だが結局その日中、神楽装束の出番はなかった。帰着早々主殿に吸い込まれて行った真均(まさひと)が、なかなか戻って来ないのである。どうやら急用が長引いているとのこと。奈古女(なこめ)は一人で食事をとり、手持ち無沙汰に対屋(たいのや)の縁側に座り、簡素な庭を眺めていた。

 黄昏時に向けて茜色に染まり始めた西の空から、目に染みる陽光が降り注ぐ。太陽が東から昇り、西へと沈む。西国と全く変わらぬ天の動きに、奈古女は軽い郷愁を覚えた。落ちこぼれ巫女にとって、(かんなぎ)の宮での日々は楽しいことばかりではなかったが、まがりなりにも故郷である。東の地まで西と同じ空が続いているということを実感すれば、思うところもあるのだ。

「まーた陰気な顔をちて」

 ぱたぱたと羽音がして、影雀(かげすずめ)が縁側に降り立った。

「どうちたのよ。館に鬼がいっぱいいたから怖気づいたの?」
「違うの。その……鬼って、人を食べたり共食いをしたりする恐ろしい存在だとばかり思っていたけど、人間と変わらない心を持っているんだなと実感して」
「ははあ、それで、鬼穴(きけつ)を封じることに疑問でも抱いたの?」
「そこまでは思わないけど」
「甘いわね」

 影雀は、見えない鼻をふんっ、と鳴らす。

「さっきの純鬼が言っていたでしょ。鬼頭の館には、善良な個体ちかいないって。人や鬼を食べて大鬼(たいき)になるような奴は、想像もつかないほど非道なんだから。油断ちてると足元を掬われるわよ」
「詳しいのね」
「そりゃ、七つの年に巫の宮に入ってから外に出たことがないあんたよりは、よっぽどね」

 それもそうか。影雀は異形とはいえ雀の姿をしているのだ。小さな翼で空を切り、鬼が跋扈する東国に赴いたことがあるのかもしれない。何せ奈古女は、幼少の頃から共に過ごしてきたはずの影雀のことを、深く知らないのだ。

「ねえ、影雀。私と出会う前ってどこで何を」

 その時だ。

「……なこと……許せません。屈辱です!」

 甲高い女の声が遠くで響いた。

 それきり声は消えたものの、代わりに廊下を足早に進む軋んだ音が近づいて来る。誰のものとも知れぬ、憤りも露わな足音。奈古女は隠れようかと咄嗟に腰を上げたのだが、躊躇しているうちに結局彼女と対面してしまった。

「あなた」

 相手も奈古女の姿に驚いたらしい。ぴたりと足を止め、無遠慮な目でじっと奈古女を観察した。頭頂から爪先までたっぷり二往復する間に、女の表情は憎悪に染まる。

「そう、あなたが巫の宮から来た巫女ね」

 呟いてから胸を張り顎を軽く上げ、萌葱色(もえぎいろ)(うちき)の袖をさっと払う。見るからに高貴そうな装いをした、若い女人である。年の頃は奈古女と同じかやや上と見えた。

 つんと澄ましてはいるのだが、ふっくらとした桜色の唇と少し小ぶりな鼻が、どこか愛らしさを醸し出している。

「あ、奈古女と申します。あの」
「……和香(わか)よ」

 名乗る名などない、とでも言いたげな間が空いてから、ぶっきらぼうな言葉が返ってきた。

「和香、様」

 どこかで聞いた名だが、はたしていつ耳にしたのだったか。和香を見つめ記憶を呼び覚まそうとする奈古女の視線を、彼女は険しい顔を崩さず受け止める

「若殿の許嫁よ。近い将来、大奥様とご一緒に鬼頭の館を取り仕切ることになります」
「では、若奥様ですか」
「白々しい」

 和香の話を聞き事実を述べただけなのだが、何が癇に障ったのか、和香は吐き捨てた。

「西からやって来た盗人め。純朴そうな顔を取り繕っても無駄よ。私のあるべき場所は、誰にも譲らない」

 盗人とは穏やかではない。突然濡れ衣を着せられて、奈古女は不快感にじわりと胸を侵蝕され思わず切り返す。

「いったい何の話ですか。私は何も盗んではおりません」
「今はまだ。そういうことね」
「和香様、きっと何か誤解が」
「気安く呼ぶでない!」

 ぴしゃりと言葉に打たれ、奈古女は口を閉ざす。和香は一瞬、自分の声の高さに怯んだように身を硬くしたが、すぐに勢いを取り戻す。

「いいこと。巫の宮出身の生粋の巫女だか何か知らないけれど、分を弁え鬼穴を塞ぐことだけに心血を注ぎなさい。誰が何と言おうと、身に余る野心など」
「和香様」

 しっとりとした女の声が割り込んだ。決して威圧的ではなかったが、和香は弾かれたかのように言葉を止め、声の主の方を振り向いた。

「大奥様」

 大奥様。つまり大殿の妻であり真均の母親か。

 縁側の角に楚々と立つのは、白い頭巾を被り肩に袈裟(けさ)をかけた尼姿。年の頃は四十半ばほどだろうか。法衣(ほうえ)を纏っていてもなお滲み出る妖艶な気配に、奈古女は目を奪われた。

 真均の母は、一歩も動かずに、穏やかな声音で窘める。

「和香様、みっともないわ。鬼頭の女主人になろうというお方が、声を荒げるなど」

 堂々とお過ごしなさい、とまるで子どもに対するように言い含められ、和香の頬に朱が差した。彼女は奈古女に向き直り、何事か言おうと口を開いたが、結局声を出すことなく尼姿の隣をすり抜けて主殿側へと去って行った。

 嵐が通り過ぎても未だ状況が掴めない奈古女に、真均の母が長い睫毛を伏せ、困ったような顔をしながら歩み寄る。

「ごめんなさいね、驚いたでしょう」

 何と返すべきかと躊躇してただ頭を下げる奈古女に、真均の母は優雅な口調で続けた。

「私は三紅(みくれ)。館の奥を取り仕切っています。あなたは奈古女ね。西国から遥々ようこそ。歓迎します」

 和香とは正反対の態度で迎えられ、奈古女は少し警戒心を解いておずおずと顔を上げた。

「ありがとうございます。大奥様」
「三紅と呼んで頂戴。奥様と呼ばれるのは好きではないの」
「あ、はい、では三紅様。……あの、和香様は何のことをおっしゃっていたのでしょうか」
「ああ、ただの嫉妬よ」
「嫉妬」
「あの子の母親は巫女なのよ。ほら、時々いるでしょう、各地を放浪する歩き巫女が。東国の有力土豪であったお父君がそれを見初めてね。後に生まれたのが和香様なの」
「では和香様も清めの神楽を舞われるのですか?」
「それを期待して、真均の許婚に選んだのだけれどね、結局巫女の力は母親から受け継がなかったみたい」
「ああ、それで」

 清めの神楽を舞える奈古女を敵視したということか。気持ちはわからなくもない。しかし鬼頭の女主人となるならば、一人でも多くの巫女が東国に滞在することは歓迎すべき事態なのではなかろうか。曲がりなりにも奈古女は鬼穴を塞ぐことができる。湧き出る鬼が減れば、武者たちが血を流さなくてよくなるのだから。

 奈古女の疑問を感じ取ったのだろうか、三紅はわざとらしいほど眉尻を下げ、困惑を表した。

「和香様は、巫女の娘だという理由で真均の許婚に選ばれたのよ。神楽が舞えないからといって今さら破談になどならないけれど、あなたに真均の心を奪われないか心配なのね」
「まさか! そんなことになどなりません」
「あら、なってもよいのよ」
「え?」
「だって、巫女の力は子に受け継がれるでしょう。東国武者の棟梁一族に巫女が生まれるのなら、これ以上に心強いことはないわ。でも正室はだめよ。そこは和香様の場所だから」

 くすくすと笑うその仕草からは、冗談とも本気とも判断しがたい。

「とにかく、あの子のことは許してあげて。和香様ももう二十三。嫁き遅れなの」
「許婚がいるのに、嫁き遅れですか?」

 三紅は、紅を引いた唇を軽く笑みに歪めた。

「殿がね、巫女でないのならばもっと条件のよい娘がいるだろうと仰せで。和香様はほんの小さな頃から、鬼頭に嫁ぐために育てられたのに、かわいそうに。殿方には女の気持ちなどわからないのねえ」

 まるで少女のように無邪気な人だと思った。我が子に関する話をしているはずなのだが、どこか他人事であり、面白がっているようにすら見える。

 大殿と束の間顔を合わせた折、なんと淡白な人なのだろうかと思ったが、その妻もまた、柔和な皮を被った冷酷な女人だったのか。それが清貧な尼姿をしているというのも、妙に胸を騒がせた。

 情の薄い環境で生まれ育った真均。それを思えば、彼の顔に張りつく険しさも納得がいく。とはいえ、若殿に抱く近寄り難さは、これしきのことで変わりはしないのだが。

「あ、いけない。そろそろお客人がいらっしゃるの。準備をしないといけないので、失礼するわ」

 奈古女は物思いから浮上して、慌てて礼をとる。三紅の黒い法衣の背中が廊下の向こうに消えていくのをただ見送った。しばらくして、影雀が屋根から舞い降りて地団太を踏んだ。

「な、ななな何よあれ! 奈古女が男、ちかもあんな不愛想なやつに色目を使うなんて、あるはずないじゃない……っちゅん!」

 奈古女はぼんやりとしたまま何も言わずに影雀を掴み、自分の衿に押し込んだ。ひんやりとした影雀の身体がもぞもぞと蠢く。

「何すんのよ!」
「戻ろう」

 身体だけでなく、頭までもがどんよりと重たい。このような日は、早く休んだ方がいいのだ。

 ふと空を見上げれば、斜めに傾いでいた太陽は連なる山々の稜線に沈み消えかけていた。鬼が活発になる夜が迫っている。