黒歴史は、我に返った時点で人目につかないようゴミとして捨てるなり、山奥へ埋めてくるなり、迅速に処分しておくのがいい。今回、俺はそのことを学んだ。でも学んだところで、今置かれている危機的状況からは逃げられそうにない。俺、終了のお知らせ。
 まだ梅雨の時期だというのに、悪寒がして全身が震えた。
「どうしちゃったの、(そう)ちゃん……」
 俺の母親――天辰久美子(あまたつくみこ)が悲しそうな顔をして、床に正座している俺を見下ろした。ここ、俺の自室の床にはたくさんの漫画やらイラストやらが散らばっている。すべて人妻ものだ。
 これは違うんだ。そう言い訳をしようとしても、すぐ隣には「ドキッ! 人妻だらけの夜」なんてタイトルのいかがわしい漫画本が転がっている。何を言っても無駄かもしれない。俺が母親の立場だったとしたら、何を弁明しようが信じないだろう。だって説得力ゼロだ。どう見ても性癖が人妻な男子高校生だ。
「ちょっとエッチな漫画を読むことくらい、お母さんも止めないのよ。想ちゃんくらいの年頃の男の子なら当たり前にあることだからね。でも、人妻に執着するのはお母さんよくないと思うなあ」
 俺の処分をどうするか決めかねて困ったように、母親は頭を傾げた。彼女の中では、息子は人妻に執着しているヤバイ男子高校生らしい。絶望で吐きそうになる。
「ち、違うんだ。これには訳があって……」と勇気を出して言ってみたけど、久美子はよく聞きもしないで「私の手には余るわあ。男同士の話し合いが必要かな。パパにも話しておくね」なんて恐ろしいことを言い出した。
「うわああああ! 嫌だ! こんな議題で家族会議開くなんて」
「家族会議も久しぶりねえ。想ちゃんが勝手に金髪にしちゃった中学2年生の時以来かしら? 楽しみ♪」
「いやあああああ!!」
 母親の言葉によって本物の黒歴史を思い出させられてしまった俺は、古傷が痛み出した為に絶叫した。
「パパ、明日の朝には出張から帰ってくるから。明日は早起きしてね!」
 母親はニコッと花が舞うような笑顔を見せる。明日の朝、どんな辱めを受けることになるのか。父親の反応を想像して思わず身を震わせた。
 これも全部、豊騎(あつき)のせいだ。

 ***

「ママから聞いたぞ……なんだ。その、あー。『人妻』がいたく好きらしいな?」
「うっ……」
 翌日の朝。父親が帰ってくる前に登校すればいいんだと気づいた俺は、いそいそと朝早くから身支度をしていた。が、タイミング悪く、俺が家を出る前に父親が帰ってきてしまったのだ。間に合わなかった、と俺は心で泣いた。
延彦(のぶひこ)さん、あんまり責めちゃダメよ。傷ついたら想ちゃんの性癖、もっと歪んじゃうかも」
「む、それはまずいな……」
 朝っぱらからこんな会話を聞かされている息子の身にもなってくれ。そう叫びたかったけど、仕方なく黙っていた。今はそれよりも、両親に植え付けられた俺の性癖に関する誤解を解かなければいけない。
「想。何かきっかけとか、嫌なことでもあったのか? うん?」
 変な気を遣わないでくれえええ! 
 恥ずかしさのあまり脳内でひとり悶えながら、早口でまくし立てた。
「あの大量の漫画は、俺じゃなくて友達のために集めてたんだ。友達が人妻を好きになっちゃって! 止めてやるべきなのかもしれないけど、友達の初恋を止める権利は俺にはないと思って。どうしても応援したいんだ! わかってくれよ、父さん……母さん……!」
 めったに呼ばない父さん、母さん呼びをして同情を誘う。最初から羞恥心のせいで涙目だったから、あたかも友達のためを思って泣いている健気な子供に見えているはずだ。いや、そうであれ。俺はもう祈るしかなくて、「涙よ、いでよ!」と心の中で唱えた。
「想ちゃんったら、なんて友達思いのいい子なの……!」
「ううっ、ママの教育の賜物(たまもの)だなあ」
 幸い、うちの両親はおつむの出来があまりよろしくないので、俺の涙ながらの説明に感極まってくれたらしい。母親も、父親も、ぶわあっと大粒の涙を流し始める。本当のことしか話していないし、俺の性癖は別に人妻じゃない。だからやましく思う必要はないんだけど、なんだかこの人たちの遺伝子を受け継いでいる自分のことがちょっと心配になった。
 3人でわんわんと泣いていると、ガチャリと物音がして玄関の扉が開く。うちの朝食を食べに豊騎(あつき)がやって来たのだ。
「なんだこの状況は」
 入ってくるなり、豊騎は唖然としたように言った。
 俺は全力で叫んだ。
「お前のせいだよおおお!!」
「責任転換すんなや!」
 負けじと言い返してくる豊騎。なんのこっちゃわからないはずなのに、自信満々に言い返すのは、さすが天下の豊騎様だ。
 ギン、と睨み対峙し合う、俺と豊騎。
 その時、俺たちの睨み合いなどお構いなしに、久美子が涙を拭き「おはよう、豊騎くん。朝食準備するわね~」と平和な口調で言った。
「あ、そうそう。想ちゃんがね、こんなもの描いてて」
「アッ、なに渡してくれてんの!? やめろ、読むなああああ」
 急いで止めたのもむなしく、俺の描いた同人誌は母親から豊騎の手に渡ってしまう。なんとか奪い返そうと豊騎の腕に飛びついたが、豊騎はサッと背伸びをして俺の届かない高さで同人誌を読み始めてしまった。悪夢だ。
「……なんだこれ。『男子高校生じゃ、ダメですか?』変なタイトル……うわ、キッツ」
「キッツとか言うな、失礼だろ! 作者の前だぞ!!」
 というか、その表紙にでっかく描かれてるの、お前がモデルだぞ! そう叫びたかったものの、なんとか堪えた。
 ――伊佐敷に読ませるのはやめておけ。あいつ、これを読んだら憤死しかねない
 この同人誌を読んだ泉くんの忠告を思い出す。俺、豊騎に殴られちゃうかも。怯えながら、同人誌を黙々と読んでいる豊騎の顔色を窺った。
「……まあ、人妻ものなのはキッツって感じだけど。悪くはないんじゃない? この主人公の友達とか、キャラデザ可愛いからコミケ? とかで結構売れるんじゃん」
 まさかの高評価。泉くんの忠告は一体なんだったんだよ。いつかの泉くんに文句を言いたくなったけど、いいか。というか、主人公の友達のキャラってつまり「俺」のキャラデザじゃねえか。気に入ってんじゃねえよ。
 魚の切り身に卵焼き、味噌汁。白米。食卓に並べられたザ・日本食な朝ごはんをウキウキで眺めては、さっそうと椅子に座る豊騎。俺は恐る恐る、豊騎に尋ねた。
「あー豊騎さん? 主人公の友達のキャラデザ、具体的にどんなとこがよかったですかね……?」
「そんなん、見たまんまだろ。笑顔が可愛くて馬鹿っぽいとこが好み」
 それだけ言うと、豊騎は「いただきます」とちゃんと両手を合わせてから朝食を食べ始めた。頭の中に大量のクエスチョンマークが出てきて混乱し出した、俺を残して。
 うん。つまりどういうことだ? 豊騎は俺そっくりに描いた俺がモデルのキャラの見た目が好きだという。恐らく俺が母親似の顔をしているから、俺の顔も好きという理論なんだろうけど、ちょっと屈折し過ぎなんじゃないか。そのうち「人妻好きはにわか。今は人妻の息子がキてる」とか言い出したらどうしよう。いつか来るかもしれない性癖がえらいことになった豊騎の姿を妄想して、俺は震えた。
「豊騎、お前……その歳で性癖エグ過ぎだろ。まだ間に合う。引き返せッ」
「ご両親の前で何アホなこというとんねん!」
 久しぶりに聞いた豊騎のエセ関西弁ツッコミ。最近は泉くんの手前、豊騎のやつ遠慮してたからなあ。ふふ、可愛いやつめ。そんな生暖かい気持ちが顔に出ていたのか、言い返しもせず黙って笑顔のまま味噌汁を啜り出した俺を、豊騎はまるで珍獣を見てるみたいな目で見ていた。
 いや、今日の家族会議は全部お前のせいだからね? そんな顔する資格、お前にはねえからな!