奈古女(なこめ)様なら大丈夫です。あくびがついていますから。あの俗鬼(ぞっき)は案外すばしっこくて賢いのです」

 時は戻り、二手に分かれた茂みの中で。奈古女の背中を見送ることすらせず、(うまや)を睨んだままの真均(まさひと)に、清高(きよたか)が妙な気を回した。

 実際、奈古女とあくびを離れた場所に遣ることに、一抹の不安もあったのだ。しかし、東国の命運を決する戦いの最中、彼女だけを案じているわけにはいかない。それゆえ、奈古女の顔を見ることなく送り出したのだが。

「……別に、心配などしていない」

 清高が、素直でない主に対して物言いたげに軽く肩をすくめるので居心地悪い。真均は軽く咳払いをして、大殿姿の鬼導丸(きどうまる)が鬼の家僕らを持ち場に帰すのを待った。

 やがて周囲から鬼の気配が去ると、鬼導丸は厩の辺りをぼんやりと眺めてから不意に振り返り、真っ直ぐに茂みへと向かって来た。身構える間もなく、鬼導丸はすぐ近くで立ち止まり、大殿の声で、しかし軽薄な調子で言った。

「姿は隠しても、鬼の匂いがぷんぷんするぞ。滑稽だなあ、おい」

 低木が茂り、枝葉が濃いとはいえ、近づけば人影が透けて見えるのだろう。鬼導丸は猫のように目を細め、侵入者が姿を露わにするのを待っている。真均は清高と軽く視線を交わし合ってから、柄に手をかけ用心深く鬼導丸の前に出た。

「おまえが鬼導丸か」
「ああ? いかにもそうだ。そういうおまえは鬼頭東一真均だな。それと、清高。なるほど、納屋から抜け出したのか。よくあそこに捕らえられていると気づいたものだ。主従の勘か?」

 泰然と構え、呑気にも見える仕草で感心したように頷く鬼導丸。彼は、清高と真均の連絡を取り持ったあくびの存在に気づいていないらしい。ならば好都合だ。真均は、確信を得るために一つ踏み込んだ。

「俺たちが茂みに潜んでいることに、いつ気づいた」
「騒ぎに集まっていた鬼たちがそれぞれの場所に散ってからだ。近くに誰もいないはずなのに鬼の気配がして、見れば草の中に大の男が二人、生真面目顔で隠れていた。ああ、滑稽、滑稽」

 感情を逆撫でする言葉には取り合わず、真均は内心で安堵した。鬼導丸の発言が真実ならば、彼が真均たちに気づいたのは、奈古女とあくびが去った後だ。

 真均は心中を悟られないよう、硬い表情を維持しつつ言う。

「まあ何でもいい。ここは東国武者の棟梁、鬼頭の館だ。おまえのような悪意ある鬼の居場所ではない」
「悪意、ねえ」

 鬼導丸は腕を組み、顎を撫でる。

「なあ、若殿よ。己らばかりが被害者だと思っていないか?」

 意図が読めず、真均は眉根を寄せる。その仕草を見て、鬼導丸は大袈裟に溜め息を吐いた。

「やっぱりな。まあ、おまえも鬼だ。同族のよしみで、立場を改める機会をやろう」

 真均は柄を握り直し、警戒に全身の感覚を研ぎ澄ませながら鬼導丸の言葉に耳を傾ける。

「そもそも、遥か昔から東は鬼の国だった。おまえも東国武者ならば、百五十年ほど前までは全国に鬼穴(きけつ)が湧いたことを知っているだろう。そして、各地で迫害された鬼らが安寧の地を求め、人間が少ない東国に向かい、鬼らしく、鬼の(ことわり)に沿って暮らしていたことも。そこに突然、西から人間らがやって来て、鬼を斬り、我らの土地を侵略し、勝手に開墾して占拠した。鬼からすれば、奪われた土地を取り返すのは当然の行為。ちょうどおまえが今、この館を返せと要求しているようにな」
「確かに、東国にはかつてから鬼が暮らしていた。だがそもそも、鬼が先に人を害したのだ。祖先や親兄弟を食った仇が東国に逃げ込んで潜伏しているのを知れば、朝廷として見て見ぬふりはできないだろう。だから、百五十年前に鬼頭が鬼討伐の宣旨(せんじ)を受け、東国の守護職に赴任した」
「鬼が人を食うのは、人が獣を食うのと同じではないか」

 間髪を入れずに返された声に、真均は言葉に詰まる。鬼は、人を食わなくても生きていける。そして人間も、大不作でもない限り獣を食わなくても生きていける。

 鬼は、同族同士で安らかに暮らせる土地を欲して東国で人に悪事を働く。人は、同族を害する者を狩り尽くすために東国で鬼の討伐を行う。そこには決して相容れることのない立場の相違と憎しみの連鎖が存在する。

「俺の父……いいや。俺たちの、と言った方がいいか」

 鬼導丸が真均の顔色を観察しながら続けた。

「俺たちの父、()(つの)は、東国を取り戻すため、全ての鬼のために尽力した長だった。ただ一つ、父が愚かだったのは、人間の情というものを過度に見積もっていたことだ。棟梁の新妻を攫えば、奴は怒りに駆られ、短慮にも鬼穴に乗り込んで来ると思ったのだ。だがこいつは」

 大殿姿の己の胸を叩きながら、鬼導丸は嘲笑う。

「この男はそうしなかった。妻が鬼穴の底で大鬼の慰み者になっていると知りながら、いきり立つ武者らをむしろ宥め、状況把握を優先した。決して負けることのないように、慎重に、丹念に。その間三紅(みくれ)は、三つ角に打たれ犯され……そして、おまえを孕んだ」

 挑発には乗るまいと細く息を吸い、深く吐いて平静を装った。鬼導丸は、真均の虚勢などお見通しらしく、口の端を醜悪に歪める。

「俺は、三つ角に会ったことがないんだよ。奴が鬼頭に殺された後で生まれたからな。母は俺に、将来は三つ角の無念を晴らすようにと諭し続けた。その母は、山で木の実を取っている時に大勢の武者に囲まれて死んだ。まあ、とにかくだ。俺は、冷静に考えた。単身では弱いが集団になると途端に猛者となる東国武者に打ち勝つには、力尽くではいかん。それでは三つ角の二の舞だ。だから俺は、この家に入り込み、内部から腐らせ、時が来れば一気に畳みかけ、東国を鬼の手に取り戻そうと考えた。だがな、鬼頭の若殿よ」

 鬼導丸は、両手を広げ、友好的な仕草で歩み寄る。

「おまえが鬼と人との共存を願い、西国の朝廷と我らの間を取り持ってくれるのならば、俺はこの館をおまえに返してもいい。どうだ。悪くないだろう。俺たちが欲しいのは、安寧の地。人間のことは食うかもしれんが、朝廷が罪人の処刑を我らに任せてくれるなら、それのみを食し、無辜の民を傷つけることはしないと誓約する。同じ鬼を父に持つ兄弟が、鬼と人、それぞれの繁栄のため、手を結び、長きに及ぶ血みどろの争いに終止符を打つ。こんな美談があるだろうか」

 自らの言葉に陶酔したような鬼導丸の様子を冷静に眺め、真均は思考を整理する。確かに、鬼と人は共に知性を持ち、語らうことができる。ならば協定も可能であるし、金輪際無駄な戦いが生まれないのであれば、検討する余地はある。だが、鬼導丸は人を殺め過ぎた。それも残虐に。そのような者が立てた誓いは信ずるに値するものだろうか。

「東一様」

 動かない真均に、清高が不安げな声をかけた。真均は軽く顎を引いて応え、ゆっくりと刀を抜いた。

「ああ、鬼と人は共存できる。それには同意だ。だが、悪いがどのような事情があったとしても、俺とおまえが理解し合うのは不可能だ。おまえは父を食い東国を混乱に陥れようとする男。それ以上でも以下でもない。和平を結ぶ相手としては信用ならない」