豊騎(あつき)が風邪をひいたらしい。最近、前にも増してコンビニの夜勤バイトのシフトを入れまくり、睡眠を犠牲にして働き過ぎていたからだという。今日が日曜日でよかった。じゃなかったら、また学校の教師陣から説教されるところだったぞ、豊騎。豊騎はこのところ睡眠不足のせいで、ほとんどの授業で爆睡をかますという悪行をしでかし、教師から問題児としてマークされているのだ。
【久美子さんに風邪移すといけないから、今日はご飯食べに行けない。お前から久美子さんに謝っておいてくれ】
 そんな豊騎から送られてきたメッセージの文面を、俺はなんとも言えない気持ちで眺めた。この間の失恋疑惑は俺の勘違いだったし、豊騎は未だに俺の母親のことが好きなんだろう。「久美子さんに風邪移すといけないから」なんて、あいつも好きな人に対しては健気な姿勢を見せたりするんだな。
「久美子ー。今日豊騎来れないって。あいつの分の飯、作んなくていいから」
「えっ、どうして。豊騎くんどうしたの!?」
 1階で優雅にヨガをしている最中の母親に豊騎が来ないことを伝えると、両手を真横に伸ばし大きく開脚したポーズのまま、久美子が顔だけを勢いよくこちらをグリンッと振り返った。なんか新種の生き物みたいで、怖い。
「風邪ひいたってさ」
「あらまあっ、たいへーん! 想ちゃん、看病しに行ってあげなさい」
「なんで俺が。風邪移したら悪いからってうちに来ないのに、俺が行ったら本末転倒じゃん」
「何言ってんのっ、想ちゃんはお馬鹿さんだから風邪なんてひかないでしょ。ほら、作り置きのおかず持たしてあげるから行ってきなさい。あ、あとおでこ冷やすやつも必要よね」
 久美子は早口でまくし立てると、「ああ忙しいっ」と言いながらドタバタと足音を立て、キッチンへ走り去っていった。
 あれ、俺の聞き間違いかな。今、息子に向かって、あろうことかその生みの親である母親が「馬鹿」とか言っていたような気がするんだけど。まあ、事実だから俺に怒る権利もないか。ため息を吐いて、仕方なく豊騎の家に行くため自分の鞄を取りに2階へ上がる。そして豊騎へ【久美子が看病しに行けってうるせえから、これからそっち行く】とメッセージを送った。
 ああなってしまった久美子に歯向かっても無駄だということはよくわかっていたし、なんだかんだ言って、俺も豊騎のことが心配だった。

 ***

 豊騎の家は俺の家から徒歩で5分かかるか、かからないかくらい近くにある。久美子に持たされたタッパーとスポーツドリンク、冷却シートなどを手にしていくらか歩くと、すぐに豊騎の住むアパートの前に着いてしまった。部屋の入口にあるチャイムを鳴らして豊騎が出てくるのを待つ。が、シーンと静まり返るばかりで、部屋の中からは物音さえ聞こえてこない。
 まさか、中で倒れてるんじゃないだろうな。そう思って焦り、ガチャガチャと玄関のドアノブを引っ張ってみたが、開かない。施錠はしっかりしてあるみたいだ。スマホを取り出して豊騎に電話をかけつつ、どうにか中の様子を確かめようと、アパートの裏手に回った。今度は窓から侵入を試みる作戦だ。豊騎の部屋の窓に手をかける。お、窓は鍵が閉まっていない。不用心だけど、今は緊急事態なので好都合だ。すぐに窓を開け、窓枠に掴まり部屋の中へと入る。
「豊騎、大丈夫か!?」
 声をかけながら部屋の中を見渡した。相変わらず物が少ない部屋だ。豊騎はここを「基本、寝るだけの家だから」なんて言っていたけど、それは本当なんだろう。ぺらっぺらの薄い敷布団がひとつと、洗濯機、コンパクトサイズの冷蔵庫、それにテレビ。それくらいしかない部屋は、狭いワンルームなのにがらんとしていて、見ていて寂しさを感じさせた。というか学生なのに机も教科書類もないのは、まずいだろ。
「豊騎、どこだ?」
 てっきり布団で寝ているだろうと思ったのに、豊騎の姿は見えない。その時、何かがもぞりと動いた気がして、目を凝らして部屋の入口付近を見つめた。玄関の少し手前で、豊騎が倒れている。
「豊騎……! しっかりしろ!」
 慌てて豊騎の身体を抱き起こす。頬をペチペチと叩くと、豊騎は「んん……むにゃ、きりぼしだいこん……」と意味不明なことを口走っている。寝言だ。寝てんじゃねえよ。心配して損したわ。ぽいっと俺が豊騎の身体を床に放り捨てると、ゴンッ、と鈍い音を立てて豊騎が再び床に倒れ伏す。
「いってえな……」
「あ、起きた」
 今しがたの衝撃で目を覚ましたらしい豊騎は、俺を見上げて「あれ、いつ来たんだ?」と不思議そうな顔をした。「お前が眠りこけてた間だよ」と返して、俺は豊騎の額に手の甲を当てた。思ったより熱かったので驚く。
「……うわ、熱あんじゃねえかよ」
「そりゃ風邪ひいてるからな」
「病院は行ったのかよ。コロナの検査は」
「したした。陰性。風邪ですねーってよ」
「そっか。体温は何度だった?」
「38度」
「起きてる場合か! 寝ろ!!」
 そう言って、身体を起こそうとしていた豊騎の肩を押す。また床に転がる豊騎。「お前が起こしたんだろうが」と恨みがましい声が下から聞こえてきたけど、聞こえないふりをした。
 本当は豊騎に久美子からの差し入れを届けたら帰ろうと思っていた。でも、高熱を出している豊騎を放置するわけにもいかない。看病、するか。決心したので、転がっている豊騎の両足首を掴み、ずるずると布団が敷いてある場所まで運ぶ。「うおおお、病人の扱いじゃねえ……」と低い唸り声が聞こえてきたものの、また聞こえないふりをした。
「ほら、水分とれ。飲め飲め」
「そんな一気に飲めな、ゲホゲホ、お、溺れる……」
 久美子に持たされたペットボトルを豊騎の口元に注ぎ込む。豊騎は目を白黒させて暴れていたけど、まあ大丈夫だろう。よし、スポーツドリンクを飲ませたから水分補給はひとまずオッケー。次は、身体を温めないと、だ。
「そんな薄着だから風邪ひくんだ。ほら、着ろ着ろ」
「……あっっ、ついな……」
 クローゼットから適当に何着か服を取って来て、長袖シャツ1枚だった豊騎に次々と服を着せていく。フード付きパーカー2枚。Gジャン、皮ジャン、ダウンジャケットでフィニッシュ。これでもう寒くないはず。
「よしよし、じゃあ頭冷やすやつ貼っとくな」
「冷たッ、痛、冷た過ぎて痛い!?」
「……さっきからうるさいなあ。熱あるんだから大人しくしてろって。腹減ってんのか? ほら、食え食え」
 冷却シートを豊騎の額に貼ったら騒ぎ始めたので、久美子の作った卵粥(たまごがゆ)をスプーンで豊騎の口の中へ突っ込んだ。
「ん~~(熱い熱い熱い!)」
「上手いか? よし、もっと食え食え」
「……(終わった)」
 保温バッグに入れてきたから熱々ほかほか状態の粥を食べさせてやると、豊騎はたちまち静かになった。全部食べ終わったのを確認してから、持ってきたタッパーを水道で洗う。そして布巾で水気を取って、鞄の中に仕舞った。全て終えてから豊騎の様子を見に戻ると、豊騎はすやすやと寝息を立てて眠っていた。
 俺の看病のおかげだな。明日にはきっと元気になってるに違いない。我ながらグッジョブ、俺。手際のいい看病に自画自賛していると、スマホがぶるぶると震える。久美子から電話がかかってきた。
「あ、久美子? 豊騎なら今寝かせて飯食べさせた。もう帰るとこ」
「帰るって何を言ってるのよ想ちゃん! 豊騎くんひとり暮らしだし。今晩は想ちゃん、豊騎くんのおうちにお泊りして看病してあげなさい!」
「え、なんで俺がそこまですんの」
「いっつもお世話になってるでしょ!」
 久美子はそこまで言うと勝手に通話を切った。「ツー、ツー」という機械音がスマホから流れてくる。うちの母親、前から思ってはいたけど豊騎に甘過ぎるのでは。マジで久美子と豊騎、デキてんじゃないだろうな。そんなことになったら父親が泣くぞ。
 豊騎の家へ泊まれと母親に命令されてしまった以上、このまま帰ったらどんな文句を言われるかわかったもんじゃない。仕方ないので今晩はここに泊まるしかなかった。
「……俺が望んだんじゃないんだからな? 違うからな?」
 眠っている豊騎に念を押しておく。親友に下心を抱いていることは否定出来ないので、勝手にやましい気持ちになってしまう。おまけに、これからすることは余計に誤解を与えかねない行動だったから。
「ふ、風呂入れないからな。これは看病だから。俺だってやりたくねーんだぞ? 仕方なく、久美子に世話を頼まれたからするだけだからな? お、俺が触りたいからとかじゃ絶対ないからな」
 だって、高熱で汗をかいてるだろうし。汗かいたなら身体を拭かないと。ドキドキする己の心臓に嘘をつくように、俺は延々と豊騎の寝顔に向かって言い訳を続けた。
 豊騎を起こさないように、そうっと豊騎に着せたジャケットを1枚、また1枚と脱がしていく。なんでもないことなのに、熱にうなされた豊騎がたまに漏らす苦しそうな声や、汗の伝う首筋のせいで、嫌な緊張感があった。俺は下腹部の分身に「落ち着け落ち着け落ち着け」と魔法の呪文を唱え続けた。
 そうして、残るは最初に豊騎が着ていたシャツ1枚だけとなった。ゴクリと唾を飲み込む。この下は、裸だ。もう何回も見たことあるし、流石にもう驚かない、はず。俺の息子は相変わらず不穏なものの、意を決してシャツのボタンに手をかけた。白くて滑らかな肌が、眼下に広がる。思わず息を呑んだ。
「落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け!」
 下半身に嫌な力を感じたので、もう一度呪文を唱え、ボタンを3つ外したところで適当にタオルを突っ込んだ。こんな状態で汗が拭けてるのか疑問だけど、それどころではない。俺が大丈夫じゃない。必死になってガシガシとタオルを振り回したおかげで、俺の息子が完全にパワーを漲らせてしまう前に、なんとか汗を拭き終えることが出来た。ホッとして安堵のため息を吐いていると、眠っていた豊騎が顔を顰めだした。
「……ん……さむい……」
「え、わあッ!? 豊騎、離せ、今すぐ離せええええ!!」
 熱で朦朧としているらしい豊騎は、抱き枕か何かと間違えたのか、俺を抱き込むとそのまま眠り出してしまう。なんとか抜け出そうともがきにもがいてみたものの、がっちりとホールドされてしまっていて、豊騎の腕からは逃げられなかった。馬鹿力め。
「離してくれ、頼むから」
「……すー、すー……」
「いやあああああっ!!」
 豊騎の体温が背中から伝わってくるだけでもやばいというのに、今度は豊騎の寝息が俺の首筋に当たった。悲鳴を上げて暴れたのに、豊騎はびくともせず眠っている。
「い、嫌だ、このままじゃ、あ、あ、ああっ……!」
 恐れていたことが起きてしまった。目線を下に下げると、俺の息子くんは「やっほー」とでも言ってるかのように元気に起き上がっている。俺は悲しいのか、情けないのか、よくわからないままに泣いた。豊騎のせいにしたかったけど、豊騎だけのせいではない。これも全部、俺が親友に不義理な下心を持っているせいだ。
 翌朝、豊騎は目を覚ますと、俺が腕の中にいるのを見て「ギャアッ」と悲鳴を上げた。悲鳴を上げたいのはこっちだ、と文句を言う元気すらもう俺には残っていなかった。俺は結局、一睡も出来なかった。