母親が消えても普通に朝はやってくる。普通に学校があって普通に友達も居て、普通に勉強して普通に一日が終わって、普通に夏樹と海に入って。

 そうやって普通に日々は過ぎていく。だけど俺の心の中では、漠然とした不安が日に日に大きくなって行って。


 俺って・・いつまでこの家に居ていいんだろう・・?

 高校卒業したら大学とか行くのか?

 父さんは・・自分を捨てて逃げた女の子供の、進学費用まで工面するのか・・?


 あれ? 俺って・・
 こんな事してて大丈夫なんだっけ────?




 今まで深く考えたことなんか無かったのに、突然現実が目の前に立ち塞がる。将来の事が急に怖くなった。


「プロサーファーなんて最悪でさ・・」


 近くの公園のベンチに座って、陽葵は俺の隣りでじっと、俺の話を聞いていた。


「マイナースポーツのプロなんて、大会の賞金なんかいいとこ数十万だし。ツアー巡る旅費とかだってバカにならないし、板もウェットも毎年のように買い替えなきゃいけないし・・。トッププロでもそれだけで食べていける人なんか居なくて、皆別に仕事やってるんだよ。もうほとんど趣味の延長線っていうか。夏樹はあの店を継げばそれでいいけど・・じゃあ俺は?って、思っちゃってさ・・」


 そもそも俺は本当に、プロになんかなりたいのか? 

 夏樹に引っ張られてるってだけで・・趣味でたまに海に入って遊べりゃ、本当はそれでいいんじゃないのか?

 俺と夏樹二人分のドライスーツで約二十万・・その他にも春秋のセミドライとか板も定期的に買い替えて、一般家庭にとってはかなりの出費だろう。何も言わずに俺の面倒を見てくれてる父さんにあんなに金かけさせてまで・・俺は本当にサーフィンがやりたいんだろうか。


 何も分からなくなってしまって。自分の気持ちもこの先の事も。あるのは漠然とした不安だけ。とりあえずバイトして金貯めて、少しでもあの家を出る時の為に備えておかないとって・・そんな焦りだけは確実に自分の中に植え付けられていて────。


「どうしてそれを亮司さんと夏樹君に話さないんですか?」

 ずっと黙ってただ俺の話を聞いていた陽葵が、やっと口を開いた。

「何でって・・」

 俺は言葉を止めた。口にするのも憚られるような────あれからずっと自分の心の奥底に燻っている・・本心。

「怖いからだよ・・」


 父さんはきっとそんなこと思ってない。


 でも・・本当に?



「本当は出て行って欲しいと思われてるんじゃないのか? 俺がいなければもっと夏樹に金かけてやれるのにって思われてるんじゃないのか・・?」


 消しても消しても消えない不安。知りたくないと思う心が俺の口を詰まらせる。あの日からずっと言えていない言葉が、どうしても音にならなくて。



『父さん・・俺ってここに居てもいいの?』



 たったのその一言が・・俺はどうしても切り出せなくて────・・


「亮司さんは央君がお金を渡してきたとき、すごくショックだったって言ってましたよ」


 膝に置いていた手に重ねされた、陽葵の温かい手。俺は下を向いていた顔をあげて、隣のあいつを見た。

 あいつはやっぱり、泣きそうに表情を歪めていた。あいつが何かを伝えようとするとき・・一生懸命になりすぎてこんな顔するの、見た事がある・・



「そんな事しないと家に居られないと思われてるのかって。自分がそう思わせるような態度をとったんじゃないかって。すごく辛そうでした。夏樹君だってさっき、央君とずっと一緒にあのお店をやれたらそれが一番だって、言ってましたよ。前に海で流されかけたとき私、夏樹君に言われたんです。『迷惑かけまいとしてやってるんだろうけど、そうやって壁つくられるのがどれだけ相手を傷つけるのか考えたことないだろ』って。でも今考えるとあれは、私にじゃなくて・・央君に向けた言葉だったんですね・・」


 あいつの目から、ぽろりと透明な涙が零れ落ちた。


「央君はあの家に必要な人なんです・・!」



 ────ああ。

 俺は結局、誰かにそう言って貰いたかったんだな。

 そうだな。俺はそろそろ自分の本音を、父さんや夏樹に話さなきゃならない。いつまでも逃げ続けていても何も解決には繋がらないのだから。

 そしてもう一度考えよう。俺は結局どうしたいのか。自分にとって大事なものって一体なんなのか────。



「なんでお前がそんなに泣くんだよ」



 俺は笑って、あいつの頬を流れていく涙を拭った。一心に俺を見つめてくるぐちゃぐちゃに濡れた瞳が、愛しさを掻き立てて、俺はあいつの頬を撫でた。



「ありがとね、陽葵」



 あいつの唇に自分のそれを触れると、なんか涙の味がした。俺がそのままあいつを抱きしめると、あいつも俺にしがみつき、しばらく泣きじゃくっていた。








◆◇◆◇◆◇◆



 夏樹は小さな頃から可愛いかった。俺は最初会ったとき、本当に女の子だと思ったくらいだから。

 昔はよくそれを理由に揶揄われていたあいつ。それが原因なのか表情も口数も少なかったけど、人前で泣くような事なんかしなかった。だけど俺が助けに行くと・・やっぱりどこかほっとした様な顔をするんだ。帰り道、俺はよくあいつの手を引いて、あいつの好きな海沿いの通りを手を繋いで帰ったっけ。

 夏樹を守るのは兄である俺の役目。そんな風に思ってた。だけど母が消えてしばらくの月日が経った頃・・俺は自分の中にある恐ろしい考えに気がついてしまった。


 リビングのドアを開けると、そこにはキッチンで包丁を握る夏樹の姿があった。

「なっちゃん・・何やってんの?」

「いや・・俺もたまには何か作ってみようかなと思って・・」

 そう言ったあいつの手から────俺は包丁を奪った。

「危ないよ、なっちゃん料理なんかした事ないでしょ? 大丈夫だって、そんなの俺がやるし!」



 その時に思ってしまったんだ。

 そんな事をされたら益々『俺の居る意味』が無くなってしまう、と。


 ずっと俺が居ないと駄目な弟のままで・・俺を必要として欲しい。


 俺は心のどこかでそんな事を考えていたのか?

 今まで俺がこいつの世話を焼いて来たのって────もしかして全部、自分の為だった? こいつの自立を阻害して、家族内での自分の立ち位置を確立するための・・。

 

 気がついたら急に自分が怖くなって、それから俺は夏樹と距離をとる様になった。何をやっても自分の為の様な気がして、後ろめたく思えてきてしまって・・。



"俺達ってもう、家族じゃなくなったの?"



 そんな風に傷つけたかった訳じゃない。
 お前のことが本当に大事だからこそ俺は────・・







 バイト終わり、俺は夏樹の部屋の前に立ち、コンコンと控えめにドアをノックした。中からは何も物音はしない。多分もう寝てしまったのだろう。

(ま、そうだよな・・あいついつも朝早いし)


 明日学校が終わってからちゃんと話をしよう。母さんが居なくなってから色んなことの整理がついていないけれど────俺が夏樹を大事に思っていることだけは変わらないって。



 だけどそのときにはもう、お前は決めてたんだな。

 お前の方から手を離そうって────。