キャラメルを、あたしは舐めたりしない。思いきり、ぐちゃぐちゃに噛む。これを最後の最後までちまちま舐めきるような人間とは、きっと一生、わかりあえないままだろう。
 真っ青な空は、アパートの薄汚れた窓ごしじゃなんだかかすんで見えてしまう。こもった空気はきっと昨日の真夜中から変わっていなくて、すう、と吸いこむとどっか胸が苦しいような気もする。
 最初の音が弾けて、あ、というよりは、ゥあ、なんて声になる。優しいあの声は出なくって、どっかとがってて可愛げのない愛してるを歌う。愛してるの響きだけで。東京都中野区家賃四万四千円、町はずれの和室六畳間の角部屋、あたしのその一部屋から響く愛してるは、強さを与えるにはなにかが足りていない。
 いまいち生活リズムのわからない隣人から、強烈な壁ドンをくらった。昨晩友だちかなんか大勢呼んであたしの眠りを妨げたくせにこいつ、あたしは隣人に対抗するようにジャカジャカジャンッ、と弦をかき鳴らして手をとめた。ドダンッ、と隣人の一層強い壁ドンであたしたちの演奏が終わる。
 ギターをスタンドに戻して窓を開け放す。がたつく窓ガラスはべたついている。テーブルの上に転がしていたキャラメルの箱を開けてひとつ取り出し、口の中に放りこむ。
 四月は昨日終わって、あたしは二十一歳になった。梅雨はもう少しだけ先なのに、風はどっかすでに湿っている気がする。寝ぐせついてよれた前髪が、控えめなそれにふっと揺れる。
 あたしのテリトリーぶん、長方形に切り取られた空は抜けるように青い。ベランダすらないから、あたしは錆びついたその柵に危なっかしく両手をついて身を乗り出す。見下ろす。
 とまれ、の字が擦り切れて、アスファルトはひび割れている。その隙間でひからびた桜は茶色いかけらになって寒そうに震えている。ふっと、それでも柵はしっかりつかんだまま、身を乗り出す。落ちそうで落ちない感じ。頭に血が上ってきて締め付けられる感じ。頭ぐあんと戻したら目がちかちか、そんでどっかむなしい気持ち。
 ふっとあたしを飲みこむよくわかんない不安。あたしのため息がもれて空気に混ざって、それは転がっている桜の死骸をまた震わせる。
 そもそもあたしは無個性の無力な人間だった。季節外れの蝉の抜け殻みたいな。
 上手くもないギターをかき鳴らし、下手くそな歌を叫ぶためだけに、あたしはこの二十一年間の人生を既に棒に振っている。大学まで入れてもらって、それでもあたしはまわりの子が歩いていく図式通りの人生からは外れることを選んでしまった。
 でもそれくらいしかないのだ。なんにも、ほかにはないのだ。あたしが大好きでたまらないギターも歌もアーティストも、あたしには近くて遠い。
 強いはずなのに、同じ世界に行きたいと思った気持ちは漠然としていて、でもその漠然に引きずられて呼吸して、結果、答えがない気持ちだったからどこにも行けずにいる。
 そんで、今更、あたしはあたしのことを、どうにもできなくなっている。
 ただひとつ知っているのは、あたしには、起爆剤がないってことだけ。
 キャラメルを、噛む。溶けかけのそれはあっけなく潰れる。歯にまとわりつき、染みる甘み。
こんなもんだ、と思いたい。

           *

 あたしの世界は狭い。イッツ・ア・スモールワールドっていうのはまさにあたしの世界のことを言っている。某ランドのアレはたぶん違う。世界は本当に広くてばらばらで、まるで切るのに失敗したキュウリみたいな構造をしている。宙ぶらりんのいっこにひっつかまったまま、あたしはあたしで自分の小規模な世界をなんとか生きている。
 行きたくないな、とオカくんがまた言う。もう三回目だ。
 店の裏、煙草を咥えている彼は教師になる予定らしい。耳にいくつも開いたピアスと、真っ白に近い、ブリーチで痛んだ髪があと少ししたらふっと消えてしまう、というのはなんだか不思議な気分。でも、こう見えてオカくんはめちゃくちゃ真面目だ。
 彼はちゃんと実習に行って免許を取って、女子生徒にモテながらいい先生になっていくんだろうなあ、なんて、そんな根拠のない未来がなぜかあたしには見えている。
「実習、何月からですか」
「えっと、五月」
「じゃあ、あとちょっとですね」
「……あー、や、無理」
 あたしの、ふすん、という鼻息強めの愛想笑いがやけに浮ついて空気に混ざる。そんで吸いこんだ空気にオカくんの煙草のにおいが混ざる。くすぶった感じ。煙草のにおいって、銘柄で変わるのかな。ちらりと室外機の上に置かれたマルボロの箱を盗み見る。
 男の人ってたいがいマルボロ吸うのはなんでなんだろう。気のせいか。
「オカくんは何教えるんでしたっけ」
 バイトに入ったばかりの頃、年上だと思ってあたしは敬語を使っていた。同い年だと分かった後も、それが抜けない。
ん、とオカくんは携帯灰皿に灰を落とす。薄い唇が小さく動く。……理科。こう見えて理系なのだ。しかもごちごちの。大学の名前を聞いたときは心底びっくりした。オカくんはめちゃくちゃ頭がいい。ずるい、と思ってしまうのが、少し、嫌だ。
「オカくんは、いい先生になりますね」
「そうかな」
「そう思いますよ」
 どうも、とオカくんは小さく呟いた。それから、ふーっと白い煙を吐き出すその唇が、ちょっとだけ緩むのが見えた。オカくんは短くなった煙草を消して、あたしを見る。
「……浅村さんはバンドマンだよね。あれ、女の子のこともバンドマンっていうので、あってんの」
 オカくんは女の子を名前で呼ばない。こういうちょっとしたとこに不器用さが散らばっているのを、かわいいと思ってしまう。
あたしはろくでもないので、と小さく答えて愛想笑いを零す。なんで、とオカくんが聞いてくる。奥二重のちょっと目つきの悪い瞳がじっとあたしを見る。だって、とあたしはやけに言うことを聞かない前髪を指先で押さえる。いや、だってなれるかわかんないですし。才能が特別あるわけでもないし。そこまで言って慌てて口を噤んだ。
 いらないことばかり言ってしまう。オカくんはぼりぼり頬を掻いた。
「自信もっていいと思うけどね。夢追ってるって、すごいけど」
「……ほんとですか」ちょっと恥ずかしくなって声がへにゃっとなる。「そうします」
 オカくんは携帯灰皿と蛍光イエローのライターとマルボロを大きな右手でひとつかみにして、サロンについた砂を左の指先で払って、踵を踏んでいたコックシューズをつっかけ直す。
 そろそろまかないできるんじゃない。食おうよ。
 オカくんはマイペースだ。そうですね、と呟いてそろそろと店に戻る。
 まかないは、カレーというあたしの予想を大きく外してチキンカツだった。


 べこべこの鍋で炊かれた白米はつやつやしていてぬるい。適当なお皿一枚引っ張り出して洗って、拭いて、そこへしゃもじですくったかたまりを盛る。チキンカツは結構残っていたから、多めにもらった。ごはんの鍋よりひとまわりほど小さい鍋には、野菜の切れ端と魚のあらが浮いたお味噌汁。お椀を持ってきて少なめにすくう。
 ソファ席のテーブルにまかないを置いて、バーカウンターでグラスにウーロン茶を注ぐとイヤフォンをさしこむ。尻が沈みこむほどやわっこいソファの真ん中に陣取って、写真フォルダからアルバムに振り分けした動画を探す。
 いただきます、と小声で呟き、スマホをタップしながら白米を頬張る。チキンカツのころもは思っていたより食感が残っていて、かけらがいくつかぽろっとテーブルの上に飛んだ。指先で押しつけて拾う。
 動画を再生する。つい一週間前の合わせ練習を撮ったやつ。ヘタクソに立てかけて固定したあたしのスマホが切り取っているのは、狭苦しいどっか圧迫的な防音室。ドラムの池ちゃんと、ベースのりん、ギターの美奈子、それでまんなかでマイク調節してるあたし。
 やがてはじまる旋律、そこへトーストの上のマーガリンみたいに塗り広がってくあたしの声。
 一週間前、あのとき、あの瞬間はうまくいっていたと思っていたのに、今こうして一週間後のあたしは、チキンカツ齧りながら自分の無様さに目を閉じてしまいたいような、そんな気持ちに駆られている。
 いつもこう。焼き立ての食パンが、少ししたらかさかさに乾いていたときの、あの歯にさわる感じとその上で凝り固まったマーガリンのしつこさ。あれに似ている。
 こんなんであたし、うまくいったと思っている。おいしいと思っている。
 最後まで見る気になれなかったけれど、次の練習までに自分のどこをどうしたらいいか、三人にどうやってほしいのか、あたしがちゃんと考えなくっちゃ、いけない。
 味噌汁を口に含んだら、取りきれていないうろこが舌に触れて眉をひそめる。器用に汁だけ飲みこんで、うろこをぺっと手のひらに吐き出す。氷の入れすぎで冷えきったウーロン茶飲んでうっすら舌に残るお茶の苦みを感じながら、ふっと目の前でうろこかざしてみる。
 耳にさしこんだイヤフォンから流れこむあたしの声はなんか浮ついていてダサくて震える。たまらずに止めてしまった。
 皿のはじっこにうろこ置いたら透明なそれはすぐに輪郭あいまいになって、悲しくなってきて、テーブルに顔を張りつける。清潔とは言いきれないあめいろのテーブルからはうっすらアルコールとふきんの混ざった湿っぽいにおいが染みついているような気がする。
 みっつ向こうの席で、オカくんがあたしと同じようにイヤフォンで耳塞いでごはんを食べている。丸まったその背中が野良猫そっくりだ。キッチンから、ランチ分の皿を洗う音が聞こえてくる。押されるように顔をあげて、箸をとった。
 音の流れないイヤフォンで半端に耳塞いだまま、あたしはまかないをかきこんだ。


 ときどき、ふっと、あたしの意識はひとりでに妄想へ入水する。手は淡々と作業をこなしている。口は淡々と覚えた言葉を喋る。目は不器用に突き刺さった料理のチップや空になった食器やキッチンのカウンターから出てくる料理を見ている。それでも意識だけがどっかあいまいに滲みだして、気づけば妄想のど真ん中にあたしは寝転んでいる。
 妄想に飲まれているときのあたしは、ひとつの間違いもない成功者。
 東京都出身学生ガールズバンドなんて、きっとどっかで見た広告のきらきらしい字があたしのうつったポスターなんかに書かれていて、インスタとツイッターとティックトックのフォロワーが数万人いて、カラオケにイケてるミュージックビデオなんか配信されちゃったりしていて、でっかいハコであたしはギターかき鳴らして、今のあたしでさえ知らないおそらくオリジナルの曲を気持ちよく歌っている。
 あたしのファンがいてあたしの歌声がCDになっていたりして、大好きなあの人たちと対バンしたりして、……そこまでで目がふっと覚める。頭が冷める。こころが冷える。
 あたしは中途半端に夢見る少女で、実際のところはあんまり積み重ねてきたもんなんかなくって、それで自分の首絞めているだけなのだけど、わかってんだけど、でもまだ大丈夫って思っていないとなんにもできなくなっちゃいそうで怖いから、ばかみたいにあがく。
 帰ったら歌詞が書きたいと思った。
 こうやって、得体のしれないかゆみに似た焦りのような不安のようななにかがこころをばっくり食いにくるとき、あたしはまるで間に合わせみたいな努力をしようとする。
 あたしだって、ちゃんと、ああどうにか抜け出したいなと思うんだけど、いつもいつもむなしくなってこうやって働いているうちに時計は回り続ける。
 無限にどっかからお金沸いてきたらさ、あたしまる一日中部屋籠って歌詞かいたり曲作ったりできるんだけど、……パスタ出して戻ってきたハナちゃんが、今日パパ活多くない、と言ってきた。まじ?うん。ディオールとかシャネルの紙袋さげた量産型ばっか。隣おっさんだし。
 ははは、とあたしは笑う。それから一瞬、おっさんの隣でにこにこしながらごはん口に運ぶ自分を想像してうっと思った。あたしはそういう武器持ってない。手にアルコール吹きかけてすりこむ。
 右耳にはまっている心地悪いインカムから、二十卓のケーキ準備してください、と指示が飛ぶ。短く返事して、料理のチップ確認しているハナちゃんにあたしやっとくねと声をかける。シチューみたいなにおいが糸引いていく。
肉のにおい。魚のにおい。人の喋り声と笑い声、名前のわからない洋楽、せわしないキッチンの音。あたしあとどれくらいここにいるんだろうなあと思う。
 好きなことばっかで生きていられたらいいのにな。生きているだけでお金必要になるのってめんどうくさいな。大学はあと一年だし、そしたら奨学金返していかなくちゃいけないでしょ、アパートは今のところでいいし、あーでもスマホ代も自分で払わなきゃ、防音室のレンタル代とかも考えなきゃ、……それでまた意識ぼやぼやしていることにはっとして、冷蔵庫のガラス戸にうつりこむ自分の顔が暗すぎてなんだかなあと思う。
 二十とかかれた付箋剥がして、しまってあるケーキを取り出す。予約帳のメッセージとおんなじか確認する。ぴったり。
 結婚おめでとうマリちゃん。
 キッチンのモエカさんが書いたチョコレートの字は女の子って感じで丸くってかわいい。
 結婚おめでとうマリちゃん、そのまわりに同じくチョコレートで書かれた小さいいくつものハートとお花。
 赤と黄色のろうそくを刺して、具合を見てみて、ちょっと曲がっていたからなおす。
「なんか最近、結婚おめでとうって、多いよね」
 戻ってきたハナちゃんがふと口を開いた。んね、とケーキを見つめながら返事する。
もうすぐ六月だからかなー。ああ、ジューンブライドだっけ。
 ハナちゃんはよく喋るけど、おなじくらい手もよく動く。洗いたての取り皿をきゅっきゅと拭きながら、結婚ねえ、とひとりごとみたいに言う。
 ハナちゃんの手から濡れた取り皿受け取って、あたしも水滴を拭いていく。
「……絹ってさあ、結婚、したい?」
「えー、結婚?」
「うん」
 ハナちゃんは皴のよったトーションを畳み、あたしをじっと見る。
 ハナちゃんは綺麗な二重の猫目。くっきりした目のふちには長い睫毛がひしめき合うように生えていて、アイラインは控えめなのにその目線はどこか強い。
 ポニーテールにまとめられた髪はプリンにもなっていないブロンドで、そのおくれ毛が空調に揺れている。右耳に三か所のピアス。桜貝とおんなじ色の艶のある爪。
 ハナちゃんは綺麗な女の子だ。その目でじっと見られていると緊張してくる。
 最後の一枚を重ね、あたしも彼女のようにきっちりトーションを畳む。
「なんか全然考えらんないかも」
「だよねえ、だってうちらまだ若いし。なんかさ、ちっちゃいときは二十五くらいで結婚すんのが普通とか思ってたけど、うち今二十二でさ、うーん、無理だなって、思う。あと三年後とかムリ」
「ハナちゃん、彼氏と結婚しないの」
「あ、別れたんだよねえ」
 あまりにあっけらかんというので、あたしは思わず大きな声で、ええ、と言ってしまった。
 カウンターの向こう、キッチンからグラタンの濃いにおいが流れては鼻先をくすぐる。そろそろ出るかな、とハナちゃんがさしてあるチップの時間を見る。
「うそ、いつ、え、てかごめん」
「え、全然。なんならうちから振ったし」
「え、ええ、なんで」
 ハナちゃんには二つ年上の彼氏がいた。一度店にふたりで来たことがあったけれど、大人っぽくて頭のよさそうな、眼鏡をかけていて線の細い男の人だった。
 ハナちゃんはしょっちゅう彼氏の話をしていたし、なんならこの前だって浅草までデート行ったなんて言っていたのに。
 あたしは気まずくなって、さっきハナちゃんが確認したばっかりのグラタンのチップを指先でいじった。
「なんか疲れちゃって。や、忙しい人なのは知ってたんだけどね、でもデート中に帰られるの何回もあったし、なんならうちの誕生日忘れてたりさ。そんで全然悪気もなさそうにへらへらするし。蓄積?」
「へえー、……」
「てか絹って彼氏いるんだっけ」
「いない」あがったばかりの熱いシルバーにアルコールを吹きかける。銀色がぎらぎら目に痛い。「あんまり興味ないかも」
「絹、モテそうなのに」
「えー、どこがー」
「なんか芯がある感じ?まっすぐっていうか。夢追ってるのもかっこいいし」
「そうかなー」
「じゃあ理想のタイプ」
 一瞬、慎くんの顔が浮かんだけれど、あたしは口元に苦い笑みを広げながら、いなあい、と首を振った。
「つまんない」
「じゃあハナちゃんはどういう人がいいの」
「んー、西島秀俊とか」
「え、結婚してなかったっけあの人。かっこいいけど」
「年上好きなんだもんわたし」
「ええ、そうなの」
「そりゃ」ハナちゃんは声を潜める。「そりゃ女の子だもん、イケメンで落ち着いていて包容力ある人がいい。やっぱ同世代なんか無理」
 あたしたちはふふふふと笑った。あたしたちって結局、どこまでも女の子なんだと思う。どこまでも。ずっと。
「同世代とかクソガキ、」そこまで言いかけて、ハナちゃんはぱっと猫みたいな顔して口を噤んだ。あたしが思わず笑うと、ハナちゃんはいたずらっぽい顔をしてあたしに肩を少しぶつけ、内緒ね、と笑った。
 彼女からはやっぱり石鹸のにおいがした。嘘か本当かわからないそのにおいはどこまでも清潔で、その奥に少しの身体のにおいが混ざっていて、あたしはその瞬間、ハナちゃんを好きだなあと思った。


 ビニール袋に突っこんだまかないの残りを引っ提げて、真っ暗で無機質な道を歩く。
 イヤフォンから爆音で流している音楽、その歌詞を口ずさみ、まるであたしがそこのボーカルみたいなツラ、しながら。
 少しだけ気分がいい。だけど身体中重くてだるかった。退勤直前にクレーマーに当たったせいもあるかもしれない。思い出すだけでむかむかしてきて、石ころを思いきり蹴る。空振り。
 自分より若い女の子に八つ当たりして恥ずかしくないんだろうか、あーあ、でもあのオジサンだってたぶん普段頑張りすぎちゃってる人なのだ。だから許さないとだめだなんて思って、随分上からでしか他人を見られない自分に悲しくなった。
 ぐるぐるチキンカツを回す。右手が重い。
 明日のご飯もチキンカツだ。きっともうへにょへにょになったやつを、あたしはまたギター片手にお行儀悪く頬張るだけなのだ。
 そういうことの繰り返しで、あたしの人生は今まで積みあがってきている。
 起爆剤がないからどこへも行けず、なにかが沸き上がってくることもない。
 平凡に生まれたその代わりに、あたしの人生はつまらないままだ。 

          *

 ヅルは顔が小っちゃくて輪郭が細いから、あたしのタイプの雰囲気。でもウルフにした髪色はグレーで、なんだか似合ってないから趣味が悪く見える。それに顔立ちは量産型で、あたしの嫌いなタイプ。左耳に下がっているクロスのピアスがいかにもって感じで揺れるのが気に食わない。書く歌詞は日本中の売れている曲からちょこっとずつ拝借してきたみたいで、嫌い。
 あたしはヅルが羨ましくて気持ち悪くて、嫌い。
 ヅルは片山紫吹っていうちゃんとした名前を持っていて、この名前は若者の間でアツい。
 ボーカロイドのソフトを使って曲をいくつも作っていて、ここ数年であっという間に成りあがった。あたしと違って売れっ子。
 ムカつくから、あたしは彼の名前を呼ばない。金づるの、ヅル。
 最低最悪なのはわかっている。でもヅルはヅルって響きを気に入っているし、あたしのことも気に入っている。あたしのことは、きぬちゃん、と呼ぶ。
 ヅルの声はいつも気の抜けたようだった。だから他の人間が呼ぶ、絹、の響きじゃない。空気が抜けかけた風船とか、炭酸抜けたコーラみたいな、きぬ。
 ヅルは世間知らずの馬鹿で、あたしより特別。ヅルはとっくに起爆して、あたしがたどり着けない場所へトんだ人間だ。
 ヅルの隣で、まだあたしたち以外誰も知らない曲を聴いた。
 自信作なんだよねえ、と言いながら、パソコンのブルーライト浴びてるヅルの横顔はもう数年経てば見慣れたもので、でも最近増えてきたファンの黄色いコメント思いだして、あたしって今めちゃくちゃ恨み買う立場なんだろうな。
「……ヅルってさあ」
「うんー?」
「なんでいつもあたしにこうやってきかしてくれるの。あたしがパクるとか考えたことないの」
「きぬちゃんはそんなことしないよ」
「……まあ、しないけどさあ」
 ――できるような立場にもないし。
ヅルはヘッドフォン首にひっかけたまま、息苦しそうにその下のネックレスをいじっていた。
骨ばった右手、人差し指と薬指にシルバーのごつい指輪。あたしとおなじ位置。でもそういう意味じゃない。クリエイターはだいたいここに指輪をはめるのが決まってるようなもん。それはつまりあたしたちがなにかを追ってる人間っていう証拠。
 でも、あたしはヅルに会うとき、絶対指輪を外す。
 なんかバカみたいに思えちゃうから。時限爆弾みたいな気がするから。なんとなく。
 からっぽの指さする。ごはん食べようか、とヅルがデスクチェアから立ち上がる。ふん、と声になりきらない音で返事する。
 上の空のあたしの視界はブルーライトに染まっている。


 ヅルとあたしが出会ったのは、なんて言い方するとなんか気持ち悪いから、やめる。
 ヅルとあたしが知り合ったのは、今の時代、特別珍しくもないきっかけ。ヅルのフォロワーがまだほんの三百人くらいのとき、あたしがインスタのリールで流れてきたヅルの曲をいいなあって思って、なにげない感想送ってからだった。
 ――そんなとこまでちゃんと聴いてくれる人、はじめてだった!ありがとねー
 どうせなんにも返ってこないだろうと思っていたし、期待だって別にしてなかった。
 ――これからも応援してます。
 ――ありがとう!ねえ、音楽やってるの?
 ――はい。ギターボーカル。高校の部活のバンドですけど。
 片山紫吹。なんて読むかわからなかった。
 はじめて会ったとき、カタヤマシブキです、と言ったので、ああなんかあんま顔に合ってないなとか失礼なこと考えたのを覚えている。
 あのころのヅル、なんか今よりチャラくて、なんつうかがんばってチャラくなってる感じだった。見た目は完全に新宿歌舞伎町新人ホストの感じ。今はちょっと売れたホストって感じ。
 本名なんですか?そう聞いたら、うん、本名、と言った。
 声が口調のやわらかさに反して意外と低かった。きぬちゃんは、本名?本名です。めずらしいね、と言われた。おまえもな、と思ったけど、別に言わなかった。
「そういえば、実家に犬がいてね、きぬともめんって名前なんだよね」
「豆腐じゃん」
「ね。白いモフモフの犬。でかいの。きぬともめん。そっくりだけどおれは違いわかる」
「どうやって」
「におい」
「犬なんかみんな一緒じゃん」
「えー、全然、全然。ちゃんと、ちがうよ」
 空っぽの、ヅルのハイボールのジョッキとあたしのオレンジジュースのグラス、炭火の焼き鳥のにおい、ちょっとだけべたついているテーブル、オーダー用のタブレットに浮かぶ指紋。ヒット曲だけ垂れ流す有線と、隣でげらげら笑っているサラリーマンたち。
 あたしの向かいに座るヅルは、犬二匹うつった写真を見せてくる。
 スマホの液晶にうすいヒビ。きぬともめんの間を切り裂くみたいな、ヒビ。
「きぬはどんなにおい」
「おひさま」
「もめんは」
「牛乳」
「ほんとかよ」
 ほんとだよお、とヅルは笑っていた。
 きぬはさ、賢いんだよ。なにそれもめんがバカってこと。ちがうちがう。でもきぬは賢いんだ。おれの音、よく、知ってる。おれが帰省するじゃん、玄関までの短い道、砂利がしいてあんの。でね、砂利踏みしめる音でおれに気づくの。駆けよってくるんだ。でっかいから、おとなになっても、おれ、受け止めきれないんだけど。
 ――あとなんか、きぬちゃんに、似てる。
 ヘラヘラ笑ってる犬の顔とあたしの顔がそっくりなんて失礼なやつ、と思った。
 そんな最初のころの芋っぽい会話をあたしが今でも思い出すのは、ヅルにとってきぬとあたしがおんなじなんだろうなと思うから。
 じんわり熱残ってるマウスを動かして、再生ボタンをクリックする。
 今さっき聞いた曲がもう一度始まる。
 ――きぬは賢いんだよ。おれの音、よく、知ってる。
 ねえ。
 ヅル。
 あたしに変な期待しないほうが、いいよ。
 だって、とあたしはパソコンの画面を睨む。
 ヅルがいろいろ計算して考えて、足して引いてかけて割って、そうやってなんとか絞り出した旋律と歌詞。
 それ、ぶっちゃけ、あたし、わかんない。
 あーなんか、また、売れそうとしか、思わない。それが正解ならいいけどさ。


 あたしとヅルはそうやって、もう四年くらいの仲になる。
 しょっちゅう会う仲でもない。ラインも電話もすごいするわけじゃないし。でもだいたいひとつきかふたつきに一回は、会う。ヅルの曲作りのひと段落、その隙間にあたしは呼ばれる。
 ヅルのアパートはそこそこなマンションになって、一緒に食べたマックや吉野家は消えて、今はなんかよくわかんない手料理ばっか食わされる。まずくないけど、でも特別でもない。
 ――なにそれ、変じゃん。セフじゃないの?マジで?
 友だちの志保にそうやって言われたとき、あたしは自分でもよくわかんなかった。
 ――マジでそういうことない。なんだろ、きょうだい、つか、感覚、おばあちゃん。      
 パトロン、と志保は言った。
 まるでパトロンじゃん。ヅルって呼べば。金づるの、ヅル。てかおじいちゃんじゃないんだ。ばあちゃんなんだ。
 あたしはあいまいに笑って、ばあちゃんだね、と言った。
 そう、ヅルはあたしにとってのおばあちゃんちと変わりない。
 たまに呼ばれて、ヅルの曲で得たお金であたしはヅルのごはんを食べて、いいギター触らせてもらっていいレコードきかせてもらって、新曲までみせてもらって、で、わかったような嘘ばっか言って、それで自分も仲間入りした感じで。正直楽しくは、ある。
 ちなみにあたしはヅルのこと別に好きじゃない。
 嫌いでもない。
 どうこうとか考えたことはない。
 あたしとヅルを繋いでいるのは音楽ってだけの話だから。
 でも気持ち悪いなあとは思う。なんかごめんとも、思ってる。


 今日のごはんは、フライと、冷えたチューハイだった。
 フライヤー、買っちゃったんだよねえ。
 そうやってへにゃへにゃ笑うヅルの顎には、さっき馬鹿でかい口で齧った衣のかけらがひっついていた。
 あたしよりむっつも上のくせに、こういうところで、ときどき、歳の差を錯覚する。
 あたしはわざと指摘しないまま、揚がったトマトのフライを齧った。熱くて甘酸っぱい汁が飛び出して、舌先を焼いた。
 のんびり流れている名前の知らないジャズに耳をすませながら、わかっているような顔でチューハイを飲みこむ。
 ガキだなあと思う。あたし、マジで邦ロックのがいい。ジャズもクラシックも、よくわかんない。嫌いじゃないけど、ときめかない。ワインの味がわかんないのとおんなじようなもんなのかもしんない。や、どうだろ。
「ヅル、今日のレコード、誰」
「……えー?」
 ヅルの返事がちょっと遠くて、顔を上げた。
 ヅルはいつの間にかキッチンに戻っていた。目の前には空っぽの椅子だけだ。
 面倒くさくなって、や、なんでもない、と呟く。
 それも聞こえなかったのか、もう一度声が飛んできたけど、無視してうずらを齧った。
 べっとりした黄身が、甘い。あたしの胃は油に弱いのか、むかついていた。


 ときどき、我に返る瞬間がある。
 それはいつでもヅルのマンションで、お風呂に入っているときだった。高そうな入浴剤が胸いっぱい苦しく香って、白い湯気の中で汗をかいた腕を見つめているとき。よくわからない。名前もなければ色もない。たぶん。
 ただ茫然として、それから、あれ、あたし今何してるんだろうなあと思うけど、その胸に起きるさざなみが怖いから、シャンプーをいつもより二回多く出して忘れようとする。                 
 あたしのバイト代なんかじゃ買えないヅルのシャンプーは、あたしをいくつか大人にする気もするけど、お風呂上がりの、濡れた、平べったくて短い身体つきで、なんだかなあと思う。あたしの髪からにおう花も途端に安っぽくなる。
 無駄に並ぶスキンケア用品をあたしはいつも使わない。糸が何本か飛び出したポーチから、百均のボトルに詰め替えた化粧水をばしゃばしゃ塗る。
 ふと目線を下ろした先、いくつも身を寄せ合っているデパコスのボトルキャップに長い髪の毛が一本挟まっていてぞっとした。
 ヅルのマンションにいる日は、きっちり零時に布団に潜る。
 ヅルはなんだかいろいろ仕事があるらしいけど、なぜか仮眠を一緒にとる。あたしと喋るとなんか思いつくから、とかわけわからないことを言う。
 あたしたちはたいてい、あたしがふっと落ちるまで、くだらない話ばかりしている。
 布団の中、やがてヅルの鼻歌が始まる。なぞるのは得体の知れない譜面の羅列。オリジナルなのか既存なのかわからないけど、とりあえず、ダサい。
 ふっと、暗がりの中でヅルを見る。
 目にかかる髪がもさっとしているのだけ見えた。すっと息を吸うと、すぐ近くにヅルのにおいがある。たぶん人工のにおい。会ったときからずっと同じにおい。
 ヅルがあたしに気が付いたのか、こちらを見る。
 次第に目が慣れてきて、お互い、目線が絡まる。ヅルは人の目を見ることを怖がらない。あたしは瞼を下ろして、身体を仰向けにするとふと呟いた。
「ヅル」目を開き、天井を見つめる。「ヅルがあたしのこと、利用しないのは、なんで?」
「利用って?」
「……いい。だってヅル、わかんなそうだもん」
 あたしはそれだけ捨て台詞みたいにして、背中を向けるとヅルの分までタオルケットを巻きこんで目を閉じた。
やだ、とヅルは乙女みたいにくすくす笑って、肌寒いくせにあたしからタオルケットを奪わずにそのままじっとしていた。
 やっぱり、馬鹿なのだ。
 あたしはときおり、ひとりの人間として、ヅルにものすごく苛立つときがある。
 どうしてなのかわからなくて、でもたぶんきっと、いろんな意味の嫉妬があたしの中で勝手に凝り固まっているのだと思う。こういうときもそうだ。
 ヅルという人間は、あたしのいらいらする部分を、ずっと、強く握っている。

          *

 下北沢までは意外とあっという間だ。
 改札抜けたら、いちばんわかりやすいところに池ちゃんが立っていて、あたしとばっちり目が合うと垂れ目をさらに下げてにっこり笑う。いつもワンピースやスカート履いている彼女は、ライブに行く日にはラフな格好をするんだけど、背が高くて顔も小さいからよく似合う。ハーフパンツから伸びたすらりとした足に思わず目が行く。
「ごめん、おまたせ」
「ぜーんぜん」
 池ちゃんが首を振ると、さらさらのボブが揺れる。きらきらの陽ざしの粒が絡まってる。
「ほとんど同時だよ。まじで」
「まじ」
「うん」
 たのしみだねー、と池ちゃんがきらきら笑う。
ドラムを叩いているときは別人みたいなのに、普段の彼女は昼間のシャボン玉そっくりだ。
やわっこいのに、でもどっかつかみどころなくて。バンドメンバーのなかで一緒にいて楽なのは池ちゃんだ。おんなじバンドが好きなこともあって、彼らのライブがあるといつも彼女と一緒に行くことになっている。
「先月は大阪だったから行けなかったじゃん?だから今日嬉しすぎてさあ、いつもとちょっとメイク変えてきたんだけど」
 恥ずかしそうにあたしの隣で笑う池ちゃんの顔をじっと見ると、いつもよりしっかりメイクした感があって、あたしはほほえましくて笑ってしまった。
 わかった、チークでしょ。バレた。うん、かわいいよ。いいと思う。
 池ちゃんはぶんぶん手を振りながらも嬉しそうに笑った。
「受付のライブハウスって前と同じとこだっけ」
「そのはず」
 もう慣れてきた道をグーグルマップ見ずに進んでいく。
 下北沢にはいくつもライブハウスがあって、アマチュアバンドがそれぞれ決められたライブハウスで演奏する。
 客はこのフェスのチケットを買って、そうしたらドリンク二杯つきで三千円とか、高校生なら二千円もしない、それくらいで昼から夜まで好きにバンドを見て回れるのだから、音楽好きにとってはありがたい。
 受付会場のライブハウス前に着くと、すでに列ができていた。
 みんなちゃんと並んでいて、それぞれ推しバンドのタオルを肩にかけていたり、セトリ書いてもらうためのスケッチブック大事に抱えたりしていて、ほとんどは若い女の子だった。
 列に並ぶひとりひとりに、たくさんのバンドマンたちが直接ビラを手渡している。いつもの光景にどっかほっとしながら、あたしたちは列のいちばんお尻にくっついた。
 すぐに髪真っ赤に染めた男の子があたしたちにビラを渡す。ユリイカっていいます。十四時。ちょうどいい時間っす。来てください。男の子は普通の顔立ちだったけれど、にかっと笑うと結構かわいかった。
 ありがとうございます、と笑って受け取って、がんばってください、と付け足す。彼はもう一度にかっと笑って、あたしたちのすぐ後ろに並んだ男の子二人連れにも同じことを言いながらビラを渡す。
 ユリイカ。おそらくパソコンで作った自作の宣伝ビラ。
 さっきの赤髪くんはボーカルらしかった。ユリイカっておもしろいね。池ちゃんの呟きに、んね、と返しながら、持ってきたファイルにビラをそっと挟む。アマチュアバンドの名前って結構いろんなものがあって面白い。
「そういえばあたしたちのバンドって最初の名前結構ひどかったよね」
「なんだっけ、えーっと、あ、……切り傷に絆創膏」
 池ちゃんがしょっぱなからひどいものを呟いたので、あたしは思わず吹き出してしまった。
 バンドを組んですぐはあたしと池ちゃんしかいなくて、人を集めるためにも変な名前にしようと彼女が言ったので、あたしたちは学食の隅っこで脳死状態の頭を捻ったのだった。
 切り傷に絆創膏は、池ちゃんが思いついてあたしがしばらくおなか抱えたやつだ。
 つまんないことわざみたいで、無理。そうやってげらげら笑っていたのももう二年前だ。
「あとなんだっけ」
「ショートケーキのいちごは最初に食べる」
「だッッッさ、しかも長」
 あったね、いやマジで意味わからん、とあたしが呟くと、池ちゃんはくすくす笑った。
 でも面白かったよ。バンド名なんてきっとそんなもんじゃない。そうだね、とあたしは笑う。
 結局、あたしたちのバンドはメンバー集まるまで名前を決めなかった。ベースのりんがかわいい名前を提案してくれたからなんとかなったけど。
 喋っているうちにするする列は進んで、チケット購入済みの方、と札の下がっている受付にスマホを見せる。受付は金髪のお姉さんだった。彼女はまつエクでしっかりした目をじっと画面に向け、電子チケットですね、確認しました、とプログラミングされたみたいに言う。
 お目当てのバンドを番号でお願いします。
 お姉さんが指した折り畳み机の上にはタイムテーブルをラミネートしたものが貼ってあって、そこには青いインクでそれぞれ番号が書きこまれている。
 目を走らせ、ブルーレイン、と書かれたところを指さす。四番です。お姉さんは、はあい、と返事をして、あたしの答えに顔をあげることなく、四、と書きこんでいく。
 じゃあ腕出してください。
 あたしの腕に紙製のリストバンドが巻かれる。ドリンクチケットとタイムテーブルを受け取って、外へ出る。
「ブルーレイン、四番手だね」池ちゃんの頬はすでにどっか紅潮している。「たのしみ」
「ね、楽しみ」
「最前やめとく?」
「ん、……いつも通り二列目か三列目くらいでいいんじゃないかな」
 最前はいつも着飾った女の子たちが慎くんを見るために占領されている。彼女たちを押しのけて最前に行くのは気が引けるし、なんだかもうすでに彼女たちが最前いくのは暗黙のルールだ。あたしの返事に、池ちゃんは、たしかに、と呟いた。ちょっと怖いしね。
「あとさ、意外と最前より二列目とか三列目のほうが目あうよ」
 あたしがそう言うと、池ちゃんは目をきらきらさせて、うわ、たしかに、たしかに、と繰り返した。こういうときの池ちゃんは、すごくかわいい。
 あたしはボーカルの慎くん、池ちゃんはベースのケンヤが好きで、本当に恋する乙女みたいな顔でライブ中じっと彼を見つめているのだから、素直でいいなあと思う。
 あたしはいつもいろんな感情にこころひっかきまわされて、全然かわいげのない顔でステージ見てしまうから。


 適当にハンバーガーショップへ入り、池ちゃんはずっしりしたバーガーセットにコーラ、あたしはローストビーフとアイスティーを口にした。
 いつも彼のライブ前は自分のライブでもないのにいやにどきどきして、あんまりものが入っていかない。五切しかないのにそれさえ苦しくなってきて、池ちゃんに二切食べてもらった。
「絹、緊張してる」池ちゃんは大口開けているのに上品に食べる。「がんばってセトリ貰おうね」
「ん」
「手紙持ってきた?」
「ううん」
「どうして」
「書こうと思ったんだけど、死ぬほど長くなりそうで、やめた」
「そっかあ」
 池ちゃんはさほどつっこまずにポテトをつまみだした。
あたしは頬杖ついて、半分以下になったアイスティーをストローで吸い上げる。氷で汗をかいたグラスはきんと冷たい。
「池ちゃんは書いてきた?」
「うん」
「渡そうね」
「頑張る」
 窓の外、キャリーケースを引っ張るバンドマンの姿がいくつか見える。ギターケースがまるでもうひとりの人間みたいに彼らの背中に寄りかかって、歩くテンポに合わせ左右に揺れている。
 ライブフェスの日の下北沢は、何センチか浮遊した別世界みたいに見える。
 目の前で丁寧にポテトをかじる池ちゃんの長い睫毛が陽の光に飲まれている。舌に残るのはアイスティーよりガムシロップの味だった。
 憧れを現実にする手段は人によって違くて、それに運まで関わってくるのだから、どうにもやっていられない。
 目をふっと閉じたら、あいまいなまぶたの色が見えた。


 楽器屋と古着屋をうろついて時間を潰し、三十分前にライブハウスへおりていった。
 入り口近くのバーカウンターでドリンクチケットを出すと、お姉さんが慣れた手つきでカクテルを作ってくれる。プラカップを満たすストロベリーカラーのカクテルからは少しのライチの香りがする。
 紙ストローがしなびるのは嫌だから、ふたり、ライブハウス前の車止めによりかかって会場前に飲み干す。
 バーカウンター傍には小さいモニターが置いてあって、ひとつ前のバンドが演奏していた。
 シルバニアサイズまで画面内に圧縮された四人の男の子たちと、突き上げられたいくつもの手。その腕にはまったラバーバンド。
 何味かはっきりわからない冷たいカクテルをジュースみたいに飲みながら、目はそこへ吸いこまれていく。
 あたしたち、下北沢のライブハウスは使ったことがない。
 どんな音になるんだろう。歌ったら気持ちいいだろうな。
 ちらりと右隣の池ちゃんを見る。あたしだけが突っ走ってると思われるのは嫌だから、普段ナニナニしたいねとかナニナニになろうねとか口走らないように気をつけているんだけど、
「……ね、池ちゃん」
「うん?」
「いつか、下北沢のライブハウスでも、やりたいね」
「ねー、やりたいね」
 やろうね、という言葉にはならない。
 あたしは残りのカクテルを一気に吸い上げてゴミ箱に捨て、濡れた手をぼけっとしままハンカチで拭った。
 二十分前になると少しずつ人が吸いこまれていって、あたしたちもあわてて入った。すでに
 最前は女の子たちによって埋められていたけれど、二列目の左側があいている。あたしと池ちゃんはそこに並び、まだ薄暗い会場の中でしんと落ち着いているドラムやギターやベースを見つめていた。
 ケンヤ側、あいててよかったね。あたしがそう小声で言って軽く肩をぶつけると、池ちゃんは嬉しそうに、ありがとう、と言って肩をぶつけ返した。
くすぐったい気持ちと心臓吐き出しそうな激しい鼓動、意識が一枚ずつ剥がれていくみたい。
 少しして、奥からメンバーが出てくる。女の子たちがはしゃいだように紅潮した顔で彼らを熱心に見つめている。
 最後に慎くんが出てくる。
 男の子にしては小柄で、でも顔が小さいからジーンズ履いた足はすらっと長く見えて、大きな青いスニーカーが似合う。やわらかそうな猫っ毛はヅルみたいなウルフだけど、その隙間、左耳のピアスが照明あたってはじけるように光る。あたしの目は彼に刺さって抜けなくなって、
 さっきよりも鼓動が激しくなって、心臓飛び出ないように唇きゅっと閉じる。
 いつも画面の向こうにいる慎くんを直接見るとき、不思議な気分になる。
 慎くんがマイクの前に立つと、最前埋めている女の子たちがきゃあっと声をあげる。慎くんはそんな女の子たちには目もくれずにギターを抱き、音出しを始める。メンバーも同じように定位置について、音が重なっていく。
 耳がだんだんぼうっとしはじめて、それにつられたみたいにあたしの意識もぼうっと、ただこの時間に沈んでいく。
「ちょっと、あの、あげてくださァい」
 慎くんがふいに顔をあげてそう声を出した。音響の人の方をじっと見つめている慎くんの真っ黒な瞳には照明の青が飛びこんで、まるで猫みたいに光る。縁取るような睫毛が長く、女の子たちは彼の顔をじっと見つめている。
 何度か瞬きを繰り返したあとに、慎くんはもう一度ギターを弾き、声出しをする。
 透き通るような高音に、あたしの心臓がどきんと跳ねる。息が知らないうちに止まっている。
「じゃ、いきますか」
 慎くんがひとりごとみたいに言う。
 それから、やっとそこで気が付いたみたいにあたしたちをぐるりと見回す。でも誰とも目が合わないような、慎くんは常にどこか遠く、あたしたちに見えないものを見ているみたいな感じがする。
 いっちょまえにそういうところに寂しさを感じて、そんな自分がかったるくってふと目線を落とす。誰かが落としていったドリンクチケットが、女の子のピンクのスニーカーの下でもがいていた。
 慎くんの目は青く光り続ける。吸いこまれていく。
 ドラムの入りとリズム。聴きなれたギターの音。ベースの音。慎くんのブレス音と、その数秒後、唇からまっすぐ発せられる音。
 慎くんの声が、あたしの記憶に刷りこまれた歌詞を綺麗になぞっていく。その瞬間、あたしはまるで彼と答え合わせできているような、そんな気持ちになれる。
 涙が勝手にじわっとあがってきて、あたしは拭きもせず顔をあげる。照明が目を焼く。
 慎くんは客席へ、でもそこにはないなにかを探すみたいに目線を彷徨わせる。
 あたしは彼のこういうところがどうしようもなく好きだ。ずっと。はじめて聴いた日から。それではじめてライブに行って、じかに表情や声の使い方を見た日から。
 慎くんとあたしはきっと似ていて、あたしの道中に彼が立って、じっと待っている気さえする。ぜんぶ都合のいい妄想なのはわかっていても。
 慎くんはあたしの求める正解をすでに手に入れていて、だから眩しくてたまんなくて。
 無意識にあたしはそんな彼の影や輪郭に手を伸ばそうとしていて、届くわけないのに。
 きゃあっと声があがる。
 はっとステージ見たら、慎くんが最前に乗り出していた。
 ステージからはみ出した彼のからだ、顔、その輪郭が急に二列目のあたしに近づいて、また息が止まる。
 あたしの目は彼の目を探す。
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、目が合ったと思った瞬間に、慎くんはもうどこかを見ている。


 ありがとうございました、そう言ってきっちり頭を深く下げる彼を見ながら、やっぱり好きだと思った。
 セトリを求めて無数にステージに飛び出す女の子たちの白くて細い腕をすり抜けるように、慎くんはさっさとはけていく。誰にもつかまらないうちにいなくなる、みたいに。
「よかったねえ」
「ん、よかった」
 池ちゃんとどっか放心気味に言葉交わしあって、外に出る。
 出待ちの列が細く、ずらーっとライブハウスの外壁沿いにできている。心臓また飛び出そうになりながらうしろに並んだ。
 メンバーがライブハウスから出てくる。彼らはすぐに囲まれて、そこにはちゃんと慎くんもいた。お日様の下にいる慎くんはなんだかよりフィクション感が強くって、なんか今、あたしは現実にいるのかもうっすらわからなくなっていた。
どきどきは異常数値、ずっと収まってはくれなくて、絹、ノート出さなきゃノート、と池ちゃんが声をかけてくれるまでどっか放心していたし、ペン一本とノート一冊出すだけなのに何度も手を滑らせた。
 着飾った女の子たちはかわいくて、写真やサインや握手にこたえる慎くんの横顔はそんな彼女たちのかわいい洋服や手入れの行き届いた長い髪に隠されてしまって、あたしはつい先日また切ってしまった真っ黒なショートヘアと、パンツスタイルの男の子みたいな自分のかっこうにちょっぴり嫌気がさしたりもする。
 でも、あたしは別に、彼らをアイドルみたいに好きなわけじゃないし。
 そう思って目線をおろしたらスニーカーの紐がほどけている。かがんで結ぶ。指先が震えている。
「絹、絹、もうすぐだよ」
 池ちゃんの小声に顔をあげると、あたしの前に並んでいた女の子二人づれが手を振りながら帰っていくところだった。
 慎くんとギターの健太郎くんが彼女たちにひらひら手を振り返している。
 ノート抱えたあたしの手に、肋骨殴る心臓のリズムが響いている。
 ほら、絹、と池ちゃんに肩をそっと押される。
慎くんの目がふっとこちらに向いて、あたしたちのところへ歩いてくる。
小柄な彼とあたし、目線がほとんどおんなじで、どく、と心臓が跳ねる。慎くんはまるで友だちみたいな口調で言う。
「おまたせ」
「……あ、あの、今日もよかったです」
「まじ、ありがとー」
「あ、えっと、セトリください」
「うん、いいよ」
 スケッチブックとマッキーを差し出すと、慎くんは慣れた手つきでそのキャップを外し、男の子の字、って感じの荒い字でセトリを書いてくれた。それから上部分の空白の上でマッキーの先が迷う。
「名前、なにさん」
「あ、きぬ、です」
「きぬ。えっと、いとへんの?」
「はい、あの、ありがとう、ございます」
 あたしはうまく言葉が出てこなくて、からだを縮める。
ノートに書いてもらったセトリ、その一番上に、絹さんへ、と書かれている。
「ねえ、きぬって、本名?」
 ふと慎くんがそう言ったので、あたしはびっくりしてまたかたまってしまった。
池ちゃんがかわりにさっと答える。そうなんです、めずらしいですよね。へえ本名、と慎くんがなにかに納得したみたいな顔で頷いて、それからあたしにペンを返す。
「かわいいと思う」
 池ちゃんが興奮した顔であたしの肩をべしべし叩く。かわいいって、よかったね、絹、かわいいって。慎くんはじゃあねと手をひらひら泳がせて、ライブハウスの中に下りていく。
 あ、あたし、今日も、また、今日も、考えていた言葉のほとんどを言えなかった。
 肩をたたくその手に、名前がね、とあたしは呟く。名前の話だよ。
「なんで?いいじゃん、素直に受け取っておきなよ」
「……慎くんの言葉に他意はないの」
「ん、タイってなんだっけ」
「……つかケンヤ囲まれてるよ、はよ」
 帰っちゃうよ、と付け足すと、池ちゃんははっとした顔でケンヤのところにスケッチブックとマッキー抱いて走っていった。
 ――かわいいと思う。
 そう言ったときの慎くんはいくらかやわらかいまなざしをしていた気がするけれど、でもやっぱりあたしをひとりの輪郭としてはとらえていないのがわかった。
 あたしもギター弾いて歌ってるんです。いつか慎くんたちと一緒のステージに立ちたくて。いつも元気もらってます。いつも救われてます。
 今ふっと考えてみたら、どれもこれも誰かの使い回し、まるでネカフェの汚れた漫画みたいな気持ちがして冷めそうになる。
 こんなん、慎くんからしたら、ふうん、だ。
 彼らはもう、あたしと同じ世界の人間じゃなくなっているから。
 どうしようもなく泣きたくなって、あたしは歩道の隅っこ、邪魔にならないように車止めに寄りかかりながら、ぼうっと、池ちゃんの幸せそうな笑顔を見つめていた。         

 下北沢の夜は間接照明みたいな明るさだ。新宿とか、渋谷とか、原宿とかと違う、なんかどっかオレンジ色のぼやっとした感じ。
 下北沢の街中には隙間と隙間に飲食店がいくつもあって、チェーン店が最も堂々と看板を光らせている。
 あたしたちにとってライブは特別で、そういう夜に食べるのはつまらないあたしたちの町にもあるお店のごはんじゃない、とは、思うけど、でもお金あんまりないし、かといって店はどこもかしこも混んでいるし、あたしたちは駅から少し離れたコンビニに向かった。ほろよい二缶とおにぎりという奇妙な組み合わせを買って、ベンチに並んで腰かける。
「最高でしたあ」
「最高だったあ」
 あたしたちはそう言って、缶をこんっとぶつけあった。
 ライブの余韻は甘ったるい倦怠感みたいになって、いつもからだじゅうをめぐる。甘い。甘い。ぜんぶ甘い。甘かった。
 きらきらしていた慎くん。触れ合った手のひらはあたしよりひとまわりほど大きくて、熱くって、でも薄くて、男の子の手だった。あの音の厚み。ばかでっかいスピーカーで耳がはじめぼうっとなる感じ。こもったライブハウスのにおい。
 缶を傾けて一気に半分ほど飲んだ。池ちゃんに付き合ってほろよい飲んでいるけど、あたしはもともと酒に強くって、これくらいじゃなんともならない。
 池ちゃんは反対に弱いから、あたしの飲みっぷりに、おおう、と声を漏らす。
「何時に帰ろう」
「終電で帰れればいいよお」池ちゃんは甘さに浸っていた。
「そうだね」
 あたしたちは同じように足をぶらぶらさせて、正面の民家でも道路でもないどこかを見て、しばらく黙っていた。それぞれがそれぞれの甘みを辿って浸っていたから。
 あたしがふと目の覚めたようにプルタブをいじっていると、池ちゃんが声を潜めてあたしの頬に顔を近づけた。
「てかさ、あのさ、ケンヤのあのファンサってわたしかな」
 いつも真顔というか、真剣なのか仏頂面かわからない顔でベースを弾いているケンヤが客に向かって指をさし、にこっと笑ったのを、あたしも覚えていた。
 あれか。あたしはにやにやした笑顔を向ける。
「そう思っとけって」池ちゃんに肩をぶつける。「だって二列目のベースサイド、あそこもろ池ちゃんいる場所だったじゃん」
「えええだよねえ、だよね、そう思っていいよね、キモイかな」
「なんでよいいじゃん」
「え、てかてか絹もさ、慎くんからファンサもらったじゃん」               
「ハイタッチでしょ、でもあれ毎回、レイニーのサビでやるじゃん。前のほうのファンと何回も。あれあたし以外もやってもらってるもん、むしろケンヤのレアファンサもらうほうがラッキーだって」
「でも絹、認知されてんじゃん」
「認知じゃないよ。わりとDM返してくれる人だもん」
 あたしはそう明るい声で言って、裏腹にこころは冷えてずきずきした。
 ――だって、認知してたら、あたしの名前、いい加減覚えてくれてるはずだもん。
 慎くんはタグ付けとかメンションとかDMにちゃんと反応してくれるタイプのバンドマンだ。ありがとー、とか、またきてね、とか。
そのひとつひとつに特別な温度も色もないのに、どこまでも透明なのに、向けられたあたしたちはそれらを自分の特別にして自分の色にして大事にしまっておこうと、そうなるのだから、くだらないんだ、ほんとは。
 ああいうのはガラスの破片と一緒だ。
 綺麗だけど尖ってて、透明で、映りこんでいるのはぬか喜びしてる自分だけで、ふっと、どっかのタイミングでこころに突き刺さったり、砕けて散らばっては踏んで、足裏が切れて歩けなくなったり。
 好きと推しって境界線あいまいで、ファンと独占欲もあいまいで、なんだかくったりする、嫌。
 あたしは慎くんの全部が好きだけど、その全部ってなんだろう。考えるほど心がずくずくしていやんなる。
 残りのほろよいを飲み干し、池ちゃんに一声かけてもう一度コンビニに入った。
 冷蔵庫のドアを開けてスミノフを一本とミネラルウォーターを二本取り出し、その冷たさに飲まれていく手のひらをふと見下ろしたら水滴がついている。あのときの慎くんのちょっとの温度は、勝手にこうして消えていく。
 ――雨の中で僕を見上げたときの君の目はとっても強くてさ、それでさ僕は君を好きになったんだ、それだけさ、それだけわかってくれればいいんだけどさ。
 耳の奥にはサビのそんな歌詞が耳垢に絡まってまだ残っている。
 慎くんがあたしの手に触れたとき、どこの歌詞をなぞっていたっけ。彼はどんな顔をしていたっけ。たった数時間前の記憶はもう溶け始めている。
「袋いりますか」
「いえ」
「お支払いは」
「あ、Suicaで」
 店員は中東系の外国のお兄さんだった。
 違和感のない日本語に、一瞬彼の顔立ちと声と言葉とが噛み合わなくて、そうしたら目が合ったから気まずくて俯いた。
自動レジからレシートがじじじと出てくる。
 前の人が捨てなかったせいで切り離しきれていないそれが長く伸びていたから、思いっきり千切ってまとめて下のケースに押しこむ。
 それで、ふと、思う。
 あたしはもうこの店員さんの顔を思いだすことはないだろうし、店員さんも同じだろう。慎くんもそう。あたしのことを非日常であるライブハウスで見ることはあっても、彼の日常にあたしが現れることは、まずない。
 右手で無理やりスミノフとミネラルウォーター計三本を掴んでコンビニを出る。
 ベンチに座っている池ちゃんはあたしにまだ気づかず、スマホを見ることもなく、ほろよいの缶を片手にじっと空を見上げていた。
無心にも見えたし、月をまっすぐに見つめる純粋な横顔にも見えた。彼女の鼻柱はすっとおりていて、半分夜の暗さに飲まれた横顔の輪郭はあたしより綺麗だ。
 数秒後、ばちっと目が合って、あたしたちは緩んだように笑いあう。
 あたしは常に誰かを羨んでいて、常に誰かを見下していて、みっともないな。
 ミネラルウォーターを一本差し出すと、池ちゃんは八の字眉毛で礼を言い、お金、と言った。
 いいよ別にこれくらい。でも、というから、じゃあ来月また行こうね、ライブ。付き合ってくれたら、それでいいよ。そう言ったら嬉しそうに笑った。
 池ちゃんと半身くっつけあって、あたしはスミノフのキャップをぱきっと開ける。
 缶と違って、瓶のお酒はちょっとおいしく感じる。
 そういうことを呟いたら、池ちゃんはまだ少し重たそうな缶を右手にぶらさげてふやふや振り、コカ・コーラ現象、と言った。
なにそれ。うん、わたしが勝手に呼んでるの。コカ・コーラ現象。コカ・コーラも、瓶のほうがおいしい気が、しない?
 あたしはスミノフを三口ほど飲んで、ん、と返事する。
 わかるかも。なんでだろ。
 あたしたちは首を捻る。捻って、わっかんないねえと笑う。あたしも池ちゃんも文学部だ。
 池ちゃんは、うーん、レアだし、なんかさ、特別だからかなー、と適当にまとめた。そこで話のしっぽは綺麗に丸まって終わったから、あたしはスミノフの続きをごくごく飲んだ。