中学生のとき、父親からアコギをもらった。
 高校で選んだ部活は軽音楽部だった。
 バイトして、マイギターを買った。
 当たり前のように、大学も軽音サークルに入った。
 そんな流れを、いったい、何万人が踏んできたんだろうと思う。そんでそんなかでホンモノになっていったひとは数百人、で、それで成功したのは数人じゃないだろうか。もはや奇跡だ。
 ステージ上で叫んだ金髪くんは、最後の音が見事にひっくり返った。練習でよかったねとあたしは底意地悪いことを思う。どうしたってその歌はあんたのもんじゃない。
 軽音部のために割り当てられた、音漏れガンガンのプレハブ。ほこりくさくて湿った室内。うっすら汚れた窓の向こうには、伸びきった雑草だけが広がっている。
 セトリを書いていたボールペンをぐるぐる回す。耳がぼうっとなるドラムとギターとベースとマイクの音割れ。二曲目が始まる。二曲目もクリープハイプだった。どんだけ好きなん、とかいうあたしだって本当はやってみたかったけど、前ふたつのバンドがそろってクリープハイプやる気満々だったからなんにも言わずに諦めた。
 誰かの歌は自分の歌より聴いてもらえる。
 そんなん高校生のときから知ってる。そういえば高二のとき、オリジナル曲挟んでみたら、とたんにみんなが手拍子だけになったのを思い出す。にっがい思い出。オリジナル曲聴いてるときのみんなの退屈そうな目の色。いやわかるよ、あたしだってノれないもん。
 プレハブの音質は想像通り最悪。ライブハウスでさえなに言ってんだかわかんないボーカルの歌詞が、よけいにわかんない。あたしも歌詞を知ってるから、今どこを言ってんだかわかるけど、これが知らない曲だとマジでわかんない。あつ森の住人が喋ってるみたい。
 最後の音が消えて、みんな手を止める。それからあわただしく片付け始める。
「じゃあ次」
 部長が呟くようにしてそう言った。ボールペンを傾いた折り畳みテーブルに置き、あたしはパイプ椅子から立ち上がる。ギターにストラップつける。
 端っこで喋っていた美奈子とりんも同じようにしてこっちにやってくる。池ちゃんもスティック持って、それで四人、自分の定位置につく。
 チューニングして、マイクの頭を軽く指先でたたく。
 後輩が何人か、わざわざ見るためにちょこんと座って、あたしを見ている。
 きぬせんぱーい、と呼ばれる。愛想笑いで手を振る。きゃー、なんて言われてしまうと、マジで気まずい。
「浅村たちなにやんの」部長があたしの座っていたパイプ椅子に座る。「クリープ?」
「やんない。やりたかったけど、さすがに。今年も大人気なんで」
 部長は軽音部で一番ベースがうまい。で、頭がいい。あたしと同い年とは思えない。黒縁眼鏡と白い肌と女子よりバチバチの睫毛で、三年間、きゃーきゃー言われている。ベース弾くとモテるね、と興味なさそうなふりして言っていた顔にめちゃくちゃイラっときたのをあたしはまだ覚えていた。あの記憶ももう二年前くらいだ。
「チューニング終わった?」
「終わった」
 りんと美奈子と池ちゃん、それぞれが頷いたから、あたしはいくつか弦を弾く。
 数センチ上がっただけの場所、でも確かなステージ。ほこりっぽくてたぶんめっちゃゴキブリがいる、そんなステージ。
「わかってると思うけど、二曲ね」
「うん」
「セトリ、これ?」
「それ」
 あたしの声だけマイクでくぐもっていて、なんか意思疎通できてない気がして、変だ。
「スピッツやんの。あ、浅村、そういえばスピッツファンか」
 そういえばもなにもずっと好きだわ。
 あたしはごまかすようにもう一度弦を弾く。もうはじめていい。そう聞きたいけど聞けない。なんだろな、変に気使って一周回って息苦しいの。
「なんでスピッツとバンプにしたの」
「なんでって、好きなんで」
 イラっとする。いちいち指先で眼鏡持ち上げんな。なんでもなにもあるか、おまえにはなんかしらんけど言いたくない。どうせ、チェリーとか楓以外、まともに知らないだろうし。
「ねえ早くー」りんの声が入ってきてくれて、ほっとする。「どんだけ絹と喋るわけ」
「ごめん。じゃ、どーぞ」
 池ちゃんのカウントのあと、美奈子のアルペジオが響きだす。美奈子のギターの音は粒がそろっていて、気持ちがいい。だからアルペジオ弾かせると、ぐっとよくなる。真帆のベースは安定している。池ちゃんのリズムも。
 息を吸いこむ。あたしの深い、はッ、と短く音の入るブレスは、ここ数年で慎くんによく似たものに変わっていた。そんなことをぼんやり自覚しながら、歌詞を、吐き出す。
 後輩があたしを見ている。
 部長があたしを見ている。
 スポットライトのあたらない、夕方の傾いたプレハブ。窓の外の夕陽すら、ここにははっきり射しこんでくれない。
 あの日の慎くんの目を思いだす。ブルーの照明あたった、猫みたいなかたちの大きな目。ねえ、慎くん、見えたかな。見えてた?二列目のはしっこのあたしのこと。
 ここにいるとさ、はっきり見えるんだよ。
 あたしのこと見てる人の顔。
 でもここはライブハウスじゃない。下北沢じゃないし、あたしはバンドマンじゃなくて軽音サークルの部員だし、開催されるのはフェスじゃなくて文化祭だ。
 慎くんに会いたかった。
 慎くんの歌を聴きたかった。
 それで、慎くんともっと話してみたかったと思う。慎くんとだったら、最近の流行とか、音の使い方とか、歌詞の傾向とか、そういう話、できたんじゃないかって。
 でもだめだ。あたしのぼろが出て終わりだ。
 井の中の蛙大海を知らず。
 あれって、あたしだ。

          *

 そういえば、なんでしらすの話、したんですか?
 そうやって聞こうと思っていたのに、オカくんは忙しいのか今週まるごと休みらしかった。まあ、別に。どうせ会ったって聞く勇気なかったし、意味もなかっただろうし、いいんだけど。
 オカくんが出勤してきたのは、あの日より二週間も経ってからだった。
 おつかれさまです、野良猫みたいにぬるんとスタッフルームに入ってきたオカくんは、この前より髪の毛が茶色くなってきている。
今朝ちょっと寒くなかった?バイトの女の子とそんな当たり障りない雑談しながら、オカくんはその場でシャツを脱ぐ。グレーのインナーの上に制服の白シャツを被って、器用にぽつぽつボタンを留める。ふと目が合いそうになって、あわててスマホに目線を落とす。
「なんか久しぶりだね、浅村さん」
「……ッ、はい、たしかに」スマホからオカくんに目線を戻す。「二週間くらい」
「だよねー」
「忙しかったんですか?」
「あー、ううん。大学のやつらと旅行行ってた。本格的に忙しくなる前に、あそんどこって話になってて」
「どこ行ったんですか」
「名古屋」
 いいな、とあたしは呟いた。なんで?オカくんは指輪を外して、自分のロッカーにしまう。
「名古屋出身のバンドって結構多いので。ロケ地とか」
「へえー、そうなんだ。浅村さんやっぱ詳しいよね。おすすめいる?」
「あ、」ブルーレイン、と言いかけて、口を噤んでしまう自分がいた。「えーっと、オカくんって、普段、どういうの、聴くんですか」
「俺はちょっと前のアーティストが好き」
「まえの」
「えーっと、わかるかな。ブルーハーツとかユニコーンとか、レベッカとか、ブーム、……オヤジの影響で」
「あ、あたしも、好きです」
「へえ、マジ」
「あたしはブルハとスピッツで育ったので、」
「スピッツ、」
 オカくんが、ああ、という顔になる。
「……僕の天使マリ、好きだよ」
 あたしはそこでどっきんしてしまって、え、え、知ってるんですか、と珍しく上気した顔と声音で言ってしまった。
「すごい、はじめて、それ知ってるひと」
「ああ、そっか、やっぱあの三曲のイメージが強いもんね。俺らの代は。オヤジが結構スピッツのCD持ってんだよ。ちいさいころ、スイミングスクールの帰りとか、あと田舎のばあちゃんとこ帰るときとか、車でずっと流れてた。えーっと、確かあの、ヒトデみたいなジャケットのやつ……あれが好きだったな。五千光年の夢」
「え、オカくん、すごいですね。くわしい」
「や、全然。浅村さんのがくわしいと思うよ。俺、いいものは全部漁る感じのミーハーだし、好きなバンドって言ってもほんと、ほぼほぼオヤジの影響だからさ」
 オカくんはそう言って笑うと、ポケットからライターとマルボロ取り出して、一緒にいく、とあたしに聞いてきた。一本あげようか。あたしは頷いて、オカくんと一緒に店の裏に出た。


 オカくんは室外機に腰掛け、一本咥えるとすぐに火をつけた。室外機の音がいくつも鳴り、ちょっとあぶらっぽいにおいの生温かい風が入ってきて、あたしたちの髪を揺らしている。
 オカくんがふっとあたしを見る。
「吸う?」
「……苦いですよね、絶対」
「んー、苦いっていうか、くさいね」
 まあ吸いたくなったら、言ってよ。あげるよ、煙草くらい。
 オカくんがそう言ってマルボロをポケットに突っこんだから、ほしいです、と言ってしまった。オカくんはちょっとびっくりした顔して、それからイタズラの共犯者って感じの、にやあって笑いを浮かべて、あたしに一本差し出した。
「吸ってね、火がつくまで」
「吸うって、」
「ライターの火。吸いこまないと、吸えないよ。煙草」
 骨ばった白い指が、蛍光イエローのライターを押す。小さな火がぼっと出て、あたしはおそるおそるくわえたマルボロの先をくっつける。吸いこむ。やがて火が煙草にうつって、白い煙があがりはじめる。
「はじめはふかすだけでもいいと思う。むせるから」
「ふかすって」
「煙吸って、口に入れて、吐くだけ。吸うってなると鼻に入れるから、苦いよ」
 ん、と頷いて、あたしはオカくんの言うとおりに煙草をふかした。口の中に煙草のにおいと少しの苦味が丸になって充満しているのが、わかる。ぱかっと口開けたら、白い煙がふあーっと漏れ出した。
「……あの、オカくん」
「うん」
「この前、しらすの話、したじゃないですか」
 オカくんは携帯灰皿に煙草を叩きつけて、ああ、と言う。この前の?
「あれ、どうして、あたしにしたんですか?」
 オカくんがじっとあたしを見る。それから、ごめん、気に障ったかな、と言った。あたしは慌ててぶんぶん首を振って、ちがいます、と呟いた。ちがいます。
「ただ、気になったんです。どうしてかなって」
「……うーん、なんか、浅村さんなら、わかる気がした、から」
「なんで?」
「……浅村さんって、ちょっと、普通の女の子と違うから」
 あたしの怪訝そうな顔に、オカくんは煙を吐き出す。いい意味でね。あたしが首を傾げると、オカくんはくすぐったそうにピアスのついた左耳を指先で掻いた。銀色が揺れる。
「あのとき、浅村さんならわかるかなって思って、言った。ごめん」
「え、全然。あの、ただ、なんでだろうって、思っただけで」
 オカくんは短くなったマルボロを深く吸いこみ、深く吐いて、室外機に体重を預けた。
「……しらすって、若者の群れみたいじゃない?ちろちろ、カニとかエビが混じってるじゃん。あれはなんかこう、特別な人間って感じで、あとは量産型複数形みたいな」
「……ああ、」あたしは呟く。「たしかに……」
 ああ、たしかに。
 わかってもないけど、そう返事する。ひとのアイキューっていくつかずれてると会話が成り立たないって聞いたことある。オカくんは間違いなく頭がいいし、あたしは間違いなく頭が悪い。でもバレないように必死に取り繕っている。
「……そういうことだったんだ」
「そう、そういうこと。これ、友だちにも話したけど、おまえそんなつまんねえこと考えんなよーって、笑われた。まあそうだよね」
 オカくんを、いいなあ、と、思う。
 それは異性としてとかじゃなくて、ひととして。こんなに中身の詰まったひとが同い年なんだ、と思うと、オカくんを羨ましいと思うし、オカくんみたいになれたらなと思う。
 ひとをこうして羨んでしまうのは、あたしが結局空っぽだからだ。
 ……思いだした。人間ってお弁当箱みたいだよね、という言葉――言ったのは誰だったっけ。
 大学の講義でなんかをやったとき、えーっと、そうだ、映画。映画を見たとき、グループワークやった学年も学部も知らない女の子がそんな感想を言ったんだった。
 映画は「ニュー・シネマ・パラダイス」ってやつで、結構有名なやつらしくて、まああたしは当然のように知らなかったんだけど。映画に出逢った村の少年が映画撮るようになって、村からも出て、みたいな。なんかそういう青春映画だった気がする。
 ――こういう映画観ると思うけど、人間ってお弁当箱みたいだな―って。中身が詰まっていても、おなじおかずとか、白米だけだったら、なんか無機質だし。空っぽは、悲しいし。だからなんか、いろいろ学んで、経験して、いろんなおかず詰まった人間になりたいなって。
 ヘンテコな感想、って思ったけど、女の子はやたらと教授に褒められていた。賢い模範解答とはこういうもんなんだろう。
 オカくんならこの話、よくわかるんじゃないのかな。
 そう思って話そうとしたけれど、あたしはどう喋ったらいいかわからなくて困った。
「……あの、とある映画を、観たんですけど。大学で」
「うん」
「青春映画っていうか、ひとりの男の子の人生を描いた映画で。ちっさい村で育った男の子がいて、その村には教会で映画を上映するっていうのがあって。で、あの、映画を上映するおじさんがいたりして、なんだろ、とにかくその男の子の人生が、映画に出逢ってから変わるんですけど」
「うん」
「その映画観終わったあと、グループワークで感想言い合ったんですよ。それで、頭のよさそうな女の子がいて。その子が、人間って、お弁当箱みたいだ、って」
「お弁当箱、」
 オカくんが煙吐き出しながら空中を見上げる。それから、おべんとうべこ、ふうん、とひとりごとをこぼす。あー、わかる、かもなあ。
 やっぱり、とあたしはこころの中で呟く。
「……空っぽじゃ、おなかいっぱいにならなくて悲しいし、かといっておなじものだけじゃそれも悲しいし、だからいろんなおかず詰めこんだひとになりたいって。あたしはあんまり頭よくないから、それがその映画とどう結びつくのか、正直難しくってわかんなかったけど、」
「うん」
「……何の話だよって感じですよね。あたしもちょっと、話しててわかんなくなってきた」
 オカくんが笑った。ははは、なんてジブリみたいな笑い方だったからびっくりしてしまった。オカくんって、声上げて笑うんだ。まあそうか。人間だもんな。あたしもオカくんも。
「あ、……これ、たぶん、不安って、ことかもな、って」
「浅村さんが」
「はい」
 順序もなにもかもばらばら、まるでパズルの小袋はじめてテーブルにぶちまけたときみたいな、そういうおしゃべりしか、あたしにはできない。自分でも何喋ってるかわかんなくて、でもそうやって、延々だらだら言葉整理していくうちに自分でも理解できる、みたいな。
それでもオカくんは、口も挟まずにあたしを見ていた。
「あたし、ずっと、からっぽなんですよね」
「……どうして?」
「まったくのからっぽってわけでは、ないと思います。白米くらいはたぶん入ってる。でもおかずがない。あたし、なんだろ、……たぶん、白米だけでも食事になるって思ってるタイプだったのかもな、って。本当はおかずあったほうがいいし、もちろんわかってるんだけど、おかず作るの面倒くさいし、みたいな。てか、おかず、どういうものいれたらお弁当の見栄えがよくなるかとかわかんない、みたいな。おいしいってわかりきった定番だけ入れればとりあえずそれでもいいのに、そうしたくない自分もいて。……白米が好きなら、それだけでおなかいっぱいになるって思ってたし、そういうお腹空いたとかいうのは自分だけの感覚の話だし、いいって思ってたんだけど、最近まで……でも、お弁当って、実はひとに見られてるし。白米だけなんだこいつー、って、思われたら、恥ずかしいなって、それに、本当に最近、気づいたっていうか。それが恥ずかしいことだって、……なんかそういう、感じ、で」
「……うん、……浅村さんって、頭、いいよね」
 はあ、と間抜けな声が出た。どこがですか。うーん、とオカくんは随分短くなった煙草の灰を携帯灰皿に落とす。カレーみたいなにおいがどっかの排気口から流れ出す。
「自分では頭よくないって言ってるけど、そんなことないと思うよ。俺の変な話にも付き合ってくれるし、んで、お弁当箱って、そういうことだったと思うよ。俺も」
「……そっか」
「うん」
 オカくんに、うん、と言われると、そうだよなあと思ってしまう。それで、オカくんって、めちゃくちゃ教師向いてるよな。ぼんやり思う。
「オカくんは、あたしから見ると、ちゃんとしたお弁当箱って、感じ、します」
「マジ」
「はい」
「自力で詰めたんじゃないと、思うけど、でも、そっか。そう見えるんだ。よかった」
 ――俺は、自力で詰めようとしている浅村さんのほうが、ちゃんとしてると思うよ。
 オカくんは呟くようにしてそう言った。じりき、とおうむ返ししたあたしに、オカくんは襟足を左手でがりがり掻いた。
「俺、周囲のなんかで詰めてもらってるだけなんだよね、実は。俺が自力でどうにか埋めたのなんて、おかず一個くらいのもんじゃないかな。教師とかも、用意してもらった夢っていうか。自然と環境が俺をそうさせたっていうか、だから俺、抗ったことないし、そうですかこれが俺の道ですかわかりましたー、みたいな感じで歩き続けてるだけ」
「でも、叶えたじゃないですか。夢。ちゃんと」
 試験はまだだけどね、そう言ってオカくんは襟足をかくのをやめた。短くなった煙草を捨てて、また空中、どっか一点を見上げている。意外と長い睫毛が陽ざしに光っている。
「うーん、……俺は教師になるけど、それを自分の夢だったって思いこむようにしてる。……ってかんじなのかな」
「思いこむって」
「うん、じゃないと手持ちゼロだし。だって今ってさ、なんか持ってないときつくないかな。ここの人たちと喋ってても思うよ。あのー、川村さんとか、伊藤さんとか、あとー、」
「ハナちゃんとか」
「ああ、そう。そうそう」オカくんは新しい一本を取り出して、くわえる。
「なにかしら、好きなものとか理由付けをさ。……アイドルとかユーチューバーとか、推し、いたほうが、会話できるって。推し活してると自分がめっちゃ輝いてる気がするって、言ってた。教育実習先の女子高生が。で、夢ないって病んでる子もめっちゃいた。センセー、なんか持ってないと人と会話すらできない気がしてこわいんですよーって。俺もそう思ったな。理由付けしないと生きていけないよね、今って」
「理由付け、オカくんは、したんですか」
 オカくんは深くはじめの呼吸を繰り返して、白い煙をあたしの顔と反対のほうへ吐き出す。
「まさに教師じゃないかなー。俺、父親は教頭やってんだ。中学校の。母親は看護師。兄ちゃんは今、大学院行ってる。世間一般的に、ちゃんとした家って言われる。だから、教師になりますって言ったら、簡単だった。自分に理由つけることが。さっき言ったさ、あの、女子高生。本当はそんなに好きじゃないかもって思う瞬間があるんだってさ。他人の目から見たら、めっちゃオタクなの。ケーポップアイドルの。ライブもイベントも行って積んで積んで、でもときどき、そんな好きじゃないかもってなるんだって。でもやめないんだって。こわいから」
 白い煙が、オカくんのすっとした鼻からうっすら漏れている。あたしはふかしている自分がかっこついていないと思ったら恥ずかしくて、でももらった手前、長いまま捨てることはできなくて、指の隙間に挟んだままじっとしていた。
「……好きって、ハードル高いよね。ホンモノにするにはさ。でもホンモノってなんだろうなって思う。でもとりあえず好きなものがあれば人と繋がれる。共通の話題って、ないとだめなんだよね。俺と浅村さんが会話できてるのも、そう。で、共通点持つのにいちばん楽なのが、好きなもんが一緒ってことじゃない?で、そういう好きの手札いっぱい持ってるほうが人と繋がるには有利ってわかってるから、みんなとりあえず一そろい持ってるけど、本当のとこ死ぬほど好きなんてものはほとんどなくて、でもバレると生きづらいから、どうにかごまかしてやってんじゃないかな。で、ごまかしてるうちに自分でも騙されていく感じ」
「……オカくんって、頭、いいですね」
「さあ」
「なんか言語化うまい。理科より国語教師のがいいんじゃ」
「浅村さんも言うようになったね」
 でも俺は理科教えます。使いどころなんかないけどね、きっとね。
そう付け足してオカくんは笑った。じゃらじゃらのピアスがきらきらしていた。

          *

 スピッツとバンプだけをひたすら歌う一週間になった。プレハブは満員になり、だいたい四限終わりから終バスの出る夜の九時まで音が鳴り響き続けていた。
 ほこりくさくて狭苦しい室内に、ギターやベースを抱えた学生がひしめきあい、数センチあがっただけの簡単なステージの上で、誰もがプロみたいな顔してカバー曲をなぞった。
 十九時を過ぎるころにはときどき、マックやカップラーメンのにおいが充満して、軋む床板の上にあぐらかいてギター抱きながら、あたしはぼうっとヅルのことなんかを思いだしたりしていた。ヅルと最後に会ってから、もうだいたい一か月、そろそろ一カ月半。
「集合」部長がパンパンと手を叩く。「ほらそこもう弾かないで」
 あぐらかいてぺったん座るあたしは、数センチ上の部長の真っ黒なスニーカーを見つめていた。不器用なのか、蝶々結びがへたくそすぎる。固結びが最低でも三回繰り返されている。
「まあ本番まであと二週間切ったわけですけど、出演するバンドはそもそもオーディションで選ばれて出番貰ったってことを忘れないように。で、出られないバンドもだからって意味ないなんて思わないように。あと、俺らは最後の年です。これ終わったら引退なので、悔いのないように。就活と重なって苦しいとは思うけど、どうにかやってくれ。最後だから」
 どく、と心臓が唾飲みこんだ。さいご。その三文字で喉がどんどん乾いてくる。
 え、もうそんな経っちゃったんだっけ。
 ライブなんて数えるくらいしか出てないんだけど。え、うそ。
「浅村」
「……え、なに」
「なんか一言。今日おまえの番」
「あ、」そういえば先週、後輩に次はきぬせんぱいおねがいしますなんて言われていたんだった。うちの部活はよくわかんないルールがあって、毎週ひとりずつ、終礼でひとこと言わなくちゃいけない。あたしはギター抱いたまま立ち上がる。足がびりびりいっている。
「えっと、まず、あの、おつかれさまでした」
 おつかれさまでしたあ、とどっか間延びした声が返ってくる。無数の顔があたしに向いている。若干、ホラー。プレハブが薄暗いせいでコダマみたい。
「……部長も言ってたんですけど、あの、あたしたち三年はこれが終わったら引退、なので」
 片足体重なおしたら、床板がギギッと鳴った。それはあたしの首つったロープの軋みみたいになって、あたしは息苦しくなっていく。自分の吐いた言葉で。
「就活、大変だと思います。スケジュールも、バンドで合わせようってなったら、難しいし。実際、時間ってほとんど合わないし。でもなんとか、あの、」あたしって今、どの立場、なんだろう。「がんばりましょう。引退式まで、楽しみましょう。一、二年生は、あの、いろいろ負担が多いと思います。無理だけは、しないで、……」
 ――あたしって、今、どういう人間?
 先輩のうちのひとり?同期?あたしが就活しないのを知っている子たちは、あたしの今の言葉をどうとるんだろう。あたしは三年生だけど就活はじめてない。三年生、なのに。
「あの、イジョウです」
 以上、だか異常、だか、どっちともとれるおかしなイントネーションで話を無理やり締め上げて、あたしはぺたんと座った。そうしたら苦しさが倍増した。拍手が蚊の羽音みたいで嫌だ。
「浅村、次指名して」
「え、あ、」半端に腰浮かして、周囲見渡したら後輩のひとりと目が合って、にっこり笑ったから、その子を指名する。
 後輩は変わらない笑顔で、はい、と返事した。艶やかな黒髪がプレハブの安っぽい蛍光灯で天使のわっか作って光っていた。
 やーい、はくまいべんとー。
 そうやって馬鹿にしている子が、この中にひとりでもいたら、どうしよう。
 体育座りでぎゅっと手つないで、膝を抱きしめる。じじじじ、黄ばんだ蛍光灯がうっすら鳴いている。
 ほこりくっついたアンプが、真っ黒な顔のままあたしを見つめていた。


 ある程度人が減るのを待って、ギターケース背負って、ドアに手をかける。古びたプレハブ小屋のドアは最近建付けが悪くなってきていて、よいしょ、と力こめて引いてやらなくちゃいけない。じゃあねー、とあたしに手を振った同期に、愛想笑いで手を振る。
「きぬせんぱい」
 がたん、とようやくドアが開いた瞬間、うしろから後輩が声をかけてきた。
 さっき指名した、黒髪ボブのお人形さんみたいな女の子。小さい顔に並行二重の大きな目、長い睫毛に短い人中と中顔面、さくらいろのほんのりした唇。小柄なからだつき。オーバーサイズの古着が似合う。
 入部当時から、かわいい、と男子部員が騒いでいる子だった。素直で誰にでもじゃれつくタイプで、あたしは正直、こういう子が苦手で仕方ない。
「一緒に帰りません?駅前まで」
「……うん、」へら、と笑う。背中のギターが重い。「いいよ」
 後輩の歩幅は小動物で、あたしは早く歩きすぎないようにのったりのったりペース落として歩いた。そうしたらとっくに暗くなった夜道でぼやぼや発光する外灯と、そこに群がる蛾がやけに目について、かったるい。
「そういえばー、あのー、きぬせんぱいがよく聴いてるバンド、私も聴きました」
 え、と声が出る。あたしそんな話したっけ。
「ブルーレイン。いいですねー、あの、インスタもすぐフォローしちゃった。きぬせんぱいって、センスいいですよね。私、そういう発掘センスないから、ほんとに、すごい」
「ブルーレイン、の、話、したっけ」へらへら笑いながら、聞く。
「新歓のカラオケ大会で歌ってたし、それに、いつも聴いてるじゃないですか。スマホで」
 画面、見てたの?
 ぞっとしながらも笑い続ける。へらへらへらへら。てか、発掘センス、って、なに?
「そっか、そうだね」
「きぬせんぱい、引退しちゃうの、やだなー」
「……ありがと。あっという間だったな」
 空っぽな言葉しか返せなかった。揃わない足音。あたしと正反対のかわいい子。そんな子に、ブルーレイン、知られてしまった。そう思って、あー、あたし、最低だな。こういうブスさが、顔に、出てるんだろうな。
「私、きぬせんぱいのうた、ちょーすきです」
「……ありがとう。うれしい」
「私、うた、下手でー。だからベースいったんですけどー」
「うん」
 くるっと上向きのまつげ、オーバーな袖から少しだけ見える小さな手。あたしはこの子を見るとき、顔のつくりばかりを見つめてしまう。目がふと合いそうになって、前を向く。
 この子の歌、あたし、聞いたことない。だから、ソンナコトナイヨ、が使えない。
「きぬせんぱいは、たのしそうで、うらやましかったー」
「……そうかな」
「きぬせんぱいはいちばんたのしそうです、ほんとーに。うらやましいくらい。だって、私、好きなものがないんです。趣味もないしー」
「そうなの?ベースは?」
「わかんない。なにかを捨ててまでやりたいものじゃないし」後輩はそう言って、慣れた感じで唇をむーっと突き出す。「なんなら、やめるかもだし。三年生になる前に」
「え、もったいない」
「きぬせんぱいの引退のが、もったいないですよ」
「え、なんで?」
「だって、せっかくあんなにかっこいいのにー。ナナって知ってますか?きぬせんぱい、似てるー。黒髪ショートの、ちょーかっこいいキャラがいるんですよ」
 ……知ってる。
 言わないまま、あたしは無意識に右耳のピアスに触れた。ファーストピアスは少しずつ安定し始めているのか、最初のころに滲んでいた膿のようなものはもうでなくなっている。
「……いや、いや」
「えー、なんでー?きぬせんぱい、プロとかいけそうなのに」
「いやいやいや」あたしは苦笑いで手を振る。「ないないない」
「バンド組まないんですかー?引退後とかに。私、ぜったいファンになるのに」
 その言葉に、こめかみガツンと殴られた感じがした。
 ――なにもしてこなかったんですか?
 そうやって変換されてしまったのだ。あたしのなかで。
 それはこの前、ユダに笑われてしまったあの瞬間と重なって、またささむけがぴりっと広がって、どうしようもないほどくだらない傷になって痛む。
 ――はい、なにもやってませんでした。
 へらへら笑って言うには、バカっぽさが足りなかった。
 でも、のーたりんなのだ、あたし。実は。
 ハナちゃんやオカくんから見えているあたし、メンバーから見えているあたし、後輩から見えているあたし、その全部のあたしの姿は、着ぐるみみたい。
 オカくんと、この前話したことを思いだす。後輩は部長の話をしはじめた。仲いいですよね、と言われたから、全力で否定する。たまったもんじゃない。彼女は部長を見て、ベースを選んだらしかった。帰りに誘われたのはこういうことか、そう思いながら、あたしはオカくんの横顔を思いだしていた。そうしたらいつの間にか駅前まで来ていて、ほっとする。
「きぬせんぱい、何番線ですか?」
「あ、三番線」
「わー、そっかー、ちがう、かなしい」後輩はしゅんと子犬みたいな顔をする。むっとするくらいにかわいくて、完璧な顔。「じゃあ、おつかれさまでしたー」
「うん、ばいばい」
 後輩の、ケースに覆われた小柄な背中が消えていくまで見送って、あたしは一気に三番線のホームまで駆け下りた。背中のギターケースが戸惑ったように左右に揺れる。
 うぜえ。
 はーはー、息が切れる、でも切れていない素振りで深呼吸する。
 次の電車が来るまで五分。五番線で足止めて、線路を見下ろす。
 ――でも、あの子は間違いなく空っぽじゃない。産まれた瞬間から、そもそものお弁当箱の隙間が、ないんだ。
 生まれつきの武器は、いいな。いいよな、顔がいいって、それだけで、どうにか、なる。歳とればみんな顔おんなじになっていくんだから人生顔じゃないなんてきれいごとを平然と言っている人がどっかにいたけど、ちがうと思う。
 若者である期間、顔が強いだけで、不幸は、減る。そう思う。
 はーっと、長く、息を吐き出す。
 何者でもない、って、こんなに、からっぽなんだ。
 ぐるりとおなかが鳴いた。なにもしていなくても、おなかがすく。何者でなくても、おなかがすく。右のピアスにまた触れる。背中のギターがずっしりあたしを頼っている。あたしはナナじゃない、ナナにもなれない、そんであたしは自分がなんなのか、まだ、わからない。

          *

 簡易ステージの上、養生テープを千切って貼りつける。剥がすとき簡単なように、右端をちょこっと折っておく。
 秋の朝の風は、優しい。風が吹くとあたしの少しばかり耳にかかっている黒髪が揺れて、ピアスが顔を出す。でもあたしがピアス開けたことは、誰も知らない。
 イラストの得意な同期が描いた、軽音部のでかい看板が堂々とステージの向かい側に立てかけられている。組み立てたテントの下で、チュロス係の子たちがしたくをしている。
 ステージの上にあぐらかいて座る。抜ける青空を見上げたら、風が少し強くなった。
 ポケットに突っこんでいたスマホを取り出す。ラインを開いて確認するけど、軽音部のグループが買い出しや連携のためにしぬほどメッセージ送りあってるだけで、ヅルからの新しいメッセージはなかった。
 ――この前はごめんね、きぬちゃん。
 ――気にしてない。文化祭あるけど、ヅル、くる?
 既読無視。なんで誘ったのか、自分でもわかんない。たぶん、どうにか嫌な感じをごまかして流してしまいたかったんだと思う。
 ユダのことを思いだす。洗面所のデパコスも。嫌な記憶刻み付けられちゃったもんだ。
 あのあと、結局、おんなのこたち来たんだろうなあと思う。
 宿代わりにされて、ごはん食われて、風呂も使われて、どうしてヅルは平気なんだろう。いくらアンパンマンだって、怒るときくらいあるだろうに、ヅルはちがう。ヅルは誰にも怒らない。あたしはこんなに怒るのに。あたしは常に、なにかにたいして怒ってるのに。
「絹、養生テープ貸して」同期がステージの下まで走ってくる。「なくなっちゃった」
 はい、とステージの上から手渡す。同期はにこっと笑って、ありがとー、と言うとテントの方向に駆けていった。
 ステージの上は、少し陽が近い。そんな気がする。だから眩しい。
 またふっと空見上げて、そうしたらチカッと白い光があたしの目にぶつかって、眩しいから目がきゅっと細くなる。手をかざす。指の隙間から光がこぼれおちて、簡易ステージの軋む木の板に染みこんで消えていく。
 あたしは今日、ここで歌うことができる。
 こころが跳ねている気がする。あたしはときどき、自分の単純さを好きだと思う瞬間があったりする。
 どんなに落ち込んでいても、歌うときのあたしはバカみたいに無邪気になれる。
「浅村」部長がステージに上がり、あたしのうしろに立つ。影がさす。「機材、運ぶから」
「ん、わかった」
 プレハブから簡易ステージまで少しだけ距離がある。学生センターから借りてきた台車をステージの裏で開いて、部員数人でガラガラ押していく。秋の風は穏やかにキャンパス内を泳いで、あたしの髪や服やアスファルトの隙間の落ち葉を揺らす。
 部長がプレハブの傾いたドアにカギを回し、あたしたちは前日割り振った仕事をこなすためにそれぞれ数センチ上のステージにあがる。機材を動かすとほこりが舞って、カーテンすらない、濁った汚れのついた窓ガラスから飛びこむ光にキラキラする。
 ばたばたごとごと、そんなくぐもった音がプレハブに満ちて、あたしたちはほこりを舞い上がらせながら機材を運び出していく。台車に乗せて毛布をかぶせる。ずれないように紐で結び付けて、またがたがた台車を押していく。
 さいごかー。あたしの数歩前を進む同期がそう言った。それをきっかけに、みんなぽろぽろ、早いねーとかやばいねーとか言い合っている。台車の上、居心地悪そうに毛布かけられた機材が揺れている。
 文化祭当日、キャンパスのいたるところにいろんな出し物が用意されていて、テントが張られ、学生たちがオリジナルのTシャツ着たりコスプレしたりしながら準備を進めている。晴れてよかったねとはしゃぎながら自撮りをする女の子のグループとすれ違う。風が吹く。
 今日の大学はあの日の下北沢みたい。
 無機質なはずのキャンパスが色づけられている。数センチ、誰もが浮遊している。音も臭いも全部違う。いつもとまるっきり違う。
 みんなで機材を台車からおろし、ステージのバミリに合わせて設置していく。誰かがスピーカーとスマホを繋いで音楽を流し始める。
きらきら光るステージと機材とチュロスのにおい、大きな看板。テントの下、荷物置き場で身を寄せ合っているあたしのギターケースとみんなの楽器。ここはまるで小規模なあたしたちだけの国みたいで、心地いい。
 あたし、今日はちゃんと歌えるんだ。


 部内オーディションで残ったバンド十組。ぶっちゃけ引退手前の三年生バンドが優先的に残るんだけど、そうやって選抜されたバンドの順番は部長はじめ幹部って呼ばれる役職持ちの学生たちで決める。あたしのバンドは七番目。大トリは部長のバンド。まあ毎年こういうもんだ。
 荷物置き場で出番を待つ子たちが屋台の食べ物つっついたり、ぼけっとステージ見上げたり、スマホでなにかを見たりしていた。あたしも調達してきたごはんでさっさとおなか満たすために荷物置き場に腰をおろす。スピーカーのこもった音がここまで響いている。
「絹―」ビニール袋下げた池ちゃんと美奈子が入ってくる。「ごはん買った?」
「買った」あたしのギターケースの隣に座りなおして、ふたりぶんのスペースをあける。「一緒に食べる?」
「たべよたべよ、わたしたちも焼きそば買ってきたの」
 なかよしかよー、とあたしたちは笑う。
「え、そういえば、りんは」
「りんちゃんは回りたいところあるらしくて。ギリまで戻ってこないかも」
「あー、」焼きそばのパック開けて割りばしを半分にする。「おっけー」
 どっかの安い業者から仕入れた中華麺はソースに絡まれてくたくた、あたしの割りばしに必死にまとわりついてくる。でもべたべたしたこの味は好きだ。うすっぺらいキャベツと肉も。
「緊張してきたかも」
 池ちゃんがふとこぼす。絹はいっつも緊張しないよね、と付け足して、美奈子もうんうんと頷いた。あたしは焼きそば大きな口で頬張ってしまったから喋れなかった。
 ふたりの声は二番目のバンドの一曲目、馬鹿でかい、じゃーん、の音にかき消されてしまった。ふたりがそれで喋るのをやめてステージを見たから、あたしもぼんやり真似する。
 今日はよく晴れていて、めいっぱい光っていて、だからステージも眩しかった。
 ステージからテントまで少し距離があるから、ステージ上で歌う部員の表情は見えなかった。でもリズムに合わせて動いているそのからだが、集まった観客の飛び跳ねる髪やスニーカーの紐が、今、を特別にしていることを証明していた。
 みんなちゃんと光ってるな、と思う。
 きらきらしてる。ずっと、きらきらしてる。あのライブハウスみたいに照明がなくても。
「絹ちゃんって、」曲と曲のわずかな隙間に美奈子が呟く。「紅ショウガ食べないんだね」
「……ん、うん」プラスチックのぺこぺこする器の端っこ、色あせたピンクのかたまり。
 美奈子は食べないの?そう聞いたら、美奈子は、好きじゃないから食べない、と笑った。


 あたしたちの出番は午後三時を過ぎたころだった。昼間、少しだけ激しかった日差しはまるくなって、ぽわぽわ、眠たくなるようなあたたかさだった。
 いろんな場所から集まったひとたちがステージ上に出てきたあたしたちを見つめていた。ふと最前の右端見たら、志保がちゃっかりいた。目が合って、にやっと笑われる。
 マイクの前に、立つ。ギターケース脱いだあたしの愛するギターはストラップであたしと繋がれている。左右背後にいつもの気配。
いっこまえのバンド、ボーカルの背がでかかったから、マイクの位置があたしの鼻先ちょうどくらい。ちょい、高い。高さ整えて指先で軽く触れる。ぽぽ、とかすかな音。
 チューニングは終わってる。あとはここで二曲歌うだけ。
 歌うだけ。
 バンド名言って、よろしくおねがいしますでぺこっと一礼。パラパラ響く拍手。
 息を吸いこむ。借りてきた音とリズムをなぞりだす、池ちゃんのドラムと美奈子のギターとりんのベース。あたしはそこへ借りてきた歌詞をのせていく。自分たちにとっては上出来のモホウがはじまる。盛り上がってくれる観客。それで救われている。足元はきっと掬われている。
 笑顔の観客にほっとする。飛び跳ねてきゃーきゃーやる曲はチョイスしなかった。でもそれでいいと思う。あたしが聴いてきた好きはそういう種類の好きだった。
 口角があがって、もっと声が出る気がする。おちょうしもん。昔、あたしを笑いながらデコピンした母親の声を急に思い出しながら、でもそれはすぐ間奏の波に連れていかれる。
 あたしの声はどこまでも伸びて、それはキャンパス内の空を旋回して、何人かが足をとめて、そのうちの何人かがあたしを見る。
 ぞわ、と背筋が震えて、頭がかあっと熱くなって、音に、自分の声に、あたしは溺れていく。
 ――このままずっと、浮上しなくていい理由が欲しい。
 あーあ、あたしこうやってどこまでもいつまでもこうして生きていたいな、それでいいって言ってくれる誰かを探してる。それで自分のこと認めてくれる誰かのこともずっと探してる。
 たのしい、という言葉ほど、適切なものはなかった。
 浅い一言だと思われても、本当のことだった。
 楽しくて楽しくてたまらなくって、泣きたくなってきて、汗が滲んで、ストラップにかかるギターの、あたしのギターの重みが愛おしくて、最高とか楽しいとか終わってほしくないとか単純な言葉と感情ばっかあたしの中で爆ぜて、まるで花火みたい、この火は絶対的じゃないしいつか落ちて消えるのに、でも今はそんなこと考えるの嫌だった。終わらないで、どうかずっと、このまま、そこまで思って池ちゃんのドラムがタラタラタンッ、その合図でギターを持ち上げてかき鳴らす。
 あーあ、とあたしの中であたしが呟いた。
 わかってると思うけど、これさ、あたしの歌だったら、無理だよ。
 拍手の中、あたしは深くお辞儀をして、次のバンドのためにそそくさ舞台をおりた。首が痛いし肩が凝っている気がする。うつむいたままのあたしのどっかから、汗と涙が混ざって何粒か落ちた。
 やりきった、とまではいかない、でもやりのこしたこともない。
 テーマパークから一歩出たらそこは駐車場でした、みたいな。言語化、うまくできない感情がじわっと滲んだ。おもらしみたいに滲んで、あたしは俯きながらテントに向かって歩いた。
 どふ、と誰かのTシャツに顔面衝突した。奥で香った病院みたいなにおいで顔をあげる。
 ぶつかったのは部長だった。眼鏡の奥、睫毛ばっさばさのまばたきが数回、あたしを見つめ、そのあと、ぎょっとした顔になる。はじめて見る表情だった。
「浅村、え、なんで泣いてんの」部長の一メートルほど奥に、畳まれたあたしのギターケースがちらついた。はだかのギターは重いしつめたい。「なんかあったの」
「なんもない、早く帰りたい、そこどいて」
「……ごめん」
 なんでごめんなのかよくわかんないし、あたしの奥を見ようとするその目にむかついて、あたしはギター抱いてテントに入った。部長は一度あたしを振り返って、そのあと迷ったような顔で数秒立ち止まる。
 あたしは背を向けてギターケースに手を伸ばした。広げて、ギターが入れるようにする。
 浅村、と呼ばれる。
 すぐ傍に部長が立っていた。なに、とめちゃくちゃに不機嫌な声が出る。気まずそうな顔をして、部長は、あの、と口ごもる。
「ごめん、……あの、」あたしの右斜め奥を指さす。「ベース、とらして」
「……あ。うん、ごめん」
 部長はベースを取り、そのままテントを出ていった。
 あたしのギターはあたしに抱かれ、ギターケースにあたためてもらうのを待っていた。

          *

 くたくたのからだで布団に転がるなり、ぽこんと通知飛びこんできて、はじかれたみたいに身体を起こした。通知は慎くんのインスタのアカウントから。
 ――二十二時からインスタライブする。
 真っ白な画像にシンプルな黒文字。画面左上見たらあと三十分。
 ぼろぼろの扇風機が必死に風かき回し続けていて、夏よりしばらく気温は下がったけど、それでもまだ生ぬるい夜がある。空色のカーテンの裾がひらひらしてる。
 あたしが別に映るわけでもないのに、ぐしゃぐしゃになっていた髪押しつけて、だらしないにもほどがあるキャミソールとハーフパンツをごまかすように薄い上着を羽織る。大きく開け放した窓の向こうから虫の声。どきどきがおっきくなってきて、鼓動が虫の声より響く。
 二十一時五十八分からインスタを開いたままでいた。何度も画面下に引っ張って読みこんで、そうやって二分間を待った。インスタライブは一分過ぎてから始まった。
 慎くんがぱっと映し出される。どんどん増えていく右上の視聴者数。
 慎くんはじっと画面を見つめていた。どきどきが加速していく。
「あ、こんばんはー」いつものどっかゆるい声で慎くんが言う。「こんばんは」
 切り取られた背景には今までのライブでのセトリが貼られていて、ベッドの上にはあたしの知らないキャラクター、くまのでっかいぬいぐるみがくてんと横たわっていた。ずいぶん前に同期のバンドマンとゲーセンでとってたやつだ。ストーリーで困ったようにクマをだっこしている慎くんの写真があがっていたのを覚えている。なんかあたしキモいな。

 まことくん今日何食べたの!
 慎くんほんと顔いい
 まことくんコメント拾ってよー
 モテてる笑笑

 かわいい女の子の自撮りやアニメキャラのアイコンたちがそんな言葉をぽこぽこ慎くんに放っていく。そのいくつかを慎くんは拾って、また投げ返してくれる。
 あたしは今まで一度もコメントしたことなかった。この前のライブよかった、と打とうとして、二回文章打ち直して、結局やめてしまった。
 なんかここに入りたくない。なんか、だめ。
「今日はね、……あ、そう、そう、お礼言いたいなーって思ってさ、それであとまあちょっと、みんなとこうやって話せたらなって」
 慎くんはそう言って笑う。笑うと猫目がきゅっと下がって、かわいい。
「そー、みんなのおかげ。ありがとーね、レイニー、すごい伸びてんだよね。うれしい」
 レイニーは五十万再生をこえていた。右上の視聴者数がまた上がる。どく、どくどく、と嫌に心臓が暴れ出す。なんかお腹痛いかもしんない。
「歌詞好き、……マジで。うれしいな。歌詞見てくれんのが一番うれしいよ。まあ全部うれしいけどね、うん、……声もいい、はは、めっちゃ褒めてくれんじゃんどーしよーね」
 あー、……あれ、なんか、無理。
 あたしはひどい猫背のままスマホを見つめていた。コメントが流れていく。そのどれもがあたしの意識をかき乱しそうで嫌で、で、そんな自分が怖くて無理。
 はーっと息吐いて布団に寝返りうつ。スマホにそっぽ向いたら古びた壁が視界いっぱい。
「俺、……俺アイドルバンドじゃないよ」
 普段やわらかい慎くんの声が、さっきまで明るかった声が、急にぴんと尖ってあたしのこころを突き刺した。
起き上がってスマホを拾い上げ、画面を覗く。
 ステージの上でいつもきらきらの瞳が、薄暗いせいか真っ黒になっていて、彼の表情はなんともいえないかなしそうな顔していて、あたしはスマホを両手で抱いたまま、じっと画面を見つめていた。
 コメント欄の流れが少し早くなる。視聴者数が五、減った。
「でも、あの、……まあ、うん、しょうがないよね。ごめんね。忘れてください」
 慎くんはふとうしろを向いてアコギを取り出すと、大事に抱えてチューニングを始める。その手がかすかに震えているように見えてしまって、あ、とあたしは声をあげる。
「よーし、弾き語りするね。なに歌おうか、なにがいいかな」
 次の瞬間、もうやわらかい笑みが顔に浮かんでいて、ああ慎くんってやっぱ遠いんだってわかった。大人だな。あたしがこんなこと言われたらぜったいに顔に出ちゃうのに。
 ブルーレインはアイドルバンドじゃない。
 わかってる。あたしちゃんと知ってるよ、ちゃんと聴いてるよ、歌詞をどう書いてるかも、なに考えてるかも、あたしは見ようとしてる。軽い好きじゃないよ、ファッションじゃないよ、あたしは……あたしはちゃんと、ブルーレインの音楽を、帽子やネックレスとしてなんかじゃなくて、はだかのまんま、あいしてる。
 あーあ、そうやって気軽に言える人間だったらよかったな。
 コメント欄は一気に慎くんの擁護に移っていく。まだひとり、しつこく、アイドルバンドやん、なんて言ってるのがいたけど、慎くんの目はそれを避けるように瞬きを何度か繰り返す。
 あたしは唇噛んでいたのにそこで気がついて、ふっと口元の力を緩める。
 画面をタップする指先がつめたい。
 ――レイニー。
 あたしのコメントはすぐに飲まれていく。コメント見ている慎くんのまつげが、揺れる。
「……うん、レイニー、いいね。歌おうか」
 ひゅ、と息が飛びこんで、胸と肩が膨らむ。次の瞬間なぜか涙がいっぱいに膜を張って、揺れて、熱いままに下瞼のふちギリギリまで溜まった。瞬きしたら頬に熱が駆けた。

          *

 部活の引退式まで少しになって、あたしはギターに触れないようにしていた。
おかげで隣人に壁どんどんやられなくなったし、はんたいに隣人は真夜中まで酒飲んで騒いでいた。最近は、ふとんかぶって隣人側の壁にらみつけながら、無音の部屋で転がっている。
 音がないあたしの部屋はただ汚い。そんでただ、さみしい。
 アラーム三回目、いい加減起きようと無理やり勢いつけてからだを起こす。
 カーテン開けたらもう陽が暮れている。ほんとのほんとは早起きしてかわいいカフェにでも行ってみたいけど、いちにちのほとんどをこうやって無駄に過ごしてしまう。
 ギター触らないってなったら、眠るくらいしか、もうない。
 夕方はこのごろほんのちょっと、寒い。
 身支度整えてごはんは食べずにアパートを出る。背中は最近ずっと軽くて、理由なんかとっくに知っているけど、それでもはだかの背中が今は楽だった。
 電車に揺られて数駅、駅から徒歩数分のところにバイト先はある。
 ごちゃごちゃしている道をかきわけて早足で歩いて、店の裏口、オカくんがいつも煙草吸っているところのドアを開ける。
 おはようございまあす、と言いながらスタッフルームに直行する。
「あさむらー」パイプ椅子に座って猫背でインスタ見ていたみずきちゃんが手を振る。「おはよーう、ちょっとぶりだねー」
 みずきちゃんはあたしよりふたつ下だけど、背が高くて顔立ちもおとなっぽい。歳がふたっつちがい、っていうのはお互い最近知って、みずきちゃんは敬語に戻すって言ったけど、あたしは、そんなことしないで、と言った。彼女のやわっこいあさむら呼びも、適当に聞こえる喋り方も好きだった。
「おはよう」
「中番?」
「うん」
「一緒じゃん。やばー、つらいねー」
 ぴえんじゃーん、とみずきちゃんは呟く。ぴえんだよー、と言いながら仕切りのカーテン閉めて、そこでクリーニングされた無臭のワイシャツに着替えて、癖で右の指触って、あ、つけてないや、と思う。そうだ、やめたんだった。
「あさむら最近ずっと入ってない?シフト」みずきちゃんはカーテン越しに話しかけてくる。
「ちょっと稼ぎたいからー」カーテンにくぐもっちゃうから、少し声を張る。
 ちょっと稼ぎたいから、は、よんてん、ご、くらいの本当。ギターのいるアパートにじっといるのがなんかむなしいし、やりたいことも他にない。だからお金にかえちゃったほうがましかもしれないし。
 カーテン開けたらまたオカくんがぬるりとスタッフルームに入ってきて、わ、と小さく声が出る。
「あ、おはよ」
「おはようございます」
 ええおかくん、ちょっとマジ、金髪じゃなくなってる!みずきちゃんがオカくんの頭を見るなり叫ぶ。なんで、あ、そっかあれかキョウイクジッシュウでか!元気な声にオカくんは笑う。
「伊藤さん久しぶりだね」オカくんはスニーカーをコックシューズに履き替えながらみずきちゃんを振り返る。「なにしてたの」
「掛け持ち先が楽しくて、ちょっとそっちいってた」
「あ、なるほどね。なにしてんの」
「掛け持ち先?」
「うん」オカくんは次に自分のロッカーを開けて、そこに指輪を置く。オカくんも右手の人差し指に指輪をしてる。「飲食?」
「ピザとワイン出すお店。ワインがめっちゃあんの。種類が」
「へー」
「あさむらとおかくんってワイン飲むの?」
 あたしは首を振る。
 ハタチ迎えたすぐのころ、親戚のおじさんがなんかおしゃれなバルで高いワインおごって飲ませてくれたけど、あたしの舌はどんくさいから、なにがおいしいのか全く分からなかった。友だちと行く店の飲み放題も、いつもハイボールかレモンサワー。
「俺そのままは苦手。なんか割ってあんのは好きだね」
 オカくんはその場でワイシャツに着替える。
 あたしは目線を逸らして、壁掛けのホワイトボードを見る。店長のミミズっぽい字で、きぬ、ホール、と書いてある。
 オカくんはバー、みずきちゃんはハナちゃんと一緒にデシャップ担当だった。げんなりだ。あたしもデシャップで料理運んだり、皿洗いたい気分だった。
「おかくんちょー酒飲みそう」
 ははは、とオカくんは控えめに笑う。よく言われるよ。
「友だちとはめっちゃ飲む。でもひとりじゃ飲まないから、ほんとは好きじゃないのかもな」
「あー、なんかわかるかも。私もひとりだと飲まないなー。仲いい子と飲む空気が好きなんだよね、お酒っていうより」
 そこでハナちゃんが出勤してきて、みずきちゃんはハナちゃんとアイドルの話で盛り上がり始めた。
 オカくんはいつの間にか着替え終わって出て行ってしまったし、あたしはアイドルひとつもわからない。混ざれないし、十分前にタイムカードを押した。


 月曜日はいつものんびりしているのに、珍しく二十二時過ぎまで忙しかった。
 あたしは見知らぬカップルの記念日やら誕生日のために七回ケーキを出した。あたしが七歳年取った気分だった。
 飲み放題のグラス交換制ガン無視で、おなじの、を繰り返すおっさんとおばさんにいらいらし、ほとんど手つかずで冷え固まり、テーブルで渋滞していくコース料理を下げ、スキのない女とへらへらした男の合コンで無駄に何度も呼ばれた。
 べらべら一気に飲み物を言いつける男に、完璧なかわいいをまとった女が、ねえおねえさんこまるからあ、ゆっくりゆってあげてえ、と口を挟み、あたしの笑顔は引き攣った。
 い、を、ゆ、って発音する女は、嫌い。
 二十二時を過ぎるころにはあたしはげんなりしていた。山盛りの皿持ってキッチンに入り、洗い場に置く。残飯を捨てる。あたしの何食分になるんだこれ、と思いながらゴミ箱を見下ろす。ばかみてーなしごとー、と思う。
 今日ヤバいね、とケーキにろうそくさしていたハナちゃんがあたしに話しかける。やばいね、と返す。ろくな客いねえくそやろー、は言わないように飲みこんだ。
「びっくりした、え、やばいまじでやばいよ」
 突然、みずきちゃんが焦った顔でそう言いながら飛びこんできたから、あたしたちは、どうしたの、と聞いた。
「十二卓、男が薬盛ってるの。ワイングラスに粉薬みたいな、入れてて、え、どうしよう」
 は、薬?ハナちゃんが目を見開く。あたしの目もぎょっとなる。え、え、どういうこと?みずきちゃんは眉をしかめ、あたしの肩に抱き着く。
「十三卓に魚料理だしてさ、で、戻るときに、見ちゃって。私たちと同い年くらいの女の子、いたじゃん。ミニスカ履いてハーフツインの、プラダのバッグの子。ホストだかよくわかんない感じのチャラい男と来た子。あの子たぶんトイレ行ってて。で、女の子のワイングラスにさ、男がなんか入れてたの。サラサラサラって。ぜってー薬だよ、どうしようやばいよね」
「女の子戻ってきたか見てくる」ハナちゃんがそう言ってすぐに出ていく。
「店長に言った?」
「言った、言った」みずきちゃんはこくこく頷く。「マネージャー、くるって。系列にいるからすぐ着くって言ってた」
 女の子がトイレから席に戻るまでのあいだに声をかけ、結果、女の子は薬入りのワインを飲まずに済んだ。よかったねー、とあたしたちはほっとする。
 女の子がグラスにゴミが入っていると言い、あたしたちが謝って代わりを持ってくる、という芝居をうつことになった。でもそれだけだった。
 女の子が怖がりもせず、平然と、はあ、そうですかー、すみませんありがとうございます、と言ったことが少し怖かった。
 やがて来たマネージャーは店長と話し、それからキッチンに入ってきた。四十過ぎたばっかのマネージャーはまた隈が濃くなって、髪はぐしゃぐしゃで、髭だけはどうにか剃ってあるものの、くたびれた顔をしていた。ブルーのワイシャツとスラックスだけがぴんとしている。
「ごめんね、対応ありがとねー」
 いえ、とあたしたちは首を振る。みずきちゃんがこそっと、今日みたいなのって結構あるんすか、と半端な敬語で聞く。
「あー、あのねー、よくあるよ」マネージャーがぼりぼりこめかみ掻きながら、さほど気にしてもない口調でそう言った。「三か月くらい前にもあったよ」
「うえー、東京こわー」みずきちゃんが、わかりやすい、不快、の顔をする。「やばいって」
「んー、薬盛ってどうするんですか?その場で寝ちゃうでしょう。店出るときにわたしたちは気づくじゃないですか。あやしいな、くらいはわかるし」
 ハナちゃんの言葉に、マネージャーは気だるそうに答える。
「意外と気が付かないんだよ。ああいうのやるやつって、慣れてるからね。目をごまかすの」
「ホテル連れて行かれちゃうってことでしょ?犯罪なんだけど。通報しなかったんですか」
「してもねえ、しかたないんだよねえ。状況証拠不足っていうか。店としても介入したくないわけ。だからできるのは、さっきみたいに、女の子にこっそり教えるくらいしか」
 あたしたちは黙った。バイトがこれ以上話すことなんか文句以外にない。マネージャーがまあまあごめんね、ありがとね、と呟くから、みんなでぶるぶる首を振るだけだった。
 ――女の子襲うとかキモすぎる。性犯罪は全員しねばいいのに。
 ふとこぼされた、みずきちゃんのそんなつぶやきは、ホールから漏れ出るおしゃれな洋楽の隙間に埋まってしまって、はっきりとは残らなかった。


 二十三時に大半のバイトが退勤する。それはあたしも一緒で、時計がぴったり二十三時をさすとほっとした。
 今まで忘れていたみたいに足にずっしり疲れがおりてくる。
 タイムカード押して、順番に着替えていく。
「ねー絹」カーテン越しにハナちゃんが声をかけてくる。
「うん?」
「明日って講義ある?」
「ないよ」Tシャツ被ったら、慣れたにおいでほっとする。「どうして?」
「カラオケ、オールしない?って話してて」
「いこーよー」みずきちゃんの声も飛んでくる。「あさむらの歌聴きたーい」
「うちも、絹とカラオケ行ったことないから行きたい」
 いいよー、と言う。いいよ。カラオケの音でならいくらでも歌える気がする。
 ふたりが、わーい、と無邪気に言う。カーテン開けたらふたりは嬉しそうににっこり笑っていた。
「若いねー」オカくんが自分のシャツに袖通しながら笑う。「いいね」
「同い年じゃん、絹と」ハナちゃんが笑う。
「オカくんは、こないんですか」
「え、そうじゃん来なよ」みずきちゃんが言う。
「やー、勉強しないと、まずい」オカくんはあくびかみ殺しながらそう言った。「試験がね」
 ここでおっこちたら笑えないよ。
 そう言ってオカくんは笑った。じゃーね、カラオケ楽しんで。ひらっとあたしに向かって振った右手、人差し指にはまった指輪がきらっとしていた。
 自分の手を見下ろす。あたしの指は手がちっちゃいせいで短くて、なんかキモい。


 店出てすぐのでかいカラオケ屋に入った。三人そろって学生証出して、そうしたら安く済むからありがたい。入り口近くの部屋から音漏れ、染みついているあぶらっぽいにおい。ご利用時間朝四時。今から歌っても五時間はある。
 あたしたちが通されたのは結構広い部屋で、いいじゃんラッキー、とみずきちゃんが言う。ポテト頼んで、ドリンクを取りに行く。
 ドリンクバーのコーラはそんなにおいしくない。クラッシュアイスを埋めていく焦がした色のコーラは、しゅわしゅわ鳴きながら小さな炭酸の泡をあたしの頬に飛ばしてくる。
 ふと、春ごろ、池ちゃんが下北沢のコンビニで言ったコカ・コーラ現象を思いだした。
 ――瓶のほうが、おいしい気が、しない?
 下北沢に行きたいなーと思う。あの空間が一生終わらなければいいのにな。
 特別な瓶のコーラだけを飲んでいたい。ドリンクバーの、その場で水とシェイクするシロップじゃないコーラ。
 ずき、とどっかが痛んだ。
 あたし好きだよな。
 結局好きだ。
 じゃんけんして、一曲目はみずきちゃん、次にハナちゃん、その次にあたし。
みずきちゃんが曲を選んでいる間、あたしたちはドリンク飲んだり、DAMチャンネルでくっちゃべっているアイドルを見つめていた。なんかこの空気に耐えられないなと思う。
 歌っていないときのカラオケの部屋って、なぜか、……たとえば先生が怒鳴って静まり返った教室とか、別れ間際の、ふたりで向き合って座っているときの感じに似ていて、変に焦る。
 そのうちみずきちゃんはさくらんぼ入れてノリノリで歌いだした。隣でハナちゃんも同じくらいノリノリになって揺れて、手拍子しながら笑う。あたしもおなじようにする。
 もーいっかーい、とお決まりのアイの手入れて、コーラで乾いた喉を潤す。
 何色も混ざったごちゃごちゃの室内照明で、あたしたちの笑顔がときどき眩しくなる。頼んでいたポテトがくる。運んできたのが若いお兄さんだったから、ちょっときまずくなって、ぺこぺこしながらお礼を言う。
 みずきちゃんの点数が表示される。みずきちゃんはマイクをハナちゃんに渡し、やばいのど持つかなー、と笑う。持たせてよ、とあたしは笑う。
 なんか緊張するねえー、とハナちゃんが言った。ハナちゃんが入れたのはフレンズだった。え、レベッカ知ってるの?びっくりして聞くあたしに、これだけー、とハナちゃんは言う。パパの車で聴いてて、……喋っている途中で前奏始まって、ハナちゃんはあわててマイクを持つ。
 ハナちゃんはしぬほど歌が上手かった。
 ぎょっとする。カラオケの採点、画面に表示される音程のほとんどを綺麗にクリアして、ビブラートやフォールやいろいろおまけまできらきらついて、あたしの苦手なファルセットすらなんなくこなしている。
 やばー、とポテトつまんでいたみずきちゃんがはじめにでっかい声出して、ハナちゃんは照れたように首振りながら歌う。
 え、え、あたしこのあとに歌うの。
 ただのカラオケなのに、あたしの背中にたらっと嫌な汗流れた気がした。
 ただのカラオケなのに、もやっとした。
 十八番を入れようとしていたけれど、やめた。ふたりにばれないうちに予約リスト押して、取り消して、ランキング上位のヒット曲を入れる。
「絹の歌楽しみ」
 ねー、と笑いあっているふたりに、あたしはへたくそに笑顔を返す。
 だああまされたあなたがわるいんだよおおお、と隣室の男が絶叫し、いくつも大笑いの渦が聞こえ、そういう曲じゃないだろとどっかで思った。音楽をネタに使うなと思って、あ、あたし何様なんだろう、そういう曲かもしんないのに。あたしのそんな気持ちも、すぐに始まった前奏で押しこめられていく。
 はじめのフレーズ歌ったところで、ハナちゃんが目丸くして、うまい、と言った。ポテト頬張っているみずきちゃんもこくこく頷いている。二番目に触れるころには、かっこで表示されるアイの手のリズムを覚えたのか、ふたりとも口ずさんでくれる。
 ネタが切れてくると、同世代にしかわからないアニソンやネタ曲を入れ始めた。プリキュアは三人で叫ぶように歌ったし、ポケモンもケロロ軍曹も、なんならドラゴンボールも知ってた。のどが痛かったけど、あたしはコーラばかりを飲んだ。コーラの安い味はなにも考えないようにしてくれる気がした。
 ときどきトイレに立つと、店内の無機質さにはっとしそうだったから、早足で部屋に戻った。ドアを開ければそこにはみずきちゃんとハナちゃんがいて、ほっとする。あたしたちはついには決めていた順番なんか放りだして、三人で何曲も歌った。
 ――お楽しみのところ申し訳ございません。まもなくお時間でございます。
 鳴り響いたベルに白い受話器とったら、フロントの綺麗な女の人の声が、おジャ魔女の間奏の奥で聞こえた。右耳に指突っこんで、でかい声で、だいじょうぶですーありがとうございます、と答える。なにー、もうそんな時間?えがおはまんてーん、と言い切ったみずきちゃんが聞いてくるから、頷く。じゃあ最後になんか一緒に歌おうよ。
ひととおり歌ってしまったあたしたちは、数分間なにを歌うか真剣に話し合っていた。くだらない一瞬が、今は楽しかった。ハナちゃんが、ああ、とでかい声を出す。
「あれ歌ってない、あれだけ歌ってない」
 なになに、とあたしたちはデンモク操作するハナちゃんに顔を寄せる。曲名がいっつも思いだせないの、と言いながら、キーワードで検索をかけている。
「あ、」セーラーム、まで打ちこまれたデンモクを見て、あたしは言う。「ムーンライト伝説」
 それだー、とふたりがテンション高めに叫ぶ。あたしたちはそのまま、なぜかマイクも通さず、ほとんどがなるようにしてムーンライト伝説を歌った。
 あたしの好きなまこちゃんがきらきらしたセーラー戦士になって、そこでふっと、あ、まこちゃんと、慎くんって、名前、一緒だ、とどうでもいいことを思った。


 本当の本当に朝の四時まで歌った。久しぶりのカラオケ、変なのどの使い方で、なんだかびりびりする。レジ横に置いてあったのど飴もらって口の中で転がしながら駅に向かう。
 みずきちゃんは山手線、あたしとハナちゃんは中央線。改札通って端っこで何枚か写真撮って、なぜかハグして、ありがとねばいばい家着いたらラインしてねー、と言いあってホームにあがる。
 始発までしばらくある。自販機でココアふたつ買って、椅子に腰かける。
 眠気があたしの頭のまわりでもや作っているのはわかるけど、まどろむほどの強さはない。あたしはハナちゃんに膝枕してもらって、椅子と椅子の隙間にからだ横たえたまま、からっぽの寒いホームを見つめていた。口開けた缶からココアのにおい。
 ハナちゃんはスマホでなにかゲームしていた。ねえ、と声をかける。
「なに、それ」
「ポケモンGO」
「あー、」ごろりと寝返りうって、ホームに背を向ける。いろんな人間の指紋まみれになったガラスが見える。「たのしい、それ」
「んー、楽しいっていうか、時間つぶし」
「んー」
 そっかー、とあたしはひとりごとみたいに言う。そだよー、とハナちゃんもおなじトーンで言う。あたしポケモンやったことないんだあ、と言う。そうなのー?と聞かれる。そだよー。さっきのハナちゃんとおなじトーンで答える。ぽーん、ぽーん、なんかの音がホームに響いている。ハナちゃんは空いた片手であたしの髪を撫でている。
 ハナちゃんに、画面見ていい、と聞く。いいよお、とスマホを傾けて、ハナちゃんはあたしにポケモンGOを見せてくれる。なんかでっかいポケモンが画面いっぱいに表示されている。寝不足の目が乾いていて、名前がよく見えない。それだれ、と聞く。
「レジギガス」
 レジギガス。繰り返したあたしに、ハナちゃんは、これまだ捕まえてないの、捕まえなきゃ、と言う。それ、捕まえるゲームなの?答えの代わりに、ん、だか、ふーん、だか、音が返ってくる。とりあえず捕まえとこ、みたいな、とハナちゃんは付け足す。
「……ねえ、ハナちゃん」
「んー?」
「レジギガス、」れじぎがす、って、噛む。「つよいの」
「わーっかんない。わたしポケモンくわしくないんだ。ダイパやってたっちゃやってたけど、お兄ちゃんのおさがりだったし。全然やりこんでなかったし」
「ポケモンは、すき」
「うん、好き。かわいい。わたしはポッチャマ推し」
「あたしはたぶんメタモン」
「あ、かわいいよねえ。わかるよ」
 さら、さら。
 あたしの髪を猫の毛とおんなじように撫でるハナちゃんの指は、つめたくない。
 よくわかんないけど、好き。
 ハナちゃんのポッチャマへの愛は、そういうやつだ。それくらいがいちばんよかったんだ。こじらせた理由付けの好きは、厄介だ。バカみたいだ。で、実際、バカだ。
 あたしの好きは、先の見えない人生マラソンの給水所とおんなじだった。いっそ、うすっぺらい、透明な好きだったらよかったな。
 瞼をおろす。ハナちゃんがレジギガス捕まえられたかどうか、わからないけど。

          *

 ふとんに転がり、オールのせいでむくんだ両目を開いてSNS漁っていたら、暴露系ユーチューバーの名前とユダコーヘイが並んで急上昇ランキングに乗っていて、あたしは、は、と声を漏らした。数週間前に出会った、あのうさんくさい顔を思いだそうとしたけれど、印象がなかったせいか出てこない。
 ――ねーシブキくん、オネガイ、イッショウノオネガイ。
 ヅル、とあたしは口の中で呟く。ヅルからの返信は結局、ずっとなかった。でもヅルがいなくても、あたしは楽しかった。だから忘れていた。
 急上昇ランキングをタップする。
 レイプ。
 JKレイプ。
 未成年と都内高級マンションにてパーティー。
 ――片山紫吹。
 ひゅ、と息が止まる。え、なんで。なんでユダコーヘイのところにヅルの名前があるの。なんで。てかレイプってなに。JK?なにが?
 告発したAさんがどうとかそういうことを呟いている暴露系ユーチューバーのリプ欄はそれこそ地獄で、あたしはぱっとアプリを閉じた。それからユーチューブ開いて、さっきの暴露系の名前を入れる。空白いっこいれて、ユダコーヘイ、と付け足して検索をかける。
 生配信は昨日行われていたらしい。あたしがみずきちゃんやハナちゃんと、もーいっかい、なんて騒いでいたころだ。アーカイブがご丁寧に残されていて、「売れっ子クリエイターとイケメン歌い手がやらかす⁉」なんて三流週刊誌の見出しみたいなタイトルがついていた。

 えーあのお、あの、なんだっけ、曲作ってるねえ、歌い手のユダコーヘイさんと、えー、クリエイターの片山紫吹さんて人?が女子高生レイプしたっつうリークがね、あるんですよ、きてんですよ、それについてちょっと喋ろうか、ね、ああ、有名なんだ。俺知らないんだけど、なに、なんの人?……あーはいはいはいはいあれか。あの。結構バズったよね、ティックトックとか歌ってみたとかで。ふーん、登録者数が二百万人ね、すごいね。まあでもレイプはさすがにまずいんでちょっと確認しましょうか。ねえ。いいね。え、で、ユダコーヘイくんは?ああ、ユダくんが女の子集めて、ふたりで襲ってると。ああ、そう。やばいね。じゃあ話聞きましょうか、ねえ。

 暴露系ユーチューバーは電話かなにかを繋いで、淡々と被害者女性と喋っている。ボイチェンされた女の子は三人、それぞれ、Aさん、Bさん、Cさんと名前をつけられていた。
声を変えられていても、適当な喋り方や間違った言葉の使い方で、彼女たちがまだ若いことがわかる。

 だからあ、本当のこと言ってくださいよって、言ったの。付き合ってんのかどうか。
 で、付き合ってんの?付き合おうとか、言われたの。
 誰にですかー。
 あの、ユダくんとかカタヤマさんに。
 言われてなーい。DMからやりとりはじまって、で、呼ばれて、みたいな。進展ない、的な。
 だいたいどういう流れでそういうことが始まるんですか。
 ごはん食べた?とか、きて。あ、メッセが。で、うちお金ないもんって言ったら、住所送られてくるからー。なんかいい感じのマンション。コスメとか私物置いていっていいよーみたいな?困ったらきなよみたいな。で、ごはん食べてお風呂入って、なんか部屋があるの。
 部屋って?
 空き部屋―?なのかな、わかんないけどー、おふとんだけしいてあって。そこで寝ていいよって。
 あやしいとか思わないの。ほかの女の子とかブッキングしたの。
 あ、うん、ふつうにした。だってさんにんでやったりしたもん。
 誰と。誰と誰。
 だからあー、うちと、Cちゃんと、男。あと他にも。
 そもそも君たちはその、男の家ってわかって行ってるんだよね?
 そりゃわかってるけど、でも、うちら被害者でしょ普通に。男が悪くない?
 え、それな、それ、アタシもそう思うー。だって向こうが悪いじゃん。
 いやねえ、だってね、……だからって何回も行くのかって話でしょ。
 まあ顔は悪くないし。普通に優しいし。
 誰が。どっちが。
 カタヤマのほう。ママみたいな感じ。
 なに、ママって。ユダくんはどうだったの。
 ユダはマジ、最悪。でも顔いいからゆるせる的な。あれは下手。
 カタヤマさんは。
 あのひとよくわかんない。変なヒトって感じ。てかちょろい?

 吐きそうだった。
 あたしは最後まで観られずそこで動画を閉じた。バクバク心臓が暴れまくって、慎くんに会ったときよりひどい速度で肋骨にぶち当たる。
 ――空き部屋。
 空いてない、とあたしが頭の片隅で呟いた。あの部屋はあたしがいつも使う部屋。あたしが眠る部屋だった。困ったらいつでもおいでよなんて、ヅルが言うわけ、……いや、言うかも。だってヅル、アンパンマンだから。誰にでも平気で自分の顔ちぎって渡しちゃうから。
 じゃあ……さっき、さんにんで、って言った。
 そのひとりの男って、どっち。
 暴露系も、真実を暴くためじゃなくて、自分の好奇心を満たすために探っているみたいだった。女の子たちも、レイプされたって言ったら、普通あんなにへらへらしていられないはずだ。なにが本当なの。なにが嘘なの。ユダが悪いの?ヅルが悪いの?
 誰が悪いの。
 でもヅルは、ヅルは、一回も、あたしにそういうことしなかった。
 あたしは怖い目にあわなかった。
 それは、とあたしは膝を抱える。寒い。部屋が、寒い。あたしのからだが、寒い。
 ――それって、なんで?
 あたしが、過去の自分と似てるから?
 居酒屋でヅルがあたしに言ったことがある。きぬちゃんは、昔の俺を見てるみたいで、勝手に親近感抱いたりしてる、って。似てるって。
 そういうことなの?
 ヅルがあたしをそういう風に扱ったのは、自分で自分を慰める、あのオナニーとおなじなの?
 それとも、素直で自分の足音ちゃんとわかってる犬のきぬが愛おしいから?
 ねえヅル、なんでなの?
 優しいのは、バカだよ。アンパンマンは今の社会には合わないよ。せめて決めてよ、誰か、だけにしてよ。そうやってなんでもかんでも助けようとして、いろんな人間無差別に助けることで自分をどうにか保ってるから、こういうことになるんだよ。
 ヅルのトークルームを開く。あたしのタイミング悪いお誘いラインでずっと時が止まっている。は、と息を吸いこむ。は、と息を吐き出す。指先痺れちゃってる。
 ヅル、はなし、――一文字一文字が重たい。はなして、離して、変換が間違えているから消す。はなして、放して、これも違う。
それでこいつはだめだと思って、キーボードそのままに電話をかける。呼び出し音がむなしくあたしの鼓膜に響く。
 出ない。かける。出ない。かける。出ない。
はなして。ひらがなのままかたまったあたしの緑のフキダシがしんとしている。スマホをふとんにぶん投げる。部屋の隅であたしを傍観しているギターケース。
 すぐ傍、床にべっとりとフリーペーパーが張りついていたからぶん投げる。ぺらぺらの冊子にたいした重量はなく、手ごたえもなく、それは数センチ先にばっさと広がっただけだった。チラシを丸めて投げる。いっこ、ギターケースにぶつかりそうになって、あ、と声が出る。
 そんな自分にうんざりする。
 自分にとって価値のあるものにしか手を出さない。
 ユダにこころの中で吐き捨てた言葉がよみがえる。もうなんだってなにもかもブーメランだよ、あたしいつからそんなにえらくなったの。あたしいつから、自分のまわりの人間が自分を大事にしてるって思ってたの。傲慢かよ、バカかよ、キモいんだよ。
 ぶる、とスマホが震えた気がした。
 はっとして駆け寄る。拾い上げる。
 ――Makoto-blueがストーリーを更新しました。
 舌打ちが出る。しらねーよばかかよいまそれどころじゃねーよばーかばーか。
 部屋干しのまま最近型崩れしはじめた服を引っ張ってとって、着替える。着替えて玄関でスニーカーに足入れて、ドア押し開けようとして、あたしは止まった。
 行ってどうすんの。クソ迷惑じゃん。

          *

 連絡が来たのは、一週間も経ってからの話だった。そのあいだにあたしはほとんどひとりで、ほとんど無心で時間を押しつぶしていた。ぶちぶち、虫かなんかを小さい子どもが本能のままに潰すみたいに。
 シフトは希望出しすぎて削られたし、志保は就活に追われているし、バンドメンバーとはとっくに疎遠になりはじめていた。再来週はついに引退式だった。あたしはギターを抱かなかった。あたしが抱かないせいで、ギターはケースの中で孤独に眠り続けている。
 ――きぬちゃん、ごめんなさい。
 最初のラインはそれだった。ごめんなさい。いつも絵文字やスタンプを女の子みたいに使うヅルの白いフキダシは、講義で配られる資料みたいに無機質だった。
 ――きぬちゃんも、もう知ってるよね。ゆだくんと俺のこと。
 ――それでいま、すごくめちゃくちゃで。はなしたかったけど、いまきぬちゃんと会ったら、きぬちゃんがなにか被害にあうかもしれないって思ったから。
 ここまできてあたしの心配をしているヅルにぞっとした。ちがうでしょ、とあたしは画面を呆然と見つめながら言う。ちがうでしょ。なんでいっつもそうやってどっかずれてんの?
 ――ちゃんと話してよ。全部話して。
 今度こそちゃんと変換された。あたしは答えを待たずに着替えるとアパートを飛び出した。


 オートロックは無言で開いた。あたしはそのままヅルの部屋に向かう。変な特定厨とかいたらどうすんの、と冷静なあたしが言っていたけれど、名前のわからない感情がすべてを無視して、ただあたしの足を動かした。
 ドアを開けたのはヅルだった。
 あたしが入るなり、すぐにドアが閉まる。鍵がかかる。
 ヅルとあたしはそのまま数秒見つめあっていた。言葉と気持ちと全部が絡まりあってのどにつまって、お互いがお互い、なんにも言えない状態だった。久しぶりに見るヅルはいくらかやつれていて、でもいつもどおり寝ぐせで髪の毛ひとふさ外側にはねていたりして、このひとが本当にあんなことしたのかなんて疑いが滲んで、そのグロさにあたしはめまいがする。
 ヅル、と言ったつもりが、声になっていなかった。息を吐き出して、もう一度、言う。
「ヅル」
 やっと口開けたら、でろでろの唾液が糸引いて気持ち悪い。重たい、おなじくらいでろでろの濁った言葉が落とし物みたいにぼろっと落ちる。
 ――ヅル、うそなの、ほんとなの、どっち。
 そう聞いたら、ヅルは顔をぐしゃっと崩した。笑っているようにも見えて怖かった。
 ヅルは、きぬちゃんの見てる俺が、きぬちゃんにとってのほんと、と言った。
 どういうことって聞いたら、わからない、と言って、ついには泣きだしてしまった。大人は奇妙なほど、静かに泣く。泣いているのかほとんどわからない。
 声をあげて水をこぼすのが泣くってことなら、今目の前で静かになまあたたかい水だけをぼろぼろ落としているこのひとはなにをしているんだろう。そう思っていたら、またぐしゃっと顔がひしゃげる。落ちる水はどんどん床に落ちていく。
 男の人が泣くところなんて、あたし見たことなかった。はじめて見るヅルの泣き顔は、丸めて乾いたティッシュみたいだった。目と、鼻と、口と、いろんな顔のパーツがちゃんと見えなくって、変な気持ちだった。
 あたしはただつるつるの玄関に突っ立って、上がり框に立ついくらか背の高いヅルを見つめていた。安いのか高いのかわからない、でもヅルの部屋にあるんならおそらく高い、ルームフレグランスのバラのにおいが濃く、濃く、奥までたちこめていた。
 あたしは突っ立っているしかなかった。
 これ以上足を踏み出すわけにも、背を向けて帰るわけにも、いかなかった。
 あたしはいつもこういう立場だったのだ、とそこで思った。
 そうか、あたしは、実はずっと、こういう、半端な、
「きぬちゃん」
 ヅルがあたしを呼んだ。
 丸まった、乾いた、ティッシュ。
 あたしは、ん、と声を出した。それしか出なかった。
 バラのにおいが鼻の奥の奥の奥に刺さって抜けなくて、薔薇はにおいすら棘みたいだと思った。鼻の奥と喉の奥が鋭く痛んだ気がした。
「ヅル」あたしの声はいつしかあのボイチェンされたAちゃんの声みたいになっていく。「ほんとのこと言ってよ」
 ほんとのこと、言ってよ。
 ヅルは、いったい何人に、何回、これを聞かれたのだろう。
ティッシュはより皴を集めていく。あたしはしんから彼を傷つけていることを意識していながら、口を閉じることをしなかった。
「ヅル、ヅルなんか、」
 あたしは口の端にうっすら泡をためながらそう言って、どうしようもないかたまり吐き出してしまったことに今更ながら気がついて、もうそれは飲みこめないほど大きな、大きなかたまりになってヅルを小突き、ごろごろどんとあたしのつまさきにぶつかって止まった。つるつるした大理石っぽい玄関に、真っ黒なそれはおにぎりみたいに見える。鈍く、光りもせずに転がっている。
「あたしも、ヅルを、使ってた」
 あたしはたまらず俯いた。俯いて、つまさきで押しとどめられているかたまりを蹴り飛ばしもせずに見下ろしていた。
 ヅルがはじめてあたしに弾き語った、へたくそなチェリー思いだした。なんで今かな。気持ち悪いな。阿佐ヶ谷駅徒歩十八分、家賃五万円の傾いた部屋で歌ったあの歌と、冷えてぼそぼそのマックのポテトがくだらない思い出になっちゃった。そういえばあのときもあたしはコーラを飲んでいた。一口目は最高においしくて、しばらくしたらただの甘い水になるあれを。
「……でもヅル、もう、スピッツ歌わないで」
 ヅルはなんにも言わなかった。
 あたしはやっとのことで足を動かして、かたまりがそうしたらまとわりついてくるから転びそうになって、廊下に出てもつれるように歩きつづけ、ついには走って外に飛び出した。
  ――ねえヅル、どっち?ほんとうなの?嘘なの?あたしバカなんだってば、わかんないんだよ。言ってくんなきゃわかんないんだって。全部疑うしかできないんだよ。
 ヅル、あたしのこと、きぬだって、思ってるんでしょ。
 でも違うよ。
 きぬは利口だけど絹はバカなんだよ。

          *

 電車に揺られながら、あたしは鍵垢でインスタにログインした。ヅルのリア垢と繋がっているのは、こっちだけだ。
 検索欄に、ヅル、と入れて、そうしたらアカウントが出てこなくていらっとして、あ、ちがうじゃん、と名前を打ち直す。
 検索かければ一番上に片山紫吹のアカウントが出てくる。フォロワー数三百だったころが信じられないほど、多くの人間がヅルをフォローしている。監視しているみたいに。
 片山紫吹、のアカウント名の下、短く一文、曲を作っています、と書いてある。じっとしている。騒動を知らないみたいに、アカウントはじっといつも通りに存在していた。再生数は上がり続けている。
 炎上商法すかねえー、と呟いた暴露系ユーチューバーの声が耳の奥で再生された。
 馬鹿じゃないの。その前から売れてたじゃん。
 ヅルのマンション、そろった機材、質のいい野菜や果物やシャンプー、……そこまでで洗面台のデパコスとユダのへらへらした顔思いだしてうっとなった。
 もうわかんない。本当のことなんて誰も知らない。
 本当なんてどこにもなくて、この世には、本当のふりをした嘘とわかりやすい嘘のふたっつしか、ないのかも、しれない。
 最新の投稿、新曲出ますのリール動画に、予想通り虫が湧いていた。
 ――曲はよかったけどね。
 ――曲はね。
 ――女癖悪いやつほどいい曲作るのなんでなん?だれか教えてや。
 ――そら女のいろいろ知ってるから馬鹿な女がそれ聴くんだろ。
 ――なるせ。
 ――その通り過ぎて草も生えんわ。ゴミ。
 ねえ、とあたしはこころの中で小さく呟いた。
 ヅル、早くここからいなくなってよ。いなくならなきゃ。そうしなきゃだめだよ。
 ヅル、あのね、こうやって今もヅルは潰されてるんだよ。今もさ。
 どうしてアカウント全部残したまんまなの。事務所の意向なの。
 ねえ、やめようよもう。いなくなっちゃおうよ、そうしようよ、もうあなたが女の子としたとかそれが同意あったか無理矢理だったか冤罪か有罪かなんてどうでもいいから。あたしとおなじようにいなくなっちゃおうよ。
 そう思ったけど、そもそもヅルなんて男はいないし、片山紫吹はあたしと違って輪郭がある存在で、あたしのようにたやすく消えることはできない。
 ねえヅル、あたしのこと、はじめっから見えないふりしなかったのって、やっぱり自慰行為したかったからなの。それともあなただけには、あなただけには、あたしに少しでも可能性が見えていたの。あなただけが気づいていてくれていたの。
 あたしは全部のフォローを外し、鍵垢を消し、スマホを投げた。
 結ばれたまま、相互関係のまま、アカウントを消すことは出来なかった。
 全部、まるで服を一枚ずつ脱ぎ取るようにして今までのことを無視するしか、もうどうしようもなかった。