「うー・・ん。今日は初心者には、かなりきついコンディションだなぁ・・」

 その日、央君は海を眺めながら、渋い顔でそう呟いた。遠目から海を見たときには、その彼の言葉がピンとは来なかったけど・・浜へ降りるとカフェに居た時とは比べものにならないほどの強風が吹き荒ぶ。防風林てちゃんと機能してるんだと痛感した。

「今日は風の影響で左方向のカレント(潮の流れ)が強いから、右の方から入ろうか」

 浜辺を歩いて右へと十分逸れたところから海へと入水すると、いつもよりかなり、海面が揺れている事に気づく。アウトへのゲットを始めてすぐ、『かなりきつい』と言った彼の言葉を痛感することになる。

 波が大きくて、いつもより波の割れるラインが深いところにある。波数も多くてそこまで近づくのも大変なのに、次から次へとやってくる波に阻まれ、押し戻され・・そして巻き込まれたりする。これが想像以上のパワーで、驚くほどグルグル回転し、なかなか海中から這い上がれない。何も出来ないまま揉みくちゃにされまくり続け、私は『無理』を悟った。しかもかなり右へ進んでから入水したのに、気がつかないうちに元の位置よりさらに左まで流されていることに気がついた。浜辺にぐったりと打ち上げられてしまった私の横で、央君は苦笑いで私の背中を叩いた。


「まー、自然相手だから、こんな日もあるよ。今日はドルフィンスルーが出来ないと、ゲットは無理かなぁ」



 ドルフィン・スルー────ボードを持ったまま海中へと潜り、激しいスープの波の下をくぐり抜ける技術。初心者はこれでつまづく人が多く、初心者泣かせの技とも言え、私も教わってからここまで一度も成功させた事がない。この技自体が難しいのに加えて、初心者用のボードは立ち易いよう浮力が強い大きめのものを使用するため、つまり深く潜る事が難しいらしいのだ。
 波をやり過ごす他の技法として、ローリングスルーというものもある。板をひっくり返して自分はその下の海中にすっぽりと潜るというもの。しかしこれの難点は、再びパドリングを開始するには板を返してその上に乗らなければならないというタイムロス。今日のように波数が多いと板の上に這い上がるうちに次の波が来てしまい、結局何も出来ず・・となってしまうのである。


「今日はもう終わりにして、せっかくだからどこか出かける? 夕方からバイトだから、それまでだけど」

 彼は優しくそう言ってくれたけど、私はこう答えを返した。

「私は先に戻ってカフェで待ってるので、もし良ければ央君、たまにはゆっくりサーフィンしてきて下さい。央君一人ならゲットできますよね?」

「え? でも・・」

「いつも私の練習に付き合ってもらってばかりじゃ悪いなって、思ってましたし。上級者には大波のコンディションは貴重なんですよね?」

「まぁ・・そうではあるけど」

「夏樹君も芽留さんも行ってるみたいですし。たまには水入らずも良いのではないかと!」



"央にサーフィンやらせてよ"


 前に海で言われた夏樹君の言葉────その時はそれがどういう意味なのか、ピンと来ていなかったけど・・。

 よくよく考えて私はある考えにいたる。そう、あの言葉はもしかして

『お前の御守りばかりじゃ央がサーフィン出来ないじゃん』

 て意味なのでは────!?



「是非! 私のことは気にせず!」

「そ、そう? じゃあ、ちょっとだけ行ってこようかな・・」



 央君がアウトへと消えていく後ろ姿を、私は浜の上から見送った。私がどうやっても越えられなかった波の壁を、上手い人はあっという間に乗り越えて行く。パドルのスピードも全然違うし、一体何が違うんだろう。


 カフェでシャワーを浴びて着替え、借りていた板とウェットスーツを干す。一人でカフェにお邪魔するのは何となく忍びなくて、倉庫の前で座り、ぼーっと三人が居るはずの海を見つめていた。


「ひーまりちゃん」


 振り返るとそこには、央君達のお父さんがカフェの扉の傍に立っていた。日に焼けた肌と引き締まった筋肉。黒い短髪は艶があって若々しく、目元に少し見られる皺すらも、大人の男の色気の様なものを感じる。自身もサーファーだという彼は、ワイルドな雰囲気と夏樹君に似た美貌とを併せ持つイケオジだ。


「何してんの? 中入ったら?」

「あ・・ぼーっとするの好きなんで。後でみんなが戻ってきたら、お邪魔させて頂きます」

 ペコリと頭を下げると、彼はそのセクシーな目元を優しく綻ばせた。

「俺も休憩しよっかなって。良かったら隣いい?」

 亮司さんはそう言って私の隣に腰を下ろした。急激に心と身体が緊張を帯びる。同級生とも上手く話せないのに、こんな年上のイケオジと一体何を話せばいいんだろう?

「サーフィンどお? 楽しい?」

「はっ、はいっ。下手ですけど、とても楽しいです」

「いっつもサーフィンだけど大丈夫なの? 普通にデートしたいなーとか思わん? あいつに遠慮しないで言った方がいいよ」



 デート・・。

 正直私には『デート』というものが何をすれば良いものなのかが分からない。

 央君とは付き合っているとはいえ、たまに一緒にお昼を食べたり、週末にこうしてサーフィンを教えてもらうくらいの関係で、周りには夏樹君や飯岡さんも居て・・どちらかと言うとスポーツ仲間の延長と言っていい。そんな関係性に、ちょっとホッとしてしまっている自分がいて・・。
 だけど『デート』となると突然、彼氏彼女の関係になるのかと思うと、ちょっと怖いと思ってしまう。

 二人きりで一緒に買い物したり映画みたり、手を繋いだり・・キスをしてみたり・・?


 そんな自分は想像出来ない。まだ全然、認識が追いついていない。普通の『仲間』と『彼氏』の違いって何なんだろう。そういう性的な方向へ進んでいくかいかないか、それだけの違いなんだろうか・・?


「デート・・って・・どういう事をしたらいいのか、よく分からなくって・・」

 思わず口をついて出てしまったとしか言いようがない。私はハッとして口をつぐんだ。彼氏のお父さんに向かって、なんてこと言ってんだ! だけど亮司さんは相変わらず優しげな笑顔で海を眺めていた。

「んー・・何がっていう正解とかは無いんじゃない? 楽しいとか美味しいとか、一緒に何かを共有できればなんでもデートなんじゃないかな。
好きな相手が何を好きで何が嫌いで・・そういうのをお互い知り合えれば、何をするかは二の次で」



"一回陽葵にも、この景色を見せたかったんだよねー"


 初めて海に連れてきてくれたときの央君の言葉が、胸に浮かんだ。


 そうか。じゃあこれは・・ちゃんとデートなんだ。

 だって私はあんなに苦手だった央君を、サーフィンというコミュニケーションを通じて、どんどん好きになってる────・・



「あ! そういえば、いつも道具とかシャワーとかお借りしちゃって、すみません」

「あはは、そんなに気を使わないでよ。どうせスクールで使ってるやつだからね」

「スクール?」

「そー、サーフィンとかSUPとかを教えてるの。夏場は需要が多いからさ、夏休み中は央と夏樹にもインストラクターのサポートとして手伝ってもらうんだよね」

「そうなんですか。どうりで教え方上手いなって思いました」

「一人で教えられる人数って限られてるから、助かってるよ。正直カフェやショップの売上ってたかが知れてて。実はこの繁忙期のスクールでの稼ぎが、汐見家の稼ぎを決めてるようなもんなんだよ・・」

「そ、そうなんですか・・」

「だからせっかくの夏休みもあいつらはほとんどスクールに借り出すことになっちゃって・・央と陽葵ちゃんには付き合いたてのウキウキな時期なのに悪いけどね」

「あ、いえ、そんなことは・・お家の事情の方が大事ですし」

「そうだ! 陽葵ちゃん、夏休みカフェの方でバイトしない!?」

「へ?」

「冬の海沿いのカフェなんてお客さん少ないし、通年でのバイトは雇えないからさぁ。いつも夏だけって条件でバイトしてくれる子見つけるの、けっこう苦労してるのよ。どうかな?」


 バイト・・? 央君のお家のカフェで・・?


「・・やってみたい、です・・」

「ほんと!?」

「あ、はい。私で良ければ」


 バイトなんて初めてだ。今までなら人と接するのが嫌で、避けて通っていただろうけど。自分を変えるきっかけになるのなら、今はただ・・色んなことを経験してみたい。


「もちろんだよ! 央も喜ぶね、きっと」



 それにここで毎日・・央君に会える。