ライブに行った次の日、あたしはきまって泥のように眠る。
 目覚めたのは真昼だった。志保からお昼食べに行こうとラインが来ていた。ごめん、と三文字で返して、閉めきった空色のカーテンを見つめ、寝返りを打つ。
 数センチ開けた窓からぬるい空気。ぼそぼそした低音、隣人が誰かと喋っているのが聞こえる。
 ぐるり、目玉だけ動かして部屋中を見回す。散らかっている。
 冷ましていたヘアアイロンはいつものように折り畳みテーブルに放りっぱなしだし、靴下がなぜか片方だけ転がっている。直飲みしたミルクティーの青いパックがバカっぽく大口開けている。この部屋ごと停滞している。
 足で思いきりカーテンを開けた。
 おしおきのように眩しい光が目を刺した。うっと目を細める。布団蹴りあげて起き上がったら、頭がくらっとなった。埃がきらきら踊ってる。
 部屋干しのピンチからジーンズとTシャツ、つまさき薄くなってきた靴下を引っ張って、かぶる。
 部屋に吹きこむ風は生ぬるく、湿っぽい。梅雨がくる。
 あたしは気圧に弱いからこのごろ憂鬱ばっかりだ。全部、そのせいだって思いたい。
 家賃四万四千円のアパートはどこもかしこも古くって、特に最近、洗面台の鏡がなんか傾いている気がする。建物自体が傾いちゃってんのかもしんない。
 歯磨きながらあたしもちょっぴり傾いてみると、鏡のなかのあたしだけがぽきっとなっていておかしい。指先で鏡の角ちょっと押してみたら、なぜかびくともしない。
 口ゆすいで顔洗ってドンキで買った大容量の化粧水たたきこんで髪の毛とかして、そこまでしてやっと意識がはっきりしてくる。
 窓閉めて鍵かけて、ギターをケースにしまってやるとそれを背負い、床でくったりしているトートバッグにノートとペン突っこんで部屋を出る。


 うっすら湿っぽい晴れの日、五月の終わり。梅雨のにおいはすぐそこまでやってきている気がする。近所の家の大きな木がざわざわ揺れて、その葉っぱの青さになにか一瞬ひらめいた気がしたんだけど、形にもならずにとろとろ消えてしまった。
 ポケットからイヤフォン取り出して両耳塞ぐ。
 お気に入りの曲はあたし何回も聴いてしまうくせがあって、そういえば友だちに絹ってほんとに凝り性だよね、普通何百回も聴かないって、と引かれたのを思いだした。
 ブルーレインの曲はもう五百回聴いてる。
 あたしは好きに浸かっている自分のことが、きっとましに思えるんだろう。
 再生ボタン指先で触れたら、いつもと変わらない風景にあたしの好きが溶けこんで、ドラムやギターやベースや慎くんの声が重なって、あたしの意識は数ミリずつ浮遊していく。履きつぶしたスニーカーの足取りが軽くなっていく。


 あたしたちがよく使うライブハウスの向かい側に、貸し出しの防音室がある。
 合わせ練習や曲作り、ちょっとの息抜きで、あたしはここを使う。管理はライブハウスのスタッフが同時にやっているから、馴染みの人に連絡して、空いていれば自由に使わせてくれる。
 今日はあたしがいちばん仲良しの尾上さんって人がいるから、使いやすい。
 マクドナルドと薬局と家系ラーメンが並ぶ道通って、その奥がライブハウス。ポケットのスマホ見たらまだ時間は少し早い。
ポテトのにおいとあぶらのにおいにお腹空いてること思い出して、引き返す。
 ギターケースしょってる背中を意味もなく伸ばしてマクドナルドに入り、二階の奥の席でハンバーガーを齧る。
 窓に面した一人用の席はきらきら眩しくて、目がきゅうっとなる。
 平日の昼下がり、窓の外の往来はどこかゆるやかに見える。
 ピクルスのすっぱさが舌の上でぱちっと爆ぜた気がした。ガムシロップとミルク溶かしたうすいアイスティーと、チーズ溶けたハンバーガー、ちょっぴりしなりだしたポテト。緑色のトレーの上に並ぶそれと窓の外の光、ゆるやかな店内の時間、立てかけた真っ黒なギターケースがもうひとりの人間みたいに影を作る。
 ハンバーガーの包み紙ぐしゃっとまるめて、ポテトつまみながらギターケースを見つめる。昨日のライブの記憶がぽつぽつ、あたしの頭の中でポップコーンみたいに跳ねる。そうしたら、根拠のない自信がふつふつあたしを沸騰させていく。
 やけにポジティブになれる日は、楽だ。無理してるって思わなくて、済む。
 塩っけ強いポテトをアイスティーで流しこんで、フル回転しだした頭と得体のしれない焦りにせかされて、残りのハンバーガーを飲みこむ。
 立ち上がってギターしょって、階段降りて自動ドアを抜け、歩くあたしの足裏はまたどんどん浮いていく。このまま空飛んじゃいそう、な、くらい。おおげさじゃなく。


 ライブハウス入ってすぐ、バーカウンターのところで尾上さんが頬杖ついてなにかを見ていた。あたしがドアにからだ押しつけて野良猫みたいに入ってくると、ぱっと顔をあげる。
 尾上さんは、あたしがこのバンド組んでからすぐ知り合ったスタッフのお姉さん。真っ黒な髪はあたしよりすっきり短くて襟足を刈り上げている。
 ギターケースがちょっとドアに引っかかったのを見て、尾上さんは長い腕でドアを大きく引いてくれた。
 ――浅村ちゃん、時間ぴったり。
 尾上さんは大きく口を開けて笑うから、真っ白の揃った歯が見える。
「今日はひとり?」
「うん、曲の準備したくて」
「いいね。サマーライブ、出るでしょ?」
「ううん、」防音室の鍵取り出す尾上さんの背中見つめて、口ごもる。「……メンバーに聞かないと、ちょっとわかんないかも」
「そうかあ、みんなもう三年生だもんねえ」
 三年目の夏は、しらじらしいのかも、しれない。
 みんな、このころぽつぽついなくなっていっちゃうのよ毎年。就活って。寂しいけどねえ。
 そう言ってあたしの数歩前歩く尾上さんの真っ黒なTシャツが、青々した空の色の中でくっきり浮かんでいる。みんな。
 そうだよな、とあたしはこころの中で呟く。
 そうだよなあ、もう三年もこうやってんだ、あたし。背筋ちょっとぞっとして、アスファルトの割れたかけらをスニーカーのつまさきで思いっきり蹴り飛ばす。
 三年って。あたしはじめてギター買ったのが高校生。ていうか、あたしいつからこうなったんだっけ、あれ、あたし、あたし、……簡単な誰かの、しかも特別あたしに向けたわけじゃない言葉で、あたしの敏感な部分はすぐ冷や汗かきはじめて、さっきまで数ミリ浮いているとさえ信じていた足裏はぺったりアスファルトにくっついていて泣きたくなってきた。
 どうしたの。
 振り向いた尾上さんが真っ白な光に飲まれて眩しくて、目細めながら、なんでもないでーす、と明るく答える。嘘ついた言葉は青空にぐるぐる旋回して消えていく。
 ねえ、もうどっか行きたい。
 でもあたし、今、自分がどこにいるのかさえ、もうわかんなくなっている。


 ちょっとくらいオーバーしてもいいからね。
 そういっていたずらっぽく笑った尾上さんにあいまいに笑って、防音室のドアを閉める。
 狭苦しくて、ちょっと圧迫感の強いそこで、あたしはスニーカーを脱いでど真ん中に座った。ギターをちっちゃい子みたいに抱っこして、ボールペンとノートを出して、考える。
 だけど昨日見たあの光景のほうが強くて、思わず鼻歌が、慎くんの作った音をなぞってしまう。それから、思う。それで、実はずっと気づいていたことを、改めてそっと盗み見る。
 ここにしょっちゅう来るのも、今ここにいるのも、あたしひとりだけだ。
 ギターをチューニングしながら、思う。どくどく、心臓がいやだいやだと悶えている。
 ごまかして消化するために唾を大きく飲みこんだ。
 いくつか簡単なメロディ歌って、声出し。
 あたしの声って平均的な女の子より結構低くて、それが普段は嫌だったりするんだけど、歌でごまかせばなんかちょっと素敵っぽく聴こえちゃうんだから本当はいいのかもしれない。ね。
 軽く歌いながらふと顔上げたら鏡にあたしがちゃんとうつっていて、あたしは自分をじっと見据えながら歌い続けた。
 あたしの唇からこの防音室に広がっていくヒット曲。あたしが書いたんじゃない歌詞、あたしが重ねたんじゃないコード、出来は最高によくてあたしの声だけ蛇足。
 ああいやだ、なんて卑屈なんだろう今日のあたし。さっきまでは浮いてたじゃない、だめだよ自分のこと下げちゃ、どんどんどんどんずぶずぶ沈んじゃうよ。ねえ。
 足止めたら、おっこちる。
 ノート片手でべらべらめくって、簡単に考えてきた仮のコードに合わせ、さっきより少し声は張りあげて、歌詞を、吐き出す。
なんにも考えないように頭のなかでおっきい風船に空気入れるみたいに、そんなイメージで、ノンストップで、歌う。
 あれだけ書いたと思った歌詞、曲にしてみたらたったのふたつ。
 だからあたしまるで気が狂っちゃったみたいに繰り返し繰り返し歌い続けて、ふと言葉切ったら、ふ、と息の塊が出た。
 あたしが手を止めたら弦のゆさぶりがちょっとの音残してやがてそれも消えて、そしたら防音室が静かすぎて怖くなった。
 あ、だめ。
 だめ。
 やめよう。
 もうやめよう。
 悲しくなってきたこころは水分量どんどん失っていって、あたしはしばらく馬鹿みたいに、おんなじように口かすかに開けた自分の顔を見つめていた。
 真っ暗なスマホの画面が、トートバッグの上で電気反射して白く見えた。
 次の練習日、ラインスケジュール、今日か明日が締め切りだったと思う、でも通知まだ一個もきてない。
 知らないふりしようよ今はさ。あたし、変に繊細で嫌になっちゃうな。図太くいたいのに。
 じゃかじゃん、じゃかじゃかじゃん、何度も何度もそうやって弦まるで引っ掻くみたいにして、それでこころがどんどんしなびていく。
 大きくため息吐き出して、ギター抱えこんだまま前のめりになる。
 ほこりっぽい床に顔が近づき、短い横の毛がさらっとたれてちょっとの影を作る。頭に血が上ってどっかがどくどく言ってる。目を閉じたら眠れそうな気がした。
 ギターおいてドア開けて、そうしたら涼しい風が顔をなでる。
 尾上さあん。何オクターブか上げた声で呼ぶと、どうしたの、と声が返ってきた。
「もお、かえりますう」
 低い声をごまかしてちょっとでもご機嫌よそおうとしているあたしの声って、あんまり、というか、ほとんど、かわいくない。半開きのドアの隙間に挟まってドアにしがみついて、尾上さんがこっちへ歩いてくるのを待っている。
「もういいの」
 ん、と声になりきっていない音が出たから、こくんと頷いた。尾上さんは、順調かな、とからかうように笑った。どおだろお、とあたしはまたあのオクターブあげた声で言う。こころはしなびきってぺっとり地面にほっぺたくっつけてしまってる。
 荷物を取りに引っこむ。ドアを開けたまま、そこで尾上さんは待っている。
 ――あの、聴いてもらえますか。
 一瞬言いかけた唇がひどく乾いていたから、言ってしまったら血が出そうだった。やめた。
 聴いてもらったって、どうしようもないよ。
 だってこの人はいつも優しいんだから。
 でもあたし、正しい指摘もらったら、それはそれできっとこころがまたぐしゃってなるんだから、やっぱりやめたほうがいいのだ。
 ギターケースのファスナー閉めて、立ち上がったら足が痺れていた。
「ね、浅村ちゃん」尾上さんは優しく笑う。「ごはん行こうか」


 居酒屋の有線は皮肉にもヅルの曲だった。
 何度も聴いた、ユーチューブでランク入りしていた、いちばんのヒット曲。何人も、下手したら何十人も、ヅルの調律したソフトの音声なぞるみたいにしてカバーして、それがまたヒットして、ヅルの顔はぼやかされたまま、この曲はいたるところで流れ続けている。
 あたしはサワーの中で潰した梅干しを見つめていた。赤いぶにょっとした物体が漂っているさまは、まるで海の未確認生物みたいだ。マドラーで掬って、行儀悪く口に放りこむ。舌がつんとする。
 目線を上げると、なんこつを串から外そうとしている尾上さんと目が合う。
食べて、と言われる。手を伸ばし、小さいスプーンをとって、山芋につっこむと何口か連続で放りこんだ。ねっとりした味が広がる。
「浅村ちゃんはやっぱり歌上手いよ。わたし、いちばん最初のライブで印象に残ったのが浅村ちゃんだった」
「……うれしい」
 無機質に返事をして、うずらの卵を潰す。どろどろ流れ出すその橙色は、なんだか汚い。また行儀悪く、黄身をスプーンですくい取って、舐める。
 ヅルのマンションで食べたあのフライみたいに、甘くない。
 あたしはスプーンを置いてサワーを一気に飲み干し、トートバッグからぼろぼろのメモを出した。ボールペンのキャップを外し、新しい紙にそのペン先を当てる。
「思いついた?」
 尾上さんがメガジョッキを置いて、言う。
 あたしは剣山みたいになった串入れを見つめてうわの空で返事をした。
 開きっぱなしにしていたノートをぱらぱら遡ると、がさがさになったページにつまらないポエムが広がっていて、うんざりした。あたしに何が不足しているのかを、考えることが辛くなった。
 あたしは新しいページに、馬鹿でかいへのへのもへじを書いて、差し出された焼き鳥を息が詰まるくらい頬張った。


 とぼとぼ帰る。背中のギターはふんぞり返って、全体重をあたしに乗っけている。
 駅前で女がひとり、歌っていた。へたくそ、と最低なあたしが唾を吐く。
 あたしだっておんなじだ。でもむかつく。どうしようもなく、忌々しい。うるさい。
 イヤフォンで耳を抑え込んで、爆音で曲を流す。それでも間を縫って隙間を搔い潜って、女の声が混ざってくる気がする。ちらりと顔を見る。心地よさそうに歌っている。
 わたしうまいでしょ、とでも言いたげな自信にあふれた表情がむかつく。
 路上でオナニーすんな、と思った。なにもかも嫌になった。
 路上喫煙所の衝立のところで足を止めて、煙にむせそうになりながらヅルのトークルームを開く。あのね、ヅル、そこまで打って、やめた。
 あたし、別に、ヅルのなにかじゃない。
 人差し指一本あれば繋げられる関係性が今はただむなしいだけで、あたしはスマホを閉じた。イヤフォンから響く音のひとつひとつが頭痛を呼び起こす。

         *

 あたしはすぐぽっきり折れる。でもまるでたちの悪い雑草みたいにしつこく根は深く張っているから、放っておくと再生する。今は再生を待っていた。
 正しいかどうかなんて、知らない。
 目の前でパンを咀嚼する志保の、時折のぞく白い歯をぼけっと見ていた。
 ぼろぼろ、かすが落ちていた。志保はじっと、スマホの画面を睨みつけながら、まるで機械のようにパンを齧っている。
就活のいろいろで志保はこのごろ忙しくなった。それでも暇そうなあたしと一緒にいてくれる。たいしてあたしはおにぎり齧って、ぼけっと、今度は騒がしい廊下を見ていた。一年生らしき子たちが楽しそうにしている。
 海苔が口蓋にくっついて、舌をぐるぐる動かす。流し込むために馬鹿でかい一口を突っ込む。潰れた梅が眉間を寄せる。飲み込む。
「この前のレポート間に合ったの」志保はときどき、お母さん、みたいだ。「社会学の」
「うん、間に合った」
「そお」
「……志保、なに見てるの」
「企業説明会のスケジュールとかいろいろ。この前ポータルサイトにきてたやつ」
「ああ、」
 困っておにぎりを齧る。梅の酸味が、舌をきゅっと縛る。だからよけいになんにも言えない。
あたしはなんにもしていない。だって、就活しないって言っちゃったから。親にもそう言ってしまったし。あたしの親は放任主義すぎて、なんにも反対してこなかった。まあそうだろうとも、思ってたんだけどさ。
 ――そう、好きにしなさいよ。十八こえたらうちじゃ大人扱いだから。
 それだけ。助かるけど助からないよなあと思う。志保のお母さんは結構過保護というか、なんだろ、模範的母親のモデルって感じで、就活はじめてからちょっかいだされてうざいなんてため息ついているけれど、そんな志保がほんのちょっと、羨ましいと思う。
だって、今までリード引っ張ってくれていたのに、突然手を放す飼い主って、嫌じゃん。事実、あたしはおいていかれた犬みたいだし。まあそれが甘えって大人は言うんだろうけどさ。
 志保が、だるい、と言う。あたしは無意味に、うん、と答える。
 志保はぐしゃぐしゃ髪を掻いて、パンの袋を机上に放ると、急にあたしを見つめた。
「あー……絹はいいな」
「……え、どうして」
「夢があるじゃん。うらやましいよ。うちにはないもん。なんにもないもん」
「なんで、」
 夢なんか。
 あたしは言葉が出なくなる。右手に残ったちょっとのおにぎりのかたまりが、ぐしゃっと崩れてしまいそうで、必死に指で挟みこんでいた。
「なんでって」志保は苛立っていた。あたしじゃないどっかに。「わかんない。でも聞かれんの。書かされんの。やりたいことなんかないのにさ」
 志保の目が少しだけ、濡れた膜を張っているように見えた。気の強そうな眉毛はぎゅっと寄っていて、そのうち目が伏せられる。
雨上がりの湿気によく似た沈黙がおりる。
 なんにも言えなかった。
 志保は呻くように呟く。就活ほんまクソ。うん、としか、言えない。
 志保はテーブルに突っ伏してしまった。
 トイレ、と呟いて席を立つ。あたしはそのまま家に逃げた。


 布団に潜りこんで、じっと、呼吸を聞いていた。どうしてだかこんなに折れたまんま、みじめだと思う。志保のほうが、えらい。みんなのほうが、えらい。
 あたしは、えらくない。
 いつまで経っても、ぱっと、爆ぜることは、できない。あたしの中で熱が爆ぜるのはいつだって好きに縋っているときだけで、つまるところ、あたし自身で熱を孕むことなんてできない。あたしの芯の芯は、凍っている。動きもしない。あたしの中に意思がない。あたしは空っぽなまんま、見せかけで走っているのと一緒なのだ。
 あたしはまるで、くじの入っていない、フォーチュンクッキーみたいな生き物だ。
 鼻水を啜って天井を仰ぐ。
 停滞する。またここで簡単に停滞する。停滞するのは楽なのだ。どうして逃げてきてしまったかなんて簡単だ。あたしは志保よりちゃんとしていないから。
 今度ばかりは再生ができない気がした。
 それでも結局ふとんから這い出て、あたしはギターを出した。さっき鍵の回る音が聞こえたから、隣人は、いない。あぐらをかいてギターをかかえ、チューニングもせずに弾いた。
 むちゃくちゃなテンポと気まぐれな弾き方で、歌う。それから弦が一本ダメになりかけているのに気が付いて、買ってあった弦を引っ張り出す。
 ギターの弦を張り替えているとき、心がびくびくする。ぴんと張った攻撃的なその一本が、あたしの指先を切っちゃうような気持ちがするのだ。
 こんなにしょぼくれているくせに、ギターに触れたくなる。
 おかしい、と思う。あたしはやっぱりバカだな、とも思う。
 好きなのだ。どうやったって嫌いにはなれないことなんて、とっくにわかっている。自分のことをちゃんとわかってやれるのは、あたしだけなのだ。結局のところ。
 ぴんと張った綺麗な弦を見て、むちゃくちゃに弾いてやったことをじんわり申し訳なく思った。丁寧に弾いてやろうと思って、スコア集を出して、どの曲にしようか考えているうちに、はっとしてページを開く。
 あ、と思う。日焼けしたその一ページに、小さい虫食いの跡があった。
 おいしいんだ。あたしの一番好きな曲は、きっと食べつくせるくらいに。
 張り替えたばかりの弦でチューニングして、心地のいい音がする。弾いて、なんだか情けない声で歌って、角部屋だから、隣がいないとあたしはきっちり孤独になる。閉めっぱなしのカーテンのせいで、部屋中ぼんやり空色だ。
 手を止めて、畳に倒れこんで、天井を見る。
 ぼやけた光のかたまりが隙間から忍び込んで、まるで水面の光みたいに不確かに泳いでいる。あーあ、と思った。まるであれだ――高校の時にやった、山椒魚の気分だ。
 きらきらするのは外だけで、昼間なのにこの一室はくすんで見える。
ふとポケットに手を突っこんで、テーブルに投げてあったキャラメルを、ふたつ、一気に頬張った。甘みが強くて、少しびりびりする。
 上手く唾が飲みこめなくて、あたしはまたひっそり泣いた。

          *

 大学が夏休みに入って、変わったことといえばバイトのシフトが増えたくらいのもので――まだ再生はできていないのに、その無駄に太く育っている根がさらに下りていく気さえしていた。根本から、ぜんぶ嫌いになっちゃえば楽なんだけど、無理みたいだ。
「しらす、好き?」
「はい、」はっと顔をあげたら、まかないの白米をよそっているオカくんと目が合った。
「しらす」
 教育実習終えた彼の髪は真っ黒で、その黒染めが抜けてきたのか透けるように少し茶色い。
 なんで、しらす。
 オカくんはからあげをぽいぽい白米の上に乗っけて、ひとりごとみたいに言う。
「この前千葉に行って、友だちと。食べたんだけどさ。あんまり好きじゃないなって思ったんだよね。浅村さんは?」
「……あんま、」菜箸丁寧に差し出されたから、受け取って、あたしもからあげを乗せる。「おいしくないですよね、ちょっと。好きではないかも」
「だよね」
 オカくんはときどき、なんていうかちょっと、変だ。別に珍しいことではなかったから、あたしはそのまま話切り上げてキッチン出ていくオカくんの背中を見送った。
 おしり沈むソファの真ん中に今日もひとりで座って、ユーチューブ見ながらからあげを頬張る。味の濃いからあげ。あたしはまかないの中だとからあげがいちばん好きかもしれない。
 空腹にせかされるみたいにして噛みながら、適当に再生した動画がつまらなくて閉じてしまった。検索欄に、ブルーレイン、と入れる。
 最近、ついに曲がバズってしまった。あたしがいちばん好きな歌。コメントも増えてきてる。再生ボタンをタップする指先がかすかに震えている。売れてほしい。でも。
 もう何百回も聴いたイントロ、何百回も聴いたブレス、何百回も聴いた音、歌詞、最後のサビのくるり綺麗なファルセット、あたしのスマホの中でギター弾いて歌う慎くんのそのひとつひとつの表情――そのうちあたしの咀嚼は止まって、口の中のごはんが石みたいになっていく。
 邦ロック好きのアカウントとかが紹介しまくってて、ティックトックとかもそう、それで慎くんたちのフォロワー数も増えてる、……それでいいのに、そうなっていくのが、いいのに。
 おいていかないで。
 いっちょまえに、あたし、そう思ってる。
 おいていかないで。あたしまだ、あたし、スタートラインにも、いないから。
 どうしようもなく泣きたくなってくる。残りのごはんかきこんで、味の薄いスープとウーロン茶で流しこんで、皿押しやってテーブルに伏せた。
 どうやって進んでいけばいいの、そうやって考えてみたとき、なんかもう数年前、実はずっと前からすでに分岐点間違えちゃってて、なのにあたしだけが気づいていなくって、無駄な空回り続けてるんじゃないかと思ってしまう。怖い。
 物語の分岐点は常に結末を左右していく。あたしのこのうすっぺらい、酸欠の二十一年間、これからどうやって分岐して、あたしはどうやって辿っていけばいいのだろう。常に選択を迫られている。でも、もう、考えたくない。なんにも、考えたくない。
 好きだけで、呼吸させてよ。
 泣くつもりなんかなかったのに、小さい雫が落ちた。

          *

 ヅルに呼ばれたのは梅雨の消えた七月のどあたま。
 またどうせ新曲のアイデアでも浮かんだんだろうと思っていたら、そのとおりだった。
つい数か月前にアップした曲は瞬く間に流行って、まるでヅルは流行り病のなにかみたいだと思う。病的なほど、何回スワイプしても、ヅルの作った音源で踊る女の子が出てくる。そのたびあたしは画面長押しして、最低に冷たい「興味ありません」を八つ当たりのようにタップし続けていた。
 ――音源がちょっとできたんだ、聞いてほしいな!
 電車の中、ヅルとのトークルーム開いたまま、ぼけっと向かいの窓に映る夕方の景色を見送っていた。
 両耳に突っこんだイヤフォンからはブルーレイン。お気に入りの黒いブーツとすっぱりそろえた黒髪のショートヘア、変わったのは洋服くらい。半そでのTシャツから伸びる自分の腕は、あと一か月もしたらまた小麦色になって、しばらくしたらもとの色になっていく。
 そんなことぼけっと考えて、ふとスマホに視線戻したら、自分の右手にはまった指輪を外し忘れていたことに気がつく。一瞬、このままでも別にヅルは気にしないしあたしなにを気にしてるの、と思ったけれど、やっぱりだめだと思ってジーンズのポケットに突っこんだ。
 改札出て、駅から徒歩十分くらいでヅルのマンションに向かう。べたついた空気はむわりとあたしのからだを覆って、つうっと汗がいくつか筋をつくって垂れていく。
 うっすら息切らしながらマンションのエントランス入って、そうしたら少しだけ涼しい。
 いつも通りヅルの部屋番号押そうとした瞬間、後ろから誰か入ってきた。
 視線だけ送る。百八十センチはありそうな背丈の男の子だった。黒いマスクで顔が見えない。くしゃくしゃ、わざと無造作にセットしている黒髪。新宿歌舞伎町付近でよく見る服装とごついブーツ。左の手首にたぶんブランド物のブレスレット。
 目線を外して、ヅルの部屋番号を入れる。
「絹だよ」
「あー、おかえりー」
 ヅルの間延びしたいつもの声に気が抜けそうになる。ヅルは昔から、誰にでも、おかえり、と言う。変なやつ。とことん変なやつ。
「あれえ」
 ふっとうしろに気配を感じて、思わずからだが跳ねる。
「シブキくーん、おれ」
 振り返ったら、さっきの男の子があたしの真後ろに立って、オートロックのカメラに向かって手を振っていた。状況が飲みこめなくてあたしは固まる。
「あ、ごめんねえ」男の子はあたしを見て目だけで笑う。「おれも知りあいー」
「ゆだくんもいるの?」
「ゆだくん、って、この、ひと?」
 ヅルの呼びかけにあたしは混乱した頭で言う。いや、あたしこのひと知らないんだけど。
「一緒にはいってきて」
 ヅルはそれだけ言って鍵を開けてしまった。自動ドアが開く。あたしは男の子を見る。
「どーもお」
 男の子がまた目だけで笑ってそう言った瞬間、うわ、こいつ、いけすかねー、と思った。
「ユダです。よろしくー」
「はあ、あの、浅村です」
「シブキくんの知り合いー?」ユダはエレベーターのボタンを押す。「あ、どーぞー」
 どうも、と軽く頭下げながらエレベーターに乗りこむ。左奥にあたし、右手前にユダが乗る。ドアがしまる。沈黙と閉塞感でつまさきがかゆい気がする。
 ぐああーん、とエレベーターが一気に浮上する。足の力が抜ける感じ。あたしこれ嫌い。
 ヅルの部屋がある階に着くまで、なんにも喋らなかった。ユダはドアをじっと見ていてあたしを振り返ることはなかったし、おかげであたしはつまらないグレーの壁を睨み続けることができた。
 玄関ドアを開けたヅルはいつも通りウルフの髪がふわふわしていて、なんなら襟足に寝癖がつきっぱなしだった。ユダの隣で気まずそうにしているあたしにほほえむ。
「おかえり」
「ただいまー」
 明るく答えたのはユダだけだった。どうぞ、と言われて、ユダが先にヅルの部屋にあがる。あたしは気おくれしてのろのろ歩いた。ブーツがぐっしょり、水吸ったみたいに重い。
「ゆだくん、急にどうしたの。いつも連絡してからくるのに」ヅルはちょっとだけ困ったような顔で笑っている。いや、なんで笑ってんの。玄関のクソ狭い空間であたしだけが真顔だ。
「たまたま新宿で飲んでてー。シブキくんにあおっかなーって」
「また新宿にいたの?」
「トーホーシネマのあたりで遊んでた」
 クソ治安悪いところじゃん、とあたしは思っていた。つか、今五時半だけど。飲んでたって、何時から?飲んでたというわりには、ユダからは香水のにおいしかしなかった。瞬間瞬間で、甘ったるいにおいが顔を見せる。あんまり長時間隣にはいたくないにおいだった。
 お邪魔しまーす、とミリも思っていない声音でブーツを脱いだユダがリビングに入っていく。ヅルもそのまま一緒にいなくなってしまって、あたしはおいていかれたみたいにぽつんと座ってブーツを脱いだ。こもった熱がぬるりと玄関の空気に混ざっていく。
 洗面台に入って、いつもみたいにハンドソーププッシュして手を洗う。ヅルの家、昔はキレイキレイでもない、ドンキの大容量のハンドソープだったのにな。泡を洗い流してタオルで手をぬぐう。あたしの手のひらに鼻先くっつけたら名前も知らない花のにおい。
 スイッチ消そうとしてデパコスのかたまりに目が行く。右から三本目、ボトルのキャップにはまだ長い髪が一本はさまっている。誰のだよ、って聞いたことなんかない。必要ない。
 リビングにはいったら、ヅルは奥のキッチンに行ってしまっていた。クソ気まずい、と思いながらソファの端っこ座ろうとしたら、ユダがど真ん中に座っていた。
 目が合う。ユダはマスクを外していたけど、別につけていても外していてもどっちでもいいような顔のつくりをしていた。綺麗に配置されているけど印象に残らない顔、って感じだった。
 ユダは不躾に文字通り上から下までじろじろあたしを見つめ、キッチンに向かって声を張り上げる。
「てかシブキくーん、これ、カノジョ?」
「は?」
 これ、とユダはもう一度繰り返した。奥で飲み物用意していたヅルが、え、なに、なに、と言いながら出てくる。あたしはあたしをこれ呼ばわりしたユダにあんぐり口開けていた。
「きぬちゃん。おれのいもうとみたいな子。歌すごい上手なんだよね、ね、きぬちゃん」
 ぶ、とユダがなぜか笑う。え、マジで、イモウトミタイナコ、って言葉使う人いたんだ、シブキくんおもしれー。ヅルは若干困惑した表情でなんとか笑っている。本当に意味をわかっていないらしい。いやふたりとも勘弁しろし、とあたしは思った。なんだこいつ。
「もうしたの?」
 ユダはニヤニヤ笑いながら、あたしにだけ聞こえる声で聞いてくる。
 かっと頭が熱くなった。なにこいつなにこいつなにこいつ。キモ。
「あの、普通に知り合いです。友だちとまではいかないですけど」
「ふーん。てか、キヌチャンって、何歳」
「二十一、です」
「え、年上じゃん、ウケるー」
 なにが?
 あたしはそう言いたいのをぐっとこらえる。飲み物淹れるの手伝いに行こうと思ったら、もうヅルがマグカップみっつ持ってこっちに来てしまっていた。諦めてラグの端っこに座る。
「ふたり、歳近いよね」
「一個差だったー」ユダはヅルからマグカップ受け取ってけらけら笑った。「俺が下―」
「あ、きぬちゃん、あのね、ゆだくんもボーカリストっていうか、歌うたってるんだよ」
「……へえ、」空っぽな声が出る。「スゴーイ」
「え、俺のことマジで知らない?結構有名なんだけどー」
 ユダがこてんと首を傾げてくる。わざとらしい動きのひとつひとつが癪に障る。
「……ごめんなさい、わかんないです」
「ユダコーヘイってユーチューブで調べてみてよ」
 あたしは引き攣った作り笑いを浮かべ、スマホに、ユダコーヘイ、と打ちこむ。
 すぐにチャンネルが表示された。登録者四十二万人。
 うまいこと、高そうなマイクで顔隠したサムネがずらっと並んでいる。そのトップ再生数を誇っている動画は、ヅルの曲をカバーしたものだった。
 ……そういえばこの顔、あたし、ティックトックの切り抜きとかユーチューブのショートで見たことあったかもしんない。スゴイデスネー、とまたからっぽの声がもれる。
「キヌチャンもユーチューブやったら?」
「……や、そういうのは」ヅルの淹れてくれたインスタントのカフェオレをひとくちだけ飲みこむ。熱くて味がわかんない。「やんない、っていうか、あの」
「きぬちゃんはバンドマンだから、ね」
「へー。すっげー。あ、デビューしてんの?」
「……ただの軽音部です」ひりひり、まるでささむけひっぱっちゃったとき、よけいに横の皮までむけたみたいな、アレに似たひりつきが胸のあたりに走った。「プロとかじゃない」
「あ、なんだー、そーゆーことねー」
 へら、と笑う。あたしは笑う。ユダはあたしよりからっとした笑顔であたしを見ている。
 ……ひりつきは思っていたよりも深い傷から走ったものらしかった。でもこれを被害者ぶって振り回して涙流すには、あたしは不完全だ。
 あたしはずっとどっかが冷静だ。きんきん冷めてる。悟ってる。そんな自分にも冷める。
 カフェオレを一気に飲む。
 コーヒーは嫌いじゃないけど、コーヒー味は嫌い。いちごは好きだけど、いちごミルクを好かないのと似た感じがする、ぼうっとそう思った。
 ごはんのしたくしてくるよ、ヅルがそう言ってキッチンに消えていく。ドアが閉まったところで、ユダはソファの上からラグの上のあたしにずっと顔を近づける。長い睫毛がぶつかりそうで顔を引く。なんか変なフルーツみたいな、高い、って感じの人工のにおいがする。
「マジでなんもないの?」
「は、……え?」
「や、だから、シブキくんのセフかガチ彼女じゃないの?」
「本当に違います。面倒見てもらってるだけで」
「……あー、うん。ならそーゆーことにしとくね」
「……本当にやめてください。あの、ヅ……シブキさんはよくしてくれてるだけなんで」
「何きっかけ?」
「四年前くらいに知り合いました。それだけです」
「四年前って、ギリJKじゃね。いいのそれ」
 いらんこと言った、と思いながら、残りのカフェオレを見下ろしていた。
 なぜかどんどんあたしが窮地に追いこまれているような気がして、嫌な汗をかいている。
 それから振り返る。今までのヅルとあたし、それぞれのそれぞれに対する行動を思いだす。警察に捕まる直前ってこういう走馬灯見てんのかな。でも、記憶の中のあたしたちはそういう線を踏んだこともなかった。それは確かだった。
 ユダが、ぶは、と笑った。あたしはまたあんぐり口開けて、ユダを見つめるはめになった。
「ま、普通に疑ってないけど。焦ってんのおもろ」
「……は」
「だってシブキくんってド天然どころの話じゃないじゃん。嘘つけると思えないし。しらふで、つーか真面目に、イモウトミタイナって言葉使っちゃう人間だよ」
 その言葉で、どうやらまたヅルは下に見られているらしいということを知った。
 ヅルって基本そういうタイプだ。
 ユダはなにかまた喋りはじめたけれど、脳死状態のあたしはほとんどまともに聞いちゃいなかった。ヅルには間延びしていた声が、あたしの前だと冷え切った声になるのがキモかったし、話をほとんど覚えてないのも、たぶんユダが想像以上に空っぽだったからだと思う。
 つーか、おまえ、ヅルの曲でヒットしたんだろ。
 あたしはユダにあいまいな作り笑いで相槌打ちながら、ずっとそう思っていた。自力じゃないくせに。ひとの作ったものを自分でなんとか真似してるだけのくせに。
 そうだ、こいつ、価値のわかっているものにしか手を出さないんだ。たぶん。
「ごはん、どれくらい食べたい?」
 ふいにヅルがにゅっとドアから顔出してきて、あたしははっとした。両手に抱いたままのマグカップはいつしかぬるくなり、カフェオレは濁りきっている。
「あ、ねーねーシブキくん、おんなのこふたり呼んでもいい?」
 ヅルが、え、という顔になる。あたしはその倍の、ええ、の顔になった。
「おなかすかせてるって子?この前の?」
「や、別の子―。お風呂も入れてないんだってー。ね、せめてごはんだけ。おれその分出すからさー」
「出さなくって、いいけど、でも、」ヅルは一瞬あたしをうかがった。「でも、」
「いいっしょ、キヌチャン」
「え、いや、あたしの、あたしの家じゃ、ないし、」
 そう呟いて、あ、そうだよなここ他人の家だわ、じゃああたしもヤバくね、と思った。
 ユダは漫画みたいにぱちんと手を合わせ、へらへらした顔でヅルを見つめている。その目の奥だけがどうにも笑っている感じがしない。気持ち悪いなこいつ、と思った。
「ねーシブキくん、オネガイ、イッショウノオネガイ」
 ヅルは結局、へにゃへにゃ笑いながら、今日だけね、と呟くみたいに言った。
 その、今日だけね、を、何回繰り返したの?
 ヅルはひとを疑わない。バカな白雪姫みたいで笑えちゃう。
 疑わないのは美徳じゃない。ただのバカだ。って思ってるくせになんにも言わないあたしは、そんなヅルより何倍もバカだ。
 あたしは耐えきれなくなってマグカップをヅルに押しつける。バッグを肩にかけ、リビングを出た。あたしのマグカップ大事に持ったまま、ヅルがドラクエのドット絵みたいにくっついてくる。ふっと洗面所横切った視線、その隅っこに、暗く塗りつぶされたデパコスのかたまり。
 イッショウノオネガイ、って一生に一回のお願いじゃなくって、一生使い続けるお願いの間違いでしょ。
 てか、ずーっとあったあの洗面台のデパコスの山も、結局ユダが連れてきた女のもんってこと?いや、ヅル、バカなの?おなかすいててぴえんぴえん、の女がデパコス持ってるわけなくない?いつから?いつからこんな目にあってたの?デパコスはいつから、……去年だっけ?
 少なくともあの寒いアパート時代にはハトムギのでかいやつしかなかった、ヅルのやつしか、なかった、あれ、あたし、いつから見ないようにしてたんだっけ。
「……きぬちゃん、」
 茫然と立ち尽くしているあたしを見て、ヅルが眉を下げる。
「……帰る」
「え、きぬちゃん、ごはんは、」
「いや、食べるわけ、」いや、のときに嫌味な含み笑いがこぼれて、あたしは自分に嫌気がさす。「食べるわけ、ないでしょ。せっかく作ってくれたのは申し訳ないけど、でも、どう考えたってあたしアウェーだよ。おんなのこ、何人か、くるんでしょ」
「どうだろう、……こないかも、しれない、」
「ユダクンが呼ぶんでしょ」
 歯に挟まりそうな、ユダクン、を一息に吐き出したら、それはひとの名前っていうよりマスコットキャラクターとかの名前っぽくなった。
 いらいらする。
 ヅルってすっげえ、いらいらする。
 ヅルは気まずそうな顔であたしを見つめている。ユダは誰かと電話しはじめたのか、ドアの向こうからでも聞こえるくらいの声で笑ってなにか言っている。
 ――ねえ、ヅル、ここ、どこ?
 思わずそう聞いてしまいそうだった。
 え、いっつもここってつまらないじゃん。洗面台のところに髪の毛はさまったデパコスあったって、ヅルしかいなかったでしょ。きぬともめんの話は?新曲の話は?そういやだいぶ前にあたしに聴かせてくれるって言ってたレコード、いつ?忘れてんの?
 いやだ。
 ヅルの中身なんか、見たくない。だって、着ぐるみの中身なんて、グロすぎるでしょ。
 あたし、このひとの外面しか、知りたくなかった。
 玄関ドアに手をかけた。きぬちゃん、とヅルがしょぼくれた声であたしを呼ぶ。
「ごめんね」
「……ヅル、こういうのやめなよ」あたしが言えたギリじゃないってわかっていても、あたしは黙ったままじゃいられなかった。「お人よしすぎるよ。優しいと都合がいいは違うんだよ」
 優しいと都合がいいは、違う。
 わかってたけど。
 でも、ヅルってどうしようもないアンパンマンなのだ。
 知り合ってからもう四年近く経って、そのあいだに、あたしはこのひとが何度も誰かの利益の下敷きになるのを見てきた。
 ――あのさヅル、アンパンマンだって、そうやって顔わけあたえてばっかだったら、自分がなくなるんだよ。誰かの胃袋満たすためになくなるんだよ。そうしたら目だってなくなっちゃうでしょ。そんで盲目になったらなんにも見えないよ。でも、腹減ったってヤツが来たら、それでもヅルはあげちゃうんだ。そいつの正体が見えなくても。
 ヅルは、弱い。ひとにやさしくすることしかできない。
 でもあたし、その弱さがわかっちゃうとこ、ある。あたしだっていっつもヘラヘラしてる。ヘラヘラ笑って本音言わないで、そうやって空気読めるいい子ってふりして。実のところ、なんにも自力じゃわかんないバカが仕上がっただけ。
 あたしはひとに優しくできない。ヅルとおなじような弱さを持っていても。あたしはアンパンマンにはなれない。だからヅルにえらそうにどうこう言ったって、こんなあたしより優しいヅルのほうがうまく人生やっていけるのなんか明白じゃん。
 あーあ、自分で言っておいて、どうしようもねえなと思った。ブーメランすぎるでしょって。
 じゃあね、とあたしは口の中でもごもご言った。
 いっそ、かわいげある女の子なら、ここで、もうしらないばか、とか言うのかな。そういえばそんなシチュエーションのミュージックビデオ、なんかのバンドの曲で見たかもな。無理だろ。何回も言ってるけど、彼女じゃないし好きじゃない。
 ……じゃあまあ、いいんじゃないの?
 どっかであたしが呟いたから、それに納得して玄関ドアを押し開けた。
 つめたい廊下に出たあたしを、ヅルは律儀にじっと見つめていた。
「……またね、きぬちゃん」
 ユダの笑い声がここまで漏れ出ている気がした。
 ヅルの、またね、がそれに飲まれてどっか流れていく気がしたから、あたしはもう気にせずに背を向けてマンションを出た。

          *

 ラインスケジュール、期限切れ。回答者、あたしのみ。
 いつものことだもん、とあたしが呟く。両腕くんでこっち見てるあたしが言う。もうわかってんだし、いちいち気にとめんなよばかばかしいな。
 駅から大学直通バスが出てる。すでにずらっと並んだ列の真ん中あたり、あたしはじっとラインの画面を見下ろしている。汗がじわり毛穴から滲むのがわかって、その感覚が不快。蝉の声がイヤフォン突き抜けてくるのがわずらわしい。じりじり肌が焼けていく。夏って、嫌い。よくわかんないけど全部べったりしてる気がするもん。

 ――絹、まってほんとごめん。就活の準備があってちょっとうちきびしいかも、

 泣き顔の絵文字くっつけたその文面に、だよね、とあたしは言う。だよね。そりゃそう。
 ごめんなんて言われるともうなんにも言えない。だって三人に、ごめん、だもん。本来。
 ぶん、と目の前をでかい虫が横断していった。まもなく十四番線乗り場、……バスの到着アナウンスが流れ、顔を上げる。首筋と背中を、汗がつぎつぎ滑っていく。
 熱の差を、知る。それから、サマーライブという六文字で、はっとしない自分に、気づく。
 奥の席に座って、目を閉じる。
 真夏がくれば、あたしの中身も少しは熱を孕むのだろうか。

          *

 ……は、ピアス?
 ドンキの小さなエスカレーターで志保が振り向いた。ポニーテールにした黒髪、毛先が動きに合わせて揺れる。視界いっぱいの志保のショート丈のTシャツ、その白さが目に染みる。
 どんどんどーん、どーんきー、陽気な店内音声とぎらぎらのレイアウト。ドンキはいつもなんかちょっとした異世界みたいに感じる。薄汚れた手すりに寄りかかって、うん、と返す。
「開けるの?まさかうちに開けてとか言うわけ」
「だって志保、自分ですぐバチってやるじゃん」
「まあそうだけどさあ、……」エスカレーター下りて志保が何とも言えない顔をする。「まあそうだけど、てか、ま、いいけど。痛いとかやめるとか言わないでよ。途中で」
「だいじょぶ。ありがと」
 じゃもう一個上だね。エスカレーターそばの壁に張りつけられたフロアマップを見て、志保がエスカレーターに乗る。あたしもそのひとつ後ろに乗る。
 志保の身体から、キンモクセイのにおいがする。志保は知り合ったときからいつも同じにおい。春でも夏でも冬でも、キンモクセイ。ヅルも、とあたしはふと思う。ヅルもずっとおんなじにおいがする。人工的でつかめない、悪くはないけど良くもない不思議なにおいが。
 ヅル、なにしてんだろ。
 そんなことを思う。スニーカーが黄色い線の内側にきっちりおさまっている。フライヤー、絶対ひとりじゃもう使わないでしょ。それともユダがいんの?まだ、ユダと、いんの?視界見切れていくタコ焼き器やホットプレートやクレープ用のフライパンの箱を横目に、思う。
 そういえば、あの日食べたうずらの黄身はべったりしていて甘かったのに、尾上さんと食べたうずらはとろとろで味気なかった。生たまごはとろとろだからだめなのかな、やっぱりきっちり火の通った状態じゃないと、あんまりおいしくないのかな。
 志保は道知り尽くした野良猫みたいにするする店内を進んでいく。真っ白な背中追ってあたしも進む。誰か常にこうしてずーっと一緒にいてくれたら、ちっとも迷わずに済むんだけど。
 ピアッサーはどっさり売られていた。どれがいいのかな、そう言ってかがみこむと、志保もあたしの隣にかがむ。あ、これうちいつも使う。パッケージが違うだけで全部一緒に見えるけど、あたしは志保の手に取ったひとつを受け取り、これにする、と言った。
「どこに開けるの」
「右の耳たぶ」
「一個ね」
「うん」
 ていうか、なんでまたいきなり開けることにしたの。レジに向かう途中で志保が聞いてくる。わかんない、なんかほんと気分なの、とあたしは言った。
 本当の本当に、気分、だった。ハナちゃんのピアスとか志保のピアス見ているうちに、なんかいいななんて思っていたから。
 それから、ステージの照明できらきらしてた慎くんのピアスが好きだったから。
 リットルの紙パックジュースと大袋のお菓子も持って、ピアッサーと一緒に買った。
 ドンキからあたしのアパートまで二十分と少し、ふざけて志保とビニール袋はんぶんつっこで持って、ばかな話しながら歩く。
 袋がガサガサ、まんなか、あたしたちのそんな話に相槌うってる。


 開け放した窓の向こうから小さい子の声が聞こえる。空色のカーテンはわずかな夏の風になびき、実家から連れてきたおんぼろ扇風機は、この狭い六畳間の空気を必死になってかきまぜている。彼がえっちらおっちら首振るたびに、その通り道にあるあたしや志保の前髪が浮く。カレンダーも前髪と同じようにふわり浮き上がっては萎む。もう七月半ばだ。こめかみから汗が滑り落ちた。
「志保暑くない」
「いうてあんまり」志保は扇風機を見た。「扇風機の風がいい感じ」
「ね。エアコンあるけど、ギリまで攻めてる」
「わかる。光熱費ばか高いもん、しょっちゅうつけられん」
 折り畳みテーブルの上、ペアでもないサイズ違いのグラスに残ったオレンジジュースと背中からあいたポテトチップス。
畳の上、空気抜けたみたいに潰れている黄色のビニール袋に手を突っこむ。志保、あけて。志保はあたしの手からピアッサーを取り上げ、マジで開けるのね、いいのね、と聞いてきた。頷くと、保冷剤あんなら当てといて、と志保は冷蔵庫に目線を向けた。
 冷凍庫のドアを開けると、安いからという理由で買ったセール品のサバとひき肉とうどんが雪崩を起こして、スリッパ履いていないあたしの足の甲に突き刺さった。うげえ、と言いながらひとつずつ奥に突っこんで、かわりにいつかの保冷剤を探す。
 なにしてんのという志保の呆れた声を無視して、手探りで冷凍庫を漁る。それっぽいものを引きずりだしたら、だいぶ前に食べ残したチョコだった。ゴミ箱に投げ入れる。
 ぱさぱさぱさ、と足音がして、スリッパ履いた志保があたしのうしろで足を止める。なにしてんの。や、ちょっとないかも。ふたりして小さい冷凍庫に腕突っこんで保冷剤を探す。
「絹マジだらしない」
「なんも言えない」それっぽい感触に引きずりだす。「あ、ほらあった。これ耳にあてるの」
「そ、はよして」
 志保はさっさともとの位置に戻る。あたしは耳たぶに保冷剤くっつけたまま、志保のあとを追いかける。
夏の時間はどこかだるんと伸びて長い気がする。耳たぶ刺すような冷たさとは裏腹に、扇風機だけで戦っているあたしの和室はもやもやぬるい。
「ちょっと手洗ってきていい。洗面台借りる」
「うん」
 志保がぱたぱた洗面所に消える。水の音を聞きながら窓の外に目を向ける。真っ青の空。頭ぼうっとしそうなくらい暑くなってきたこのごろ。サマーライブは八月の中旬、あと一カ月しかない。一カ月しかないのに、なんにも、進んでいない。
「ちゃんと冷やしてよ」
 志保の声が飛んでくる。冷やしてる、と呟く。耳たぶはきんと冷えて、保冷剤持つあたしの右手も冷たくて、それだけが夏の中に浮いていてうそみたいだ。
 ふと保冷剤耳から離したら、もみあげと頬と指先濡れていた。汗と混ざっちゃってるよたぶん。うっすら赤い指先で頬を撫でる。さむいな。ちょっと。
「ねえ、痛いかな」
 志保はあたしの隣にあぐらかいて、まあそりゃね、とたいして思ってもなさそうな声色で言った。ほら、開けて。差し出されたパッケージ、その蓋のところに張りついたセロテープが全然剥がれてくれなくて必死に爪を立てる。
 扇風機が首を振り続ける。浮き上がる空色のカーテンとその奥の、本物の突き抜けるような青が目に染みそうで、ピアッサーを見つめていた。
「ねえ、絹ってNANA好き」
 ふと志保がそんなことを聞いてきた。何人かにも、というか、なんか結構聞かれる。志保まで聞いてくるなんて思わなかったけど。
 漫画の。そう、と志保はあたしからピアッサー受け取る。バンドの……恋愛漫画だっけ。絹読んだことないの?ない。首振ったら、あ、ちょっと動かないでと怒られてしまった。
 ごめん。もごもご言いながら背筋伸ばしてかたまる。
「あんまり知らない」
「どことなく似てるんだけど」
「……そうかな」
 志保の長い指があたしの耳たぶをつまむ。冷たい指先。
 絹の髪型はピアスが映える。そう呟きながら志保はマッキーの先を耳たぶにつけた。
 ねえ、痛い。もう一度そう聞くと、耳たぶはたいしたことない、と志保は呟くように答えた。さっきとちがうじゃんうそつき、とこころの中で言う。じゅうぶん冷えたしいいでしょ。志保の言葉にこくこく頷く。早くにやっちゃったほうがなんにも考えなくて済む。
 志保がピアッサーを挟む。とッとッとッ、心臓が緊張してる。
「いくよ」
「ん」
 耳元で、なにか爆ぜる音がした。
 できた、と志保がひとりごとみたいに言う。あたしは指紋まみれの汚いスタンドミラーに耳を寄せて覗きこむ。
 黒髪のショートヘア。洋服はオーバーサイズが好き。靴は正直ブーツが好き。指輪だってつけてる。邦ロック好き。洋楽も好き。それでついにはピアス開けてしまった。
 さっきまで楽しみにしていたのに、なんか急に他人の物勝手に持ってきちゃったみたいに思えてこころがずきっとした。耳たぶなんかより、そっちのが、痛かった。
 ねえ志保、あたしの好きってファッションに見える。
 そう聞きたかったけど、じっとこらえた。ファーストピアスの飾りっ気のない銀色は冷たく沈んで見える。保冷剤で冷えすぎた耳は痺れている気がする。
 扇風機ががっくり、呆れたようにあたしに首を傾けた。

          *

 サマーライブは結局おじゃんになった。でもあたしはなにも言えなかった。就活と重なっていたと言われてしまえば、それまでだ。あたしはそれに苦しんでいる志保を見ているし、自分の立場がないのを自覚していたし。
 夏休みのHPも残りわずか、久しぶりに音合わせしようという話になって、ギターと一緒に外に出たものの、スタジオで音鳴らしたのはきっちり一時間だけだった。おなかすいたと言いながらライブハウス出ていく三人を数テンポ遅れて追いかける。
 出ていくときに見た貸出名簿、あたしがボールペンでがりがり書いた浅村絹。そのうすっぺらいアイデンティティを思いだしてうんざりしていた。
 サイゼリヤがすぐ近くにあったから、そこに入ることになった。
 本当は音合わせなんてのは口実で、あたしはそれを知っていて、でもどうしようもできないから三人に話合わせてにやにやへらへらしている。一時間だけの演奏が、あたしたちの長いこれからの人生においてなにになるんだろうか。そんなことまで考えちゃうくらい。
 ギターケース入れたら七人、緑色のソファに詰めて座って、パスタやドリアやピザを頬張る。
「ブルーレイン、最近めっちゃ売れてきたね。よかったやん。絹ちゃんやっぱ見る目ある」
 美奈子のそんな明るい声にひきつった笑い浮かべて、あたしはかわいたピザきつく噛んだ。
 生地の味はなんかあいまい。
 いつの間にか会話は飛ぶ。電車の外の景色とおんなじくらい、飛ぶ。女子大生の会話なんてそんなもん。さっきはたしかジブリの話してた。脈絡なんかない。
 あたしのくたびれた耳はスヌーピーになり、ぺちゃんと落ちた。もうなんにも聴きたくない気分で、おもいっきしピザの耳ちぎる。耳がなくなったピザは、それでもアイデンティティまったくもって失うわけじゃないから羨ましい。むしろ耳なし芳一でも好かれるんだから、いいな。ってあたし、なんでこんな変なことばっか考えちゃうんだろうな。
 あたしが話したいことは、いつも三人とはミスマッチ。
 ゲームの選択肢が脳内にも搭載されればいいなと思うときがある。
 あたしはあまりにも中途半端な人間過ぎて、彼女らのいる世界のこともろくに知らないから。
 んで、話だって別にうまくないから、ぼろがでやすい。
 この空気のときは、この話題。んでこの子たちが好きなのはこういうやつ。
 そういう世界だったらいいな。りんと美奈子と池ちゃんの頭上を見上げてみたけど、窓からさしこむキラキラの日差しにうっとなる。なんもない。当たり前か。
「えー、これがケンヤ?え、既読ついてるじゃん」
「そうなの、でね、前回も返事くれてね」
「え、やばやばやば、認知だ」
 三人の黄色い声がサイゼリヤに飽和して、トマトとチーズとクリームといろんなにおいに眠気まで覚えはじめる。
なんかさ、もっと別の会話してみない?いつもケンヤのことばっかで、つまんなくないの。てか池ちゃんって、ブルーレインほんとに好きなの。好きなの、ケンヤを好きな自分とケンヤじゃないの。美奈子って、ギターの話、しないの。そのギター、めっちゃいいやつだよね。フェンダーじゃん。しかもストラトだよね。親が買ってくれたんだっけ。ねえ、りんって、あんまり音楽の話しないけど、普段なに聞いてんだっけ。最近じゃまたフェスあったけど、アマチュアバンドの選抜あったけど、みんな、あれ、見てる?あたしは二番手に出てきたバンドがいいと思った、あれたぶん売れそうな気がしたんだけどさ。ねえ、聴かないの。見ないの。知らないの。
 かたまったポタージュにスプーン入れる。白いクリームが少しずつ黄色に混ざっていって、綺麗になくなる。舌にのせてもクリームの味だけ浮くってことは、ない。
 二百円もしないポタージュは、それでもちゃんとおいしい。
 そうだよな。
 あたしの顎につたったポタージュを、紙ナプキンで拭く。紙ナプキンの感触はいつでも気持ち悪い。べたっとはりついてくる。
 そうだよな。
 前もあたし、自分に言った。本気なら、四年制の大学なんかじゃなくて、専門行けばよかった。音楽の話したいなら、そこで仲間を求めればよかった。
 でも大卒とっておいたほうがいいって言われて、うんそうねってなったのは、誰だっけ。
 あたし結局覚悟できてない。
 生ぬるい場所で泳ぐ人間は、冷たい場所で泳ぐことをそれほど恐れない。死ぬ確立なんて考えたことないから。今ここで泳げていれば、温度が変わるくらいどうでもないと思ってるから。
 でも実際、冷たい場所に足踏み入れたとき、そこで泳ぎ続けてきた人たちと同じベクトルで会話ができる気が、しない。その温度に凍えることばかり、気になって、たぶん、もぐれない。
 保険かけないと首くくれない。
 つーか、自分に保険かけるやつは、首くくる勇気なんて、そもそもない。
「絹、絹は返事きた?この前の慎くんのメンション」
 池ちゃんのくりっとした黒目はキラキラしてる。あたしの目はどんなふうにうつってるかな、でもこんなに晴れた日で、光に満ちた店内だったら、あたしの目だってキラキラしてるだろう。
 眩しさに目を細めながら、あたしはインスタを開く。三人が頭寄せてくる。
 それぞれただよう女の子のにおいに染まるために、あたしも頭くっつける。
 ――ありがとう!またきてね。
 またあそんでね、みたいな機械的でそんでどう見たって営業的なメッセージを、あたしは恥ずかしそうに見せる。で、一緒に笑ってきゃあきゃあ騒ぐ。
 二百円のポタージュの皿が、あたしをじっと見つめている。


 本当はすぐにでも電車乗りたかったけど、りんが煙草吸いたいなんて言い出して、あたしたちは四人ぞろぞろ駅前の煙草屋に向かった。
 大きな灰皿が三つにベンチまで置いてある。池ちゃんも美奈子も、りんほどヘビースモーカーじゃないけど煙草を吸う。
 ごめんね絹。ぜんぜーん、なんて数オクターブ上の声で答えて、ベンチががら空きだったから迷ったけど腰をおろした。
 サラリーマンらしきおじさんが神経質そうに背中丸めてスマホ睨みながら、かなりの速さで煙草を吸っている。煙たい。でもここで場違いなのはあたしのほう。身をなるべく小さくしながら、なんにも考えずにただ目の前の景色を見つめていた。
  ――絹はすごいよ。
  今日、最後の一音はじけた後に、そう言ったのはりんだった。

「絹はすごいよ」

 褒められれば褒められるほど、おまえは勘違いしてるって言われている気がする。
 ヒクツだからだよ、なんて誰かは鼻先鳴らすかもしんないけど、でも、そうじゃない?
 すごい、すごいって言われてきて、それがその人にとって嘘じゃなくてもあたしには違った。
 あたしバカだからさ、それ信じてここまで突っ走ってきちゃったよどうしよう。戻れるもんじゃない。だし、あたし、今もなお、そういうことを知ってもなお、それ以外が自分にはないってわかりきってるから、新しいなにかに手を出せずにいる。
「お姉さんなに吸ってんすか」
 灰皿のところでたむろしていた同い年くらいの男の子があたしに絡む。首を振る。
 あたし煙草は吸いません、吸わないけどずっとここに座ってます。
 目の前で三人かたまって、コスメがどうとか最近の流行りがどうとかそういう話をしている彼女らを、あたしはただただそこに座って見つめている。あたしの両の足に挟まれたギターケースは重くてぬるくて優しくない。
「友だちっすか」
 
 男の子は図々しくあたしの隣に腰をおろした。パーカーの生地があたしのお気に入りのTシャツの肩口と擦れて気持ち悪かった。
 友だち?池ちゃんたちを指さしてもう一度聞いてくるから、あたしは黙って頷いた。
 彼の口からあたしの鼻先へと漂う煙草のにおいが不快すぎた。
「吸います?おれのマルボロですけど」
 オカくんがいつも持っているものとおんなじやつを差し出してくる。気取ったジッポー取り出したから、うんざりしてもう一度首を振った。煙草を吸うやつは嫌い。普通に口臭いし。
「てかそれなに」
「ギター」
「え、なになになにバンド?バンドやってるってこと?」
「バンド」
「お姉さんギタリスト?」
「ギターボーカル」
「え、じゃあ歌うまいの」
「わかんない」
「その子めちゃ歌うまいよ」りんがあたしたちに気が付いて口を挟む。「マジで」
「え、なに、バンドメンバーってお姉さんたち?」
「うん、ここで四人組」
 りんはこういうのに慣れている。隣で恥ずかしそうにしている池ちゃんと一瞬目が合って、あたしは猫背を更に丸めながらへたくそに口角釣り上げた。
 ギターケースがずずるとバランス崩したから、あわててジーンズで挟みなおす。
 男の子の興味は全く喋らないあたしから真帆に移って、宙ぶらりんの池ちゃんと美奈子はなんとか会話の隙間に身おさめて笑っている。あたしはまたぼうっと彼女たちを見つめている。
「てかさあ、キヌちゃんって絶対椎名林檎好きでしょ」
 唐突にそんな言葉ぶつけられて、はあ、と声が出る。
 りんが勝手にあたしの名前を彼に教えたらしい。りんはなぜか意味ありげな目くばせをして、にやりと笑っている。
 なにそれ、と思った。
 いつの間にか男の子の友だちもふたり混ざって、それぞれ池ちゃんや美奈子に絡んでいる。
 なんで。今日のあたしは最も意地悪で不細工だ。にこりともせずにタメ口で弾く。
「や、だって好きですって感じするもん」
「どこが、」
「髪型とか服とか」
 あたしは笑ってしまった。男の子も笑う。いやいやいや、あたりでしょ。どう、あたってるでしょ。そう言いながら。あたしは思わずでかい声で、バカかよ、と吐き捨ててしまった。
「え、え、なになにごめん」男の子は戸惑ったように右手で自分のピアスいじくりながら、へらへら笑いだす。「え、え、え、なに」
 りんが目を見開いてあたしを見ている。池ちゃんも美奈子も、知らないおじさんも男の子たちも。あたしは足に挟んだままのギターケースに抱き着く。副流煙サイテー。つかくさすぎ。
「椎名林檎はこの世にふたりもいらねえよ、椎名林檎に謝れバカ」
 あたしはそう言って、ベンチ蹴り上げるみたいに立った。ギターケースがヨヨヨとあたしの足に縋りついてきたから、赤ん坊みたいに抱き上げて背負う。
 今日のあたしはいよいよおかしくなってきている。
 へらへら笑い残したままあたしを見つめているマルボロの顔立ちが、なんかキモイことに気づく。嫌いな顔。んでその両隣の友だちふたりも量産型でキモイ。ぼけーっとしてるだけの三人も、ウザイ。
 マルボロ、てめー絶対有名どころしか知らねえだろ。つかおまえのカラオケの定番はそのときどきのヒット曲なんだろどうせ。うすっぺらくてノリのいい曲がおまえには刺さるんだろ。どーせ。どーせどーせどーせどーせ。おまえもおまえもおまえもみんなそう。んでわかったようなツラしてこの曲最高とか歌詞がいいとか簡単に言うんだ。考えてないくせに。わかってないくせに。バカはバカ同士一緒にいろよ。
「絹、待って」池ちゃんがあわててあたしに駆け寄ってくる。「一緒に帰るよ、」
「ごめんあたし今誰かのこと殴りそうなの、つかごめん、楽しく喋ってたのに」
 あたしは背中にかかる自分のギターの重みだけを感じていたかった。
動揺からドン引きに変わったあたしへの数々の目線を振り払うみたいに首を振る。
あたし、マジ、最低。知ってる。
 角まがってすぐそこ死角、煙草のにおいがまだうっすら残るそこで、あたしは自分の頬を自分の拳で殴ってみた。ばち、だか、ぺち、だか、そんな変な音が響くこともなく雑踏に消されていく。
 殴られるべきは自分、てか、殴っても、夢から目が覚めないのは、おかしいな。
 ぶらん、と腕が落ちた。
 だめだ、もう。なにがかは、知らないけど、もう疲れた。
 最初に漏れたのは鼻水だった。からだはいつでも正直だ。鼻水がずるずる滑り出て、啜ってるうちに涙がふきだした。
 あたしは今日、えんえん泣いた。ほんとのほんとに、えんえん泣いた。

          *

 ここのところろくに動かなくなっていたグループから、通知が八個も来ていて、がびがびの使い古したタオルで髪の毛拭きながらあたしはため息ついた。
 ごめんね絹ちゃん。
 おろおろ、スマホタップしてる美奈子の顔が簡単に想像できる。しまったって顔してるりんも。で、いろいろ気にしてあたしより顔色悪い池ちゃんも。
 夏はその暑さとともに干乾びて、乾燥した秋が始まってる。つまりは例の面倒くさい文化祭に向けての練習が始まるわけで、あたしがどうとかあんときの男の子たちがどうこうっていうより、合わせ練習気まずくなるのがしんどいわけで。
 生理により。
 生理、まで変換して、いやこれはいくらなんでも嘘つきすぎだろと指先止めた。なんでもかんでもそうやって言い訳すんのは、なんかすっごい自分に腹立つ。
 大人げなかったです。ごめん。
 ここここ、文字うつ音が間抜けに部屋に響いている。
 うちながら、オトナゲってなんやねんと思う。二十歳こえても人間はクソガキだ。
 昔は十八歳くらいから随分大人なんだと信じていたけど、二十歳こえてもクソガキ。むしろ幼児退行始まってる気がする。
 十代、思う存分好きにしていた反動と、これからの自分に向けた怒りで、あたしもみんなも赤ちゃんに戻りたがってるような気がする。知らないけどさ。
 三人がそれぞれ底抜けに明るいスタンプ送ってきたところで数十分の雑談が終わり、あたしは半乾きの髪そのままに布団に倒れこんだ。ケーオー、って感じ。
 ケースから出さないままのギターが視界に入る。
 真っ黒に覆われたあたしのギター。それをはいで、抱いてあげるような気も起きない。愛するには今は疲れすぎている、そうやってふっと思って、あ、なんかいいかも、いや、やっぱダサいわ。
 寝返りうって、開け放した窓の隙間から流れこむ風、そのにおいをめいっぱいに吸いこんだ。
 あたしの同居人の扇風機はまだ頑張ってる。かくかく傾きながら。
 あたしはその風に頬をなでられながら、スマホのカレンダーアプリを開く。
 文化祭準備は来週から始まる。好きなバンドをコピーするだけの、それでノッて騒いで楽しむだけの、野外ライブ。毎年設置される手作り感満載の小さいステージ。器用な子が描いた看板が置いてあって、同時進行で屋台もやって、あぶらぎったチュロスのにおいと澄んだ秋のにおいに満ちたそこで、歌えるのはたったの二曲だけ。
 でもあたしが立てるのは、それだけ。
 ばああああか、と叫んでみた。
 どんっ、と隣人が壁殴ってきたから、あたしは壁にかかと落とし食らわせて反撃した。しんとした沈黙があとを引く。
 大人げない。怒ってばっかりで。羨んでばっかりで。
 あたしはいつかでかくなりますと叫んでおいて、自尊心だけ大きくなってしまって出られなくなった。
 山椒魚、今ならあんたの気持ちがちょっとはわかります。
 でもあたしにはかえるがいません。
 場所を間違えました。
 それに今更気がつきました。
 あ、嘘ついた。
 気づいたんじゃなくて、無視できなくなりました。いよいよ。
 サイレントでまくらに顔押しつけて、うわーーーーーっと叫んでみる。
 フエラムネみたいな高音がちょっともれただけだった。