体中が震えている。寂しくて、悲しくて、一切のことを投げ出してしまいたいほどの苦しさが、奈古女(なこめ)という存在の全てを浸食する。しかし一つだけ、どうしても譲れないことがある。影雀(かげすずめ)は奈古女の半身だ。彼女がいなければ、奈古女は永遠に、心に(うろ)を抱えたまま満たされずに生きることになる。

 だから、舞う。一人でならば、舞えるはず。幼少の頃よりそうだった。しかし。

「どうして?」

 隠居屋敷での神楽と同様に、周囲に集う光は弱々しい。肝心な時に不器用をさらす自分に憤り、不甲斐なさに涙が溢れた。そんな奈古女の様子を目にし、影雀は唇を噛み、込み上げるものを堪えるように顔を歪めた。

「ばかね。いつも一人で舞っていると思っていたの?」
「え?」
「いつだってあたしが一緒だったじゃない。あたしが一緒に舞う時だけ、あんたは一人前の巫女になれるの。だって、あたしたちはふたりで一つだから。……母さんの胎の中にいたときからずっと」
「母さんの」

 その瞬間、記憶が奔流のように押し寄せた。そうだ。いつだって、奈古女が舞う時には、側に影雀がいた。それに気づいた真均が、以前言っていたではないか。まるで一緒に踊っているようだったと。

 奈古女の胸の奥に、すとんと収まるものがあった。影雀が側にいるといつも、欠けてしまった大切なものが満たされるような心地がした。彼女は本当に、奈古女の一部であったのだ。ああ、と呻くような声が漏れる。奈古女は震える唇で、たどり着いた真相を紡いだ。

「影雀は、捨てられてしまった、私の双子の」
「そう。あんたの片割れよ。ま、すぐに死んじゃったから今はただの負の感情の欠片だけどね。それでも、あたしたちは二人で一つ。だから神楽も一人では舞えない。でも二人でなら、何でもできる」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
「本当のことを言ったらあんた、気後れするでしょ。あたしは捨てられて、あんたは生かされたんだから。さ、これであたしがあんたに執着する理由がわかったでしょ。あんたはあたしの魂そのものなの。あんたが無事に暮らせることが、唯一の望みなのよ。でももうここでお別れ」
「ごめんなさい、影雀。私……」

 いいや、今さら謝罪したところで、二人の心の距離が開くだけだ。安易な言葉など、影雀はきっと喜ばない。彼女は全てを知った上で、奈古女の側にいてくれたのだ。ならば今度は奈古女が、己の片割れに寄り添う番だ。

「あたしは生きることができなかったけど、奈古女とつながっていたから現世を見ることができた。ただ何もわからず死んで消えるよりも幸福だったわ。ああ、鬼としての生を終えて生まれ変わる頃には、美しい世界になっているといいわねえ」

 影雀は独り言のように呟いて、鬼穴の縁で底を覗き込み躊躇っていた俗鬼を容赦なく蹴り落す。そして、つき従う者の列が落ち着いた頃合いで、これから自身が沈んで行く世界の様子を確かめるように、青い腕で地面の漆黒をかき混ぜた。奈古女は、声が震えそうになるのを堪えて確かめた。

「行くのね」
「ええ」
「影雀、今まで本当にありがとう。でも、忘れないで。私たちは二人で一つ。私はまた、必ずあなたを見つけ出す」

 影雀の青黒い顔に驚きが浮かび、やがて泣き笑いになった。

「あたしの魂のほとんどは、ずっと前に輪廻の輪に戻っているわ。そのうち再会して、また一つにでもなりましょうか」
「ううん、違う。私はまだまだ生きるのよ。影雀に救ってもらった命だもの、そう簡単には手放さない。長い人生、魂欠けのままで寂しく年老いろというの? そんなの嫌。あなたの正体が、鬼でも負の感情の欠片でも何だっていい。早く帰ってきて、私のところに。ずっとずっと、影雀を探し続けるから」

 言葉を失う影雀。やがて、彼女の目の縁から温かなものが零れ落ちた。反射的に指先で拭い、その熱に動揺したように雫を眺め、それから奈古女に目を向けた。ほんの束の間見つめ合う。影雀はきまり悪くなったのか、顔を背け、急速に収縮して黒い雀の姿になった。

「ちゅんっ、あんたはいつも甘いのよ。でも、そんなところも大好き。さようなら、あたちの片割れ」
「影雀!」

 引き留めようと伸ばした手が、空気を掴む。影雀は素早く飛び立ち、鬼穴の中に消え去った。

「影雀」

 両手で抱えられる程度の大きさに縮んだ鬼穴を覗き込み、胸を押さえ、俯いて涙を流す。嗚咽が気管を埋め尽くし、息ができない。

 影雀との思い出が蘇っては消え、奈古女の胸を強く揺さぶった。少し高飛車で、それでいて善良で、いつでも奈古女の味方だった。彼女は奈古女の一部だったのに、遠く離れ離れになってしまった。失ったものの大きさに、心に風穴が空いたようだった。

 どれほどそうしていただろうか。不意に、温かな手が肩を叩いた。

 顔を上げれば、元の姿に戻った真均がじっと奈古女の顔を覗いている。咎められたわけではないのだが、途端に羞恥が湧いてきて、奈古女は顔を拭った。

「わ、若殿。ごめんなさい。今はそれどころじゃないのに」
「いいや、いい。おまえは対屋(たいのや)に戻って休め」
「若殿は?」
「俺にはまだやるべきことがある」

 洟をすすりながら軽く首を傾けた奈古女から視線を外し、真均は目元を険しくして主殿を睨んだ。

「母の姿を見ていない。あれも鬼だ。引導を渡さねば」

 そういえば、騒動の最中、三紅(みくれ)は一度も姿を現さなかった。何を考えて姿を潜めているのかは不明だが、この度の事件のもう一人の首謀者を、野放しにはしておけない。

「あ……私も行きます」

 この頃には膝の震えは治まり、体重を支えられるようになっていた。歩き出した真均の背中を小走りで追う。真均は、横に並んだ奈古女を一瞥し、低く言った。

「俺は、もう純鬼(じゅんき)ですらない。正真正銘の大鬼だ。近寄ると食うぞ」
「何言ってるんですか。若殿はそんなことしません」
「何を根拠に」
「言ったでしょう」

 奈古女は真均の左腕にそっと触れた。

「大事なのは、その人がどんな立場にあるか、鬼か人間か、ということではなく、何をなすかです。若殿が東国のために鬼に立ち向かったお姿は、皆が見ています。少なくとも私は、あなたが人と同じ心を持つ存在だと信じています。だから、私の気持ちは何も変わりません。あなたをお慕いしています。人であっても大鬼であっても、ずっと変わらず」

 真均の黒い瞳が奈古女を捉える。目を逸らさず真っ直ぐに見上げれば、真均は珍しく狼狽えたように瞬きをしてから眉根を寄せた。

「おまえは変わった巫女だな」
「そんなの、前からご存じでしょう」

 頬を緩めれば、同様に柔らかな、しかし呆れたような笑みが返ってくる。眼差しで通じ合う。心の奥が、温かなものに満たされるようだ。だからこの温もりが永遠に続くよう、もう一つだけ、決着をつけねばならないことがある。

「さあ、行きましょう。三紅様のところへ」