「神様、仏様、泉様~! 俺たちに勉強を教えてください」
 放課後の自転車置き場で、俺は恥も外聞もかなぐり捨てて嫌がる泉くんに縋りついていた。泉くんはズレてしまった眼鏡の縁を抑えながら「中間から頑張らへんかったジブンが悪いやろ……」と呆れている。
 期末テストを明日に控えた俺は、中間テストの点数が悪かった為に久美子から「次は許さないわよ♪」なんて軽く脅され、焦りに焦っていた。このままではただでさえ少ないお小遣いが減らされちまう。そして焦っているのは俺だけではなかった。豊騎も、だ。
 近頃、豊騎(あつき)の周りは更に騒がしくなった。カフェバイトで意図せずに獲得してしまった追っかけファンだけでなく、そこに自称・豊騎の婚約者――西園寺姫花(さいおんじひめか)まで加わったせいだ。西園寺さんはカフェで働いていた豊騎の目の前に突然現れたかと思えば、それからほぼ毎日というもの、俺たちの前に姿を現すようになっていた。
 せっかく夜勤のコンビニバイトを辞めて、授業中に居眠りせずに済みそうだったというのに、結局厄介なファンと婚約者(?)と毎日のように騒動を起こすせいで、未だに豊騎は学校の教師陣から「問題のある生徒」扱いをされている。これでテストの点数まで悪ければ、内申点も当然大幅に下がるだろう。つまり奨学金制度を利用して大学に進む道が閉ざされてしまう。志信さんに援助を求めればいいとは思うが、恐らく豊騎はそれを望んでいないんだろう。
 かくして、中間テストの結果がヤバ過ぎた俺、生活態度で注意されまくって教師にマークされている豊騎、赤点スレスレ常習犯の(ひなた)による「泉くん囲い込み作戦」が決行されることになったのだった。
 縋りつく俺を払いのけ、泉くんは「今日は寄り道せんと帰る!」と駅のほうへと歩き出そうとした。そうはさせるかと、俺と豊騎の2人がかりで泉くんの腕を掴み、全力で引き留める。
「はーい、とっしーは俺の後ろに乗ってねん」
 捕らえた泉くんを、陽が俺の自転車の後ろへ乗せる。俺は自分の自転車の鍵を陽に投げて、アシストした。パッと鍵を受け取った陽は即座に鍵を開けて、自転車を漕ぎ出す。俺は豊騎の自転車の後ろに飛び乗り、急いで陽と泉くんたちを追う。
「ジブンら、これは立派な誘拐やからなああああ!?」
 猛スピードでペダルを漕ぐ陽の後ろで、泉くんが向かい風に吹き飛ばされそうになりながら叫んだ。

 ***

 泉くんを誘拐して勉強会の会場である俺の家に連れて来たものの、家の前には先客がいた。
「ごきげんよう、伊佐敷(いさしき)くん」
 西園寺さんは笑顔でそう言うと、豊騎に向けて手を振った。手の振りかたもなんだかお上品だ。西園寺さんと同じ女子高に通っている(ひなた)と泉くんの幼馴染であるゆうちゃんから、「西園寺さんはお嬢様が多い学校の中でも別格の人。大手百貨店オーナーの孫娘らしい」という噂話を聞かされたばかりなので、なんだか普段の振る舞いも納得してしまう。どう見てもその辺の一般人とは違うもんな。というか、なんでうちの玄関前で仁王立ちしてるの、この人?
「伊佐敷くん、そろそろ私と婚約する気になったかしら」
 西園寺さんは俺や陽、泉くんは全く目に入らないようで、豊騎だけを見据えて言う。陽が未練がましく「あのー、俺っちたちのこと見えてます? おーい」と西園寺さんの目の前でぶんぶんと手を振ったが、西園寺さんはまばたきひとつすらしない。陽はしょんぼりと肩を落とす。まるで尻尾が垂れた犬みたいだ。
「……(そう)、警察に通報しろ」
「え、通報?」
 豊騎の言葉に驚いて聞き返すと、豊騎はズビシッと西園寺さんに人差し指を突き付けて、叫んだ。
「何度も断ったのに聞きやしねえ。恋人がいるって言ってもしつこく追いかけ回してくる。お前は立派なストーカーだよ」
「ストーカーだなんて、私は婚約者よ」
「そんなに綾小路家との繋がりがほしいのか? 西園寺家も堕ちたもんだなあオイ」
「……なんですって」
「お前らにどんな思惑があろうと知らねえけど。今の綾小路家、お宅との婚約なんてしてられる状態じゃねえぞ」
 豊騎の言葉を聞いて西園寺さんはハッと顔色を変える。そして「山本!」とすぐそばに待機していた運転手を呼びつけ、家の前に停車していたどでかいリムジンに乗り込んだかと思ったら、走り去っていってしまった。嵐みたいな人だ。
「てか、綾小路家とやらとどういう関係なんだよ」
 気になってはいたものの聞けていなかったこと。豊騎を見上げて尋ねると、短く「父親の家」と答えが返ってくる。父親、というと豊騎が生まれても認知せずに豊騎の母親ともども見捨てたクソ親父(志信さん談)のことか。つまり見たこともない豊騎の親父が、知らぬ間に豊騎に接触していた、ということだよな。
「綾小路と西園寺の家のやつらに何を言われても、お前に手出しはさせねえから」
 俺が豊騎の父親について考えていると、豊騎が俺の肩を掴んでそんなことを言い出す。陽が「キャッ、あっくんかっこいい~」と囃し立てているが、「え、お、俺え?」と、俺はうろたえることしか出来ない。
 ――俺が好きなのは想だけだから
 先日、豊騎から言われた言葉も思い出してしまい、顔がカアッと熱くなる。ヤバイ。今、俺の顔めちゃくちゃ真っ赤になってる気がする。
「……は、早く勉強はじめよーぜっ! 久美子、ただいまあ」
 豊騎の顔をまともに見られなくて、もうあの空気の中にいるのが耐えられなくて、俺はそそくさと玄関を開けてその場から逃げた。この時ばかりは期末テストが近くて本当によかったと思った。

 ***

「――この文章はSVOCの第5文型。でもここにto不定詞があるやろ? せやさかいこのtakeは過去形にならへん」
「はあ、なるほどなるほど」
「……ほんまに理解できたんか?」
「うん!」
「ほんまかいな」
 泉くんに逐一説明してもらいながら、英語の問題集を解き進めていく。俺たちはそれぞれの目標――俺と陽は赤点回避、豊騎は奨学金を狙える程度の内申点――を目指して、教科書との睨めっこを続けていた。そもそも前日じゃなく、もっと前から焦っとけよっていう話なんだけど。泉くんなんて1か月も前から毎日予習復習を欠かさなかったらしい。さすが、成績優秀者だ。
「想ちゃんたち~、頑張ってる? お菓子食べてねえ」
 扉のノックもせず、母親が部屋に入って来る。そんな俺の母親を見て陽は何を思ったのか、ニヤリと笑うと「久美子さーん、最近あっくんに変なストーカーがついてるの、知ってましたあ?」なんてことを言い始めた。
「ええっ、ストーカー!? 大丈夫なの、豊騎くん」
「なんかあ、『自分は婚約者だ!』って言い張ってる女の子でしたよー。もっと想ちゃんがしっかり捕まえとかないと。あっくんあの子に取られちゃいますよー」
「あらやだあ、想ちゃん大変っ!」
 案の定、久美子が騒ぎ出したので、俺は陽に「何言ってんだよ」と言い、その頭にチョップをお見舞いした。
「久美子、こいつの言うことは真に受けんなよ」
 母親がこれ以上騒がないように釘を刺しておく。久美子は不満そうに「でも婚約者って、ねえ……?」と呟き、豊騎の顔をチラリと見た。視線を受けた豊騎は、何故か俺のほうに向き直る。
「この前から気になってんだけどさ。想は俺があの女と婚約してもいいって思ってんのか?」
 突然どうした。豊騎はいつになく真剣な目をしてこちらを見つめている。緊張して、思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。
「はあ? そ、そりゃ嫌だけど」
「なんで」
「え?」
「なんで嫌なのか答えを述べよ。はい5秒前ー、4、3、2……」
 豊騎は突然、カウントダウンを始める。助けを求めて周りの面々の顔を見上げたけど、陽も泉くんも久美子もあんぐりと口を開けているだけで、役に立ちそうにない。どうしよう。
「え、ええっと、えっと、西園寺さんと婚約しちゃったら、俺たちと遊ぶ時間が減るし、それに、えーっと」
「……はい、時間切れ」
 豊騎がそう言った後、唇に何かがちゅっと音を立てて触れる。え、なに今の? パチパチとまばたきをしてから、自分の置かれている状況を確認する。目と鼻の先に、豊騎の顔。触れている、ふたつの唇。あ、これ豊騎の唇だ。
「んんん〜!?」
 ファーストキスを豊騎に奪われたことを理解して、俺は絶叫した。が、唇は豊騎によって塞がれていたので声にならない。視界の隅で口元を手で押さえて驚きを示している久美子の姿が見えた。息子の危機なのに助ける気配すらない。泉くんは自分が今見たものが信じられないとでも言いたげに、眼鏡を外して裸眼で俺たちをまじまじと見つめている。こんな時に冷やかしてきそうな陽は、逆に「うわあ……」とドン引きしていた。なんでだよ。引いてんじゃねえよ。
 俺の口にキスをしやがった豊騎は、した時と同様に離す時も唐突に唇を離した。たぶん時間は1分くらいのもんだったとは思うが、俺には永遠にも感じられた世界で1番長い1分だった。豊騎は周りに陽たちがいることも気にしていないのか、俺の顔を両手で包み込んだ。目を逸らしたくても、強制的に豊騎の顔を見つめてしまう。至近距離だから瞳の中までよく見える。豊騎の黒目の中に、顔を真っ赤にした俺の間抜けな顔が映っていた。
「他の女と婚約してほしくないのは、俺のことが好きだからだろ?」
「あ、あわわ、あわわわわわわ」
「バグってんじゃねえよ。ちょっとは慣れろ」
「な、何に」
「こういう雰囲気に、だよアホ」
 そう言うなり、また豊騎の顔が近づいてくる。この距離で見てもやっぱりイケメンなんだよなとか、睫毛の影が肌に落ちている様を眺めていたら、口元にふにっと柔らかい感触があった。
 ふわふわとしていて実感のこもっていなかった感情が、次第に輪郭を帯びてくる。2回もキスしてくるなんて、冗談でもフリでもなく、本当に豊騎は俺のことが好きなのか。問いただしてやりたくて、見開いたままだった目のピントを豊騎に合わせる。
 視線が絡み合うと、今度はただのキスでは終わらなかった。ぬるり、と口の中に舌が這いずり回る。ついうっかり、呻き声が漏れた。
「わあーお」「す、すげえ」「豊騎くんったら、情熱的ね!」とオーディエンスの声が聞こえてくる。そうだった。みんなに見られてるんだった。急激に羞恥心に襲われて、豊騎の胸を拳で叩きまくった。それなのに豊騎は気にせずキスを続けている。くそ、酸欠になるだろうが。それにこの調子でキスされていたら、俺の分身が目覚めちまう……!
 俺が意識を飛ばしそうになった瞬間、陽によって豊騎の身体が引き剥がされた。
「はいはーい、あっくん落ち着け~? みんな見てること忘れんなよ。てか耐性ないのにそんながっつかれたら想ちゃん倒れちゃうぞ」
 陽は幼い弟を叱るお兄ちゃん、みたいな口調で豊騎を叱った。助かった。今ばかりは陽に後光が差しているように見える。ありがとう、陽。お前は俺の命と尊厳の恩人だ。
 豊騎は少しむくれた顔をして、陽をうざったそうに見下ろした。そして、ふっとこちらを目で射貫くように見つめて、言った。
「想。俺のことが好きだよな?」
「ふぁ、ふぁい」
 さっきの熱烈キッスの余韻でへろへろな俺は、涙目のまま頷くしかなかった。こんなの、告白のカツアゲだろ。どうやら両想いらしい、なんて嬉しい気持ちより、疲労感のほうが勝っていた。豊騎のせいだ。