「ここ、三十三間堂にある千手観音立像は、現在1001体も配置されており――」
 引率の教師たちの説明を聞きながら、俺たちはずらりと並べられた仏像を目にしていた。荘厳な雰囲気に圧倒されている俺の横では、豊騎(あつき)が「集合体恐怖症だから……キッツイ、うっぷ」と口元を手で押さえている。観音様を見て吐き気を催すなんて、罰当たりなやつだ。そう呆れたものの、豊騎の顔色がどんどん青ざめていくのでさすがに心配になって、豊騎の背中をさすった。
「三十三間堂って十円玉の裏にあるやつだっけ?」
 (ひなた)がお寺の入り口で全員に配られたパンフレットを見ながら、聞いてくる。俺に聞くなよ。わかるわけない。俺と豊騎が黙りこくっていると、後ろにいた泉くんが「あれは平等院鳳凰堂やろ」と答えを教えてくれた。
「……ちょっと物知ってるからって偉そうに」
 陽はまだ泉くんにイラついているようだ。嫌味っぽく文句を言っている。可哀想な泉くんは、すぐに口をつぐんで下を向いてしまった。すると、その様子を見ていた豊騎が陽を睨んだ。
「お前らがいくら喧嘩しようがしったこっちゃねえけどなあ、俺と想の修学旅行を台無しにしてる自覚はしとけよ」
 途端、俺たちの間にピリついた空気が走る。一種即発の気配。陽は豊騎を一瞥したかと思うと、何も言わずにお堂の外へと出ていってしまった。
「おい、ひな……!」
 泉くんがその後を追う。2人を放っておいたらとんでもない修羅場になりそうなので、俺も陽を追いかけて走った。豊騎もため息を吐いて、後ろから追いかけてくる。陽は俺たちが追いかけてきていることに気づくと、走るスピードを一段階上げた。三十三間堂の朱色の縁取りが見事な外観を横目に、ぐんぐんと駆けていく。
「陽のやつ、足速ぁ……」 
 すぐに追いかけ始めたのに、陽はもう三十三間堂の参拝入場口を通り抜けている。少し目を離しでもしたら、見失ってしまいそうだ。
「ひなは陸上やってたから、本気出したら速いんや」
 ぜえぜえと息を切らして泉くんが言う。俺と泉くんは運動が得意なほうじゃないから、ちょっと走っただけでもう息も絶え絶えだ。唯一、豊騎だけはまともに陽を追い続けていた。
 ホテル街を抜け、鴨川の橋のたもとまでたどり着くと、陽は川辺近くまで下りていく。川の目の前に下り立つと、ようやく陽は歩みを止めた。そのすぐ後ろに追いついた豊騎が立っている。
 そんな陽の姿を見て、水の中を沈んでいく陽という嫌な想像が脳内に浮かんだ。
「まさか陽のやつ、早まったりしないよな……?」
 ボソッと呟いた俺の言葉に、泉くんが息を呑む。そしてどこにそんな体力が余っていたのか、猛ダッシュして陽の元まで駆け寄って、陽の腕を掴んだ。
「ひな、俺が悪かった。俺が全部悪いから、死なんとくれ」
「は? 何言ってんの」
「え、だって入水しようとしてたんやないんか」
「俺がお前のために死ぬとでも思ってんの? いい加減に目え覚ませよ、俊喜(としき)」 
 陽はそう言うと、泉くんの手を振り払った。ナイフみたいに鋭い言葉だ。関係ない俺のほうが怖くて震えてしまう。豊騎は「あいつはまた……!」と語気を荒らげた。そのまま陽に殴りかかりにいきそうだったので、慌てて豊騎を羽交い絞めにして引き留めた。
 のどかな川の側、制服姿で騒いでいる俺たちはよっぽど異質だったみたいだ。通りがかるランニング中の男性や、散歩中の老夫婦、サイクリングしている通行人がみんなジロジロとこちらを見つめている。うう、視線が痛い。すみません、お騒がせして。謝って人の間を駆け回りたいところだったけど、陽と泉くんの会話はまだ終わっていなかった。
「……どうして俺のこと嫌いになってくれないんだよ。これ以上どう頑張ればいいっていうのさ」
 心底困ったように、陽は黄色い野草の上で頭を抱え、うずくまった。
「なんで俺に嫌われたいねんで。ゆうのためか」
「それもあるけど……俊喜には、俺の親父みたいになってほしくないんだ」
「親父さん? ずっと単身赴任しとんやないんか」
「違うよ。人刺して、ずっと刑務所にいる」
 ――それから語られた陽の父親の話は、俺たちを驚かせた。泉くんすら知らなかった、陽の家族の過去。
 陽の父親と母親、そしてもうひとりの男性は3人とも学生時代からの友達だったらしい。でも、陽の父親は親友だった男を裏切り、陽の母親を奪い取ったそうだ。そして、陽が生まれてから数年経ったある日、彼らの家を訪ねて来た親友だった男と陽の母親の仲を勘ぐった父親は、妻を奪われたくない一心で、男を刺したらしい。
「みんな大好きなまま、仲良しでいられたらいいのに。なんで好きって気持ちには順位がついちゃうんだろ」
 陽は手の甲で顔を覆い、川原へ寝ころんだ。声が少し震えている。もしかしたら、泣いているのかもしれない。そんな陽の隣に、泉くんが腰を下ろした。
「……ひなの気持ちはよく分かった。けどな、俺もひなのこと嫌いにはなられへんねや」
 泉くんが、落ち着いた声で話す。衝撃的な話を聞かされて動揺していないわけはないと思うけど、自分に落ち度があって嫌われたわけではないことがわかって、逆に元気を取り戻したみたいだ。いつもは厳しい目つきを和らげて、優しい表情で陽を見つめている。
「これからもひなを好きでいることくらい、許してくれへんか」
 そんな泉くんの願いを聞いても、陽はしばらく無言だった。俺が内心「これを断ったらぜってえ殴る」と思っていると、手で顔を隠したまま、陽が呟いた。
「狂わないで誰も傷つけずにいられるなら、いいよ。好きでいても。その代わり、俺と同じくらいゆうちゃんにも優しくして。それが出来ないならこの話はなしにすっから」
 そう言うと、陽は起き上がる。意外にも、その瞳に涙は浮かんでいなかった。泉くんは陽を見て、「わかった」と頷く。
 一件落着、なのか。
「陽なりに守ろうとしてたんだね、きっと」
 陽に飛び掛かりそうだった豊騎の腕を離してそう言うと、疲れたように豊騎は「ああ」と相槌を打つ。
「にしても、修学旅行で騒ぎ過ぎなんだよボケが! 先生になんて説明すんだよ」
「うわあ、あっくんこわ~」
 陽に向かって拳を振り上げる豊騎を見て、陽はそそくさと泉くんの後ろに隠れる。すっかりいつもの調子に戻った陽を見て、笑う。
 その後、団体行動中に勝手に抜け出したせいで俺たちは花形先生にみっちりと説教をされたけど、陽と泉くんが仲直り出来たのでよしとしよう。

 ***

 早朝出発に加えて陽たちのせいで全力疾走もさせられた俺たちは、京都駅近くの旅館に到着する頃にはもうくたくたに疲れ切っていた。夕食に出されたすき焼き鍋は美味しかったけど、ご飯も食べてしまったからか疲労に加えて眠気も襲ってきた。
「伊佐敷たち、風呂の順番回ってきたぞー」
 隣の部屋の班のやつらから声をかけられる。かろうじてまだ体力がある豊騎が「わかった」と返事をしたものの、俺や泉くんなんかは部屋のテーブルに突っ伏して潰れていた。
「想ちゃん、風呂行こーよ。ここの大浴場、マイクロバブルの湯とやらがあるって!」
「うええ……俺はいいや。部屋のシャワー使う……」
「ええー、もったいない! 何のための旅行だよお」
 陽は俺の肩を掴んでぶんぶんと揺さぶったが、大浴場に行くわけにはいかなかった。だって豊騎も一緒だから。俺は自分のリトル・サンを信用していない。大浴場で万が一にもおかしな気を起こしてしまったら、笑い話では済まされないだろう。
「……俺は夜中にひとりで入る」
 泉くんも俺と似たような事情持ちなのか、陽を垣間見てから不自然に俯いた。そんな泉くんと俺を見た陽は、羽虫を見かけたかのように口をひん曲げた。
「意識し過ぎはキモイって。ま、いいや。じゃーあっくん行こうぜ」
「伊佐敷と行くのか」
 泉くんはチラッと豊騎を意味深な目で見上げてから、陽にまたしても虫を見るような顔を向けられていることに気づいて、慌てて言い訳をし始めた。
「だ、だってひな、俺と簡単に関係を持ったから、その、ほかのやつともしとるんやないかって考え出したら止まらなくて」
「キッショいな〜」
 陽は泉くんの言い分を聞き、引き笑いしている。まあ、確かにキショいけどあまりにも辛辣だ。泉くんの陽への恋心は年季が入ってるから、そのぶん拗れに拗れてるんだろうに。
「……だって、ひないっつもゆうと距離近いやん。付き合うてた時期もあったし。他にも彼女ぎょうさんおったし……」
 ゆうちゃんとも身体の関係があったんじゃないかと、前から気にしていたらしい泉くんは、完全に病みモードに入ってぶつぶつとそんなことを唱え始めた。
「ゆうちゃんとは友達だからしないよ」
「じゃあ俺は?」
「とっしーは……」
 そこまで言いかけて、黙り込む陽。そして、気になる答えを言わないまま「……んじゃっ、また後でねん」と豊騎を連れて部屋を出て行ってしまった。
 がっくりと机の上に倒れる、泉くん。哀れになったので、部屋に置いてあったインスタントのお茶を淹れて、泉くんに差し出した。
 頑張れ、泉くん。俺は応援してるからな……!

 ***

「……あれ、どうやって着るんだこれ」
 部屋のシャワーを浴びてから、備え付けられていた旅館の浴衣を着ようと格闘する。でも、着付けの方法なんて俺が知るはずもない。結局、それはもうぐちゃぐちゃの酷い有様になった。脱げなければいいだろ、と帯をきつく縛って無理矢理に服の体裁を整える。
「ふぃ~、いいお湯だったあ……って想ちゃん、何それは。ウケ狙い?」
 ちょうど大浴場から戻ってきたらしい陽が、俺の姿を目にするなり幼い弟にうんざりしたような顔をして言った。着方が間違っているのは自分でもわかっていたので「やっぱおかしいか」と聞くと、陽は「左前になってるし。それじゃ死装束だよー」と言い、やれやれと頭を横に振った。
「久美子さんはお前を甘やかし過ぎてるよな」
 そう言って、陽の後ろから部屋に入ってきた豊騎は、俺と同じ旅館の浴衣と羽織ものを着ているというのに、顔がいいせいなのか輝いて見える。なんだか浴衣までお高い服に見えてきた。俺が目をこすって幻覚じゃないよな、と確認しつつその姿を凝視していると、豊騎が俺の浴衣の中に手を突っ込み。脱がし始めた。
「ちょっ、お、お前何してんだ」
「何って、着付け直してる」
 豊騎は平然と言い放つと、はだけさせた浴衣を恐らく正しい手順であろうやりかたで、俺の身体に巻き付けた。俺は豊騎の身体を見たり触れたりするだけで危機的状況に陥るというのに、豊騎は平気な様子なのが、無性に腹立たしい。ムカついたので、豊騎の浴衣の帯を解いてやった。せっかく綺麗に整えられていた豊騎の浴衣が、はらりと裾から崩れていく。
 怒るかな、とちょっと心配になりながら視線を上げると、豊騎は何故か「くっ」と含み笑いをしている。笑い声は出していないけど、身体が震えるくらい笑っていた。
「……ガキかよ。それとも、誘ってる?」
「ハアッ!? んなわけねえだろ!」
「あっそ。浴衣、似合ってる。可愛い」
「急になんだお前」
「思ってたけど言わなかっただけ」
 平然と言って、豊騎は俺の頬に手を添えた。なんだこの手は。パチンと豊騎の手を払いのける。またこいつは友達の目の前で不埒な真似をするつもりかよ、と焦って部屋を見渡した。が、そこにいたはずの陽と泉くんの姿はなかった。あれ、どこ行った。
「陽と泉ならとっくに出てったけど」
 豊騎はそう言いながら、俺が崩した浴衣を着直している。そして部屋の奥へと歩いていき、窓枠にもたれかかった。浴衣を着ているのも相まって、どこかの雑誌の表紙でも飾っていそうな光景だ。うっかり、俺はそのまましばらく豊騎に見とれた。「お前ってほんと俺の顔好きだな」と笑い声が聞こえてきて、意識が現実に戻る。
「ま、俺もお前の顔、好きだけど」
 そんな呟きを残して、窓の外をぼんやりと眺め出す豊騎。今の言葉は聞き流せない。俺は前からはらせていなかったひとつの疑問をぶつけることにした。豊騎の元へ駆け寄る。
「顔が好きって言ってるけどさあ。本ッ当に、久美子のこと好きなわけじゃないんだよな?」
「ちげえよ。俺、男しか好きになれねーし」
「ふーん」
 さらりと豊騎からカミングアウトをされたけど、豊騎がゲイだろうがバイだろうが、正直どっちでもいい。目下の心配事は、俺の母親である久美子を好きかどうか、だったから。
 これで正真正銘、俺の親友は俺の母親を別に好きでもないらしい、と言える。安心しきっていた俺は、すぐ側に豊騎がいることを失念していた。
「おい、想。ようやく念願の2人きりだぞ。今」
 あ、本当だ。と思った瞬間、身体が引き寄せられ、豊騎の影が俺の影と重なった。柔らかい唇の感触と、嗅ぎ慣れないシャンプーの香りがする。たぶん、旅館に備え付けのものを使ったからだろう。
 豊騎は唇を離すと、まるで「来いよ」と言ってるみたいに両手を広げる。俺は迷いなくその腕の中に飛び込んだ。