ヅルのマンションは電車の景色の中にうずもれて、どんどん消えていく。途中阿佐ヶ谷を通るかと思って、あ、通過しちゃう、と思った。
手の中のスマホは、まだ片山紫吹のアカウントを表示したままだった。閉じて、インスタも閉じて、ポケットに手をつっこむ。イヤフォンを耳に思いきりつっこむ。この前再生していたせいで、ブルーレインの続きが爆音で流れ出す。音量をふたつ下げる。
油断したら、あたしの目からもなまあたたかい水が出そうだった。
うつむいて鼻をすする。すすりきれないから、結局、上を見上げる。日は暮れて電車の中にはさみしい蛍光灯の白が満ちてる。中央線はどの時間も混みあっていていろんなにおいがする。
僕がそのまま君のかさになれたらいいと思うけど。
慎くんの綺麗な裏声でサビがなぞられる。ドアに鼻先あてて、すぎていく景色を見つめている。雨は降ってないよ、とこころの中で思う。かさはなくてもいい。
手の中でスマホが震えた。
――ブルーレインから重大発表‼
通知をタップする。電車がとまり、どかどか乗りこんできたおっさんの波にあたしはおされて、う、とあまりにかすかな声が出る。電車は代々木に向かって走り出す。
メジャーデビュー決定‼
その文字が目に飛びこんできたのは、新宿が目前に迫ったときだった。
は、と声が出そうになって、飲みこむ。心臓がバタバタバクバクしはじめる。電車が揺れて、あたしはよろける。隣のおっさんもよろける。目の前の座席で女が化粧している。誰かが酒臭い。まだ夕方なのに、と思う。思って、てか、デビューって、なに。
ドアが開く。みんながおりるから、どんどんからだが押されていく。あたしもホームにおりる。用はないけどおりる。新宿はくさくて広いのに狭くて苦しい。
終わった、と思った。
終わった。
終わった。
終わっちゃった。
背後でドアがしまる。邪魔。その言葉のかわりに何人もあたしをどついていく。
*
――イッショウノオネガイ。
あたしのそれに、志保はいつもの不機嫌そうな声音で、ああ、うん、と答えただけだった。
「あんた今どこいんの」
「新宿」男がこっちに向かって歩いてきたから、逃げるように歩き出す。「アルタの前」
「東口じゃん。クソナンパうぜえとこじゃん」
「駅戻る。志保のとこ行っていい」
「車出すんだし変わんないでしょ。わざわざ電車賃使わなくても迎えに行くよ」
ありがとう、とあたしは呻いた。
すぐ行くから、東口じゃないところにいて。志保と電話繋いだまま一回駅に戻って、迷宮みたいな新宿駅のなかをぐるぐる歩いて、適当に出る。西口だった。わかりやすいところにいてよ、と言われたから、いちばん目立つ建物を伝えて、電話を切った。
志保は十五分後にやってきた。
志保が駆け寄ってきた瞬間、あたしは飛びついた。
なに、なに、と驚いている志保に思いっきり抱き着いて、あたしはずるりと鼻水たらした。そのつぎ涙がふきだして、あたしは志保にいっそう強く抱き着いた。
あたし、はくまいべんとーなんだよおー。
第一声はそれだった。志保が、は、なになになにどうしたのおまえ、と戸惑っている。
ぼろぼろぼろぼろ、あたしは紐切れちゃったブレスレットのビーズみたいに涙こぼしていた。ぼろぼろぼろぼろ、志保のせっかくの上着にあたしの涙が染みていく。必死に拭うけど意味がない。東でも西でもどこでも、新宿はきらきら光っていてうるさくて嫌だ。
志保、ねえ志保、聞いてよ。
慎くんがデビューするの。デビューしちゃうんだよ。
それでいい加減わかったの。
だましだましやってきたところで溺れてるって、気づいてはいたんだよ。
でもどうしたらいいかわかんなくてさ。わかんなくて。どーしよーもなくて。
みんなとおんなじことするにもどうしたらいいか知らないの。知ろうとしなかった。
好きって感情で起爆できると思ってた。あたしは慎くんと一緒だって。
好きって、特別だと思ってた。
好きがないとひとりになる。好きがあれば生きやすい。好きになればなにかになれるって。
でもちがかった。
ねえ、聞いてよ。
ヅルっていたでしょ。金づるの、ヅル。
捕まっちゃうかもしんないんだよ。おんなのこ襲ったって。わかんない。うそかもほんとかも知らない。
だってあたし、なんにも知らなかった。
知ろうとしなかった。
表面でしかひとを見てなかったの。自分の内面すら知ろうとしなかったから。
慎くんがデビューするって言った瞬間、それ言った瞬間、あたし、なんて思ったと思う?
終わった、だよ。
……ちがう、ちがう、慎くんじゃない。あたし。あたしが終わったの。
あたしだけが。
もういい加減やめなよって、言われた気がしたの。
ねえ、志保。
あのさ、あのさ、……あたしの好きって、ファッションに見える?
えんえん、わんわん泣き出したあたしの背中をさすりながら、志保はなんにも言わなかった。会うなりいろんなことをべちゃべちゃまくしたてたあたしを、ただ黙って見つめていた。
「行くんでしょ」志保は静かに言う。うるさい新宿でも、志保の声はちゃんとあたしの耳にまっすぐ届く。「行こう。行くよ。車出す」
うん、うん、とあたしは手の甲や袖口でむちゃくちゃに顔を拭う。高校時代から特に進展していない適当なメイクがそれでどんどん崩れていく。美人じゃないから気にしないでいい、そう思いながら拭う。志保があたしの腕つかんで、あたしたちは歩き出す。
志保の車は、親からもらった白い軽。
助手席に乗ってシートベルトを締める。志保の車に乗るのはもう十回目くらいだ。志保は運転席に乗り込み、シートベルトを締め、エンジンをかける。静かな車内にエンジン音がくぐもって響く。アパート、と志保が言う。頷く。はいよ、と志保は答える。
パーキングからあたしのアパートまで結構かかった。アパートに駐車場はないから、近くのコンビニにとめる。志保はシートベルトを外し、窓を開けるとアイコスを吸い始めた。
「ギター」志保はアイコスの甘い煙吐き出して、言う。「とってきなよ」
「うん」
シートベルトがぱつんと外れる。ドアを開けたら涼しい夜風があたしの顔を撫でる。
あたしはコンビニからちょっとだけ歩いた。歩いて、そのうち、勢いつけて走り出した。なんかに急かされているみたいに、全速力で走りだした。
つめたい空気がどぷん肺に入って、痛い。
走った。
コンビニから、たった徒歩三分の道を急いで走った。
徒歩三分を全速力で駆けたら何分かかったのか、あたしは知らない。
アパートついて階段うるさい足音で駆けあがって、鍵を回す。なまぬるい部屋の温度と、昨晩食べた焼き魚のにおいがまだほんのり住んでいる。
スニーカー脱ぎ捨てて部屋に転がりこむようにして、部屋で眠るギターケースを背負う。久しぶりの重みに背中が文句を言う。無視する。
テーブルの上、リプトンの紙パックや空っぽのお菓子の袋、転がったキャラメル。キャラメルポケットにつっこんで、収納ケースを引っ張り出す。大事に大事にしていて、買ったときは涙ぐみながら家宝にしますって言ってた、ブルーレインのCD。
ぶっちゃけさ、思ったことある。こんなん誰にでも書けるんだよなあとかメロディがありきたりなんだよなあとか、曲のふしぶしから、ああきっとこれあのバンドの影響受けたんだろうなとか、そんでインタビューとか見てみたらその通り影響受けていたりしてほら答え合わせ、あたしいつでもそういうの見抜けるとか思っちゃって。
でもさ、どうしようもなく好きだったんだもん。
かわりがいくらいたって、好きだったんだもん。あたしはそれらが好きなあたしのこともおんなじように好きだったんだもん。愛おしかったんだもん。
素直に好きなものを好きだって、それでこうなりたいって、そうやって実際は地面舐めるようにして這いつくばってるだけの無駄な行為が、まるでセーラー戦士の変身みたいで素敵だったの。それを否定していいのはあたしだけなの。諦めていいのもあたしだけだった。
だってみんなは優しいから。夢を追っている、若い、真っ青で硬くっていつになったら食べられるのかわからない実に、あったかくて上等な白い布被せて守ってくれるみたいにさ。
被せて、そのあと切り落としてくれるわけでも、あたしがそうやっていたら勝手に熟していくわけでもないのにさ、みんな優しいから、だから、
……だから、こういうところなんだろうな。わかってるよもうなんにも言わないで。
あたしはスニーカーのかかと踏んだまま、ドアに体当たりして飛び出した。
*
あたしはまた走った。行きとおなじようにいかない理由は、背中のそれだった。おもてえなあ、とあたしはぼやきながら走った。ギターはそれを否定するみたいに左右に揺れた。
志保は二本目を吸い始めたところだった。息切らして戻ってきたあたしをちらりと見て、アイコスを吸い切ると窓を閉める。あたしは隣に乗りこんでシートベルトを締め、ギターをおなかに抱えた。視界不良。目の前のコンビニの「おにぎりセール」の紙が見えなくなった。
「じゃ、行こうか」
うん、とあたしは言う。
「曲、かけてもいい」
うん、と志保が言う。
あたしはブルーレインのCDを取り出し、オーディオに入れた。膝の上に置きっぱなしのCDのスリーブ、そこへ書きこまれた銀色の慎くんのサインが光っていた。ありがと、と笑った顔。女の好きなかたちをした細くて白くて長い指、そこへ挟まった銀色のポスカ。
曲が始まる。
重ねていたビニールが振動で滑り、そのあとスリーブも滑り、あたしは慌てて短い腕必死に動かして隙間に落ちる前に拾い上げて、ギターと一緒に抱きしめた。
どうしたって、どこまでも好きだった。強く思って、鼻水を手の甲で拭った。
途中、小腹が空いてコンビニに寄った。
おにぎりと菓子パン頬張って、ふざけて買ったワンカップを開ける。志保の軽で飲んだ。口中、車中、くさかった。酔っぱらいのにおいだった。
ちゃんぽんの胃袋と焼酎のにおいに吐きそうになって、窓を全開にすると頭を出した。首飛ぶぞ、と物騒な言葉を叫ぶ志保は笑っていた。アイコスの煙を吐き出しながら。あたしも笑った。なんにも面白くないのに笑った。顔を叩きつける風に呼吸が詰まりそうだった。
試しに、死ね、と叫んでみた。志保も叫んだ。そんで、ふたりでゲラゲラ品もなく笑う。
高速道路に入ったから窓を閉めて、代わりに爆音で音楽を流した。なぜかバラードでヘドバンした。強く揺れる軽で臓器がかき混ぜられる。
ユニコーンの「大迷惑」はふたりで叫んで歌った。
帰りたい、帰りたい、と繰り返しているうちに涙が出てきた。別れを惜しむ恋人同士のように、ギターケースをきつく抱きしめた。キスでもできそうなくらい恋しかった。愛おしくなった。あたしはただ鼻先を近づけて、無意味にギターのにおいを探した。
あたしのギターはにおいがしなかった。
軽の時計が二十三時を光らせていた。その緑色をじっと見つめていると、ふいに志保が「着いた」と言った。人気のない真っ暗な道、その端っこで軽が止まる。
あたしはシートベルトを外し、すぐ戻るから、と言った。志保は反対せず、スマホのライト点けていきなよ、とだけ返した。
ドアを開けて軽を降りると、ぬかるみにスニーカーがひっついたのを感じた。ギターケースを軽のドア縁にぶつけないように身をちょっとかがめて、ドアを閉める。
志保に言われたとおりにスマホのライトをつけて、足元を照らしながら歩く。数分も歩かないうちにフェンスが見えた。その奥に不法投棄の山があるのを、真っ黒な影で見つけた。とりあえずといった感じで繋がっている鎖はゆるんで地面についていたから、跨ぐ必要もなかった。
中に入るとあたしはギターケースを下ろし、地面に屈みこんだ。
五分くらい、悩んだ。悩んで、意外と五分で足りてしまったから、やっぱりそんなに大きな問題じゃなかったのかもしれない、と思えた。思うようにした。
屈んだまま、ギターケースに手を伸ばす。硬くて、ちょっと、重い。
立ち上がり、ギターケースを片方の肩にしょって、あたしはずんずん前に進んだ。少し歩いただけで、いろんながらくたと爪先がつっつきあった。
足を止める。虫の声がどこかで聞こえる。一度でも足を止めたら死ぬと思いながら、あたしは歩いた。不法投棄の闇を歩いて、奥の方で立ち止まった。ぐるり、あたりを見回しても、森だけだった。切れかけのぼやけた黄色い蛍光灯に照らされて、よくわからない小さい虫がやけに陽気に踊り狂っているのが見えた。
目の前に家電の山があった。一番硬そうなものを探すと、レンジの奥に金庫があった。
ギターケースを下ろして、ぬかるむ足取りで金庫をぐっと手前に引きだそうとする。重すぎて、全く動かなかった。諦めて、ギターケースを開ける。
ストラップもせずに片手にぶらさげて、金庫の前で足を止める。
あ、と思うその一瞬前を狙った。ぐらつくのがわかっていたから。
足を止めると同時に、あたしは、ギターを金庫に向かって思いきり振り下ろした。嫌な音が、真っ暗な空に渦巻きながら、高く、旋回して、響いて、消える。両手が震え始めていた。鼻水がどろどろ落ちてきて、顎先をぬるぬるさせていた。息を吸いこむ。吸おうと、する。上手くいかないのを誤魔化すみたいに、フルスイングする。うう、と呻き声みたいな音が聞こえた。たぶんあたしの声だった。頭がずーっと熱くて、喉が詰まっていて、鼻水が、すごく、汚い。
すぐ終わると思ったのに、全然、潰れてくれなかった。あたしは気が狂ったようにギターを振り下ろし続けた。次第にボディが歪んでいく気がしたけど、それでもしぶとかった。でもやめられなかった。
ギターを、クラッシュさせてしまった。
あたしにとっては高い、当時六万もしたエピフォンの黒いギター。泣きながらクラッシュさせた。弦が弾けた。マーシャルのにおいで飛びたかったし、グレッチで殴ってもらいたかった。
あたし図星、椎名林檎はいつかのあのマルボロの言うとおり、めちゃくちゃ好きだった。そんで椎名林檎に憧れて、美容院でいっちょまえに切りそろえた和風のショートヘアがカツラみたいに似合ってなかったことに今更気がついた。
あたしがこんなナリしてもダサいだけ。
最後に不法投棄の闇へギターを放り投げた。近いはずなのに、どっか遠くで、がっしゃん、って音が響く。頬のあたりを蛾がかすめ飛んでいった。鼻水と涙をぐしょぐしょにしたまま、あたしは背を向けた。ひび割れたアスファルトを踏みしめ、車に戻る。
ドアを開け、乗りこんで、おまたせ、と言う。びしょびしょに汚れたあたしを、志保は探ろうとしなかった。アイコスの煙が充満する以外、ひどく静かだった。志保の細い腕がエンジンをかける。文句を言いながら、安い親譲りの軽が高速道路を目指して走り出す。
高速道路の赤い光を見ながら、やっぱり何者にもなれないことを悟る。それはあたし以外じゃあたしにはなれないとかそんなありふれた綺麗ごとじゃない。あたしにはやっぱり何もない。
あたしのあげたキャラメルをネチネチ舐める志保を横目で見て、最後の一粒を口に含み、噛んだ。甘みがキンと歯に染みる。
*
じゃーね、と志保の白い腕がひらりゆれて、軽が走り去っていく。
戻ってきたのは早朝四時半。眠気は不思議なくらいになくて、アドレナリンかな、興奮してたのかも、と思いながらアパートの階段をあがる。
カギ出そうとして、そしたらそこでやっと、片手塞がってることに気づいた。
あたしはマジのうっかりで、ギターケースを連れて帰っていた。
アパートの玄関前であたしは彼女の手を放し、そうしたらぐにゃんと汚い地面にしぼんだものだから、あたしはそこで盛大に噴き出した。
ずるずるギターケース引きずって、なんか変な感傷に浸ってミュージックビデオの女の子みたいなふりしてここまで歩いてきた数分前までの自分を、とんでもねえバカだと思った。
寒さにやられながら鼻水垂らして笑った。
そうしたらなんか本格的にツボにはまってしまって、どんどん苦しくなってきた。あたしはかがみ、そうしたらギターケースが目の前だから余計に苦しくなった。笑い死ぬかと思った。
バカすぎ。最後までかっこつかなくて、しぬ。
はーっ、と酸素を求めて吸いこんだ朝の空気は冷たかった。かがみ、アパートの汚いコンクリートの地面に手ついたまま、両肩震わせて笑った。
ギターケースはそのやわっこくてうすいからだ折りたたんで、じっとあたしを見つめていた。ギターがなくなった今、君もおんなじようにいらなくなったの。あたしは落ち着くために深呼吸繰り返しながら、言う。
あのね、もういいの。
でも、はじめに君を脱がすとき、あたしはいつだってドキドキしてた。
君があたしのギターをあっためてくれたのは感謝してるよ。
ギターケース拾って、急に立ち上がったもんだから一瞬くらっとした。
ここから歩いて少し、長い長い坂の上、運動公園なんて名前だけのなんにもない公園がある。
コンビニでライターひとつとアメリカンドッグ買って、白い息吐きながら運動公園までの長い坂を上った。てっぺんまで行っても、だれともすれ違わなかった。
公園の入り口、車止めによりかかる。右手にぶら下げていたアメリカンドッグの白い袋を開ける。邪魔だから、ギターケースは膝の上にのせてやった。ケチャップとマスタード絞り出す。膝の上のギターケースが滑るから、結局、丸めて左手で抱え込む。
あたためてもらったはずのアメリカンドッグは、生ぬるい。
唇にあたるがさついた生地、それに噛みつこうとした瞬間、角からトイプードルつれたスウェット姿のお兄さんが出てきた。あたしは一瞬口を閉じたけど、お兄さんもトイプードルもあたしに気づかないから、どうでもいいやと思ってまた口を開けた。
よく手入れされたトイプードルの茶色い巻き毛見つめながら、あたしはケチャップとマスタードで汚したアメリカンドッグに齧りついた。
なんか君の前で食べるのきまずいね。
そんな目線送ってみたけど、トイプードルは小さい足ばたつかせながらあっけなくいなくなった。
左腕によくわかんない黒いかたまり抱えてアメリカンドッグ齧ってる女子大生も、早朝の道じゃ目立たなかった。あたしは大口開けて五口でアメリカンドッグ食べきって、公園の真ん中までずんずん進むと、棒を地面にぶっ刺した。
カリカリのかたまりは前歯で齧ってもとりきれなくて、そこに残ってる。
棒の傍にかがみ、ギターケースを左腕で持ち上げて、ライターの火を起こす。
じり、じりじり、と火が小さくくっついて、ギターケースのおしりが焦げ始める。派手な燃えかたなんか、しない。だってしょせんライターだもん。でも燃えるもんは燃える。
この世のほとんどのもんは、燃える。
爆発したらかっこいいかもしんないけど。でも燃えるのは一緒。燃え尽きるのも一緒。爆発して燃え上がった生ごみと、しんしん燃える生ごみと、中身なんか誰も気にしてない。実は。
だからまあ、なんていうか、だまされたっていいんだけど。自分をだましたってよかったけど。あたしは燃えるとき爆発するって。
でも、だまされたふりし続けるのはもう疲れちゃったから、やめたほうがいいんだよね。
あたしはそもそもそんな世界でファンタジー浸れるほどの完璧な人間じゃない。テーマパークの着ぐるみ見て、あれ中身オッサンだぜって、許されればそうやって言い放つことができる。
許されてないからそう言わなかっただけ。
時給千円ちょっとで汗水たらしてファンタジーやり抜くには、ちょっとスレすぎてたな。
ギターケースは燃えていく。くさいにおいあげながら。
あたしはギリギリまで掴んでいた。そのうち指先燃えそうになったから、ぱっと、離す。
土の上だから大丈夫だろうけど、なんかあったらいつでも踏みつぶせるように立ちあがる。
焦げ始めたギターケースを見下ろし、あたしはポケットに両手突っこんで、我慢せずに馬鹿でかいあくびをもらした。鼻の奥つくにおいは別にかなしくもなかった。最後までドラマチックなんて起きないのだと思いながら、眠りたい脳を揺さぶって残骸を見つめ続けていた。
火種はいつか必ず消える。
燃えるものがなくなったらあっけなく消える。
それはあたしたちとおなじもんだと思う。
*
失ってからその大切さに気付いたよ、なんてそんな薄い薄い言葉は何度も何度も聴いたことがあるけれど、それに対するあたしの感想、そんなもん人による。以上。
あたし存外けろっとしていた。
そう思いたいだけって可能性も数パーセントは否めないけれど、でも、なんだか大丈夫だった。なんだか大丈夫。ギターがなくなったことは、元カレ思いだすときなんかうっすら痛いような寂しいような気がする、そんなあれと似てるんだと思う。たぶん。
考えることをやめた。うまくはいってないけど、でも、できるだけ、別のことで頭いっぱいにするようにしている。その間にあたしは単位一個ぎりぎりになって志保に怒られたし、そんな志保はゼミの地味な子に告られて以降気まずいってだるそうにしているし、この前は飲まず嫌いだったビールを飲んでみたし、それで、結局ビールはまずかった。
ギターの記憶は、あたしがひとりきりになったころになって顔を出しやがるけど、あたしは顔を背けて眠る。いいんだよね別にあんたがいなくたってさ、と鼻先鳴らしてやればこっちがまるで優位に立ったみたいになれるから、ちょうどよかったり。
でも、燃え上がったギターケースのくすぶったにおいは、まだ鼻の奥に染みついている。
そのにおいを、あたしはこれからのつまらない人生のところどころで、ふっと、思いだすのだと、思う。だけど結局のところそれだけだ。思いだす、だけ。
この世界を生きるためにはどうにか理由付けが必要で、そんで、好きって感情は、なにかを好きっていう気持ちは、どうにか生きていくための麻酔みたいなものなのかも、しんない。
あたしにはそれがバンドだった。バンドだと思っていた。
ハッシュタグ、バンドマン夢見てます。
でもそれだけじゃだめなんだった。この世界は、集めたいいねだけじゃ、通用しない。ほんとのほんとは、いいねなんか、通用しない。それでも注目されないと惨めな気がする。
いずれ、あたしは今日の後悔を、もっともっと大きな規模で後悔するかもしれない。
でも、夢を見るには才能が必要だった。どうしたって。ハッシュタグつけるだけならだれでもできた。それが知れただけ、ちょっぴり、マシだったかもと、思う。
言語化できないこんな気持ちを、ホンモノたちは音楽に変えてくれる。だから、音楽を嫌いになることだけは、しないように、する。だって好きだったから。それで今も好きだから。
あたしはまっさらなプレイリストを作ると、一曲目にレイニーを入れた。
慎くんがこの先トップバンドになっても、ならなくても、あたしとおんなじ人間だったとしても、たいしたことじゃない。
了