ完全に倒れる。つまり、はたから見たら豊騎が俺をベッドの上に押し倒したような図が出来上がっていた。
 頑張って萎えさせようと努力していたのに。もうおしまいだ。
「……は、離れろって。何ふざけてんだよ……」
 消え入りそうな俺の声。豊騎の顔が至近距離にあるせいで、まともに前を見られない。少し視線を下げているから、豊騎の着ているTシャツの柄しか目に入らなかった。でも、まだ豊騎が服を着ていてくれてマシだったかも。今朝みたいに着ていなかったら、と思うとゾッとする。裸の豊騎に押し倒された俺が、性欲を爆発させて豊騎に襲い掛かる様子を妄想した。うわあ、と声が出そうになる。そうなったら俺はもう学校に行けなくなるだろうな。そんなことを延々と考えていたら、豊騎がクスリと笑った。
「なーにひとりで百面相してんだよ」
 豊騎はそう言って、俺の頬を片手で軽くつまんだ。本当に軽くだったので、痛くもなんともない。豊騎らしからぬ態度に、唖然とする。これじゃまるで、恋人を揶揄うみたいな態度だ。え、俺、豊騎の恋人だったっけ? んなわけない。豊騎は俺の母親が好きなんだし。
「お、おお、お前、こういうのは久美子にしろよ。あ、いや、それもマズイか」
 混乱してきた。豊騎は動揺しまくる俺のことなんかまるで気にしないようで、子猫でも可愛がるみたいに俺の頭や頬を撫でている。
 まさか、本当に豊騎の性癖は「人妻の息子」になってしまったんじゃないだろうな。新たな疑惑が生まれたところで、豊騎が耳元で囁いた。 
「想、お前……とんでもない勘違いしてるってこと気づいてる?」
「ななな、何の話でしゅか……」
 もう呂律も回らなくて、盛大に舌を噛む。ドキドキしまくる俺をよそに、依然としてニヤニヤした笑みを浮かべている豊騎。俺の問いには答えず、更に顔を近づけてくる。キスの射程距離だ。逃げなきゃ、と思うのに、俺は豊騎の唇から目が離せない。あと5センチ。あと3センチ。あと1センチ……そして、豊騎の下唇の一部分が、俺の唇にほんの少しだけ触れた瞬間。豊騎はサッとベッドの下に手を伸ばした。
「ふーん、こういうのが好きなんだ」
 豊騎が手に取り、日の下にさらされた俺の秘蔵本――それは、クーデレ系キャラがヒロインの漫画だった。一応、全年齢もの。
「あー! 俺のお宝が!」
 取り返そうと手を伸ばしたが、豊騎は俺を羽交い締めにして、そのままの体勢で本を開いた。
「……ええと、なになに。『君ってほんとに馬鹿だよね。私にいいようにされて、喜んでるなんて』」
「いやあああ、脳が破壊されるうううううう!!」
「ハハハ! おもしれー」
 俺はその晩、豊騎に抱き締められたまま、オカズにしていた漫画本を朗読されるという拷問を受け続けたのだった。