どうしよう。朝っぱらから気まずい。どう考えてもこの状況、気まず過ぎる。俺は今しがた気づいてしまった事実を胸に抱えたまま、考え込むようにテーブルの上で手を組んだ。
久美子(くみこ)さんの作る料理、世界で1番美味いっす」
「あら、豊騎(あつき)くんってば嬉しいこと言ってくれちゃって。うちの(そう)ちゃんなんていつも無言でパクパク食べちゃうから」
 テーブルの向かい側に座っている親友は、こちらの気も知らずのんきに俺の母親――天辰久美子(あまたつくみこ)の手料理を食べている。目の前で俺がシリアスな空気を醸し出しているのに、だ。親友よりも食いもんが優先なのかよ。いや、この場合あいつの目的は料理そのものじゃなくて、別のものか。
「てか久美子! 俺のことちゃん付けで呼ばないでって言ってんのに。もう今日から高校2年生なの! 俺!」
「はいはーい。もう……ちゃん付け可愛いのに……」
 母親がちゃん付けしてくるせいで、我が家にやってきた友人たちはみんなして俺を子ども扱いするようになるんだから。何度やめるように言っても、久美子は俺のことを「想ちゃん」と呼ぶ。もはやわざとなのかもしれない。未だに息子が幼稚園児だと思っているのか、なんなのか。
 俺が母親に怒っている間も、豊騎は静かに箸の動きを進めている。今朝のメニューは筑前煮と茄子のおひたし、白ご飯に味噌汁だ。男子高校生が「世界イチ美味い」というにしては、渋すぎる料理。
「いっつも豊騎の好きな物ばっかりじゃん。ずりいよ」
 朝はご飯よりパン派だった我が家のメニューは、去年からガラリと変わってしまった。1人暮らしで碌な食事をしていないという豊騎のために、母親が「じゃあうちに食べに来て!」なんて言い豊騎の分の飯まで作り始めたからだ。
 俺だって、たまにはジャムを塗ったトーストとか、目玉焼きを食べたい。思わず愚痴をこぼすと、「わがまま言うな。作ってくれた久美子さんに失礼だろ」と豊騎に睨まれる。
 高校入学以来、俺の親友となったこの男――伊佐敷豊騎(いさしきあつき)は、高身長に煌めく瞳、皮肉っぽく歪められてもイケてる口元を持ち、黙っていれば周りに騒がれる程度には魅力的な風体をしていた。ただし、黙っていれば、だけど。喋り出すと憎まれ口を叩くので、よく周りからは「もうお前黙っとけよ」なんて注意されがちだ。
「ほら、茄子食え。俺よりチビなのが嫌なんだろ? なら食え、食え」
「だーッ! 口に入れんな」
 豊騎がぐいぐいと箸で俺の口に茄子を入れてくる。確かに豊騎より低い身長を気にしてはいるけど、そもそも豊騎がデカ過ぎるんだ。俺だって175センチはある。それに茄子は嫌いだ。
 嫌がる俺を見て、豊騎は笑っていた。朝から無駄にキラキラしやがって。ムカつく。毒づかれても、この顔を見ると許してしまうから、余計に腹立たしいんだよ。
「あ、想ちゃん、もう出なきゃ! 遅刻遅刻」
「げっ……て、久美子、またちゃん付けしてるし」
 母親の声を聞き時計を見ると、なんと8時を過ぎている。始業時間まであと15分。俺の家から高校まで自転車で20分ほどかかるのに、やばい。「行ってきます!」と叫び、急いで俺たち2人は玄関を出て、自転車に飛び乗った。
 朝ごはんをちゃんと食べきれなかったので、ぐう、と腹が鳴る。朝から余計なことに気づいちまったせいだ。つまるところ、豊騎のせいだ。
「豊騎のバカヤロー!」
 必死にペダルを猛回転させながら、叫ぶ。自転車ですぐ横を並走していた豊騎は、「うるせえ」と言ってから、文句を言い始めた。
「そうだ想、今更だけどお母さんのことを『久美子』呼びはどうなんだ? もっと敬えや」
「お前だって『久美子さん』呼びしてるし大して変わんねーじゃん」
「俺は息子じゃないからいいんだよ」
「はあ!?」
 豊騎はやっぱり……。そこまで考えて、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。今朝、母親と豊騎の話しているところを見ていてにわかに浮上した疑惑――豊騎は俺の母親のことが好きなんじゃないか、ということ。
 思い起こしてみれば、そうとしか思えない態度ばかりだった。豊騎は基本的に優しくない。見た目に釣られて話しかけてきた他校の女子に対してなんて、まともに会話してるのを見たことがないくらいだ。うちの高校でも「歩く塩対応」なんて異名もついている。それぐらい、豊騎はよく言えばクールな男なのだ。
 それなのに、俺の母親に対してはいつもスーパーウルトラ級の優しさを発揮するし、毎日笑顔を向けている。好きじゃないのなら、もはやなんでその態度になるのか教えてほしい。切実に。
「な、なあ、あっくん……? 好きなタイプってどんな人?」
「突然なんだよ。キショいな」
 ペダルの回転数は落とさないままに、おずおずと聞いてみる。豊騎は汚物を見るような蔑みの目を向けてきたが、負けてたまるか。
「だってえ、ダチになってもう1年経つけど浮いた話聞かないし。女子たちに告られても全拒否だったし。どんな子ならお前もOKすんのかちっと気になってえ」
 わざと語尾を伸ばしてかわい子ぶってみたら、「くねくねすな! アホ」と頭をどつかれた。痛い。
「……そうだな。強いて言うなら、明るくて、笑顔が可愛くて、ちょっと抜けてて、優しい人かな」
「……」
「おい。せっかく答えてやったのに無視すんな」
「……アンケートに答えて頂き、あざっしたあー!」
「意味わからん」
 豊騎は俺の動揺に気づいた様子もなく、自転車の速度を上げた。張り切ってペダルを漕いだおかげか、なんとか始業時間には間に合いそうだ。俺は正直、それどころじゃない心境だったけど。
 豊騎の好きなタイプ、まんまうちの母親のことなんですけど。もうこれ確定でしょ。だけど2人の年齢差いくつあると思ってんだ、と心の中で豊騎に文句を言う。久美子は今年42歳だから、25歳差だぞ、25歳差。俺、ニュース記事で豊騎の名前見たくねえよ。変な想像が止まらなくなり、嫌な冷や汗がこめかみを伝い、ポタポタと地面に落ちる。
 俺の親友、俺の母親にガチ恋しちゃったの? 
 途方に暮れていると、校門が見えて来たので俺は考えるのを一旦やめた。

 ***
  
「やったね想ちゃーん、俺ら今年も同じクラスっ!」
「うん、よかったけどさ。想『ちゃん』言うな」
 2年生の教室に入ると、去年も同じクラスだった友達、真子陽(まごひなた)が抱き着いてきた。豊騎とも無事に同じクラスになれたし、友達作りに奔走する必要はなさそうで、ひとまずホッとする。人と話すことは好きだけど、初対面だとどうしても緊張してしまうのだ。
 陽はそんなことは微塵も考えたことがなさそうな軽い男なので、「よろしく、よろしく~! あ、連絡先交換しよ?」と、クラスの色んなやつに話しかけている。まあ、あいつは女好きなので可愛い女子狙いだろうけど。
「陽がいるなら今年もうるせーだろうな」
 後ろの席にいる豊騎が呟いた。名前の順で席が並ぶと、俺たちは必ず天辰(あまたつ)伊佐敷(いさしき)の並びで前後の順番になる。1年生の時に仲良くなったきっかけも、それだった。今年も豊騎が後ろにいると思うと、安心感で満たされていく。本人には絶対言わないけど。
 陽が色んな女子に話しかける様を遠巻きに見ていると、ひとりの男子が俺と豊騎に近寄って来た。
「あのー、真子の友達って君ら?」
 眼鏡をかけた眼光鋭い男子が、言う。その視線に少しビビっていると、「そうだけど。何か文句ある?」と豊騎が喧嘩腰で言い返す。
「ああ、いやいや、違くて。俺、真子の幼馴染の泉俊喜(いずみとしき)。このクラスに真子以外の知り合いいなくてさ。仲良くして貰えると助かるわ」
「あ、あー! そういうこと。こちらこそよろしく」
 あわや一種触発か、という空気感だったので、身構えてしまった。泉くんはただ単に目つきが悪いだけの良い人みたいだ。
 俺たちが新顔の泉くんと談笑していると、陽が新しいクラスの凱旋から帰ってくる。
「とっしー! みんなと挨拶した? できまちたか?」
「ひな、ふざけんなよ」
 おお、本当に2人は幼馴染らしい。泉くんがさっきまでと打って変わってマジの口調だ。
 だけど泉くんのドスの効かせた声も慣れっこなのか、陽は教室へ入って来た女性教師を見ては「お! 担任は花ちゃんか~、このクラス当たりじゃん!」なんて騒いでいる。
 花ちゃん、とは国語担当の教師の花形美紀(はながたみき)先生のことだ。陽の言葉を聞いて俺も教壇へ視線を向ける。「はーい、みんな席についてね」と可愛らしい声を上げている花形先生。去年新卒で入って来たから、まだ20代前半のはず。豊騎も歳上を好きになるならせめてあのくらいの歳の差の人を好きになっていれば、なんて考えが浮かぶ。
「……いや、そもそも不倫になるからダメなんだって」
「エッ、不倫!? 想ちゃん不倫してんのッ」
 考えが口に出てしまっていた。そして俺の言葉を耳聡く聞きつけた陽が、大絶叫する。クラス中の人間が俺を見つめた。「は、はあ? してねえよ!」と言う声が震える。
「不倫の話は後にしてねー。ホームルーム中だから」とやんわり注意してくる花形先生に「はい、すんませんっ」と謝って、机に突っ伏した。それからホームルームが終わるまで、俺は絶対に目立たないように息を潜める羽目になった。くそ、これも全部豊騎のせいだ。

 ***

「そんでえ、想ちゃん。不倫ってどゆこと?」
 休み時間になるや否や、陽がニタニタとチェシャ猫みたいな笑顔で俺を揶揄ってきた。説明するのもめんどくさい。
「俺じゃなくて。知り合いがー……」ここでチラッと後ろの席に座る豊騎を伺う。特に表情は変わらない、と。大丈夫そうなので、話を続けることにした。
「知り合いが人妻を好きになっちゃったらしくて。やっぱ止めたほうがいいんかな……?」
 朝から俺の頭を悩ませていたことは、ズバリこれだった。豊騎を止めるべきか、黙って見守るべきか。答えを出せそうにないので、陽たちにも聞いてみることにする。
「俺は諦められないくらい好きな人がいるなら、略奪もやむを得ないと考えるかな」
 そう言ったのは、泉くんだった。やはりただの眼鏡男子ではない。彼の背後に「ゴゴゴ……」と覇気の音が聞こえてくる気さえしてきた。俺は感心したけど、陽は違うらしい。「えー」と不満そうな声を漏らした。
「んー、そりゃ好きになるのは悪いことじゃないけど。それ以上の関係を求めて誰かが傷つくんなら、そっと胸に仕舞っとくべきかもねー」
「おお……意外にもまともな回答だ」
「陽もお前にだけは言われたくないやろなあ」
 陽が珍しく真面目なことをいったので驚いていると、豊騎が俺を馬鹿にしたくてたまらないらしく、エセ関西弁でそんなことを言ってきた。
 すると、泉くんが驚いた顔で「関西出身なんだ?」と豊騎に聞く。
「いや、東京出身」
「は?」
「あっくんのはエセ関西弁だもんねー」
「……は?」
 泉くんの発する声がどんどん低くなっていったので、慌てて「あー責めないでやって、この子、お笑い大好きなんです。勘弁してやってください!」と俺がフォローを入れる羽目になった。当の豊騎は何かやっちゃいましたかね? というとぼけ顔をしている。殴りたい。切実に殴りたい。
「豊騎は中学生の頃から1人暮らしだったらしくて。話し相手がいなくてテレビばっか見てて」
「あー……」
 俺が詳しく豊騎の過去について説明し始めると、泉くんは怒りの気配を収めてくれた。かわりに、今度は可哀想な子を見る目で豊騎を見つめている。でも、この話はそんなセンチメンタルな物語ではない。
「そんで関西弁の勉強し始めたんだって」
「いやなんでやねん。普通そこは芸人目指し始めました、やろ」
 話のオチまで喋り終えると、泉くんからキレのあるツッコミが飛んでくる。豊騎のものに比べると段違いの切れ味だ。
「あれ、関西弁?」
「とっしーはマジで関西出身だよ。小学生の途中でこっち来たから」
 陽が言う。そうなんだ、と納得していると、泉くんが「ハッ……ついツッコミ入れてしもた」と我に返って眼鏡のフレームを意味もなく直している。これが本場の関西弁か。俺が感動している間、豊騎は本物の関西人の前でエセ関西弁を喋るという己の愚行を恥じて、顔を手で覆い隠していた。気持ちはわかる。うん。俺なら今すぐUターンして家に帰ってふて寝してるね。そんな気持ちを込めて、豊騎の肩をぽん、と叩いた。
「それにしても、想ちゃんがまさか人妻好きなんてねえ」
「だから俺の話じゃないっての!」
 陽はまだ俺のことを人妻好きだと誤解しているようだ。「アブノーマル趣味かあ」なんて最悪な言葉を呟いている。
 そのタイミングで、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。陽と泉くんが自分たちの座席へと戻っていく。俺も準備するか、と正面に座り直して教科書を出していると、後ろから肩を叩かれる。豊騎だ。
「……さっきの話だけど。俺なら、相手が人妻でも、男でも、好きな相手は俺の手で幸せにしたいと思う。そんだけ」
「え? え、ええええーっ!?」
 それって、つまり。俺の母親のことが好きですと言っているようなものなのでは――?
 その後、俺が授業に集中出来なかったのは、言うまでもないことだろう。