猫になって一番嬉しかったことがある。それは、人間に頭を撫でてもらうことだ。
 子どもの頃はなにかと頭を撫でられる機会は多い。でも自然と大人になるにつれて、その回数は減り続け、大人になれば頭を撫でられるなんてこと、滅多に起こらない。
 だからこそ、猫になって頭を撫でられて、衝撃を受けた。気持ちがいい。そして、気分がいい。
 こんなに素晴らしいとわかっていたなら、私は手当たり次第、頑張っている人の頭を撫でたくなっただろう。

 12月に入って、ベル・ウッドは以前より賑やかになった。川口さんのところに、無事元気な男の子が誕生した。名前は颯太(そうた)くん。
 ゆーちゃんは甥っ子の光希が生まれたとき同様に、感動して喜んでいた。

 もうそろそろクリスマス。ゆーちゃんは朝からいつもより小さい12センチの型を使って、プレーンのホールケーキを3つ焼いた。デコレーションケーキは、私の弟昇から頼まれて以来、作っていない。シフォンケーキの店を出すからには、お誕生日ケーキや記念日ケーキなども作れるようにならなければと、ゆーちゃんはクリスマスケーキに使えそうな飾りをいくつか買ってきた。

「こういう食べられる飾りって、かわいいけどあんまりおいしくないんだよねぇ」

 だからゆーちゃんは、なるべくチョコレートを使った飾りを買ったらしい。メリークリスマスと書かれた赤や緑のチョコレートや、食べられないけれどプラスチックでできたヤドリギやクリスマスリースの飾りもある。

「にゃあー(こんなにたくさん、どうするの?)」

 よしよし、とゆーちゃんは私を撫でる。撫でられるとやっぱり気持ちがいいので、つい喉もゴロゴロ鳴ってしまう。

「川口さんに松山さん、あと、あーちゃんのところにも届けようかなって。201号室の人にも、渡そうかなぁ」
「にゃー(そんなにたくさんの人にあげるの?)」
「たくさん練習したいけど、ひとりじゃ食べきれないし。あ、でも201号室の人って一人暮らしだよね、多分」

 私もゆーちゃんも、隣の人だけはあまりよく知らない。窓から時折見える高級そうな飼い猫と、ここへ引っ越してきたときに挨拶して以来、あまり出会わない。挨拶したときは美人だなぁ、と思った。たぶん、年齢も私たちと同じくらいだろう。

「甘いもの、あんまり好きじゃなかったら迷惑だよね」

 ゆーちゃんはまだ完成もしていないシフォンケーキを、誰にあげようか悩んでいた。
 その夜、ピンポーンと誰かがインターフォンを押した。ゆーちゃんが出てみると、見知ら男女が立っていた。

「……はい?」

 ゆーちゃんも少し身構える。こんな時間にセールスではないだろう。女性の方は私たちと同じか少し下くらい、男性はその父親くらい歳の差がありそうに見えた。

「夜遅くにすみません、実はその……人を探しておりまして」
「……え?」

 人を探している? 私も思わず首を傾げた。

「この隣の201号室の方、どんな方ですか?」
「どんな方……と言われましても……」

 ゆーちゃんは眉を歪めて、はぐらかすようにしていた。
 この2人がどんな人なのかわからないが、もし201号室の人に危害を加える可能性があったら大変だ。

「この子に少し似てますか?」
「……はい?」
「実は、探しているのは娘なんです。こっちはその妹で」

 そんなに何度も顔を合わせていないので、似ていると言われたら似ているような気もするが、正直わからない。

「すみません、あんまり顔を合わせたことがなくて、似てるような気もするんですが……」
「そうですか。突然、失礼しました。ありがとうございます」

 ゆーちゃんは小さく「すみません」と会釈して、そっとドアを閉めた。でもゆーちゃんは ドアアイから外の様子を伺っている。私も耳をすませた。どうやらあのふたりは隣の201号室のインターフォンを鳴らしている。
 しかし、誰も出て来ないらしい。

「おかしいな、いないのかな」

 ふたりの囁くような声が聞こえた。
 たぶん、201号室の人は家の中にいる。いつも行動パターンは同じで、朝は7時頃に家を出て車で出て行き、夜は19時頃には帰ってきている。平日の日中は車で出かけているけれど、休日は車があるからあまり外出しないのだろう。でも、出て来ないのはなぜか。
 しばらくしてふたりは帰って行った。

「201号室の人って、あんまりしゃべらない人だったね。なにかあったのかな……」

 ゆーちゃんも心配そうだ。
 1時間後、またあのふたりが戻って来た。もう階段を上る足音で私にはわかった。父親の方はべたべたと重たい足取りで、妹の方はヒールの音がカンカン響く。

「リサ、お父さんだよ。ドアを開けてくれないか?」

 リサ、と呼ばれた201号室の人はそれでも静かだ。
 ドアを開けてくれないか? という言葉を聞いて、オオカミと七匹の子ヤギを思い出す。201号室の人が食べられてしまうんじゃないかと一瞬本気で考えた。もし、本当におかしな人がしつこく訊ねて来ているのだったら、どうしよう。
 ゆーちゃんもドアの外から聞こえて来る声に気づいたらしく、またドアアイから外を覗いている。

「お父さんとユミだ。開けてくれ」
「お姉ちゃん、大丈夫だから開けてよ」

 ぎぃ、とドアが開く音がした。

「リサ、どうしてこんなところにひとりで住んでるんだ。心配したんだぞ」

 201号室の人は一言も声を出さない。父親と妹の声を聞いている限り、なんだかワケアリの様子だ。

「お父さんと一緒に帰ろう。な?」
「お姉ちゃん、家に帰ろうよ」

 なにがあったかはわからないが、ゆーちゃんはその声を聞きながら静かに椅子に座って、ドアの方を見ていた。
 ドアの向こうが静かになると、ゆーちゃんはなにか思い立ったようにシフォンケーキをまた焼いて、全部で6個もできあがった。
 
 翌日、ゆーちゃんは朝早くに起きて、シフォンケーキを型からくり抜き、生クリームを泡立てて、6個のシフォンケーキにデコレーションをした。その様子はまるで、すっぴんの顔に綺麗に化粧を施しているみたいに見えた。生クリームを泡立てるのも、もうすっかりお手の物だ。私の隠し味までしっかり定着している。
 きのう買ってきた苺を少し乗せて、小さなチョコレートプレートを飾る。ひとつは大家さんの松山さんのところへ。もうひとつは102号室の川口さんのところへ。川口さんには、可愛い颯太くんにクリスマスプレゼントも買って持って行った。それから、もうひとつは201号室へ。

 ゆーちゃんはデコレーションしたシフォンケーキ全部に向かって「毎日お疲れ様。これを食べれば、きっとあしたもまた自分らしく過ごせるよ」と、呪文のようにつぶやいていた。食べた人全員が、ゆーちゃんのシフォンケーキで笑顔になることを私も願っている。

「おはようございます、隣の一條です」

 ドアの前で私もゆーちゃんの隣に立って中から人が出て来るのを待った。もしかしたら、居留守を使うかもしれない。きのうの夜みたいに。

「……はい?」

 中から出て来た201号室の人は、なんだか疲れていて、目が腫れていた。泣いていたのだろう。

「あの、ご迷惑かもしれないですが、よければシフォンケーキ召し上がりませんか? 私が焼いたんです。もう少しでクリスマスなんで」
「え? ケーキ……ですか?」
「甘いもの、苦手じゃないといいですけど」

 201号室の人はケーキを見て、少し考えて、受け取った。

「ありがとうございます。いただきます」
「よかった」
「にゃあー(よかった)」
「あれ、猫ちゃん」

 彼女はしゃがんで私の顔をまじまじと見る。

「すごい賢い猫ちゃんですね」
「一緒に散歩もするんです。リードしなくても、ちゃんとついて来るので」
「へぇ、すごい」

 よしよし、と撫でてくれた彼女の手は少し冷たかった。でも、固い彼女の表情が少し和らいだような気がした。

「あの……きのうの夜はご迷惑を……」

 ゆーちゃんはいえいえ、と首を振った。

「気にしないでください」
「……ケーキ、本当にありがとうございます」

 そう言って会釈すると、ドアの向こうへ彼女は帰って行った。
 ゆーちゃんはさらに残りのクリスマスケーキを私の実家、自分の実家、そして甥っ子の光希のところへ配達して回った。もう完全にシフォンケーキ屋さんだ。とくに自分の実家へシフォンケーキを持って行ったら、ゆーちゃんの両親は市販のケーキを買ってきたんだとなかなか信じてくれなかったらしく、ゆーちゃんは家に帰って楽しそうに私に話してくれた。

 クリスマス前日、201号室の人は唐突に引っ越して行った。挨拶はひとこともなかった。
 大家の松山さんは引っ越しのときに少しだけ事情を聞いたらしく、それをゆーちゃんにはこっそり教えてくれた。どうやら、夫から暴力を受けて逃げ出したものの、実家も知られているため、ひっそりとここで一人暮らしをしていたのだそうだ。
 そんな事情もあったから、あまりご近所とも付き合わないよう、顔を合わせないようにしていたのかもしれない。
 でもその日、ゆーちゃんは郵便ポストの中から1枚のクリスマスカードを発見した。宛名はなかったらしい。
 私は机の上に置かれたカードを読んだ。
 ”シフォンケーキありがとうございました。とてもおいしかったです。幸せな気持ちになれました。”
 キラキラと雪が降る中で、トナカイとソリに乗った小さなサンタが描かれている。ソリにはいっぱいのプレゼントが積んであった。
 ゆーちゃんは嬉しそうにクリスマスソングを口ずさんでいた。まるで小さな子どもがクリスマスの夜を楽しみにしているみたいだった。

 クリスマスが過ぎると、後は一瞬だった。
 今年もあっという間に終わった。私たちは向かい合って真夜中の0時を待っていた。
 年末のテレビは毎回あまり変わり映えがしないので、きょねんはふたりで映画を観た。大晦日の夜に起きる奇跡の物語だった。
 ゆーちゃんはなぜか今年も同じ映画を観ていた。相当気に入ったらしい。
 そろそろ今年も残すところ、後5分。
 そう思っていると、こんな時間にインターフォンが鳴る。

「……え、誰だろう」

 大晦日の夜に、一体誰が訊ねて来るのか。ゆーちゃんはまたドアアイから覗き込んで、来客をチェックした。

「え、ど、どうしたの、こんな時間に」
「……すみません、ちょっと行く当てがなくて」

 ドアから現れた人物に、私も驚く。弟の昇だった。

「にゃー!(こんな時間に、非常識でしょ!)」
「とにかく、上がってよ」
「……はい、お邪魔します」

 私がシャーっと怒ると、昇は身体を小さく縮めてわかりやすく怖がっている。

「なんか、猫がすごい怒ってる……」
「なんでかな、怒るなんて珍しい」

 ゆーちゃんは昇を椅子に座らせると、コーヒーを淹れ始めた。そうこうしているうちに、5分経って真夜中だ。

「あ、1日になったね」
「あ、本当だ」

 ふたりは丁寧にお辞儀をする。

「今年もよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」

 私が死んだこともあってか、ふたりは決して「あけましておめでとう」とは言わなかった。

「にゃあー!(そんなのんきなこと言ってる場合じゃないでしょ!)」
「ほら、アメもよろしくねって言ってる」
「にゃ!(言ってない!)」

 部屋中にコーヒーのいい香りが漂う。

「お腹空いてる? シフォンケーキしかないんだけど」
「いえ、そんなお構いなく」

 きのう焼いた抹茶のシフォンケーキが少し余っているらしく、ゆーちゃんは丁寧にケーキとコーヒーを昇の前に出した。
 そんなもの、突然図々しく来た奴にあげなくてもいいのに。

「それで、なにかあったの?」
「……その、どこから話したらいいのか……」

 昇は俯いて、しばらく黙った。ゆーちゃんも、昇が話し始めるのを待っているようだった。
 時計の音がうるさい。いい加減待ちくたびれたから、早く話してほしい。

「妻から、離婚を切り出されまして」
「え?!」
「にゃっ?!」

 ゆーちゃんも私も、太い声が出た。まったく予想もしていない昇の言葉に、私たちは言葉を失う。

「……え、離婚……?」

 ようやく絞り出すようにゆーちゃんが言った言葉は、震えていた。

「どうも、相手がいるそうなんです。相手にも、家庭があるそうなんですが、離婚調停中だとか」
「だ、ダブル不倫ってこと?」

 ゆーちゃんは不倫と声に出して、バツが悪そうな顔をした。

「えっと……子どもたちは?」
「僕より妻の方に懐いているので、やっぱり母親とは引き離せないかなって」
「……えええ」

 ゆーちゃんはもうそれ以上、なにも言葉が出ない様子だった。
 ふたりとも黙ったまま、時間だけが過ぎて行く。

「僕に愛がなくなったって言われて、僕はなにも言い返せなくて。家にはいられないけど、行くあてもなくて。それでつい、ここへ……」

 父と母がこれを知ったら腰を抜かすだろう。かわいがっていた孫たちとの関係も、この先どうなるのか。

「……シフォンケーキ、おいしいです」
「……それは、よかった」
「姉のシフォンケーキを思い出します」

 昇はそれから無言でシフォンケーキを食べて、コーヒーを飲んで、ぼんやりと椅子に座ったまま固まってしまった。

「これは、お酒でも飲まないとダメかな」
「そう……ですね」

 ゆーちゃんは冷蔵庫の中を覗いて「ビールなら2本あるよ」とテーブルの上に置いた。あとはポテトチップスにチョコレート。そこまで大したおつまみにはならなさそうだ。
 ビールを開けて飲み、昇は大きく深呼吸をした。

「油断していたんだと思います。結婚しているし、子どももふたりいる。家族として、夫婦として、絆はばっちりあると思い込んでいたのかもしれません」
「……だけど」

 ゆーちゃんは一度口を開いたが、しばらく黙った。

「私は結婚したことがないからわからないけど、結婚していたら当然そう思うものじゃないかな。油断していたとかじゃなくって」
「そうでしょうか。僕はもっと、妻を大切にするべきだったんです」

 姉として思うことはたくさんあった。
 まず、昇はバカみたいに真面目だ。昇自身、浮気なんてできる性格ではないと思うし、そもそも浮気できる人間ほど器用にできていない。真っすぐで、正直で、駆け引きもできないほど不器用な人間だ。おそらく浮気する人の気持ちも理解できないだろう。昇の奥さんは、年下ではあったもののしっかりしていたし、昇より逞しく見えた。昇は妻の尻に敷かれていたのかもしれない。かかあ天下の方が上手くいくと聞いたことがあったが、必ずそうとは限らないようだ。

「どこですれ違ってしまったのか、考えれば考えるほど、自分には心当たりがあるんです」

 弱っちい男だな、と私は姉ながら思う。そんな頼りないところに、奥さんは愛想を尽かしてしまったのかもしれない。それとも、ただ熱烈な恋に落ちて、昇への愛を失くしてしまったのかもしれない。

「だけど、どうしてお互いに結婚しているのに、子どももいるのに、そういうことになってしまうのか。やっぱり僕には理解できなくて」
「……あの、私……」

 ゆーちゃんが重々しく口を開く。

「あーちゃんには言ったんだけど、実は……ずっと前の会社の同僚と不倫してたの」
「え……」
「だから、私なんかがなにかを言える立場じゃなくて」

 昇はしばらくぼーっとして、それからビールを一気に一缶飲み干した。ぐび、ぐび、といい音を響かせていた。

「……っぷは!」

 袖口で口元を拭い、また大きく深呼吸をする。

「夕美さんのことは、姉の一番の親友なのでよく知っているつもりです」

 ゆーちゃんは無言で頷いた。幼稚園の頃からの親友だ。昇はそれこそ生まれたときから姉の私と同じくらい、ゆーちゃんを見ているし知っている。

「僕が知ってる夕美さんでも、家庭を持つ人と恋に落ちてしてしまうくらいなら、僕は誰も責められませんよ」
「どうして? 一番誠実なのは昇くんだよ。奥さんも相手も、不貞を働いたんだから」

 昇は少し笑顔を浮べた。でも瞳は憎しみを含んでいるように見えた。ぎらりと鋭い。

「お互いの家庭を壊して一緒になろうなんて、失敗すればいいと思いました。離婚調停中だって相手は言ってるみたいですけど、嘘かもしれないし。子どもたちまで巻き込んで、なんて残酷なんだって。慰謝料をたっぷりもらって、ずっと嫌な思いをさせ続けてやるって、思いました」

 ゆーちゃんは、自分が言われているみたいに俯いて黙って聞いていた。

「だけど、できないんです。僕はまだ、家族として、妻として、想いがあるから。残酷なことを思う反面、僕以外の人間と一緒になろうと決めている時点で、僕がどれだけ法的に制裁を加えても、負けなんです」

 息継ぎもしないで一気にしゃべる。いったんそこで、気持ちを整えるように間を置いた。

「僕だって、妻のことを知ってるわけです。浮気なんてするような人じゃなかった。でも、そんな妻が浮気をしてその相手と一緒になろうとしているって考えたら、確かなものなんてなにひとつないんだなって思えてしまって。自分が情けなくなりました」
「そんな……」
「人の心はわからないですね。絶対に、気持ちが変わらないなんてこと、ないですから」

 小さかった弟が、酸いも甘いも嚙み分ける大人に見えた。真面目だから、てっきり、妻の不貞を叱責するのかと思っていた。

 新年が一刻一刻と過ぎていく。
 ふたりはぽつりぽつりと言葉を交わし、少しずつ夜が更けて行った。